花恋文(中在家長次)
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六年生が学園を留守にして三日目。
文の差出人はわからないけれど、無理に探さなくても良いのかなと思えてきた。
あとは本当に長次が知っていればいいけれど……
早く聞きたいな。
まだ三日か…
一日ってこんなに長かったっけ?
「…長次早く帰ってこないかなー。」
色々考え過ぎて頭がぼーっとしていたせいもあると思う。
考えていたことが口から出ていたことに気づいたのは、きり丸君たちに話しかけられた後だった。
「椿さん、中在家先輩に会いたいんすか?」
「…え!?」
「今、早く帰ってこないかって…」
迂闊だった。
今は食堂のカウンターで昼食の提供をしている最中だ。
といってもその場にいたのはきり丸君、乱太郎君、しんべえ君のいつもの三人だけだけど。
「言ってた?私。」
「ええ、ばっちり。」
乱太郎君が苦笑いを浮かべる。
焦る私にしんべえ君が意地悪そうな顔して言う。
「あーさては、椿さん中在家先輩のこと好きなんだー!」
「中在家先輩は怒ると怖いけど、本当は優しいし椿さんとお似合いだと思います。」
「ちょっと、しんべえにきり丸。椿さんが困っちゃうでしょ。」
二人を静止する乱太郎君。
でも、私の耳には入ってこなかった。
好き?
私が、長次を?
そんなこと……
三人が盛り上がる声に我に返る。
「…こ、こらぁ!からかうんじゃないの!」
「わぁ!怒られたー!」
三人は笑いながら逃げるように、その場から走り去った。
……いやいや、だって……
六年生のみんなは、私にとって初めての友達で…
みんなといると気持ちが楽になって、居心地が良くて…
みんなのことが好きだよ。
文次郎も仙蔵も、小平太に伊作、留三郎……
…………長次。
うん…長次がいると安心する。
いつも大丈夫って頭を撫でてくれるから。
だから私はいつも長次を探している。
困った時は長次と目を合わせる。
頷いてくれるから。
でも今は長次がいない。
私、困って迷って立ち止まっているのに。
助けて欲しいのに。
……長次がいない。
だから、会いたいの。
それ、だけ……
………それだけ?
じゃあ図書室で感じたモヤモヤは何?
いつもと違ったから?
いつもと違って、長次がいなかったから?
長次が迎えてくれなかったから?
長次の背中がなかったから?
私……長次に会いたかった。
長次がいなくて、寂しかった。
きっと、最初から寂しかったんだ。
五日間実習で留守にすると聞いた時から、寂しくて堪らなかった。
会えない日が続くなんて嫌だった。
でも、それって……つまり………
わ、私が…………
長次……を…………?
「━━━っ!!」
椿は自分の想いを自覚した。
顔が熱くて胸が苦しい。
長次が好き。
だが自分に芽生えたその感情をどう治めて良いかわからず、一人布団の中で悶えるのだった。
四日目、昨夜眠れなかったため寝不足の状態で食堂に立つ。
普段こんなに色々考えたりしないのに、ここ数日は頭を使い過ぎて疲れていた。
だからこの日の休憩時間には、学園の中にある大きな松の木に寄りかかって仮眠を取った。
「………こんなとこで寝てる……」
夢の世界へ行っている椿に話しかけたのは三郎だった。
自分の想い人が無防備な状態で寝ている姿に、ついその寝顔を覗いてみたくなる。
「椿さん、起きないと………俺、奪っちゃうよ?」
椿は三郎の声に反応しない。
風が二人の間を通り抜けて行く。
優しく吹き抜けるそれが、椿の柔らかい髪を撫でる。
いつも強い光を宿している瞳は閉じられ、長い睫毛が動く気配はない。
ふっくらとした彼女の唇は、血色が良いように適度に紅く薄く開かれている。
初めて見る彼女の顔に、三郎は釘付けになる。
他の誰かのものになるくらいなら、無理矢理奪い去りたい。
椿に吸い寄せられるように、三郎はゆっくりと顔を近づける。
目の前いっぱいに彼女の綺麗な顔が広がりあと一歩体を乗り出せば、まだ誰も触れていないそこへ辿り着く。
はずなのに…
「……長次」
椿が漏らした言葉は、三郎を諦めさせるには十分だった。
一瞬目を見開いた三郎だったが、すぐに戻るとまたゆっくりと彼女から体を離した。
俺は何をしようとした?
こんなの公平じゃない。
三郎は自分の行動を恥じた。
椿を振り向かせるなら正々堂々と彼女に伝えるべきだ。
こんなやり方、彼女は嫌うに違いない。
三郎は大きなため息を吐いて、自嘲気味に笑う。
「………椿さん、ごめん……」
誰に言うでもなく呟いた。
「……ん」
三郎の言葉に反応したわけではないが、椿が身動ぎをして目を開ける。
「…あれ?三郎君?」
椿は掠れ気味の声で言うと、大きく体を伸ばす。
涙目になりながらも、その表情はすっきりとしていた。
「うん、寝てるとこごめん。でもそろそろ起こした方がいいかと思って…」
「あーそうだね。ありがとう三郎君。じゃあ私行くね。」
鼻歌混じりに食堂へ向かう椿を見送る。
未遂で良かった……
三郎は心からそう思った。
今日が実習が終わる予定の五日目。
何もなければ六年生が帰ってくるはず。
椿は朝から落ち着かない様子だった。
何度も門へ足を運び、六年生の姿を探す。
早くみんなに会いたかった。
彼らのいない忍術学園は凄く静かすぎる。
だけどこの時、本当は何に対してこんなに気がはやるのか、椿はわかっていなかった。
ランチの後の休憩時間も特に何も手につかず、ぼんやりと雲を見て過ごす。
遠くで忍たまたちの遊ぶ声が聞こえる。
今日、帰ってくるよね?
予定延びちゃったりしてないかな?
…遠くまで行ってたのかな?
今は見えない真昼の月。
見えなくてもちゃんとそこにある。
月からはみんなが見えるのかな?
空にその姿、映らないかな?
そろそろ夕食の支度へ向かわなくてはならない。
椿はその場で立ち上がった。
すると何やら聴こえてくる話し声。
まさか、帰ってきた?
急いで門へ向かうと、そこで見たのは入門表を手にする小松田と深緑色の忍装束たち。
六年生が帰って来た。
「みんな!」
走り寄る椿の姿を目にし、六年生の表情が緩む。
「お帰りなさい。」
全員の顔を見渡して安堵から笑顔になる。
「ただいま、椿ちゃん。」
「椿、元気だったか?変わりはないか?」
小平太が、がしがしと椿の髪を乱す。
それを丁寧に直す仙蔵。
「変わりはなさそうだな。お前の顔を見て安心した。」
「椿、久しぶりに旨い飯を頼む。」
「それより先に風呂だな。埃まみれで気持ち悪い。」
留三郎、文次郎も疲れを見せないように笑う。
「はい、じゃあ準備しておくね。みんなは先にお風呂行ってきてね。」
ぞろぞろとその場を去る後ろ姿を見送る。
だが一人足りない。
「…椿」
「長次?」
後ろからかけられた声に振り向く。
どうしたのか尋ねる前に長次が言葉を発した。
「…旨かった。」
「ん?」
「…握り飯。」
それは出発前にみんなに渡したおにぎりのことだった。
普段調理はしない椿でも、おにぎりくらいはとおばちゃんの手伝いをしたのだ。
だけど…
「なん、で?…なんでわかったの?」
長次がわざわざ椿に感想を言った。
つまり彼女が握ったというのを確信しているということだ。
「…いつもおばちゃんが作るものより小ぶりで、塩がキツかった。だから椿が作ったものだと思った。」
たったそれだけのことで、長次は椿がおにぎりを握ったことを言い当てた。
旨かった。
その言葉が堪らなく嬉しかった。
『椿さん、中在家先輩のこと好きなんだー!』
「!!」
しんべえの言葉が甦る。
椿は自分の想いを自覚したばかりで、そのことに対して戸惑いもあった。
まともに長次の顔が見られず、目線は宙を舞い鼓動は早く、顔が熱い。
「…?…椿?」
椿の様子に、長次は熱でもあるのかと手を伸ばす。
それに驚いた椿は、長次の手が届くよりも早く捲し立てる。
「ちょ、長次もお風呂行ってきたらいいよ。ほら、疲れてるでしょ?私食堂で待ってるから。じゃあね。」
居たたまれなくなり長次の元から走り去った。
だがそれと同時に後悔に襲われる。
ずっと会いたかったのに、寂しかったのに。
聞きたいこともあったし、長次と話がしたかったのに以前のように接することが難しい。
それは自分の気持ちに気付いたから。
悟られないようにするのに必死で、長次を避けるような行動を取ってしまった。
そうしたいわけじゃない、でも胸がいっぱいいっぱいでどうして良いのかわからない。
結局この日は長次と二人で会話をする機会もなく、そんな気持ちの余裕もなく過ぎてしまった。
翌日、一人になれる場所を求めて授業中の時間に図書室へ足を運ぶ。
図書室を選んだのに特に理由はなかった。
強いていうなら普段からの癖で、というところだ。
授業中ということもあって誰もいない、そう油断していた。
「え…長次?」
図書室の中には何故か長次の姿。
椿は彼のいる理由がわからず戸惑う。
「…今日は六年は休日になった。」
その言葉に納得した。
先日までの実習があったからだろう。
よく見ると長次は私服だった。
「そっか、よかったね……でもなんで図書室に?」
質問を投げ掛けながら長次の手元に目が行く。
そこにあったのは花の画集。
その瞬間、長次に聞かなければならないことを思い出す。
「そうだ、長次に聞きたかったの。この本に藤の花が挟まれていたんだけど、誰の物か知らない?」
学園内で知っていそうな人には全員に聞いた。
あとはもう、長次だけ。
もし彼が知らなければお手上げだ。
長次独特の間の後、吐息を漏らすように言葉が聞こえる。
「…それは、私のだ。」
「…え。」
考えてもみなかった。
長次本人のものだったわけだ。
だから誰も知らない。
でもだとしたら、長次は誰かに藤を贈ろうとしたのだろうか。
椿の心がざわつき出す。
「そ、そっか。長次のだったんだ……あ、あのね偶然見つけちゃって私が預かってたの。ごめん返すね。」
椿は平然を装うが、長次の顔を直視できなくなっていた。
視界の隅で長次が首を横に振った。
「…そうじゃない。本に挟んだのは私だが、その花は椿へ贈ったものだ。」
その言葉に顔を上げて長次を見つめる。
「…え?」
「…この本は椿がよく見ていた。だからこれに挟めば椿に届くと思った。実習に出る前、寂しそうな顔をしていたから花に言葉を託した。」
藤の花言葉を思い出す。
優しさ、決して離れない、恋に酔う。
実習に出る前の話だから、この場合は決して離れないだろうか…
「えーと……絶対に帰ってくるっていう意味?」
「…それも、ある。」
長次は懐からあるものを取り出す。
それは鮮やかな桃色や白、紫色をした小ぶりな花の束。
椿へそっと差し出すと、彼女はそれを受け取った。
「これは?」
「…サクラソウ。」
きっとこの花も言葉があって、長次はそれを伝えようとしてくれている。
椿はそう思ったが、長次は言葉を続けた。
「…私は椿を好いている。」
椿の思考は停止した。
長次が言った言葉が理解できなかった。
目の前の長次は本当に、いつもと何も変わらない。
「藤を贈った意味も、椿から離れがたかったから。たった五日離れただけで気持ちを押さえられないくらい、私は椿に酔っているらしい。」
黙って話を聞く椿はもう何も考えられない。
動くことができない。
「…昨日椿の様子がおかしかったのは、藤の意味に気付いたからだと思った。だが藤が椿を困らせてしまうなら、何もなかったことにしてくれて構わない。それも…渡すかどうか迷った。すまないことをした。」
長次は目を伏せる。
それはいつもとは違う長次の些細な変化。
椿はやっと長次の言葉を理解したように、必死になってそれを否定する。
「違うの!昨日私が変だったのは……気付いてしまった、から……」
自覚したばかりのその感情。
もう全て吐き出すしかない。
「私……長次のことが好きだって気付いてしまったの。だから昨日はまともに話すことができなくて……本当は五日も留守にするって聞いた時から寂しくて、ずっと会いたくて。今だって…凄く嬉しいのに、胸がいっぱいで…どうしていいか、わからないの。」
椿は震える手をぎゅっと握る。
長次は彼女の言葉に、僅かに目を見開いたようだった。
椿の方へ手を伸ばすと、優しく頭を撫でる。
これはいつも椿を安心させるために行う大丈夫の合図。
次第に落ち着きを取り戻す椿。
長次は撫でていた手を止めて椿に歩み寄り、その体を抱き締めた。
自分よりも小さいその体、抱き締めるのは二度目だが以前とは意味が違う。
椿も長次の背にそっと手を回し、ようやく顔を綻ばせる。
「長次、私を好きになってくれてありがとう。」
きっと、もうずっと前から長次のことが好きだったのだ。
長次の姿を探して図書室に通った。
長次の体温に触れると安心した。
長次がいないと落ち着かなくて、ずっとそのことばかり考えてしまう。
長次が体を離し椿と目が合う。
彼女はよく笑う。
その顔を見ると嬉しくなる。
椿と離れるのが辛くて、だけどこうして待っていてくれて。
椿の体温は心地よくて、背中合わせに本を読む時間がとても大切なものになった。
長次は頬を緩ませた。
こんなにも柔らかい表情をする長次を、椿以外の誰も知らない。
おそらくそれは、これからもずっと。
「ねえ、サクラソウの花言葉はなに?」
「………」
『初恋』
椿がそれを知るのは遠くない未来の話。
後日、椿は雷蔵の姿を見つけると声をかけた。
「雷蔵君」
「…椿さん」
「あのね、花の文のことなんだけど…持ち主が見つかったの。」
思ったよりも早い解決に少し驚く。
成る程、だから彼女がいつもより綺麗に見えるわけだ。
「そうですか、良かったですね。」
それが誰であったのか、そんな無粋なことは聞かない。
聞かなくても粗方検討はついている。
「うん、協力してくれてありがとう。三郎君にも伝えておいてくれる?」
「ええ、いいですよ。」
椿はとても晴れやかな表情でその場を去っていった。
「……あーあ、面白くない。」
椿が雷蔵と間違えて呼んだ三郎は、吐き出すように少し大きめの独り言を言う。
それを聞き付けたのか、本物の雷蔵が近寄ってきた。
「なにが?」
「…例の恋文、持ち主が見つかったんだと。」
三郎はぶっきらぼうに答える。
雷蔵はその様子に苦笑いした。
たった今失恋をした友人を慰めるべきだろうが、少しだけ椿が幸せになれたことを心の中で祝福した。
━花恋文 完━
文の差出人はわからないけれど、無理に探さなくても良いのかなと思えてきた。
あとは本当に長次が知っていればいいけれど……
早く聞きたいな。
まだ三日か…
一日ってこんなに長かったっけ?
「…長次早く帰ってこないかなー。」
色々考え過ぎて頭がぼーっとしていたせいもあると思う。
考えていたことが口から出ていたことに気づいたのは、きり丸君たちに話しかけられた後だった。
「椿さん、中在家先輩に会いたいんすか?」
「…え!?」
「今、早く帰ってこないかって…」
迂闊だった。
今は食堂のカウンターで昼食の提供をしている最中だ。
といってもその場にいたのはきり丸君、乱太郎君、しんべえ君のいつもの三人だけだけど。
「言ってた?私。」
「ええ、ばっちり。」
乱太郎君が苦笑いを浮かべる。
焦る私にしんべえ君が意地悪そうな顔して言う。
「あーさては、椿さん中在家先輩のこと好きなんだー!」
「中在家先輩は怒ると怖いけど、本当は優しいし椿さんとお似合いだと思います。」
「ちょっと、しんべえにきり丸。椿さんが困っちゃうでしょ。」
二人を静止する乱太郎君。
でも、私の耳には入ってこなかった。
好き?
私が、長次を?
そんなこと……
三人が盛り上がる声に我に返る。
「…こ、こらぁ!からかうんじゃないの!」
「わぁ!怒られたー!」
三人は笑いながら逃げるように、その場から走り去った。
……いやいや、だって……
六年生のみんなは、私にとって初めての友達で…
みんなといると気持ちが楽になって、居心地が良くて…
みんなのことが好きだよ。
文次郎も仙蔵も、小平太に伊作、留三郎……
…………長次。
うん…長次がいると安心する。
いつも大丈夫って頭を撫でてくれるから。
だから私はいつも長次を探している。
困った時は長次と目を合わせる。
頷いてくれるから。
でも今は長次がいない。
私、困って迷って立ち止まっているのに。
助けて欲しいのに。
……長次がいない。
だから、会いたいの。
それ、だけ……
………それだけ?
じゃあ図書室で感じたモヤモヤは何?
いつもと違ったから?
いつもと違って、長次がいなかったから?
長次が迎えてくれなかったから?
長次の背中がなかったから?
私……長次に会いたかった。
長次がいなくて、寂しかった。
きっと、最初から寂しかったんだ。
五日間実習で留守にすると聞いた時から、寂しくて堪らなかった。
会えない日が続くなんて嫌だった。
でも、それって……つまり………
わ、私が…………
長次……を…………?
「━━━っ!!」
椿は自分の想いを自覚した。
顔が熱くて胸が苦しい。
長次が好き。
だが自分に芽生えたその感情をどう治めて良いかわからず、一人布団の中で悶えるのだった。
四日目、昨夜眠れなかったため寝不足の状態で食堂に立つ。
普段こんなに色々考えたりしないのに、ここ数日は頭を使い過ぎて疲れていた。
だからこの日の休憩時間には、学園の中にある大きな松の木に寄りかかって仮眠を取った。
「………こんなとこで寝てる……」
夢の世界へ行っている椿に話しかけたのは三郎だった。
自分の想い人が無防備な状態で寝ている姿に、ついその寝顔を覗いてみたくなる。
「椿さん、起きないと………俺、奪っちゃうよ?」
椿は三郎の声に反応しない。
風が二人の間を通り抜けて行く。
優しく吹き抜けるそれが、椿の柔らかい髪を撫でる。
いつも強い光を宿している瞳は閉じられ、長い睫毛が動く気配はない。
ふっくらとした彼女の唇は、血色が良いように適度に紅く薄く開かれている。
初めて見る彼女の顔に、三郎は釘付けになる。
他の誰かのものになるくらいなら、無理矢理奪い去りたい。
椿に吸い寄せられるように、三郎はゆっくりと顔を近づける。
目の前いっぱいに彼女の綺麗な顔が広がりあと一歩体を乗り出せば、まだ誰も触れていないそこへ辿り着く。
はずなのに…
「……長次」
椿が漏らした言葉は、三郎を諦めさせるには十分だった。
一瞬目を見開いた三郎だったが、すぐに戻るとまたゆっくりと彼女から体を離した。
俺は何をしようとした?
こんなの公平じゃない。
三郎は自分の行動を恥じた。
椿を振り向かせるなら正々堂々と彼女に伝えるべきだ。
こんなやり方、彼女は嫌うに違いない。
三郎は大きなため息を吐いて、自嘲気味に笑う。
「………椿さん、ごめん……」
誰に言うでもなく呟いた。
「……ん」
三郎の言葉に反応したわけではないが、椿が身動ぎをして目を開ける。
「…あれ?三郎君?」
椿は掠れ気味の声で言うと、大きく体を伸ばす。
涙目になりながらも、その表情はすっきりとしていた。
「うん、寝てるとこごめん。でもそろそろ起こした方がいいかと思って…」
「あーそうだね。ありがとう三郎君。じゃあ私行くね。」
鼻歌混じりに食堂へ向かう椿を見送る。
未遂で良かった……
三郎は心からそう思った。
今日が実習が終わる予定の五日目。
何もなければ六年生が帰ってくるはず。
椿は朝から落ち着かない様子だった。
何度も門へ足を運び、六年生の姿を探す。
早くみんなに会いたかった。
彼らのいない忍術学園は凄く静かすぎる。
だけどこの時、本当は何に対してこんなに気がはやるのか、椿はわかっていなかった。
ランチの後の休憩時間も特に何も手につかず、ぼんやりと雲を見て過ごす。
遠くで忍たまたちの遊ぶ声が聞こえる。
今日、帰ってくるよね?
予定延びちゃったりしてないかな?
…遠くまで行ってたのかな?
今は見えない真昼の月。
見えなくてもちゃんとそこにある。
月からはみんなが見えるのかな?
空にその姿、映らないかな?
そろそろ夕食の支度へ向かわなくてはならない。
椿はその場で立ち上がった。
すると何やら聴こえてくる話し声。
まさか、帰ってきた?
急いで門へ向かうと、そこで見たのは入門表を手にする小松田と深緑色の忍装束たち。
六年生が帰って来た。
「みんな!」
走り寄る椿の姿を目にし、六年生の表情が緩む。
「お帰りなさい。」
全員の顔を見渡して安堵から笑顔になる。
「ただいま、椿ちゃん。」
「椿、元気だったか?変わりはないか?」
小平太が、がしがしと椿の髪を乱す。
それを丁寧に直す仙蔵。
「変わりはなさそうだな。お前の顔を見て安心した。」
「椿、久しぶりに旨い飯を頼む。」
「それより先に風呂だな。埃まみれで気持ち悪い。」
留三郎、文次郎も疲れを見せないように笑う。
「はい、じゃあ準備しておくね。みんなは先にお風呂行ってきてね。」
ぞろぞろとその場を去る後ろ姿を見送る。
だが一人足りない。
「…椿」
「長次?」
後ろからかけられた声に振り向く。
どうしたのか尋ねる前に長次が言葉を発した。
「…旨かった。」
「ん?」
「…握り飯。」
それは出発前にみんなに渡したおにぎりのことだった。
普段調理はしない椿でも、おにぎりくらいはとおばちゃんの手伝いをしたのだ。
だけど…
「なん、で?…なんでわかったの?」
長次がわざわざ椿に感想を言った。
つまり彼女が握ったというのを確信しているということだ。
「…いつもおばちゃんが作るものより小ぶりで、塩がキツかった。だから椿が作ったものだと思った。」
たったそれだけのことで、長次は椿がおにぎりを握ったことを言い当てた。
旨かった。
その言葉が堪らなく嬉しかった。
『椿さん、中在家先輩のこと好きなんだー!』
「!!」
しんべえの言葉が甦る。
椿は自分の想いを自覚したばかりで、そのことに対して戸惑いもあった。
まともに長次の顔が見られず、目線は宙を舞い鼓動は早く、顔が熱い。
「…?…椿?」
椿の様子に、長次は熱でもあるのかと手を伸ばす。
それに驚いた椿は、長次の手が届くよりも早く捲し立てる。
「ちょ、長次もお風呂行ってきたらいいよ。ほら、疲れてるでしょ?私食堂で待ってるから。じゃあね。」
居たたまれなくなり長次の元から走り去った。
だがそれと同時に後悔に襲われる。
ずっと会いたかったのに、寂しかったのに。
聞きたいこともあったし、長次と話がしたかったのに以前のように接することが難しい。
それは自分の気持ちに気付いたから。
悟られないようにするのに必死で、長次を避けるような行動を取ってしまった。
そうしたいわけじゃない、でも胸がいっぱいいっぱいでどうして良いのかわからない。
結局この日は長次と二人で会話をする機会もなく、そんな気持ちの余裕もなく過ぎてしまった。
翌日、一人になれる場所を求めて授業中の時間に図書室へ足を運ぶ。
図書室を選んだのに特に理由はなかった。
強いていうなら普段からの癖で、というところだ。
授業中ということもあって誰もいない、そう油断していた。
「え…長次?」
図書室の中には何故か長次の姿。
椿は彼のいる理由がわからず戸惑う。
「…今日は六年は休日になった。」
その言葉に納得した。
先日までの実習があったからだろう。
よく見ると長次は私服だった。
「そっか、よかったね……でもなんで図書室に?」
質問を投げ掛けながら長次の手元に目が行く。
そこにあったのは花の画集。
その瞬間、長次に聞かなければならないことを思い出す。
「そうだ、長次に聞きたかったの。この本に藤の花が挟まれていたんだけど、誰の物か知らない?」
学園内で知っていそうな人には全員に聞いた。
あとはもう、長次だけ。
もし彼が知らなければお手上げだ。
長次独特の間の後、吐息を漏らすように言葉が聞こえる。
「…それは、私のだ。」
「…え。」
考えてもみなかった。
長次本人のものだったわけだ。
だから誰も知らない。
でもだとしたら、長次は誰かに藤を贈ろうとしたのだろうか。
椿の心がざわつき出す。
「そ、そっか。長次のだったんだ……あ、あのね偶然見つけちゃって私が預かってたの。ごめん返すね。」
椿は平然を装うが、長次の顔を直視できなくなっていた。
視界の隅で長次が首を横に振った。
「…そうじゃない。本に挟んだのは私だが、その花は椿へ贈ったものだ。」
その言葉に顔を上げて長次を見つめる。
「…え?」
「…この本は椿がよく見ていた。だからこれに挟めば椿に届くと思った。実習に出る前、寂しそうな顔をしていたから花に言葉を託した。」
藤の花言葉を思い出す。
優しさ、決して離れない、恋に酔う。
実習に出る前の話だから、この場合は決して離れないだろうか…
「えーと……絶対に帰ってくるっていう意味?」
「…それも、ある。」
長次は懐からあるものを取り出す。
それは鮮やかな桃色や白、紫色をした小ぶりな花の束。
椿へそっと差し出すと、彼女はそれを受け取った。
「これは?」
「…サクラソウ。」
きっとこの花も言葉があって、長次はそれを伝えようとしてくれている。
椿はそう思ったが、長次は言葉を続けた。
「…私は椿を好いている。」
椿の思考は停止した。
長次が言った言葉が理解できなかった。
目の前の長次は本当に、いつもと何も変わらない。
「藤を贈った意味も、椿から離れがたかったから。たった五日離れただけで気持ちを押さえられないくらい、私は椿に酔っているらしい。」
黙って話を聞く椿はもう何も考えられない。
動くことができない。
「…昨日椿の様子がおかしかったのは、藤の意味に気付いたからだと思った。だが藤が椿を困らせてしまうなら、何もなかったことにしてくれて構わない。それも…渡すかどうか迷った。すまないことをした。」
長次は目を伏せる。
それはいつもとは違う長次の些細な変化。
椿はやっと長次の言葉を理解したように、必死になってそれを否定する。
「違うの!昨日私が変だったのは……気付いてしまった、から……」
自覚したばかりのその感情。
もう全て吐き出すしかない。
「私……長次のことが好きだって気付いてしまったの。だから昨日はまともに話すことができなくて……本当は五日も留守にするって聞いた時から寂しくて、ずっと会いたくて。今だって…凄く嬉しいのに、胸がいっぱいで…どうしていいか、わからないの。」
椿は震える手をぎゅっと握る。
長次は彼女の言葉に、僅かに目を見開いたようだった。
椿の方へ手を伸ばすと、優しく頭を撫でる。
これはいつも椿を安心させるために行う大丈夫の合図。
次第に落ち着きを取り戻す椿。
長次は撫でていた手を止めて椿に歩み寄り、その体を抱き締めた。
自分よりも小さいその体、抱き締めるのは二度目だが以前とは意味が違う。
椿も長次の背にそっと手を回し、ようやく顔を綻ばせる。
「長次、私を好きになってくれてありがとう。」
きっと、もうずっと前から長次のことが好きだったのだ。
長次の姿を探して図書室に通った。
長次の体温に触れると安心した。
長次がいないと落ち着かなくて、ずっとそのことばかり考えてしまう。
長次が体を離し椿と目が合う。
彼女はよく笑う。
その顔を見ると嬉しくなる。
椿と離れるのが辛くて、だけどこうして待っていてくれて。
椿の体温は心地よくて、背中合わせに本を読む時間がとても大切なものになった。
長次は頬を緩ませた。
こんなにも柔らかい表情をする長次を、椿以外の誰も知らない。
おそらくそれは、これからもずっと。
「ねえ、サクラソウの花言葉はなに?」
「………」
『初恋』
椿がそれを知るのは遠くない未来の話。
後日、椿は雷蔵の姿を見つけると声をかけた。
「雷蔵君」
「…椿さん」
「あのね、花の文のことなんだけど…持ち主が見つかったの。」
思ったよりも早い解決に少し驚く。
成る程、だから彼女がいつもより綺麗に見えるわけだ。
「そうですか、良かったですね。」
それが誰であったのか、そんな無粋なことは聞かない。
聞かなくても粗方検討はついている。
「うん、協力してくれてありがとう。三郎君にも伝えておいてくれる?」
「ええ、いいですよ。」
椿はとても晴れやかな表情でその場を去っていった。
「……あーあ、面白くない。」
椿が雷蔵と間違えて呼んだ三郎は、吐き出すように少し大きめの独り言を言う。
それを聞き付けたのか、本物の雷蔵が近寄ってきた。
「なにが?」
「…例の恋文、持ち主が見つかったんだと。」
三郎はぶっきらぼうに答える。
雷蔵はその様子に苦笑いした。
たった今失恋をした友人を慰めるべきだろうが、少しだけ椿が幸せになれたことを心の中で祝福した。
━花恋文 完━
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