四章
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椿の熱は三日三晩続いた。
学園は通常通り授業が開始されている。
だが皆の表情は暗く、学園全体が喪に服しているようだった。
まだ椿の意識は回復していない。
ようやく熱が下がった四日目の夜、保健室に掲げられていた、面会謝絶の紙が取り下げられる。
その日当番の伊作が薬を磨り潰す音だけが、保健室内に響く。
そこへ静かに戸を開けて入ってきたのは文次郎。
蝋燭の炎が僅かに揺らぐ。
伊作は一瞥をくれるが、二人が言葉を交わすことはない。
文次郎は椿の穏やかに眠っている姿を見ると、伊作と背中合わせにその場に腰を下ろした。
「………」
「………」
「……俺は無力だ……」
「………」
「俺は…ただここで、待っているだけだった…」
「……やめてよ。」
「こいつは、戦っていたのに…俺は…」
「やめろって言ってるだろ!」
伊作が文次郎の胸ぐらを力一杯に掴む。
文次郎に抵抗する気はなかった。
「やめてよ…僕だって、何もできなかった…椿ちゃんの傷を治すこともできない、椿ちゃんの苦しみを代わってやれない…役に立てない。でも頼むから、自分を責めないでよ…」
「…………伊作」
「…………ごめん。頭冷やしてくる。」
伊作は保健室を後にした。
文次郎は、自分を責めてもどうしようもないことはわかっていた。
だが、そうでもしなければ自分を保つことができなかった。
伊作もそれはわかっている。
ただ文次郎の言葉が、伊作の自責の念を浮き彫りにする。
それが耐えられなかった。
文次郎は伊作がいなくなったその場所を、ただ見続けていた。
「違うよ。」
耳にしたその声に、文次郎はゆっくりと振り返る。
ずっと待ち望んだ声。
いつもすぐ側にいたのに、強く会いたいと願った声。
懐かしいその声の主が、虚空を見つめていた。
文次郎は言葉を忘れてしまったかのように、目を見張ることしかできない。
「文次郎は、ちゃんと守ってくれたよ。」
彼女の言葉は優しい。
しかし今の文次郎にはそれを受け止めることができない。
「…違う。俺は何もしていない…何もできなかったんだ。」
椿は痛む体をゆっくりと起こした。
その行動に驚いた文次郎は、彼女の体を支えるべく身を乗り出す。
「お、おい!まだ起きるな。」
「大丈夫。私より文次郎の方が、痛そうだよ。」
「え…?」
椿はそっと文次郎の頬に手を伸ばす。
文次郎はやっと気付いた、自分が涙を流していたことに。
自分の意志とは関係ない、これが素直な感情というものだった。
添えられた手に自分の手を重ねる。
その温もりを確かめると、押さえていた感情が沸き上がる。
椿はそのまま文次郎を、幼子をあやすかのようにそっと抱き寄せる。
「文次郎は私の居場所を守ってくれた。私が帰ってくるのを待っててくれた。だけど、辛い思いもさせちゃったね。ごめんね、ありがとう。」
その言葉が、優しく心の痛みを洗い流してくれる。
痛くて辛いのは彼女の方なのに、その言葉で文次郎は救われていく。
椿の浴衣の袂を強く握る。
椿の胸に顔を埋める。
文次郎は声に出さずに泣いた。
しばらくして伊作が戻った。
伊作は目を覚ました椿の姿を見ると、顔を崩す。
「椿ちゃんっ!」
「伊作、心配かけてごめんね。」
側にきた伊作の手を引き、椿はその震える体を抱き締める。
「僕に…もっと力があったら…っ」
「ううん、十分助けてくれたよ。責めさせちゃってごめんね、ありがとう伊作。」
椿に抱き締められたまま、伊作は首を横に振った。
言葉にはならなかった。
「………………伊作。」
文次郎が声をかける。
伊作は椿から離れ、文次郎を見る。
「……さっきは、悪かった。」
「うん。僕の方こそ、ごめん。」
二人が和解する様子を、椿は嬉しそうに見ていた。
翌朝、伊作が持ってきてくれた朝食を一人で食べていると、懐かしい複数の足音が聞こえてきた。
食堂のおばちゃんから、私が起きたことを聞いたのだろう。
この音はきっと、あの子たち。
「椿さんっ!!」
ほら、当たり。
来てくれたのは一年は組の良い子たち。
皆泣きそうな顔で私の元へ駆けつけて来てくれた。
「体大丈夫ですか?」
「痛くない?」
「いっぱい心配しました!」
「椿さんがいないとダメです。」
「うん。皆ありがとう。心配かけてごめんね。」
一人一人を抱き寄せながら、お礼と謝罪を繰り返す。
また皆に会えて良かった。
でも、きっとこのあと起こることも私にはわかるんだ。
「お前たち!保健室で騒ぐな!」
ほら、やっぱり。
展開がわかってしまって、それが可笑しくてつい笑ってしまう。
皆が不思議な顔して見てる。
「!椿さん…」
あぁ、私帰って来たんだなって思える風景。
「…と、とにかく!大勢で迷惑になるから戻ってなさい!」
一年は組の皆は土井先生に怒られて元気に退散していった。
「すまなかった、うるさくて。体は大丈夫かい?」
「はい、起きるぶんには平気です。」
土井先生は顔を綻ばせる。
私は先生を手招きして呼ぶ。
土井先生は近くに座ってくれた。
「はい、先生。」
「…え?」
「皆にもしたから、来て下さい。」
両手を広げて待つと、土井先生は真っ赤な顔になってしまった。
あれ?ダメだったかな?
そう思っていたら、土井先生は私を恨めしそうな顔して見て、他意はないからと言って私の方が抱き寄せられてしまった。
彼女が両手を広げて来いと言ってきた時は、一瞬で頭の中が混乱を起こした。
彼女が重傷を負い、意識の戻らない日々が死ぬほど辛かったのに加え、私が椿さんを特別に想っている気持ちを知ってか知らずか、彼女のその行動に無駄な抵抗を顔にする。
彼女はきょとんとしてやはりわかっていなかったから、悟られないように私は彼女を抱き寄せた。
初めて胸に抱く彼女の体は細くて頼りなくて、だからとても大切な壊れ物に触れるように優しく包んだ。
この行為は彼女なりの感謝と謝罪なんだ。
だけど今だけ、少しだけ自惚れてもいいだろうか。
誰もがいないこの瞬間を、彼女が選んでくれたことを。
「君が生きていてくれて良かった。」
「はい。」
「君が戻ってきてくれて良かった。」
「はい。」
「とっても心配したんだ。君に何かあったら私は………っ」
「土井先生…」
「…はい。」
「良かったです。」
「え?」
「もう、普通にお話してくれないんじゃないかと思ってました。皆も。」
「椿さん…」
「土井先生、ありがとうございます。心配かけてごめんなさい。」
「…っ」
椿を抱く手に力がこもる。
彼女が受けた痛みは計り知れない。
それを分かつことも、理解することも難しい。
できることなら、彼女を癒すその力になりたいと願う。
「……あの~、」
「!?」
ばつが悪そうに保健室を覗く伊作。
土井はそれに気づくとさっと椿の体を放した。
椿は何事もないかのように伊作に接し、土井は伊作の視線を感じ気まずい思いだった。
「そ、そうだ椿さん、君の体が大丈夫であれば、学園長がこちらに顔を出したいと言っているんだけどどうだい?」
彼女は一度目を伏せると、伊作と土井を見た。
空気が変わった。
椿の持つ雰囲気が、今までのそれと違う。
土井と伊作は、その彼女を一度目の当たりにしたことがある。
神室と再会したときの彼女の雰囲気そのものだ。
「構いません。ですが、私が学園長先生の元へ参ります。」
「いや、動くのはまだ辛くない?無理はしないで。」
「いいえ、私が参ります。土井先生、伊作、手を貸してください。お願いします。」
そうしないと椿が納得しないのだろう。
彼女の表情はそう言っている。
「わかった。だけど辛くなったら、すぐに言って。」
「はい。ありがとうございます。」
土井は椿の体を支え、ゆっくり立ち上がらせる。
そして彼女の歩くペースに合わせて、学園長室までの道を歩く。
伊作も横に付き添い、椿を支えた。
「学園長、椿さんをお連れしました。」
土井が声をかけると、室内から返事が聞こえた。
伊作は椿と目が合うとその手を離す。
障子が開いて椿と土井は、学園長始め先生方が待つ室内へと入っていった。
自分にできることはここまでかと、その場を去ろうと後ろを振り返ったが、そこの光景に驚く。
「伊作先輩!しっー!!」
「失礼致します。」
椿がそう言って部屋の中央に座る。
土井は山田の隣に腰を落ち着かせた。
いつもと違う彼女の雰囲気に、全員が粛然とする。
学園長が口を開いた。
「本来ならばこちらから出向かなければならないところ、御足労頂き申し訳ありません。」
「いえ、それには及びません。私がこうしたかったのですから。」
「ふむ……お話をさせて頂く前に、ちょっとよろしいでしょうか。」
学園長の言葉を合図に、先生方がありとあらゆるところを開け放つ。
障子の向こうに伊作と一、二年生。
床下に三、四年生。
天井裏に五、六年生。
掛け軸の裏や、引き戸の外に隠れている者もいた。
「お前たち、盗み聞きとはいい度胸だな!!」
山田に怒られ退散しようとする生徒たちに椿が声をかける。
「どうかそのままで。皆にも聞いて欲しいですから。」
「オホン!…先生方。」
学園長が制すると、先生たちは元の位置に座り直した。
生徒たちも各々の場所で成り行きを見守る。
椿はその様子を確認すると話し始めた。
「皆様におかれましては、もうすでにご存知のことと思います。初めまして、竹森城城主、竹森隆影の娘、竹森椿にございます。この度は私の勝手な都合により大川平次渦正様始め、忍術学園の先生方、並びに生徒の皆様を危機に晒し、多大なご迷惑をおかけしたこと、誠に申し訳なく思っております。本当に、申し訳ありませんでした。」
椿は深々と頭を下げた。
彼女の改めての名乗りに、一同は諦めにも似た息を吐く。
「竹森城の椿姫様、どうか顔をお上げください。謝罪しなければならないのは、私の方です。知らなかったとは言え、あなた様のお命を危険に晒すことになったのは私の責任です。もう少し早く気づいていればと、悔いても悔やみきれません。加え、今までの非礼をお詫び致します。申し訳ありませんでした。」
学園長が手をつき頭を下げる。
それにならい、先生方も頭を下げた。
「どうか顔を上げてください。謝罪の必要はございません。全て私が撒いた種です。お詫びのしようもございません。これ以上皆様にご迷惑をおかけするわけには参りません。父は、忍術学園を我が物にしようと企んでいます。それを阻止するため、私は父の元へ参ります。」
その言葉にざわめきが起こる。
「椿さん!どうして!?」
「行かないでください!」
「あんな仕打ちをされておいて、何されるかわからないじゃないですか!」
皆の声はもちろん、椿に届いている。
行きたくない、皆と一緒にいたい、その想いを押し殺すように唇を噛む。
隆光を信じていないわけではないが、隆影が攻めてこないという確信が持てない今、椿が竹森城に赴き止めるしか手立てがない。
「大川平次渦正様、今までのご厚意感謝申し上げます。皆様も、どうかお体にお気をつけてくださいませ。……失礼致します。」
椿は立ち上がり退出しようとする。
すぐさま一年生が彼女を囲み、行かないでと強く訴える。皆、不安が隠せない。
土井や六年生、誰もが今すぐ彼女の手を取り引き留めたい思いを抱えていた。
だがここの長は学園長。
私情を持ち勝手な行動は許されない。
ある意味では、それができる一年生が羨ましくもさえ思えた。
「…お待ち下さい。少し、この年寄りの話をきいてくださいませんか。実は先日、竹森城の若君、隆光様より書状が届いてございます。」
「…!」
隆光の名に椿の足が止まり、学園長を振り返る。
「それによると、城主隆影様がこの忍術学園を手に入れるために動いていたこと。偶然あなた様がここに出入りしていたのを見つけ、学園の内部情報を得ようとしたが聞き出すことができなかったこと。あなた様が命懸けで守りたかった忍術学園には二度と手を出さないと、命をかけて誓うということが書かれていました。」
「隆光が…」
「つまり、あなたはご自分の体を代償にしてこの忍術学園を、我々全員の命を守ってくださったのです。感謝してもしきれません。学園の恩人のあなたをどうして、危険とわかっているところへ送り出すことができましょう。また食堂で温かい食事を我々に提供してはもらえないでしょうか?」
「ですがっ…!」
「隆光様を信じましょう。」
「!!」
椿の目から涙がこぼれた。
大粒の涙は次から次へと、とどまることなく流れ続ける。
「私は……私は、ここにいても……良いのですか?」
「この学園は…あなた一人がいないだけで、こんなにも活気が無くなるということを思い知らされました。竹森城の姫君ではなく、食堂のおばちゃん見習いの椿君が忍術学園には必要なんじゃ。どうか、戻ってきてはもらえんかの?」
なんて温かい言葉だろう。
初めて会った時のように、いとも簡単に自分を受け入れてくれる。
周りの皆を見回す。穏やかに微笑むさまに、懸念が払拭される。
人に必要とされる、自分の存在を認めてくれる、こんなにも心を解きほぐすということを初めて知った。
「!!━━━━学園長先生!!」
椿は学園長の元へ駆け寄り、すがるように何度も感謝の言葉を述べた。
不安な顔つきだった一年生は喜びを爆発させ、誰もが安堵の表情を見せた。
「やったぁーー!!」
「椿さん、お帰りなさい!」
「戻ってきてくれて良かったー!」
皆の言葉に椿もようやく彼女らしい笑顔を見せた。
それは竹森城の姫君のものではない。
忍術学園、食堂のおばちゃん見習いの顔だった。
「皆ありがとう!学園長先生、私忍術学園が大好きです。ここに帰ってこれて、本当に良かった。ありがとうございました!」
「ふむ、やはり忍術学園はこうでなければならん。椿君も大切な職員の一人ということじゃ。」
「はい!」
和やかな雰囲気の中、山田が椿に問いかける。
「ところで、椿さんが我々忍に対して抵抗がなかったのは、神室さんの存在があったからだね?」
「はい、隠すつもりはなかったのですが、不審に思わせてしまってすみませんでした。」
それに続き、安藤が疑問を口にする。
「しかし、なぜ外出を嫌がっていたんだ?もしかして最初から監視者の存在を知っていたのか?」
「それは、教えてもらったんです。鉢屋三郎君に。」
「…え?」
突然自分の名が呼ばれ、三郎は訳がわからない様子だった。
「ほう、そうなのか三郎。」
学園長の声に、天井裏に一緒にいた兵助が三郎を肘で打つ。
三郎は下に降りて椿の前に姿を現した。
「ね、三郎君教えてくれたよね。」
「三郎、お前気付いていたのか。感心じゃのう。」
三郎はそこで気付いた。
椿が何を言っているのかを。
だが彼女の勘違いを何と説明したら良いか迷った。
ばつが悪い顔をしていると、椿が首を傾げる。
三郎は諦めて、正直に述べることにした。
「確かに、椿さんを狙っている存在がいると教えました。しかしそれは……外部のことではなく……その……」
「?」
歯切れの悪い三郎に全員の注目が集まる。
「学園内の…恋敵のことを言ったまででして……」
目が点になる、鳩が豆鉄砲を食らうとはこのことか。
しばらく椿は固まっていたが、やがて顔を真っ赤にすると絶叫を上げた。
「だっ、だって狙ってるって言ったじゃない!」
椿の反論に、思わず三郎もむきになる。
「だから、椿さんに好意を寄せてるって意味で!」
「ちょっと!皆の前でそんなこと言わないでよ!」
「椿さんが勘違いしてたんじゃないか!」
「だって、あんな言い方じゃ勘違いするわよ!」
「あの話の流れで普通勘違いしないだろ!」
学園長を挟み、その頭上で二人は口論を続けた。
皆呆気に取られ止める者はいない。
学園長とヘムヘムは茶をすすっている。
「じゃあこの際はっきりさせてもらうけど、本当に兵助狙いなのかよ!?」
「へ?俺?」
天井裏の兵助が一番驚いた。
「な、なんで兵助君が出てくるの?」
「椿さん兵助のことすごい見てたって聞いたんだ、どうなんだよ?」
これには兵助始め、全員が注目をする。
土井以外の教師や学園長はこの流れを面白がっている。
「それは…」
「それは?」
「……弟、みたいだなって思って……」
『弟!?』
五年生の声が見事に重なる。
椿は天井裏に兵助がいたことを、今更ながら思い出した。
「あ、ごめんなさい。隆光と同じ年だから、ついついじっと見ちゃってたかも。」
兵助の頭の中で『弟』という言葉が反復する。彼は誰の目にも真っ白に映った。
その様子に留三郎と文次郎は、腹を抱えて笑った。
「…なるほど、五年以下は弟と同等になるわけか。」
「……………いいんだ。俺には豆腐があるから………」
「兵助、ヤケ豆腐なら付き合うよ…」
不憫に思った勘右衛門が兵助の肩を叩く。
椿の発言によりショックを受けた三郎は、握った手を震わせ彼女を睨む。
「━━━っ!弟だとしても、俺は…諦めないからな!!」
そう言い放ち椿を抱き締め、その場から素早く逃げた。
その行動に皆は驚きを隠せない。
椿は突然のことに頭が付いていかず、固まっている。
「あら、青春ね。」
唯一、山本だけが楽しそうに呟いた。
「あ、そうか!」
乱太郎が閃いたような声を出す。
「なに?乱太郎。」
「今のってほら、私たちがさっき椿さんにしてもらったことだよ。」
「してもらったこと?」
「あ、そうか!『ありがとう』だ!」
一年は組の会話に生徒たちが反応する。
土井もそれにピンときたが、違うとツッコミを入れるより先に一年生同士が騒ぎ出す。
「なんだって!?は組の連中、そんなことを!?椿さん、僕にもお願いします!」
「僕も!」
伝七、左吉を筆頭に二年生、三年生、四年生が続く。
学園長室はかつてない混乱に陥った。
「こらぁ!お前たち、やめんかぁぁ!!」
山田、土井の制する声は虚しくもかき消される。
「はーはっはっは!これでこそ忍術学園じゃ!これからが楽しみじゃな、ヘムヘム。」
「ヘム。」
学園は通常通り授業が開始されている。
だが皆の表情は暗く、学園全体が喪に服しているようだった。
まだ椿の意識は回復していない。
ようやく熱が下がった四日目の夜、保健室に掲げられていた、面会謝絶の紙が取り下げられる。
その日当番の伊作が薬を磨り潰す音だけが、保健室内に響く。
そこへ静かに戸を開けて入ってきたのは文次郎。
蝋燭の炎が僅かに揺らぐ。
伊作は一瞥をくれるが、二人が言葉を交わすことはない。
文次郎は椿の穏やかに眠っている姿を見ると、伊作と背中合わせにその場に腰を下ろした。
「………」
「………」
「……俺は無力だ……」
「………」
「俺は…ただここで、待っているだけだった…」
「……やめてよ。」
「こいつは、戦っていたのに…俺は…」
「やめろって言ってるだろ!」
伊作が文次郎の胸ぐらを力一杯に掴む。
文次郎に抵抗する気はなかった。
「やめてよ…僕だって、何もできなかった…椿ちゃんの傷を治すこともできない、椿ちゃんの苦しみを代わってやれない…役に立てない。でも頼むから、自分を責めないでよ…」
「…………伊作」
「…………ごめん。頭冷やしてくる。」
伊作は保健室を後にした。
文次郎は、自分を責めてもどうしようもないことはわかっていた。
だが、そうでもしなければ自分を保つことができなかった。
伊作もそれはわかっている。
ただ文次郎の言葉が、伊作の自責の念を浮き彫りにする。
それが耐えられなかった。
文次郎は伊作がいなくなったその場所を、ただ見続けていた。
「違うよ。」
耳にしたその声に、文次郎はゆっくりと振り返る。
ずっと待ち望んだ声。
いつもすぐ側にいたのに、強く会いたいと願った声。
懐かしいその声の主が、虚空を見つめていた。
文次郎は言葉を忘れてしまったかのように、目を見張ることしかできない。
「文次郎は、ちゃんと守ってくれたよ。」
彼女の言葉は優しい。
しかし今の文次郎にはそれを受け止めることができない。
「…違う。俺は何もしていない…何もできなかったんだ。」
椿は痛む体をゆっくりと起こした。
その行動に驚いた文次郎は、彼女の体を支えるべく身を乗り出す。
「お、おい!まだ起きるな。」
「大丈夫。私より文次郎の方が、痛そうだよ。」
「え…?」
椿はそっと文次郎の頬に手を伸ばす。
文次郎はやっと気付いた、自分が涙を流していたことに。
自分の意志とは関係ない、これが素直な感情というものだった。
添えられた手に自分の手を重ねる。
その温もりを確かめると、押さえていた感情が沸き上がる。
椿はそのまま文次郎を、幼子をあやすかのようにそっと抱き寄せる。
「文次郎は私の居場所を守ってくれた。私が帰ってくるのを待っててくれた。だけど、辛い思いもさせちゃったね。ごめんね、ありがとう。」
その言葉が、優しく心の痛みを洗い流してくれる。
痛くて辛いのは彼女の方なのに、その言葉で文次郎は救われていく。
椿の浴衣の袂を強く握る。
椿の胸に顔を埋める。
文次郎は声に出さずに泣いた。
しばらくして伊作が戻った。
伊作は目を覚ました椿の姿を見ると、顔を崩す。
「椿ちゃんっ!」
「伊作、心配かけてごめんね。」
側にきた伊作の手を引き、椿はその震える体を抱き締める。
「僕に…もっと力があったら…っ」
「ううん、十分助けてくれたよ。責めさせちゃってごめんね、ありがとう伊作。」
椿に抱き締められたまま、伊作は首を横に振った。
言葉にはならなかった。
「………………伊作。」
文次郎が声をかける。
伊作は椿から離れ、文次郎を見る。
「……さっきは、悪かった。」
「うん。僕の方こそ、ごめん。」
二人が和解する様子を、椿は嬉しそうに見ていた。
翌朝、伊作が持ってきてくれた朝食を一人で食べていると、懐かしい複数の足音が聞こえてきた。
食堂のおばちゃんから、私が起きたことを聞いたのだろう。
この音はきっと、あの子たち。
「椿さんっ!!」
ほら、当たり。
来てくれたのは一年は組の良い子たち。
皆泣きそうな顔で私の元へ駆けつけて来てくれた。
「体大丈夫ですか?」
「痛くない?」
「いっぱい心配しました!」
「椿さんがいないとダメです。」
「うん。皆ありがとう。心配かけてごめんね。」
一人一人を抱き寄せながら、お礼と謝罪を繰り返す。
また皆に会えて良かった。
でも、きっとこのあと起こることも私にはわかるんだ。
「お前たち!保健室で騒ぐな!」
ほら、やっぱり。
展開がわかってしまって、それが可笑しくてつい笑ってしまう。
皆が不思議な顔して見てる。
「!椿さん…」
あぁ、私帰って来たんだなって思える風景。
「…と、とにかく!大勢で迷惑になるから戻ってなさい!」
一年は組の皆は土井先生に怒られて元気に退散していった。
「すまなかった、うるさくて。体は大丈夫かい?」
「はい、起きるぶんには平気です。」
土井先生は顔を綻ばせる。
私は先生を手招きして呼ぶ。
土井先生は近くに座ってくれた。
「はい、先生。」
「…え?」
「皆にもしたから、来て下さい。」
両手を広げて待つと、土井先生は真っ赤な顔になってしまった。
あれ?ダメだったかな?
そう思っていたら、土井先生は私を恨めしそうな顔して見て、他意はないからと言って私の方が抱き寄せられてしまった。
彼女が両手を広げて来いと言ってきた時は、一瞬で頭の中が混乱を起こした。
彼女が重傷を負い、意識の戻らない日々が死ぬほど辛かったのに加え、私が椿さんを特別に想っている気持ちを知ってか知らずか、彼女のその行動に無駄な抵抗を顔にする。
彼女はきょとんとしてやはりわかっていなかったから、悟られないように私は彼女を抱き寄せた。
初めて胸に抱く彼女の体は細くて頼りなくて、だからとても大切な壊れ物に触れるように優しく包んだ。
この行為は彼女なりの感謝と謝罪なんだ。
だけど今だけ、少しだけ自惚れてもいいだろうか。
誰もがいないこの瞬間を、彼女が選んでくれたことを。
「君が生きていてくれて良かった。」
「はい。」
「君が戻ってきてくれて良かった。」
「はい。」
「とっても心配したんだ。君に何かあったら私は………っ」
「土井先生…」
「…はい。」
「良かったです。」
「え?」
「もう、普通にお話してくれないんじゃないかと思ってました。皆も。」
「椿さん…」
「土井先生、ありがとうございます。心配かけてごめんなさい。」
「…っ」
椿を抱く手に力がこもる。
彼女が受けた痛みは計り知れない。
それを分かつことも、理解することも難しい。
できることなら、彼女を癒すその力になりたいと願う。
「……あの~、」
「!?」
ばつが悪そうに保健室を覗く伊作。
土井はそれに気づくとさっと椿の体を放した。
椿は何事もないかのように伊作に接し、土井は伊作の視線を感じ気まずい思いだった。
「そ、そうだ椿さん、君の体が大丈夫であれば、学園長がこちらに顔を出したいと言っているんだけどどうだい?」
彼女は一度目を伏せると、伊作と土井を見た。
空気が変わった。
椿の持つ雰囲気が、今までのそれと違う。
土井と伊作は、その彼女を一度目の当たりにしたことがある。
神室と再会したときの彼女の雰囲気そのものだ。
「構いません。ですが、私が学園長先生の元へ参ります。」
「いや、動くのはまだ辛くない?無理はしないで。」
「いいえ、私が参ります。土井先生、伊作、手を貸してください。お願いします。」
そうしないと椿が納得しないのだろう。
彼女の表情はそう言っている。
「わかった。だけど辛くなったら、すぐに言って。」
「はい。ありがとうございます。」
土井は椿の体を支え、ゆっくり立ち上がらせる。
そして彼女の歩くペースに合わせて、学園長室までの道を歩く。
伊作も横に付き添い、椿を支えた。
「学園長、椿さんをお連れしました。」
土井が声をかけると、室内から返事が聞こえた。
伊作は椿と目が合うとその手を離す。
障子が開いて椿と土井は、学園長始め先生方が待つ室内へと入っていった。
自分にできることはここまでかと、その場を去ろうと後ろを振り返ったが、そこの光景に驚く。
「伊作先輩!しっー!!」
「失礼致します。」
椿がそう言って部屋の中央に座る。
土井は山田の隣に腰を落ち着かせた。
いつもと違う彼女の雰囲気に、全員が粛然とする。
学園長が口を開いた。
「本来ならばこちらから出向かなければならないところ、御足労頂き申し訳ありません。」
「いえ、それには及びません。私がこうしたかったのですから。」
「ふむ……お話をさせて頂く前に、ちょっとよろしいでしょうか。」
学園長の言葉を合図に、先生方がありとあらゆるところを開け放つ。
障子の向こうに伊作と一、二年生。
床下に三、四年生。
天井裏に五、六年生。
掛け軸の裏や、引き戸の外に隠れている者もいた。
「お前たち、盗み聞きとはいい度胸だな!!」
山田に怒られ退散しようとする生徒たちに椿が声をかける。
「どうかそのままで。皆にも聞いて欲しいですから。」
「オホン!…先生方。」
学園長が制すると、先生たちは元の位置に座り直した。
生徒たちも各々の場所で成り行きを見守る。
椿はその様子を確認すると話し始めた。
「皆様におかれましては、もうすでにご存知のことと思います。初めまして、竹森城城主、竹森隆影の娘、竹森椿にございます。この度は私の勝手な都合により大川平次渦正様始め、忍術学園の先生方、並びに生徒の皆様を危機に晒し、多大なご迷惑をおかけしたこと、誠に申し訳なく思っております。本当に、申し訳ありませんでした。」
椿は深々と頭を下げた。
彼女の改めての名乗りに、一同は諦めにも似た息を吐く。
「竹森城の椿姫様、どうか顔をお上げください。謝罪しなければならないのは、私の方です。知らなかったとは言え、あなた様のお命を危険に晒すことになったのは私の責任です。もう少し早く気づいていればと、悔いても悔やみきれません。加え、今までの非礼をお詫び致します。申し訳ありませんでした。」
学園長が手をつき頭を下げる。
それにならい、先生方も頭を下げた。
「どうか顔を上げてください。謝罪の必要はございません。全て私が撒いた種です。お詫びのしようもございません。これ以上皆様にご迷惑をおかけするわけには参りません。父は、忍術学園を我が物にしようと企んでいます。それを阻止するため、私は父の元へ参ります。」
その言葉にざわめきが起こる。
「椿さん!どうして!?」
「行かないでください!」
「あんな仕打ちをされておいて、何されるかわからないじゃないですか!」
皆の声はもちろん、椿に届いている。
行きたくない、皆と一緒にいたい、その想いを押し殺すように唇を噛む。
隆光を信じていないわけではないが、隆影が攻めてこないという確信が持てない今、椿が竹森城に赴き止めるしか手立てがない。
「大川平次渦正様、今までのご厚意感謝申し上げます。皆様も、どうかお体にお気をつけてくださいませ。……失礼致します。」
椿は立ち上がり退出しようとする。
すぐさま一年生が彼女を囲み、行かないでと強く訴える。皆、不安が隠せない。
土井や六年生、誰もが今すぐ彼女の手を取り引き留めたい思いを抱えていた。
だがここの長は学園長。
私情を持ち勝手な行動は許されない。
ある意味では、それができる一年生が羨ましくもさえ思えた。
「…お待ち下さい。少し、この年寄りの話をきいてくださいませんか。実は先日、竹森城の若君、隆光様より書状が届いてございます。」
「…!」
隆光の名に椿の足が止まり、学園長を振り返る。
「それによると、城主隆影様がこの忍術学園を手に入れるために動いていたこと。偶然あなた様がここに出入りしていたのを見つけ、学園の内部情報を得ようとしたが聞き出すことができなかったこと。あなた様が命懸けで守りたかった忍術学園には二度と手を出さないと、命をかけて誓うということが書かれていました。」
「隆光が…」
「つまり、あなたはご自分の体を代償にしてこの忍術学園を、我々全員の命を守ってくださったのです。感謝してもしきれません。学園の恩人のあなたをどうして、危険とわかっているところへ送り出すことができましょう。また食堂で温かい食事を我々に提供してはもらえないでしょうか?」
「ですがっ…!」
「隆光様を信じましょう。」
「!!」
椿の目から涙がこぼれた。
大粒の涙は次から次へと、とどまることなく流れ続ける。
「私は……私は、ここにいても……良いのですか?」
「この学園は…あなた一人がいないだけで、こんなにも活気が無くなるということを思い知らされました。竹森城の姫君ではなく、食堂のおばちゃん見習いの椿君が忍術学園には必要なんじゃ。どうか、戻ってきてはもらえんかの?」
なんて温かい言葉だろう。
初めて会った時のように、いとも簡単に自分を受け入れてくれる。
周りの皆を見回す。穏やかに微笑むさまに、懸念が払拭される。
人に必要とされる、自分の存在を認めてくれる、こんなにも心を解きほぐすということを初めて知った。
「!!━━━━学園長先生!!」
椿は学園長の元へ駆け寄り、すがるように何度も感謝の言葉を述べた。
不安な顔つきだった一年生は喜びを爆発させ、誰もが安堵の表情を見せた。
「やったぁーー!!」
「椿さん、お帰りなさい!」
「戻ってきてくれて良かったー!」
皆の言葉に椿もようやく彼女らしい笑顔を見せた。
それは竹森城の姫君のものではない。
忍術学園、食堂のおばちゃん見習いの顔だった。
「皆ありがとう!学園長先生、私忍術学園が大好きです。ここに帰ってこれて、本当に良かった。ありがとうございました!」
「ふむ、やはり忍術学園はこうでなければならん。椿君も大切な職員の一人ということじゃ。」
「はい!」
和やかな雰囲気の中、山田が椿に問いかける。
「ところで、椿さんが我々忍に対して抵抗がなかったのは、神室さんの存在があったからだね?」
「はい、隠すつもりはなかったのですが、不審に思わせてしまってすみませんでした。」
それに続き、安藤が疑問を口にする。
「しかし、なぜ外出を嫌がっていたんだ?もしかして最初から監視者の存在を知っていたのか?」
「それは、教えてもらったんです。鉢屋三郎君に。」
「…え?」
突然自分の名が呼ばれ、三郎は訳がわからない様子だった。
「ほう、そうなのか三郎。」
学園長の声に、天井裏に一緒にいた兵助が三郎を肘で打つ。
三郎は下に降りて椿の前に姿を現した。
「ね、三郎君教えてくれたよね。」
「三郎、お前気付いていたのか。感心じゃのう。」
三郎はそこで気付いた。
椿が何を言っているのかを。
だが彼女の勘違いを何と説明したら良いか迷った。
ばつが悪い顔をしていると、椿が首を傾げる。
三郎は諦めて、正直に述べることにした。
「確かに、椿さんを狙っている存在がいると教えました。しかしそれは……外部のことではなく……その……」
「?」
歯切れの悪い三郎に全員の注目が集まる。
「学園内の…恋敵のことを言ったまででして……」
目が点になる、鳩が豆鉄砲を食らうとはこのことか。
しばらく椿は固まっていたが、やがて顔を真っ赤にすると絶叫を上げた。
「だっ、だって狙ってるって言ったじゃない!」
椿の反論に、思わず三郎もむきになる。
「だから、椿さんに好意を寄せてるって意味で!」
「ちょっと!皆の前でそんなこと言わないでよ!」
「椿さんが勘違いしてたんじゃないか!」
「だって、あんな言い方じゃ勘違いするわよ!」
「あの話の流れで普通勘違いしないだろ!」
学園長を挟み、その頭上で二人は口論を続けた。
皆呆気に取られ止める者はいない。
学園長とヘムヘムは茶をすすっている。
「じゃあこの際はっきりさせてもらうけど、本当に兵助狙いなのかよ!?」
「へ?俺?」
天井裏の兵助が一番驚いた。
「な、なんで兵助君が出てくるの?」
「椿さん兵助のことすごい見てたって聞いたんだ、どうなんだよ?」
これには兵助始め、全員が注目をする。
土井以外の教師や学園長はこの流れを面白がっている。
「それは…」
「それは?」
「……弟、みたいだなって思って……」
『弟!?』
五年生の声が見事に重なる。
椿は天井裏に兵助がいたことを、今更ながら思い出した。
「あ、ごめんなさい。隆光と同じ年だから、ついついじっと見ちゃってたかも。」
兵助の頭の中で『弟』という言葉が反復する。彼は誰の目にも真っ白に映った。
その様子に留三郎と文次郎は、腹を抱えて笑った。
「…なるほど、五年以下は弟と同等になるわけか。」
「……………いいんだ。俺には豆腐があるから………」
「兵助、ヤケ豆腐なら付き合うよ…」
不憫に思った勘右衛門が兵助の肩を叩く。
椿の発言によりショックを受けた三郎は、握った手を震わせ彼女を睨む。
「━━━っ!弟だとしても、俺は…諦めないからな!!」
そう言い放ち椿を抱き締め、その場から素早く逃げた。
その行動に皆は驚きを隠せない。
椿は突然のことに頭が付いていかず、固まっている。
「あら、青春ね。」
唯一、山本だけが楽しそうに呟いた。
「あ、そうか!」
乱太郎が閃いたような声を出す。
「なに?乱太郎。」
「今のってほら、私たちがさっき椿さんにしてもらったことだよ。」
「してもらったこと?」
「あ、そうか!『ありがとう』だ!」
一年は組の会話に生徒たちが反応する。
土井もそれにピンときたが、違うとツッコミを入れるより先に一年生同士が騒ぎ出す。
「なんだって!?は組の連中、そんなことを!?椿さん、僕にもお願いします!」
「僕も!」
伝七、左吉を筆頭に二年生、三年生、四年生が続く。
学園長室はかつてない混乱に陥った。
「こらぁ!お前たち、やめんかぁぁ!!」
山田、土井の制する声は虚しくもかき消される。
「はーはっはっは!これでこそ忍術学園じゃ!これからが楽しみじゃな、ヘムヘム。」
「ヘム。」