1年生
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07.傘の花ふたつ
しとしとと雨が降る。サーーという雨音は耳触りが良くて個人的には好きだ。太陽はもう久しく見ていない。雨が続いて今日で5日目、雨の日は嫌いではない。嫌いではないけれど、この湿気だけは頂けないといつも思う。
「……………」
広がる髪に、朝から気分は急降下。雨の日はうまく髪がまとまらないから嫌になる。天然パーマと呼ばれるほど酷い癖毛ではないが、微妙にうねるせいで綺麗なストレートになってくれないのがなんとも腹立たしい。いっそ結んだ方が目立たなくていいだろうかと考え、私は髪を二つに結った。ぼんやりと、今日の体育も室内だなあと考える。この時期の外体育は私の嫌いな陸上競技だから、それだけは嬉しい。バレーかバスケか、まあのんびりとやろう。
「ではこの文を書き下し文に改めた場合…」
「……ふああ」
学校に来て、授業を受けて、欠伸をひとつふたつ。雨の日はいつにも増して気怠げな気分になる。憂鬱というほど暗い感情ではないけれど、何というか思考回路がいつも以上にスローだ。退屈だなあ、お腹空いたなあ、雨、やまないなあ。そんなことをぼんやり考えながら、ふと、唐突に思い出したことがあった。
「(野良猫って、雨の日はどこにいるんだろう、)」
あの黒猫は、今どうしているのだろう。出会った球技大会の日以来、私は度々暇を見つけてはその場所に足を運んでいた。いつも必ずいるわけではなくて、確率としては精々半々くらいだろうか。最近は少し距離が縮まった気もするが、あの子に触れたことは未だない。
「……………」
そこまで考えて、丁度よく4時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。待ち望んだ昼休みである。
普段であれば真っ先に食堂に行くのだが、先程浮かんだ黒猫が頭から離れない。
「お腹すいた…けどなあ」
生憎この私、性格上一度気になってしまうと他のことが手につかなくなってしまう性分なのである。
私はぐうぐうと空腹を訴える身体を無視し、傘を片手に例の場所へと向かった。
×××××
「横着して上履きでこなくて良かった…」
目的の場所は校舎からさほど遠くはないので、上履きでも大丈夫かな…とも考えたのだか、念の為外履に履き替えてきた。案の定行ってみればそこには大きな水溜りがあちらこちらに出来ていて、布製の上履きなんかで来た日には間違いなく靴下までびしょ濡れになっていたことだろう。数分前の自分よくやった、いやはや、よかったよかった。
梅雨入りに備えて先日買ったお気に入りの淡いラベンダー色の傘を広げて、私は例の黒猫を探す。ぱちぱちと弾ける雨音と視界に入る薄紫色の膜は、世界と私をひっそりと遮断して、まるでこの世には私しか存在していないのではないかという錯覚を覚えさせる。なんというか、幻想的というか、夢のような空間だ。
「5時限目って…うわ、体育だ」
次の授業のことを思い出し、急に心が重くなる。というか、ジャージに着替える時間を考慮するならば、こんなところで油を売っている暇はない…ないはずなのだが、私の足は着々と校舎から遠のいている。本当なら、今すぐにでも来た道を戻り、急いで昼ご飯を食べ更衣室に行かねばならないのに。
「この非日常的空間の心地良さと、体育に対する拒否反応が半々ですね」
もういっそ、このまま授業をサボってしまおうか。しかし、小心者の私は意外なことに、授業においてはまだ皆勤賞なのである。まあ、その授業だってどうせは寝ているのだから、その皆勤賞に意味があるのかと言われれば微妙なところだが。
「…猫ちゃん、いるかな」
黒猫の様子をひとしきり確認して、気が済んだら走って戻ろう。本気を出せばまだ間に合うはずだ。
そうこうしている間に、目的の場所が見えてきた。体育祭の日にたまたま見つけた例のベンチ。こんな雨の中だ、てっきり無人だと思っていたのだが。
「…あれ、」
薄紫色の隔ての先に見えた、ひとつの黒い花。ぽつんと佇むその姿に、私はぴたりと歩みを止めた。
「(…びっくりした、人がいるなんて)」
黒い傘越しの後姿であったが、制服からこの学校の男子生徒であることがわかった。こんなところに一体何の用だろう…と思った瞬間、黒い傘から伸びる手に、猫缶がひとつ握られているのを見つけた。
「(まさか私と同じ目的の人が居たなんて)」
いや、正確に言えば私は単に雨の日の猫の所在が気になっただけで、餌付けをしようという気はこれっぽっちもないのだが。この雨の中、野良猫のためにここまで来るような人が私の他にもいたなんて。
「(なあんだ、最初から私が気にする必要はなかったってことか)」
私が情報弱者なだけで、あの猫ってもしかしたらこの学校のアイドル猫だったりするのだろうか。それならこういう熱心なファンがいるのも納得だ。
「……………」
先客、しかも食料まで用意しているガチな方を押し退けてまで猫を探そうとは思わない。私はひっそりと踵を返す。その瞬間だった。雨音に紛れて聴こえてきた、声。
「さすがにこんな雨の日はいねェか」
「…ッ」
思わず息を呑んだ。バッと勢いよく振り返りたくなる衝動を抑えて、私は立ち止まった。今の声は、果たして私の聞き間違いだろうか。でも、だって。
「完全に時間の無駄だったなァ、クソォ」
悪態をついているその男子生徒を、私は知っている。だって、ずっとずっと、影から見ていたから。声だって、そう何度も聞いたことはないけれど、聞き耳を立て続け、何億回と頭の中で再生したから。
「(荒北、靖友…?)」
まるでこの世界に二人だけになったかのような錯覚。どくどくと速くなる鼓動。どうしよう、私。彼とこんなに近い距離にいる。
「……………」
今すぐ走り出してこの場から立ち去りたい。けれど、そんなことをしてはかえって彼に気付かれてしまう。ゆっくりと、なんてことない様に歩き始めればいい。わかっているのに、足が震えて動けない。
…過ぎた憧憬は、畏怖と同義だ。
「(…しっかりしろ、樒原美子)」
傘の柄を強く握る。この場で彼の視界に私が入る方が問題だ。落ち着け、自分。
ようやく歩み出した足に安堵する。振り返ってはいけない。大丈夫、このラベンダー色の薄い膜が私を隠してくれる。何も問題はない。わかっているのに、私の動悸は一向に良くならない。変な汗も出ている。
「……………」
永遠とも感じられる長い道のりを終え、ようやく私は無事に下駄箱へと辿り着いた。思わず息を吐く。
「…だめ、もう限界」
未だどくどくと脈打つ心臓。心なしか目眩もしてきた。こんなの、体育どころではない。
「本当に、情けないなあ」
結局、私みたいな人間は、遠くから眺めているくらいが性に合っているのだ。同じ空間にいるなんて、そんな恐れ多いことできない。
「…もういいや、保健室行こ」
慣れないことはするものではない。
当然、その日の私は使い物にならなかった。
しとしとと雨が降る。サーーという雨音は耳触りが良くて個人的には好きだ。太陽はもう久しく見ていない。雨が続いて今日で5日目、雨の日は嫌いではない。嫌いではないけれど、この湿気だけは頂けないといつも思う。
「……………」
広がる髪に、朝から気分は急降下。雨の日はうまく髪がまとまらないから嫌になる。天然パーマと呼ばれるほど酷い癖毛ではないが、微妙にうねるせいで綺麗なストレートになってくれないのがなんとも腹立たしい。いっそ結んだ方が目立たなくていいだろうかと考え、私は髪を二つに結った。ぼんやりと、今日の体育も室内だなあと考える。この時期の外体育は私の嫌いな陸上競技だから、それだけは嬉しい。バレーかバスケか、まあのんびりとやろう。
「ではこの文を書き下し文に改めた場合…」
「……ふああ」
学校に来て、授業を受けて、欠伸をひとつふたつ。雨の日はいつにも増して気怠げな気分になる。憂鬱というほど暗い感情ではないけれど、何というか思考回路がいつも以上にスローだ。退屈だなあ、お腹空いたなあ、雨、やまないなあ。そんなことをぼんやり考えながら、ふと、唐突に思い出したことがあった。
「(野良猫って、雨の日はどこにいるんだろう、)」
あの黒猫は、今どうしているのだろう。出会った球技大会の日以来、私は度々暇を見つけてはその場所に足を運んでいた。いつも必ずいるわけではなくて、確率としては精々半々くらいだろうか。最近は少し距離が縮まった気もするが、あの子に触れたことは未だない。
「……………」
そこまで考えて、丁度よく4時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。待ち望んだ昼休みである。
普段であれば真っ先に食堂に行くのだが、先程浮かんだ黒猫が頭から離れない。
「お腹すいた…けどなあ」
生憎この私、性格上一度気になってしまうと他のことが手につかなくなってしまう性分なのである。
私はぐうぐうと空腹を訴える身体を無視し、傘を片手に例の場所へと向かった。
×××××
「横着して上履きでこなくて良かった…」
目的の場所は校舎からさほど遠くはないので、上履きでも大丈夫かな…とも考えたのだか、念の為外履に履き替えてきた。案の定行ってみればそこには大きな水溜りがあちらこちらに出来ていて、布製の上履きなんかで来た日には間違いなく靴下までびしょ濡れになっていたことだろう。数分前の自分よくやった、いやはや、よかったよかった。
梅雨入りに備えて先日買ったお気に入りの淡いラベンダー色の傘を広げて、私は例の黒猫を探す。ぱちぱちと弾ける雨音と視界に入る薄紫色の膜は、世界と私をひっそりと遮断して、まるでこの世には私しか存在していないのではないかという錯覚を覚えさせる。なんというか、幻想的というか、夢のような空間だ。
「5時限目って…うわ、体育だ」
次の授業のことを思い出し、急に心が重くなる。というか、ジャージに着替える時間を考慮するならば、こんなところで油を売っている暇はない…ないはずなのだが、私の足は着々と校舎から遠のいている。本当なら、今すぐにでも来た道を戻り、急いで昼ご飯を食べ更衣室に行かねばならないのに。
「この非日常的空間の心地良さと、体育に対する拒否反応が半々ですね」
もういっそ、このまま授業をサボってしまおうか。しかし、小心者の私は意外なことに、授業においてはまだ皆勤賞なのである。まあ、その授業だってどうせは寝ているのだから、その皆勤賞に意味があるのかと言われれば微妙なところだが。
「…猫ちゃん、いるかな」
黒猫の様子をひとしきり確認して、気が済んだら走って戻ろう。本気を出せばまだ間に合うはずだ。
そうこうしている間に、目的の場所が見えてきた。体育祭の日にたまたま見つけた例のベンチ。こんな雨の中だ、てっきり無人だと思っていたのだが。
「…あれ、」
薄紫色の隔ての先に見えた、ひとつの黒い花。ぽつんと佇むその姿に、私はぴたりと歩みを止めた。
「(…びっくりした、人がいるなんて)」
黒い傘越しの後姿であったが、制服からこの学校の男子生徒であることがわかった。こんなところに一体何の用だろう…と思った瞬間、黒い傘から伸びる手に、猫缶がひとつ握られているのを見つけた。
「(まさか私と同じ目的の人が居たなんて)」
いや、正確に言えば私は単に雨の日の猫の所在が気になっただけで、餌付けをしようという気はこれっぽっちもないのだが。この雨の中、野良猫のためにここまで来るような人が私の他にもいたなんて。
「(なあんだ、最初から私が気にする必要はなかったってことか)」
私が情報弱者なだけで、あの猫ってもしかしたらこの学校のアイドル猫だったりするのだろうか。それならこういう熱心なファンがいるのも納得だ。
「……………」
先客、しかも食料まで用意しているガチな方を押し退けてまで猫を探そうとは思わない。私はひっそりと踵を返す。その瞬間だった。雨音に紛れて聴こえてきた、声。
「さすがにこんな雨の日はいねェか」
「…ッ」
思わず息を呑んだ。バッと勢いよく振り返りたくなる衝動を抑えて、私は立ち止まった。今の声は、果たして私の聞き間違いだろうか。でも、だって。
「完全に時間の無駄だったなァ、クソォ」
悪態をついているその男子生徒を、私は知っている。だって、ずっとずっと、影から見ていたから。声だって、そう何度も聞いたことはないけれど、聞き耳を立て続け、何億回と頭の中で再生したから。
「(荒北、靖友…?)」
まるでこの世界に二人だけになったかのような錯覚。どくどくと速くなる鼓動。どうしよう、私。彼とこんなに近い距離にいる。
「……………」
今すぐ走り出してこの場から立ち去りたい。けれど、そんなことをしてはかえって彼に気付かれてしまう。ゆっくりと、なんてことない様に歩き始めればいい。わかっているのに、足が震えて動けない。
…過ぎた憧憬は、畏怖と同義だ。
「(…しっかりしろ、樒原美子)」
傘の柄を強く握る。この場で彼の視界に私が入る方が問題だ。落ち着け、自分。
ようやく歩み出した足に安堵する。振り返ってはいけない。大丈夫、このラベンダー色の薄い膜が私を隠してくれる。何も問題はない。わかっているのに、私の動悸は一向に良くならない。変な汗も出ている。
「……………」
永遠とも感じられる長い道のりを終え、ようやく私は無事に下駄箱へと辿り着いた。思わず息を吐く。
「…だめ、もう限界」
未だどくどくと脈打つ心臓。心なしか目眩もしてきた。こんなの、体育どころではない。
「本当に、情けないなあ」
結局、私みたいな人間は、遠くから眺めているくらいが性に合っているのだ。同じ空間にいるなんて、そんな恐れ多いことできない。
「…もういいや、保健室行こ」
慣れないことはするものではない。
当然、その日の私は使い物にならなかった。