1.記憶と偶像
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
気づけば自宅に着いていた。
もうすぐで晩御飯ができると言う母に生返事をして自室に入り、扉を閉めた瞬間崩れるようにしゃがみ込んだ。
心中を占めるのは、”恥ずかしい”という感情のみ。
駅のホームでの会話がぐるぐると脳内を駆け巡り、思わず頭を抱えた。
彼は私のことを覚えていなかった。
ただ、それだけ。
去年の冬のことだった。
受験、両親との折り合いの悪さ、友達とのギクシャクした関係……いくつもの悩みに押し潰されそうになった私はある日、深夜に家を抜け出した。スマホも持たず行く当てもなくフラフラと彷徨い続け、どれくらい経ったのだろう。月と切れかけの街灯以外の光は何もない夜道の真ん中で、突然知らない男に声を掛けられたのだ。
「女の子が深夜にこんなところで一人とは感心せんの」
完全に怪しい人間だった。
その発言が”不審者に襲われるかもしれない”との意味であれば、この男こそがまさしく不審者そのものだと思った。
しかし、この時の私は完全に危機意識が欠如していたようだ。言外に帰れと言われているのはわかったが帰る気にもなれず、背後を一瞥してから無視して歩き始めた。
無視されても男は付いてきた。理由はわからないが私にとってはどうでも良かった。どう転んでも別にいいと思った。大袈裟な言い方かもしれないが、この時の私は人生の価値を見失っていたからだ。
後ろから適当な世間話を投げかけられるがそれも全て無視した。ただ、静寂と暗闇に包まれた空間におけるBGMとしては最適だったかもしれない。
「そうじゃ。いい所に連れてっちゃる」
ある交差点に差し掛かったところで思いついたようにそう言われた。この時ばかりはさすがに顔を顰めてしまった覚えがある。
男は戸惑う私を追い越して”いい所”の方面へと歩いていく。あえて違う道を進もうとも考えたが、ふわふわと足取り軽くどこかへと向かう男に、消えてしまいそうなそういう危うさを感じた。ここで付いていかないと後悔すると直感的に判断した私はその後ろ姿を追いかけた。
着いた先は知らない学校。男は施錠されている門を悪びれもなくひょいと乗り越えた。それに続くのはさすがに躊躇したが、どんどん先を行く彼に焦って結局同じように乗り越えてしまった。
「共犯者じゃ」
ニヒルな笑みを浮かべた顔で振り返られる。この時ようやく顔をはっきりと認識した。思いの外若くて綺麗な顔立ちをしていることに驚いた。
未だ掴めない独特のテンポに、気づけば私が振り回される立場になっている。それなのに何故か楽しい。ずっと良い子でいることを自分に義務付けていた私も案外大したことが無いのだ。
ほら、こんなに簡単に悪い子になれる。
何を見ても嬉しくて笑ってしまう私に男は何気なく言葉を零した。
「ぶすくれて待ってるくらいなら笑うために動く方がいいじゃろ」
男は私の事情なんか知らない。
だから、実際にはこの言葉にどういう意味が込められていたのかは私にはわからない。
でも、確かに私の心に刺さったのを感じたのだ。
ずっと人目を気にして雁字搦めされたつもりでいた自分を恥じた。いつかわかってくれるだろうと待っているだけでは駄目なのだ。まずは私が変わらないと。
その時から、男は私にとっての恩人であり、憧れの人になったのだ。
「あのっ、名前を教えてくれませんか」
再び門を越えて学校から出たタイミングで私はそう投げかけた。男は教えてくれなかった。年齢も、連絡先も。何故、私をここに連れてきたのかも。
「が、学生の方ですか? 学校は……」
答えてくれたのはこの質問だけだった。
男は静かに笑みを湛えて親指で背後を差した。月明りが男の顔を淡く照らし、口元のホクロが妖しい雰囲気を助長させる。
「ここ」
それは先程まで探検していた学校。
私は銘板の文字を忘れないように頭に叩き込んだ。
それからは勇気と努力の日々だった。これまでにないほどに私は私を変えようと意思を前に押し出すようにした。
立海を受験すると言った時には両親と正面衝突したが、それでも憧れの人と同じ学校に通えることは私にとっての何よりの活力だと信じた。きっと勇気を持てると思った。だから両親の条件を飲み、受験して合格をもぎ取った。
彼に会ったら感謝を伝えよう。憧れていると伝えよう。
そうしたら、あの時のように微笑んでくれるかもしれない。
私はいつの間にか彼の偶像を作り出していたようだ。
それを悟ったのは今日。
そして、ようやく自分はとんでもない自惚れ者だと気づいた。
青天の霹靂みたいな出来事は、あくまで”私にとって”の話なのだ。
疑わし気な表情をする仁王先輩に私は記憶を辿りながら一連の出来事を話した。一応は思い出してくれたが反応が薄かった。それは彼にとって大したことのない記憶であることを示していた。
どうやら私の胸を打った言葉は、彼の適当な発言によるものだったようだ。
少し、いや、完全に心が折れそうだ。
彼に忘れられていたことや適当な言葉に感動してしまったことよりも、記憶を脚色して勝手に期待して、思い上がっていた自分が恥ずかしい。
私はこの高校に入学したと同時に偶像を打ち砕かれた。
もうすぐで晩御飯ができると言う母に生返事をして自室に入り、扉を閉めた瞬間崩れるようにしゃがみ込んだ。
心中を占めるのは、”恥ずかしい”という感情のみ。
駅のホームでの会話がぐるぐると脳内を駆け巡り、思わず頭を抱えた。
彼は私のことを覚えていなかった。
ただ、それだけ。
去年の冬のことだった。
受験、両親との折り合いの悪さ、友達とのギクシャクした関係……いくつもの悩みに押し潰されそうになった私はある日、深夜に家を抜け出した。スマホも持たず行く当てもなくフラフラと彷徨い続け、どれくらい経ったのだろう。月と切れかけの街灯以外の光は何もない夜道の真ん中で、突然知らない男に声を掛けられたのだ。
「女の子が深夜にこんなところで一人とは感心せんの」
完全に怪しい人間だった。
その発言が”不審者に襲われるかもしれない”との意味であれば、この男こそがまさしく不審者そのものだと思った。
しかし、この時の私は完全に危機意識が欠如していたようだ。言外に帰れと言われているのはわかったが帰る気にもなれず、背後を一瞥してから無視して歩き始めた。
無視されても男は付いてきた。理由はわからないが私にとってはどうでも良かった。どう転んでも別にいいと思った。大袈裟な言い方かもしれないが、この時の私は人生の価値を見失っていたからだ。
後ろから適当な世間話を投げかけられるがそれも全て無視した。ただ、静寂と暗闇に包まれた空間におけるBGMとしては最適だったかもしれない。
「そうじゃ。いい所に連れてっちゃる」
ある交差点に差し掛かったところで思いついたようにそう言われた。この時ばかりはさすがに顔を顰めてしまった覚えがある。
男は戸惑う私を追い越して”いい所”の方面へと歩いていく。あえて違う道を進もうとも考えたが、ふわふわと足取り軽くどこかへと向かう男に、消えてしまいそうなそういう危うさを感じた。ここで付いていかないと後悔すると直感的に判断した私はその後ろ姿を追いかけた。
着いた先は知らない学校。男は施錠されている門を悪びれもなくひょいと乗り越えた。それに続くのはさすがに躊躇したが、どんどん先を行く彼に焦って結局同じように乗り越えてしまった。
「共犯者じゃ」
ニヒルな笑みを浮かべた顔で振り返られる。この時ようやく顔をはっきりと認識した。思いの外若くて綺麗な顔立ちをしていることに驚いた。
未だ掴めない独特のテンポに、気づけば私が振り回される立場になっている。それなのに何故か楽しい。ずっと良い子でいることを自分に義務付けていた私も案外大したことが無いのだ。
ほら、こんなに簡単に悪い子になれる。
何を見ても嬉しくて笑ってしまう私に男は何気なく言葉を零した。
「ぶすくれて待ってるくらいなら笑うために動く方がいいじゃろ」
男は私の事情なんか知らない。
だから、実際にはこの言葉にどういう意味が込められていたのかは私にはわからない。
でも、確かに私の心に刺さったのを感じたのだ。
ずっと人目を気にして雁字搦めされたつもりでいた自分を恥じた。いつかわかってくれるだろうと待っているだけでは駄目なのだ。まずは私が変わらないと。
その時から、男は私にとっての恩人であり、憧れの人になったのだ。
「あのっ、名前を教えてくれませんか」
再び門を越えて学校から出たタイミングで私はそう投げかけた。男は教えてくれなかった。年齢も、連絡先も。何故、私をここに連れてきたのかも。
「が、学生の方ですか? 学校は……」
答えてくれたのはこの質問だけだった。
男は静かに笑みを湛えて親指で背後を差した。月明りが男の顔を淡く照らし、口元のホクロが妖しい雰囲気を助長させる。
「ここ」
それは先程まで探検していた学校。
私は銘板の文字を忘れないように頭に叩き込んだ。
それからは勇気と努力の日々だった。これまでにないほどに私は私を変えようと意思を前に押し出すようにした。
立海を受験すると言った時には両親と正面衝突したが、それでも憧れの人と同じ学校に通えることは私にとっての何よりの活力だと信じた。きっと勇気を持てると思った。だから両親の条件を飲み、受験して合格をもぎ取った。
彼に会ったら感謝を伝えよう。憧れていると伝えよう。
そうしたら、あの時のように微笑んでくれるかもしれない。
私はいつの間にか彼の偶像を作り出していたようだ。
それを悟ったのは今日。
そして、ようやく自分はとんでもない自惚れ者だと気づいた。
青天の霹靂みたいな出来事は、あくまで”私にとって”の話なのだ。
疑わし気な表情をする仁王先輩に私は記憶を辿りながら一連の出来事を話した。一応は思い出してくれたが反応が薄かった。それは彼にとって大したことのない記憶であることを示していた。
どうやら私の胸を打った言葉は、彼の適当な発言によるものだったようだ。
少し、いや、完全に心が折れそうだ。
彼に忘れられていたことや適当な言葉に感動してしまったことよりも、記憶を脚色して勝手に期待して、思い上がっていた自分が恥ずかしい。
私はこの高校に入学したと同時に偶像を打ち砕かれた。