2014年4月


新たな始まり、最後の一年。



鶯のさえずりが耳に優しく届き、校庭には満開の桜。

四月七日、春麗らかなこのよき日。上薙市立夢路第一中学、並びに夢路第一高校の入学式がしめやかに執り行われた。
次いで始業式も終わり、中庭や校門前には我が部活動へ新たな風を吹かせようと躍起になる在校生、これから始まる学生生活に胸を躍らせる新入生で沸き立っていた。

そんな人だかりを上手く抜け、擦り寄ってきた猫たちに挨拶がてら軽く相手をしてから、久瀬比奈轍は学校を出て寮へ向かう。

のどかな田舎情緒漂う帰り道、ふと前に大きな水たまりを見つけた。

そういえば、昨日は雨だったか。

桜が散らずに花開いていたのが奇跡と思えるほどの降水量だった。だからこれだけの存在感を放っていても不思議ではない。
いつもなら大回りをして避けるところだが、今日はそろりそろりと近づいて。

濡れないように細心の注意を払いながら覗き込むと、そこには晴天の青があった。
水に対する恐怖から、うるさくざわつく鼓動を無理に落ち着かせ。小さく息を吐き出し。目を閉じて意識を集中させる。

次に目を開けば水たまりはなくなっていて。辺りは夕暮れ特有の橙に包まれていた。
時間の流れが早まったわけでも、意識を飛ばしていたわけでもない。ここはそういう場所なのだ。

夢路町に酷似した異世界である『夢世界』。特権者である彼は自由自在に行き来が出来るのだが、ここについてはよく分からないことが多い。だが惹きつけられるように度々足を運んでしまう世界でもある。

学ランのポケットから黒のスマートフォンを取り出し電源を入れる。ロックを解除してフリックで画面を流し、目当てのアプリを見つける。
夢路第一のモノクロ校章が宛がわれた『アレセイア』をタップして召喚システムを起動。「おいで」と誰とはなしに呟けば一瞬の間を置いて後ろから、にゃあと返事が返ってくる。

「おはようチャゴちゃん。今日もよろしくな」

愛しい黒虎猫を優しく撫でてやる。怪訝な顔をされた気がしたのは、学校で構った他の猫の匂いを嗅ぎつけたからか。さっきよりも頭を強く擦りつけてきた。

相棒でありパートナーであり、一番の理解者(猫)である、茶伍ちゃご。轍が特権者に成り立てのころから一緒にいるため、かれこれ五年の付き合いになる。
今日は肩に乗りたい気分のようでしゃがんでいた轍の膝、腕を足がかりにして顔のすぐ隣に落ち着いた。

「さて、行くか。寮に着いたら一回あっちに戻るから。荷物置いたらまた来るからな」

そう伝えれば、頬をぺろりと舐めてきた。
まるで、言葉が通じたかのように。まるで、言わなくても分かっていると言いたいかのように。

茶伍と過ごせるのもこの一年で終わりになる。卒業すると大半の特権者はその能力を失い、夢世界へ来ることは出来なくなるという。
覚悟は出来ている、なんていえば嘘になるが、一日一日が別れに近づいていると否応なしに考えてしまう。

『例の七日間』で何があったのか、それを突き止めたいとは思わない。しかし、記憶がないままに卒業してしまうのは、すごく心残りだ。
だから無理をしてでも記憶を取り戻したい。我が身を犠牲にするようなことがあれば容赦なく噛みつかれるだろうから、肩の上で喉を鳴らすこの子には秘密でいよう。

そんなことを心に決め歩いていると、茶伍が頭を上げて、横を向き短く唸る。つられてそちらを見やれば、黒い影がもこもこ動くのが見えた。
全体が見えたわけではない、だがこの夢世界に住まう化け物、レテに間違いないだろう。まだこちらには気がついていないようだ。

「今はそういう気分じゃないんだよな。仕方ねぇ……」

走るか。

言葉を発する前に茶伍は轍から飛び降りて走り出す。少し先で振り返り、にゃあと鳴く。「分かってるよ」とぼやいて自分を呼んだ愛猫を追いかけた。

轍と茶伍の最後の一年は、こうして始まりを迎えた。


14/04/20
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