記憶と記録の影法師。
真紅の花弁と黒観音
長い長い冬が終わり、ようやく訪れた春。
影法師、三日月は晴れ渡る空を見上げて嘆息を漏らす。
視界に広がるのは青い空、雪の結晶から様変わりした薄紅の桜の花びら。
桜の幹は見当たらないのに舞う花弁。触れれば脆く、鉱石のようにきらきらと輝き砕け散る。
東都には不思議だらけ、いや不思議しかない。
現世での常識を遥か遠くに感じ、この廃都市での日常が当たり前になった三日月には何ら違和感はなかった、はずだった。
久々の陽の下の散歩には少々刺激的だったらしい。
白雪が地面から消えたかと思ったら、今度は混濁とした赤がそこら中に映える。
ちらり、ちらり。視界の端にも現れた小さな赤。薄桃に混じりちらつくそれはだんだんと数を増して真紅の嵐となる。
ふと、翳りを見せた暖かな光。反射で視線が上がる。
三日月はぎょっとした。何せ、突然現れた黒雲からは、真っ黒な観音様が見下ろしているのだから。慈悲深げな表情から一変、無慈悲に伸ばされた千手が地上に降り注ぐ。
身の危険を感じないはずがない。
三日月は影に溶けてやり過ごす。頭上に響く地鳴りに戦いた。空間までも震えた気がした。
刹那、何が起きたのか分からなかった。突如として衝撃を感じ、抗えないままに地上に引きずり出された。
理解したときには彼方を目指して駆け出していた。
彼のテリトリーである影にまで沈む幾多もの腕。ずるりと這い出てまた伸びる。
自分とは種族違いの怪異か、東都がもたらした怪現象か。それらを判別する暇などなかった。
とにかく逃げなければ。今、ここで消えてしまったら。
自分を大切に想ってくれるあの子を独りにするわけには。
「……あっ、」
しかし現実は非情なまでに無情であって。
気が動転して行き止まりに迷い込んだ三日月が最期に目にしたのは、自分と同じ黒だった。
待って、の言葉は届かず。
握り込まれた千手。はみ出した赤黒いローブからは真っ赤なしずくが滴り落ちて水溜まりを作っていた。
18/03/21