猫又は今日も廃墟を闊歩する。
黒の襲来
住み処の窓辺で日向ぼっこをしているとざわざわと何かの気配。殺気はなく、ただそこに存在する何か。ぱちりと目を開け、じっくり見てみると真っ黒な猫、猫、猫。
「……『影猫』か。こんなとこにまで入り込んでくるとは」
前々から準備していた袋を手に、またたびは外に出る。影猫はついてくる。その数はだんだんと増えて行列を成す。
「ここいらで大丈夫か」
開けた場所まで来ると立ち止まり、袋から一掴み。広がる匂いに猫たちは鼻をひくひくさせる。辺りに餌をばらまき、影は散らばり飛びついていった。
「今日は人間として過ごそうかね……」
またたびは昨日の公共放送を思い出す。
今日は東都中の影の住民が猫の姿となって餌にありつこうと動き回る日。餌より比較的手に入りやすい猫じゃらしを調達して癒しを求める住民が多い中、木天蓼を持ち歩き猫と戯れようとする者もいるそうだ。
猫にとって木天蓼は一種の麻薬。体内に入ってしまうとあとが怖い。猫又の気質を持つまたたびも、あの植物には滅法弱い。しかし人の姿であれば気にすることはない。
「猫じゃらしはどうにかなるとして、ね……」
ぼそり、つぶやく彼女の背後から足音。
かつん、かつん。響く音に振り返ると角が生えた黒影の怪異。
「なっ!?くっそ、タイミングが悪いね!」
またたびは近くの路地へと滑り込む。あと少しで外部、というところで追いつかれ、追い越され。怪異は大きな包丁を振りかざす。寸でのところで飛び退き避け、またたびは舌打ちする。外部への道は閉ざされた。
「ったく、今日はそんな気分じゃないってのに……」
しかし覚悟を決めて【種族変化・陸】で獣人へと姿を変える。短期決戦、または隙を突いて外部へと逃亡。
いくつか打開策を頭に浮かべたそのとき。ばらばらばら、と頭の上に落ちてきた小さな枝屑に息を飲む。
異能解除を試みるが、時すでに遅し。力がみるみるうちに抜けて膝が笑う。自重すら支えられない。途端、堪えきれずといったように無遠慮に聞こえる笑い声。ゆるりと仰ぎ見れば見知らぬ東都の住民たちと目が合った。
「どうだ猫又!この日のために用意した極上の木天蓼だ!存分に味わえ!」「銀髪狩りでお前に殺られた兄弟の敵討ちだ!そのまま怪異に食われちまえ!」
下卑た嘲笑に反論は叶わず、怪異との距離を取ることも出来ず。ふらふらと地に着く両手を踏ん張り眼前を見やる。霞む視界から瞬時に消えた黒い白澤。
殺られる、そう思った。刺激を受けたのは痛覚ではなく聴覚。まだ正常に機能する左耳が拾ったのは頭上からの阿鼻叫喚。服越しの背中に染みる水滴、どさりと落ちる住民だった肉塊。
「……そりゃ、お情け……かい?」
たん、と降り立ち包丁についた血液を払い、こちらに顔を向けて黒い白澤は首を傾げる。
かつん、かつん。近づきしゃがみ込み、またたびの喉元に真黒の刃を突きつける。ほとんど機能を失った右耳に指を添え、ぎりりと掴む。痛みからまたたびの表情が歪むが、何も出来ずにされるがまま。食い込んだ爪に血が滲む。
「お兄ちゃん、いってきます」
事務的に紡がれた攻撃開始の合図に、黒い白澤は一気に距離を取る。現れたグレーテルは緊張の糸が切れ倒れ込むまたたびを背に庇う。
「大丈夫?」
「何とか……かね」
「またたび、怪異にやられた?」
「いや……あたしゃ、木天蓼に、やられた……のさ……」
「そう。油断したのは分かった。続きはあとで聞く」
視線を上げて怪異に一礼。とことこ歩み距離を詰める。
「『あなた』には初めまして。『あなたたち』には二回目のこんにちは」
「初めてのとき、お兄ちゃんを殺された。でも恨んでない。わたしはお礼を言いに来た。ありがとう。おかげでヘンゼルとグレーテルは、やっと一つになれた」
走り出したグレーテルに白澤の怪異は包丁を繰り出す。
「あなたの攻撃すごく痛いみたい。だから当たるのはよくない」
ぱん!と刃の腹に掌底を食らわせる。刹那、広がる赤い炎に怪異は包丁を迷わず捨てる。からん、音を立てて落ちて。地面に軽く跳ねると塵となり風に舞う。
「怪異は燃える。わたし知ってる」
小さな両の手のひらを握り。グレーテルは拳を突き出す。それはひらりひらりとかわされて。強烈な蹴りが脇腹に直撃する。飛ばされ壁に叩きつけられ、くたりとするグレーテルに近づく白澤の怪異。頭を鷲掴み、砕こうと手に力を込めた。
「や、めろ!」
またたびの声にほんの一瞬、躊躇いが見えた。グレーテルはその隙を逃さない。
「つかまえた」
腕に掴まりあらぬ方向へねじ曲げる。咆哮が轟き拘束が緩まる。するりと抜け出し背後へ回り。上から下へと撫で下ろせば熱い赤に包まれる。
一瞬にして全身に燃え広がり。決着が見えたグレーテルはまたたびに駆け寄る。
「ただいま、お兄ちゃん。ただいま、またたび」
ぎゅっと抱きしめられながら、またたびはその肩越しに怪異を見つめる。怪異の額、そして両の目と視線が絡んだ気がした。瞬きののち、塵となって霧散した影に嘆息する。何もしていないのにどっとした疲労感からグレーテルに寄りかかる。
「猫又になって。でないと運べない」
「ん、分かった……」
獣人から猫又へ。ここでまたたびの意識は途切れた。
「柔らかい」
そっと抱きかかえて黒い身体に顔を埋める。ぽかぽかとした優しい匂いがした。
「あーらら。姉御やられちゃったーの?生きてーる?それとも死んでーる?」
外部から声が聞こえる。ずるずると影の中を動く相手に大きく見開かれた瞳を向ける。
「みかげ」
「どうも、グレーテルの姉御。またたびの姉御はグロッキーだーね。木天蓼が効いてるみーたい」
三日月がけたけた笑うのを聞いてあまり表情が崩れないグレーテルが眉間に皺を寄せる。
「あなたのせい?」
「そうだーよ。おれが影猫を呼び集めて、銀髪狩り被害者の関係者に声かけて、仕返しの計画を練ってあげて木天蓼を集めさせて。怪異は予想外だったけーど?」
「またたび言ってた。今度はあなたを潰すって」
「あっはは!虚勢はいーいよ!楽しみにしてるって伝えーてね?」
ひらひらと手を振り影に消える。その前に振り返り言葉を追加する。
「またたびの姉御、ニーナの兄貴のところに連れていってあげたーら?場所は旧都市部。グレーテルの姉御ならすぐ分かるんじゃなーい?」
グレーテルが考えるうちに姿を影法師は消し。辺りは静かになった。
「旧都市部。白澤の縄張り。またたびと仲良し。信頼してる相手」
託しても問題なさそう。
そう判断したグレーテルはゆっくりと走り出した。
15/02/22