2014年4月
期間限定、美味しいあんぱん販売中。
午前中最後の授業も終盤に差しかかり。黒板にびっしり書かれた文字をノートにただひたすら書き写す作業が終わり、久瀬比奈轍はのんびりまどろんでいた。
あと少しで昼休みか、今日はどの子と遊ぼうか。そんなことを考えながら。
ぞわぁ。
突如として身の毛もよだつような、殺気めいた何かが教室を埋め尽くす。特権者同士でもそうそう感じられないそれに鳥肌が止まらない。
思わず目を覚まし、近くの窓から外を確認した。空は青空、太陽はほぼ真上。間違いなく、現実の世界である。
三年四組に特権者は極々小数のはず。そうでなくてもこのびりっとした空気はどうしたものか。
少しだけ身を潜めて周りを窺うと、前方、一人の男子生徒が手を上げて教師の注意を引く。
「先生、もうそろそろ終わってもいいんじゃないですかー?3分早いけど」
「馬鹿言うな。チャイムが鳴るまでは俺の時間だ。異論は認めない」
「そんなこと言って、さっきからそわそわしてますけどー?」
「私語は慎め。次、一言でも喋ったらチャイム鳴り終わるまで連帯責任でみんな教室から出さないぞ」
これにはいくら勇猛果敢な彼であっても、返す言葉を無理やり飲み込んだ。しんとした空間はまるで嵐の前の静けさを彷彿とさせた。
授業終了1分前。
誰が見ても分かるくらいざわざわとどよめき始めた生徒たちを一喝するのかと思いきや、実は教師もそれどころではないようだった。自分の腕時計と教室に備えつけの時計を交互に見ている。
もうすぐ、もうすぐだ。3、2、1……。
チャイムと同時、その音までもかき消すように生徒のほとんどが一斉に扉へと流れていく。教師ももちろん、赤点常習犯を叱りつけるよりも恐ろしい形相で教壇から飛び出していった。
ばたばたと人の波が消えて、この場に残ったのは数人のみ。彼らも静かになった教室を弁当や財布を持って悠々と出ていった。
「何、だったんだよ……」
「久瀬比奈くん知らないの?今、購買で幻のあんぱんが売られているんだよー?」
「そうそう、何でも数量限定らしくって。偽物もあるみたいだからみんな必死なんだよね」
「ねー!ほんとみんな熱いよねー!」
「……へぇ、そうなんだ」
簡単に相槌を打てば、満足したのか話しかけてきた女子二人は「私たちもお昼食べてくるねー」と離れていった。
知らないことはない。興味がなかったから忘れていたが、この時期は新入生歓迎という名目で購買の客寄せにも一役買っている噂が飛び交うのだった。
春限定で販売される伝説のあんぱん。一度食べれば病みつきになるそれは表面の胡麻の数で見分けるようだが、その情報も正しいのかどうか定かではない。
誰もいなくなった教室を見回して短く息を吐き出し、轍もようやく動き出す。
中庭に出ていつも通り猫たちと戯れていると、通りかかる生徒はみな、こちらに目を向けながらパンにかぶりついていた。当たりでも外れでも勝ち取った戦利品で腹を満たし、少々尾ひれをつけた己の武勇伝で気持ちも満たす。こうして昼休みを過ごしていくのが楽しみであったりもするのだろう。
膝の上でうとうとしていた一匹が鼻をひくつかせ、どこかへ駆けていった。そんなことはよくあるので深追いはしないが、思いのほかすぐに戻ってきた。
口には誰かが落としたのか、破かれた袋に食べかけのパンが。ちらりと見えた中身から察するに、どうやらあんぱんのようだ。
食べる?といった様子で見上げてきたが、さすがに丁重にお断りした。だが、このままにしておいて万が一にも誤食というのは避けたいので、結局受け取ってしまった。満足そうに一鳴きして、定位置に戻ってきた猫を撫でながら青年は考える。
手の中にある食べかけのこれが多くの人が求める代物であるのか、確かめる勇気はなかった。かといって、誰かに確かめてもらうことも出来ない。まず相手がいない。
いつまでもこれを持っているわけにもいかない。ならば、どうするか。
逡巡したのち、思い立ったことを実行に移す。歩む先には購買がある。
「落とし物として販売元に届けるとか、どんな嫌がらせだってな……」
ぼそりと呟いた言葉は賑やかな昼下がりに溶けて吸い込まれていった。
14/04/22