墨の絵よ、永久にあれ。


そこはまるで焼け野原



先代が、死んだ。

聞けばあの人は世間を騒がせる鬼だったらしい。
言われてみれば時折、画材の色に混じって赤い匂いを纏わせていた気がする。

連れて行かれる先代は、此処を畳めとはっきり言った。
素直に応じてやるつもりは、毛頭なかった。

やるべき事は何か。
自分に出来る事は何か。

三日三晩、其れ以上に悩み。
十月十日、其れ以上に尽くしてきた。

しかし頼みの綱がなくなり、脆くなった『私』は自分を嗤う。
心の底から嗤う。

墨廼江は今、完全に潰えたのだ。
『私』の夢、『私』の希望。
簡単に消え去った、それらはまさに泡沫。

だから『私』は火をつけた。
先代が愛用し、形ながら受け継ぎ今では身体の一部にまでなった煙管から落とした火種は数多を飲み込み容易に広がった。

鮮やかな深紅と橙であった。
まるで五代目が江戸で見たのであろう鬼の眼。

『私』は紅鬼に願う。早く奪っておくれ、と。
墨廼江がこれまでに啜ってきた世界の色全てを。

『私』は橙鬼に乞う。早く終わらせておくれ、と。
墨廼江がなくなれば歴史が終わる。だから、だから。



──────────



暗闇に目が慣れた頃、墨廼江十和は自身が目覚めたのだとようやく実感する。胸の上で組んだ両手が荒い呼吸に大きく上下する。

喉が痛い、頭が追い付かない。
あの熱量、あの絶望感。知っているようで知らないあの光景。

「また、……?」

現実に引き戻されても尚、噴き出る汗が心理的消耗を訴える。

刺青専門の彫り物屋としては一区切りを終えた墨廼江の一室、絵びら屋店主の十和は幾度目かの悪夢に苛まれていた。

結末はいつも同じ。
燃え尽きようとする墨廼江を静かに薄ら笑う『私』に十和は掴み掛かる。
「早くお消しなさい、此処は自分の生きる道標なのだから!」と語気の強い十和に『私』が襲い来る。

それは形を崩し呪詛と成り、じりりじりりと肌を焦がす。

どうして、どうして?
まだ足掻くの?まだ諦めないの?
赤く、黒く、灰とすれば自由なのに。
過去を捨てて生まれ変わり、今生を謳歌すればいいのに。
どうして、どうして……。

「……くだらない」

本当に、くだらない。
浅ましく狂おしい『私』は何に期待をし、誰に夢を見ているのだろう。

先代、墨廼江すみのえ九重ここのえが討鬼隊に連れ去られ、命を散らしてもう幾年経ったろうか。寂しさは癒えたとしても、墨廼江を畳むよう進言したのはどうしても許せなかった。
時代が許さずとも、次代に残すべきものは多くあったはず。しかしながら簡単に手放そうとした事実に後悔の念しかない。

「今更、どれだけ揺さぶったところで、もう何にもなりはしないのに」

はだけた寝間着を直し寝床を立つ。
寝覚めは悪いがいつだって朝は来る。期待せずともまた一日が始まるのだ。

この腕が壊れ動かなくなろうとも。
この眼が何も映さなくなろうとも。
時代がいくら流れ、燻る魂を削られようとも。

十和は墨廼江を存続させると彼らに誓ったのだから。

この道を違わずに。
何にも負けずに、自分を曲げずに。
彼女は其の命を燃やしていく。


19/01/26
2/3ページ
スキ