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不気味な笛の音が夜の森を震わせた。
辺り一帯の空気を粘つかせるように蠢き、這いずり回る不協和音。それは恐怖とも焦りとも危うさともつかぬ、名状しがたい『不安』を心の淵から呼び覚ます音だった。
聞いた者は狂う。正気を奪われ、意味のない不安に引きずり込まれ、自分が自分なのかもわからなくなっていく。
目の前の闖入者達も例外ではなかった。
こちらに飛びかかろうとしていた野生のグラエナ達は、音が鳴り出すとぶるりと震えて姿勢を崩し、ふらふらと縺れ合い始めた。最初に見せた剣呑な光は既にない。表情は等しく不安に染まり、そこら中から苦しげな呻きが漏れている。
統率が乱れるにつれて不安の渦も加速し、やがて「ここにいてはいけない」と悟ったらしい。リーダーが背を向けると他の仲間も一斉に倣い、グラエナ達は転がるように逃げ去っていった。
野生の気配が遠のき、沈黙したのを確かめて、コノハナは葉っぱを口元から離す。すると辺りに充満していた不気味な音もしんと止み、残響が木立に飲まれていく。あとは何事もなかったような静寂が森を包むだけだった。
──へへっ、ざまあみろ。
最初は声を揃えて唸っていたのが笛を鳴らした途端にあのザマだ。よたよたと浮き足立って逃げる獣の群れを思い返し、コノハナは心の中で思いきり舌を出した。
「ありがとう、コノハナ。おかげでもう安心だね」
背後から声がかかり、パチパチと火の鳴る音が重なる。振り返ると、暗闇に揺れる赤い焚き火が、傍らにいる少女──ナナシを照らしていた。ナナシは膝立ちでコノハナに近づき、よしよしと頭を撫でる。
焚き火の明かりが影を落とし、その表情を鮮明にした。ナナシは心から安心したように笑っている。
身体の底からじんわりと熱さがこみ上げ、コノハナはナナシの胸に飛び込んだ。──正面からだと長い鼻をぶつけて互いに悶絶する羽目になるので、頬を埋める形でだ。ナナシは驚いた声を漏らし、くすくすと笑って受け止める。
ナナシはコノハナにとって何よりも大きな存在だ。
旅の相棒だから、というだけではない。どんな時も隣で微笑み、手を繋いでくれる、欠けてはならない半身。そんな大切な存在を守れた喜びが、コノハナをどこまでも熱くした。
森は静まり返っていた。聞こえるのは焚き火の音とナナシの呼吸のみ。獰猛な気配は闇に消え去り、二人は束の間の平穏を許された。
いつまで許されるのかはわからない。だけど今は浸っていたい。コノハナは胸に深く頬を埋め、ナナシの音だけを自分に聞かせた。
どくどく、どくどく。耳を澄ますと命を感じる。駆け巡る血の音が活発な営みを伝えてくる。
──いや、活発どころじゃない。その音は何かに駆り立てられたように忙しなく、調子外れなリズムを刻んでいる。聞いているコノハナまで胸がそわそわしてきた。
冷や汗が噴き出し、思わず身を離す。両手はいつの間にかナナシの服にしがみつき、ぎゅっと皺が寄っていた。
この騒めきは知っている。ついさっきだ。グラエナ達が笛の音に怯えていた時。あの時に感じた気配と、今、ナナシの内側から感じた気配はあまりにも似ていた。
まさかと思いながらナナシを見つめる。もっと近くで見つめたくても、鼻が長いせいでそれが叶わないのがもどかしい。
視線の圧力に戸惑ったのか、ナナシは口を半開きにしてコノハナを見返す。鼻先が触れ合うまで迫ると、ナナシは気まずそうに口を閉ざし、諦めを滲ませて笑った。
「……やっぱりバレちゃったかな。でも大丈夫だよ」
最後の一言はとってつけたようだった。コノハナは目を見開いたまま固まる。バレちゃった、の一言が頭に打ちつけられたように反響していた。
コノハナは頭の葉っぱで笛を作る。その笛の音は聞いた者を不安にさせる。不安になるような、という比喩ではない。音そのものが自我を乗っ取り、不安な気持ちになるように仕向けるという、一種の暗示に等しい力を秘めているのだ。
だからこそ恐ろしく、一方で心強かった。
旅に危険はいろいろあるが、中でも身近なのが野生ポケモンの襲撃だ。時には唸りを上げて闊歩し、時には死角に潜んで爪を研ぐ彼らは、自らの生存のためならば手段を選ばない。
相手が一匹ならバトルで対処する。二匹や三匹でも小物ならば同様だ。だが相手が手強そうだったり、あるいは群れで立ちはだかってきた場合だと話は変わる。正直に挑んだところで何もいい結果は生まないし、最悪ナナシまで道連れにしてしまう。
そんな時に笛を鳴らす。闘志を燃やして攻め入る鬼の軍も、コノハナの奏でる不安の前では哀れな小鼠の群れだ。むしろ闘志の強さは油断の大きさにも繋がり、それだけに御しやすい。そうして敵意を根こそぎ洗って追い返すことで、コノハナはナナシとの安息を守ってきた。
しかし音は相手を選ばない。笛を吹けば当然ナナシの耳にも届く。耳に届けば不安も作用する。だから笛を吹くときは耳を塞ぐようにと彼女に伝えていた。拒絶の態勢で臨めばさすがの魔の手も入る余地はない。コノハナの笛は心の隙に強く作用するのだ。
ナナシはその約束を破った。不安にさせられるのを承知で自ら耳を晒し、音の侵入を許した。
グラエナ達が去った後に見せた、あの笑顔。ナナシが心から安心したように笑っていたのは恐ろしい敵がいなくなったから、だけではなかった。音により引き起こされた不安は、音が止めば治まるのだ。
コノハナは必死に訴えた。どうして耳を塞がなかったのか。身振りを交えて全身で問いかけた。その顔は笛の音で不安になった者よりもずっと張り詰めていた。
「その……耳を塞ぐと、なかったことにするみたいで嫌だなって」
ナナシは叱られた子供のように目を伏せた。
「あの音はコノハナにしか鳴らせないものだから、ちゃんと耳に刻んでおきたくて……」
褒められないことをした自覚はあるのだろう。話す声は焚き火の音に紛れそうなほど掠れている。
「でもわたし、逃げずにちゃんとここにいるよ」
ナナシは取り繕うように顔を上げた。
「確かに多少の不安はどうしても感じちゃったけど、全然大したことないから。むしろ、この音がわたしとコノハナを守ってくれてるんだと思うと、頼もしさや安心の方がずっと大きかったよ!」
殊更に明るく振る舞う姿に、胸が締め付けられる。明らかに無理をしているのが見ていて辛く、だけど目を背けることもできなかった。
ナナシはコノハナの全てを想っている。おぞましい笛の音も受け入れようとしている。それは嬉しい。嬉しいからこそ胸が痛い。
たくさんの言葉が浮かんでは消えていく。どんな返事をすればいいのかわからなかった。力なく両手を垂らすと、ナナシは言葉に詰まったような顔をする。
無言の時間が流れた。互いに何もできない間も沈黙は澱みを増し、見えない壁ができていく。先に耐えかねたのはナナシの方だった。
「……約束を破ってごめんね。うん、次からはちゃんと耳を塞ぐようにするよ。心強いからこそ万が一の危険もあるかもしれないしね」
これで話は終わり、ということにしたいのだろう。だが薄く微笑んだ口の端には、拭いきれない未練の色が滲んでいた。
本当は耳を塞ぎたくない。だけどコノハナを心配させるのは嫌だ。そんな葛藤の末に、ナナシは自分の望みを押し殺してコノハナとの約束を取ったのだ。それを簡単に見抜けるほどに、コノハナはナナシの優しさを知っている。
ならばせめてその気持ちに応えたい。なのにどうしてもうまく笑えない。
コノハナはナナシを不安にしたくない。だから笛の音は聞かないでほしい。でもそれはナナシが望まない。コノハナの全てを知り、感じて、受け入れたいナナシにとって、笛の音を塞ぐのは笛を吹いているコノハナまで遠ざけるみたいで嫌なのだ。それは不安と変わらない。でもやっぱり笛の音は聞かせたくないし、それでナナシが不安になるのはコノハナが嫌だ。
涙が出そうだった。二つの糸はすれ違うばかりで交わろうとしない。こんなことは今までなかった。自分とナナシはいつも繋がっていると思っていた。信じていたものが砂のように溶け崩れ、目の前が何も見えなくなっていく。
「コノハナ」
不意に呼ぶ声が思考を泥沼から引き上げた。呆気に取られたコノハナをナナシはそっと引き寄せ、膝の上に座らせる。
「見て」
指の差す方を見上げ、眩しさに目を奪われた。
真っ暗な闇に覆われた森の上。重なる黒い枝葉の合間にただ一つ、真っ白に輝くものがあった。
「森の中でもこんなに鮮やかに見えるんだね」
コノハナは呆けたまま頷く。満月は森を覗き込むように佇んでいた。星一つない夜空に浮かぶ幽玄な光に、ナナシは溜息を零す。
「きれい……」
背後に感じるのは穏やかな息遣い。まるで不安なんて始めからなかったかのように、ナナシは頭上の光に酔いしれている。腕に抱かれていて見えないが、その顔はきっと儚いほどに美しく、別人にさえ映るのだろう。
眩しさが目に痛くなり、コノハナは視線を手元に落とした。
右手を開くと、手のひらに収めっぱなしの葉っぱが顔を出す。月明かりと焚き火に照らされて仄かに艶めく草色の笛は、コノハナの命から生まれたものだ。どんなにおぞましい音色を秘めていても、コノハナの一部である事実は地中深くに根を下ろす大樹のように厳然と居座り、それが今は呪いとなってコノハナを苦しめている。
月はただそこにあるだけでナナシを癒す。手を伸ばしても届かない高みからナナシの心に触れてしまう。コノハナはナナシの腕の中にいるはずなのに、そんな気がしない。ナナシは月を見ている。近くにいるコノハナではない。それよりも遥か遠くの月に安らぎを求めている。
背中の温もりが遠のいていく。
ナナシが月にさらわれる──空想めいた予感が、右手を口元へ導いた。
闇はどこまでも濃く、深い。月明かりの底に立ち込める暗黒は、小さな波紋が生まれたところで揺らぎ一つ見せない。
それは音にもならないほどの微かな音だった。枯れ木を撫でる風のように細く漂う旋律は、闇に呑まれ、誰にも届かずに散っていく。
寂しさの中で昔を思った。
森に迷い込んだ者をこそこそと付け狙い、死角から笛を鳴らす。音を聞いた者が不安になる様子を覗き見、枝葉の陰でほくそ笑む。
かつてはそんな日常だった。昼はイタズラに耽り、夜は仲間のタネボーや別のコノハナ達と大木の洞に集まって「人間がこんな顔をしてビビっていた」「ポッポがこんな間抜けな声を上げて木から落ちた」と盛り上がる。たまに夜更かしが過ぎてダーテングにやかましいと叱られるのも愉快で、その楽しさを糧に毎日を生きていた。
静寂が揺れた。熱を帯び、闇を掻き分けて、音が浮かび上がる。
耳元で息を呑む声がした。背中に温かさが蘇る。微笑みが脳裏に浮かび、寂しさを溶かしていく。思い出の中の最愛の人は、いつだって笑っていた。
ナナシと出会って日常は変わった。イタズラで誰かを困らせるのが生きがいだったコノハナに、ナナシはいろいろなことを教えてくれた。それはイタズラがうまくいった時の刹那の高揚とは違う。心にいつまでも残り続ける熾火のような温かさをコノハナは知った。
今も背中に感じる。この温もりがあるから頑張れた。昨日よりも優しい自分になれた。もう二度と戻れない。もしもナナシがいなくなったら、永遠にどこにも帰れない。
だからコノハナも同じものを与えたい。イタズラのためでも悪を退けるためでもない、ナナシのためだけの音を奏でたい。コノハナがナナシで満たされているように、ナナシをコノハナで満たしたい。
波紋はせせらぎとなり、せせらぎは声となる。
ナナシを癒したい。ナナシの必要になりたい。ナナシの一番になりたい。それは月のように無垢な願いではない。泥のように醜い欲望も詰まっている。だけどそれがコノハナの全てだった。
自分はここにいる。ずっとそばにいる。誰よりも思っている。たとえ言葉が通じなくても、音でならそれを伝えられる。
風が吹き、木々がさざめいた。笛は全てを語り終え、静かに奏者の元を下りる。
「……コノハナ」
抱き締める腕の力が強まる。その声は泣いていた。
「わたしね、感じたの。笛の音が聞こえた瞬間、コノハナが近くにいるのを。わたしの傍に来て寄り添ってくれるのを」
溢れるものを噛み締めるような声を聞きながら、コノハナは空を仰いだ。
月は変わらずそこにある。あんなに恐れていたはずの眩しさも、今はただ綺麗だと思った。
「……変だよね」
本当に、変だ。
「始めからずっと──いつだって、近くにいるのに」
帰る場所は、いつだって同じなのに。
「ねえ、コノハナ。わたし、ポケモンを追い払う時はちゃんと耳を塞ぐようにするね。もう音が聞こえなくても寂しくないよ」
ナナシはそっと腕を解き、コノハナを自分の方に向かせた。
「わたしには、わたしだけの音があるから」
残響は止まない。森の中を緩やかに揺蕩い、暖かさで満たしていく。コノハナはナナシの頬に手を伸ばし、優しく撫でるように涙を拭うと、柔らかい胸に再び身を預けた。
耳を澄ますと、安息の音が聞こえる。静かな拍動は凪いだ海のように心地よく、自然と瞼が下りていった。目を閉じると、ナナシをより近くに感じる。このままどこまでも一つに溶け合いたい。細い身体を強く抱き締めると、同じ強さで抱き締め返された。
「わたし、コノハナが好き。世界で一番、何よりも好き。わたし達の間に不安なんていらない。コノハナといることが、わたしにとっての最高の幸せだから。いつまでもずっと一緒だよ」
辺り一帯の空気を粘つかせるように蠢き、這いずり回る不協和音。それは恐怖とも焦りとも危うさともつかぬ、名状しがたい『不安』を心の淵から呼び覚ます音だった。
聞いた者は狂う。正気を奪われ、意味のない不安に引きずり込まれ、自分が自分なのかもわからなくなっていく。
目の前の闖入者達も例外ではなかった。
こちらに飛びかかろうとしていた野生のグラエナ達は、音が鳴り出すとぶるりと震えて姿勢を崩し、ふらふらと縺れ合い始めた。最初に見せた剣呑な光は既にない。表情は等しく不安に染まり、そこら中から苦しげな呻きが漏れている。
統率が乱れるにつれて不安の渦も加速し、やがて「ここにいてはいけない」と悟ったらしい。リーダーが背を向けると他の仲間も一斉に倣い、グラエナ達は転がるように逃げ去っていった。
野生の気配が遠のき、沈黙したのを確かめて、コノハナは葉っぱを口元から離す。すると辺りに充満していた不気味な音もしんと止み、残響が木立に飲まれていく。あとは何事もなかったような静寂が森を包むだけだった。
──へへっ、ざまあみろ。
最初は声を揃えて唸っていたのが笛を鳴らした途端にあのザマだ。よたよたと浮き足立って逃げる獣の群れを思い返し、コノハナは心の中で思いきり舌を出した。
「ありがとう、コノハナ。おかげでもう安心だね」
背後から声がかかり、パチパチと火の鳴る音が重なる。振り返ると、暗闇に揺れる赤い焚き火が、傍らにいる少女──ナナシを照らしていた。ナナシは膝立ちでコノハナに近づき、よしよしと頭を撫でる。
焚き火の明かりが影を落とし、その表情を鮮明にした。ナナシは心から安心したように笑っている。
身体の底からじんわりと熱さがこみ上げ、コノハナはナナシの胸に飛び込んだ。──正面からだと長い鼻をぶつけて互いに悶絶する羽目になるので、頬を埋める形でだ。ナナシは驚いた声を漏らし、くすくすと笑って受け止める。
ナナシはコノハナにとって何よりも大きな存在だ。
旅の相棒だから、というだけではない。どんな時も隣で微笑み、手を繋いでくれる、欠けてはならない半身。そんな大切な存在を守れた喜びが、コノハナをどこまでも熱くした。
森は静まり返っていた。聞こえるのは焚き火の音とナナシの呼吸のみ。獰猛な気配は闇に消え去り、二人は束の間の平穏を許された。
いつまで許されるのかはわからない。だけど今は浸っていたい。コノハナは胸に深く頬を埋め、ナナシの音だけを自分に聞かせた。
どくどく、どくどく。耳を澄ますと命を感じる。駆け巡る血の音が活発な営みを伝えてくる。
──いや、活発どころじゃない。その音は何かに駆り立てられたように忙しなく、調子外れなリズムを刻んでいる。聞いているコノハナまで胸がそわそわしてきた。
冷や汗が噴き出し、思わず身を離す。両手はいつの間にかナナシの服にしがみつき、ぎゅっと皺が寄っていた。
この騒めきは知っている。ついさっきだ。グラエナ達が笛の音に怯えていた時。あの時に感じた気配と、今、ナナシの内側から感じた気配はあまりにも似ていた。
まさかと思いながらナナシを見つめる。もっと近くで見つめたくても、鼻が長いせいでそれが叶わないのがもどかしい。
視線の圧力に戸惑ったのか、ナナシは口を半開きにしてコノハナを見返す。鼻先が触れ合うまで迫ると、ナナシは気まずそうに口を閉ざし、諦めを滲ませて笑った。
「……やっぱりバレちゃったかな。でも大丈夫だよ」
最後の一言はとってつけたようだった。コノハナは目を見開いたまま固まる。バレちゃった、の一言が頭に打ちつけられたように反響していた。
コノハナは頭の葉っぱで笛を作る。その笛の音は聞いた者を不安にさせる。不安になるような、という比喩ではない。音そのものが自我を乗っ取り、不安な気持ちになるように仕向けるという、一種の暗示に等しい力を秘めているのだ。
だからこそ恐ろしく、一方で心強かった。
旅に危険はいろいろあるが、中でも身近なのが野生ポケモンの襲撃だ。時には唸りを上げて闊歩し、時には死角に潜んで爪を研ぐ彼らは、自らの生存のためならば手段を選ばない。
相手が一匹ならバトルで対処する。二匹や三匹でも小物ならば同様だ。だが相手が手強そうだったり、あるいは群れで立ちはだかってきた場合だと話は変わる。正直に挑んだところで何もいい結果は生まないし、最悪ナナシまで道連れにしてしまう。
そんな時に笛を鳴らす。闘志を燃やして攻め入る鬼の軍も、コノハナの奏でる不安の前では哀れな小鼠の群れだ。むしろ闘志の強さは油断の大きさにも繋がり、それだけに御しやすい。そうして敵意を根こそぎ洗って追い返すことで、コノハナはナナシとの安息を守ってきた。
しかし音は相手を選ばない。笛を吹けば当然ナナシの耳にも届く。耳に届けば不安も作用する。だから笛を吹くときは耳を塞ぐようにと彼女に伝えていた。拒絶の態勢で臨めばさすがの魔の手も入る余地はない。コノハナの笛は心の隙に強く作用するのだ。
ナナシはその約束を破った。不安にさせられるのを承知で自ら耳を晒し、音の侵入を許した。
グラエナ達が去った後に見せた、あの笑顔。ナナシが心から安心したように笑っていたのは恐ろしい敵がいなくなったから、だけではなかった。音により引き起こされた不安は、音が止めば治まるのだ。
コノハナは必死に訴えた。どうして耳を塞がなかったのか。身振りを交えて全身で問いかけた。その顔は笛の音で不安になった者よりもずっと張り詰めていた。
「その……耳を塞ぐと、なかったことにするみたいで嫌だなって」
ナナシは叱られた子供のように目を伏せた。
「あの音はコノハナにしか鳴らせないものだから、ちゃんと耳に刻んでおきたくて……」
褒められないことをした自覚はあるのだろう。話す声は焚き火の音に紛れそうなほど掠れている。
「でもわたし、逃げずにちゃんとここにいるよ」
ナナシは取り繕うように顔を上げた。
「確かに多少の不安はどうしても感じちゃったけど、全然大したことないから。むしろ、この音がわたしとコノハナを守ってくれてるんだと思うと、頼もしさや安心の方がずっと大きかったよ!」
殊更に明るく振る舞う姿に、胸が締め付けられる。明らかに無理をしているのが見ていて辛く、だけど目を背けることもできなかった。
ナナシはコノハナの全てを想っている。おぞましい笛の音も受け入れようとしている。それは嬉しい。嬉しいからこそ胸が痛い。
たくさんの言葉が浮かんでは消えていく。どんな返事をすればいいのかわからなかった。力なく両手を垂らすと、ナナシは言葉に詰まったような顔をする。
無言の時間が流れた。互いに何もできない間も沈黙は澱みを増し、見えない壁ができていく。先に耐えかねたのはナナシの方だった。
「……約束を破ってごめんね。うん、次からはちゃんと耳を塞ぐようにするよ。心強いからこそ万が一の危険もあるかもしれないしね」
これで話は終わり、ということにしたいのだろう。だが薄く微笑んだ口の端には、拭いきれない未練の色が滲んでいた。
本当は耳を塞ぎたくない。だけどコノハナを心配させるのは嫌だ。そんな葛藤の末に、ナナシは自分の望みを押し殺してコノハナとの約束を取ったのだ。それを簡単に見抜けるほどに、コノハナはナナシの優しさを知っている。
ならばせめてその気持ちに応えたい。なのにどうしてもうまく笑えない。
コノハナはナナシを不安にしたくない。だから笛の音は聞かないでほしい。でもそれはナナシが望まない。コノハナの全てを知り、感じて、受け入れたいナナシにとって、笛の音を塞ぐのは笛を吹いているコノハナまで遠ざけるみたいで嫌なのだ。それは不安と変わらない。でもやっぱり笛の音は聞かせたくないし、それでナナシが不安になるのはコノハナが嫌だ。
涙が出そうだった。二つの糸はすれ違うばかりで交わろうとしない。こんなことは今までなかった。自分とナナシはいつも繋がっていると思っていた。信じていたものが砂のように溶け崩れ、目の前が何も見えなくなっていく。
「コノハナ」
不意に呼ぶ声が思考を泥沼から引き上げた。呆気に取られたコノハナをナナシはそっと引き寄せ、膝の上に座らせる。
「見て」
指の差す方を見上げ、眩しさに目を奪われた。
真っ暗な闇に覆われた森の上。重なる黒い枝葉の合間にただ一つ、真っ白に輝くものがあった。
「森の中でもこんなに鮮やかに見えるんだね」
コノハナは呆けたまま頷く。満月は森を覗き込むように佇んでいた。星一つない夜空に浮かぶ幽玄な光に、ナナシは溜息を零す。
「きれい……」
背後に感じるのは穏やかな息遣い。まるで不安なんて始めからなかったかのように、ナナシは頭上の光に酔いしれている。腕に抱かれていて見えないが、その顔はきっと儚いほどに美しく、別人にさえ映るのだろう。
眩しさが目に痛くなり、コノハナは視線を手元に落とした。
右手を開くと、手のひらに収めっぱなしの葉っぱが顔を出す。月明かりと焚き火に照らされて仄かに艶めく草色の笛は、コノハナの命から生まれたものだ。どんなにおぞましい音色を秘めていても、コノハナの一部である事実は地中深くに根を下ろす大樹のように厳然と居座り、それが今は呪いとなってコノハナを苦しめている。
月はただそこにあるだけでナナシを癒す。手を伸ばしても届かない高みからナナシの心に触れてしまう。コノハナはナナシの腕の中にいるはずなのに、そんな気がしない。ナナシは月を見ている。近くにいるコノハナではない。それよりも遥か遠くの月に安らぎを求めている。
背中の温もりが遠のいていく。
ナナシが月にさらわれる──空想めいた予感が、右手を口元へ導いた。
闇はどこまでも濃く、深い。月明かりの底に立ち込める暗黒は、小さな波紋が生まれたところで揺らぎ一つ見せない。
それは音にもならないほどの微かな音だった。枯れ木を撫でる風のように細く漂う旋律は、闇に呑まれ、誰にも届かずに散っていく。
寂しさの中で昔を思った。
森に迷い込んだ者をこそこそと付け狙い、死角から笛を鳴らす。音を聞いた者が不安になる様子を覗き見、枝葉の陰でほくそ笑む。
かつてはそんな日常だった。昼はイタズラに耽り、夜は仲間のタネボーや別のコノハナ達と大木の洞に集まって「人間がこんな顔をしてビビっていた」「ポッポがこんな間抜けな声を上げて木から落ちた」と盛り上がる。たまに夜更かしが過ぎてダーテングにやかましいと叱られるのも愉快で、その楽しさを糧に毎日を生きていた。
静寂が揺れた。熱を帯び、闇を掻き分けて、音が浮かび上がる。
耳元で息を呑む声がした。背中に温かさが蘇る。微笑みが脳裏に浮かび、寂しさを溶かしていく。思い出の中の最愛の人は、いつだって笑っていた。
ナナシと出会って日常は変わった。イタズラで誰かを困らせるのが生きがいだったコノハナに、ナナシはいろいろなことを教えてくれた。それはイタズラがうまくいった時の刹那の高揚とは違う。心にいつまでも残り続ける熾火のような温かさをコノハナは知った。
今も背中に感じる。この温もりがあるから頑張れた。昨日よりも優しい自分になれた。もう二度と戻れない。もしもナナシがいなくなったら、永遠にどこにも帰れない。
だからコノハナも同じものを与えたい。イタズラのためでも悪を退けるためでもない、ナナシのためだけの音を奏でたい。コノハナがナナシで満たされているように、ナナシをコノハナで満たしたい。
波紋はせせらぎとなり、せせらぎは声となる。
ナナシを癒したい。ナナシの必要になりたい。ナナシの一番になりたい。それは月のように無垢な願いではない。泥のように醜い欲望も詰まっている。だけどそれがコノハナの全てだった。
自分はここにいる。ずっとそばにいる。誰よりも思っている。たとえ言葉が通じなくても、音でならそれを伝えられる。
風が吹き、木々がさざめいた。笛は全てを語り終え、静かに奏者の元を下りる。
「……コノハナ」
抱き締める腕の力が強まる。その声は泣いていた。
「わたしね、感じたの。笛の音が聞こえた瞬間、コノハナが近くにいるのを。わたしの傍に来て寄り添ってくれるのを」
溢れるものを噛み締めるような声を聞きながら、コノハナは空を仰いだ。
月は変わらずそこにある。あんなに恐れていたはずの眩しさも、今はただ綺麗だと思った。
「……変だよね」
本当に、変だ。
「始めからずっと──いつだって、近くにいるのに」
帰る場所は、いつだって同じなのに。
「ねえ、コノハナ。わたし、ポケモンを追い払う時はちゃんと耳を塞ぐようにするね。もう音が聞こえなくても寂しくないよ」
ナナシはそっと腕を解き、コノハナを自分の方に向かせた。
「わたしには、わたしだけの音があるから」
残響は止まない。森の中を緩やかに揺蕩い、暖かさで満たしていく。コノハナはナナシの頬に手を伸ばし、優しく撫でるように涙を拭うと、柔らかい胸に再び身を預けた。
耳を澄ますと、安息の音が聞こえる。静かな拍動は凪いだ海のように心地よく、自然と瞼が下りていった。目を閉じると、ナナシをより近くに感じる。このままどこまでも一つに溶け合いたい。細い身体を強く抱き締めると、同じ強さで抱き締め返された。
「わたし、コノハナが好き。世界で一番、何よりも好き。わたし達の間に不安なんていらない。コノハナといることが、わたしにとっての最高の幸せだから。いつまでもずっと一緒だよ」
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