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「見て、もうすぐできあがりそうだよ。いい匂いもしてきてる」
笑顔で振り返る穂波ちゃんの声は期待を乗せて弾んでいた。私はその背中にぴったりと身を寄せ、肩越しにオーブンレンジを覗き込む。
二人で作ったアップルパイは完成に近く、ふっくらと焼き色を帯びた様子がオレンジ色の庫内灯に照らされていた。鼻をくすぐるバターの香りが、食欲より先に不安を煽る。
「なんか緊張してきたかも……」
「どうして?」
首を傾げる穂波ちゃんに、私はもじもじと俯いた。
「ほら、私って穂波ちゃんと違って料理とか慣れてないから……」
穂波ちゃんは同じ女子高生とは思えないほど家庭的で、料理から裁縫まで何でもお手の物だ。対する私は恥ずかしながら、お母さんの家事を手伝える程度のレベル。これでも穂波ちゃんと同じ家庭科部に所属しているけど、部員の中でも私は限りなくひよっこに近い。
今回二人でアップルパイを作る時だってそうだ。流れるように工程を踏んでいく穂波ちゃんに対して、私は無駄に緊張しながら穂波ちゃんの指示通りに手を動かすばかりだった。
穂波ちゃんの主導で作ったものだから、味は焼き上がる前から保証済みだ。だけど一方、素人の私が手を入れたせいでクオリティに余計な傷がつくのでは……という懸念があるのも否定できなくて。
「ふふ、そんなことないよ」
不安を掬い取るように穂波ちゃんは微笑んだ。
「だってナナシちゃん、わたしが教えるのをすごく真剣に聞いてくれていたよね? そんなナナシちゃんが一緒に作ってくれたアップルパイだから、きっとわたし一人で作るよりもずっとおいしくなっていると思うな」
穏やかに励ます声がじんわりと胸に染みていく。くすぐったさが込み上げてきて、たまらず私はぎゅっと背中に抱き着いた。
「そう言ってくれるなら信じる」
どんな料理も心を込めて作ればおいしくなるという通説は、時として空疎な綺麗事にも響く。だけどそれが穂波ちゃんの口から紡がれると、途端に嘘偽りない光を纏い、心に巣食う澱みを晴らしてくれる。
穂波ちゃんはいつだって優しくて、温かくて、木漏れ日のように私を包んでくれる。そんな穂波ちゃんが私は世界でいちばん大好きだった。
私と穂波ちゃんは先月から交際をしている仲だ。クラスも部活も同じな影響もあり、水と魚が交わるように自然と打ち解け合った私達だけど、まさかそこから恋仲にまで発展するなんて、今でも夢みたいに思っている。
穂波ちゃんは誰にでも優しいのだから、変に期待をしてはダメ。そんな風に自分を戒めていた時期もあった。だからこそ、私に向けるその優しさが、他の誰にも見せない特別な意味を含んだものだと知った時の衝撃は忘れない。あの時は一生分の幸福が雪崩れ込んだような気分に見舞われ、その後しばらくは寝ても覚めても心が浮きっぱなしの毎日を送っていた。
だけど私達が一緒にいられる時間は決して多くない。部活と委員会を除けばそこそこ暇な私に対して、穂波ちゃんは部活と委員会に加えバイトにバンド活動と、多忙なスケジュールを組んでいるから。
こういう二人きりの時間は、とてもかけがえのないものだった。
キッチンは甘い匂いに包まれている。柔らかい背中に顔を埋めると、大好きな恋人の匂いがした。アップルパイよりも甘くて優しいこの匂いも私は大好きだ。
「くすぐったいよ、ナナシちゃん」
耳元でくすくす笑う声。満更じゃなさそうなのが嬉しくて、私はもっと身体を擦り寄せた。
普段の私ならこんな風に甘えることはない。甘えたくても照れが邪魔するからだ。だけど今はそんな自意識も忘れて、身体が素直に穂波ちゃんを求めている。久しぶりに二人きりで過ごす休日だから、心が浮き立つあまり枷が外れたのかもしれない。これではアップルパイを食べる前からお腹がいっぱいになってしまいそうだ。
オーブンレンジの稼働音が静かに耳を震わせる。心地良い振動に揺られながら、しばらく無言で温もりに浸っていると、優しい気配が不意に遠のいた。
「……ごめんね」
頬を叩く雨粒のように、唐突な一言だった。
「どうしたの? なんで謝るの?」
困惑のあまり顔を上げると、切なげな視線が私を見下ろしていた。穂波ちゃんはそっと身体を離し、正面から向かい合う形で私を見つめる。
「わたし、ナナシちゃんに寂しい思いをさせてばかりだなって」
細長い指がそっと頬に触れる。花びらを掬うような繊細な触れ方は、かえってざわざわと私の心を波立たせた。
穂波ちゃんは幼馴染の親友達とバンドを組んでいる。レオニードと呼ばれるそのバンドは、最初こそ青春の一環で活動していたけど、いろいろと紆余曲折あった末、今はプロの道を志している。それからというものの、穂波ちゃんはますます活動に精を入れるようになった。
だけどその変化は同時に、私と穂波ちゃんの間に更なる空白が生まれることを意味していた。
「わたしも本当はもっとナナシちゃんと一緒にいたいんだけど、なかなか二人の時間を作ることができなくて……。そのせいで、いつもナナシちゃんにばかり我慢させているよね?」
私を見つめる双眸の奥には、罪悪感とかやるせなさとか、そんな胸を締めつけるような感情が縺れ合っていた。
誰かのために心から悩んだり悲しんだりできるのは穂波ちゃんのいいところだ。だけどその優しさは時に、私をもどかしい気持ちにもさせる。
「……確かに、寂しくなる時もあるよ」
穂波ちゃんと、その幼馴染の星乃さんに、天馬さんに、日野森さん。四人の間を結ぶ絆は、彼女達にしか描けない形をしているから。部外者である私は陰から応援することしかできなくて、何度も歯痒い思いをした。幼馴染の子達が羨ましくて羨ましくて、心臓を焼かれるような思いをすることもあった。
「でも……穂波ちゃんはただ、大切なものをたくさん持っているだけだから。その中に私がちゃんと含まれてるのも、わかってるから……」
「ナナシちゃん……」
穂波ちゃんはいつだって私を見てくれる。私にたくさんの優しさをくれる。それでも時折寂しさを覚えるのは、私が欲張りだからに過ぎない。
「私、寂しくてもちゃんと我慢するよ。だから謝ったりなんてしないでよ。せっかく二人っきりなのにそんな顔されたら悲しいよ」
私はもう一度、今度は正面から抱き着いた。エプロンに纏ったシナモンパウダーがほんのりと鼻に香る。
「今日は一日中独り占めするつもりで来たんだから。もっと笑ってよ」
あえて拗ねた風に言いながら腕を強く回した。あなたはいつも私にこれだけのものをくれる。その真実が心の芯まで届くように最愛の恋人を抱き締める。
穂波ちゃんは私の言葉を噛み締めるように沈黙していた。やがて、ふっと緩い吐息が降りると共に、豊かな胸が上下する。
「ありがとう、ナナシちゃん」
背中に回された腕は、細くありながらも力が込もっていた。壊れ物に触れるような躊躇いを捨てて、穂波ちゃんは強く私を抱き締める。
「そうだよね。今日はナナシちゃんとずっと二人で過ごすと決めた日だもん。それなのにわたしったら急にこんな話しちゃって、ごめんね」
「ううん……ありがとう」
時の流れがある限り、人は変わっていくものだ。だからこそ、お互いの気持ちを確かめ合うことを忘れてはいけないんだと思う。その機会をくれた穂波ちゃんには、むしろ感謝の気持ちしかない。
穂波ちゃんの右手がゆっくりと滑り、私の髪を梳く。触れた髪の一本一本を慈しむような手つきがこそばゆくて、私は目を細めて頬擦りをした。
「卒業したら、一緒に暮らそうね」
頭上から降ってきた言葉に、一瞬頭が真っ白になる。
「え、え、それってプロポーズ⁉︎」
弾かれたように顔を上げると、今度は穂波ちゃんが狼狽えた。
「プ、プロポーズって、それはまだ先の話だよ!」
「で、でも、一緒に暮らすって結婚と同じようなもんでしょ!」
興奮気味に捲し立てると、穂波ちゃんは呆気に取られた顔で私を見返す。そして、くすりと笑みを零した。
「……ふふ、そうだね。確かにプロポーズかも、今のは」
私達は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
穂波ちゃんと一緒に暮らす。想像するだけで胸が熱く痺れてきた。それまでに私はもっと家事をこなせるようになりたい。穂波ちゃんに従うのではなく、穂波ちゃんと支え合えるような関係になりたい。
「穂波ちゃん、大好き」
囁きながら背伸びをし、頬にひとつキスを送る。唇の熱は触れた瞬間に伝染し、花が色づくように穂波ちゃんを赤くした。
「も、もう、ナナシちゃんったら。いきなりそれは恥ずかしいよ」
「えへへ、だって好きなんだもん」
ぱちぱちと目を瞬かせて照れる穂波ちゃんが可愛くて、私は思わず得意になった。
そうやって調子に乗っていたからだろう。反転する気配に気づけなかったのは。
「……ふふ、そっか。じゃあ、わたしもお返し」
「え?」
初々しく恥じらう姿はもうそこになかった。私は戸惑う暇も与えられず、両の手のひらに頬を包まれる。ほんの少し強引に引き寄せられたかと思うと、迷いなく重なる柔らかい熱。
ゆっくりと吐息が解放された瞬間、爆発的な羞恥が火を吹いた。
「え、あ……それはずるいでしょっ!」
浮かれていた隙を突くようなキスに、半ばパニックになりながら抗議する。だけど穂波ちゃんは悪びれる様子がない。私の頬を挟んだまま浮かべる笑みは、清々しいほどに吹っ切れている。
「ナナシちゃん、ほっぺたが真っ赤。自分からするのは平気なのに、わたしの方からされると照れちゃうんだ。かわいい」
「だって、私はあくまで頬だし……」
「ふふ、ごめんね。わたしだってナナシちゃんのことが大好きだから、それをちゃんと伝えたかったんだよ」
二つの瞳は蜂蜜を絡めたようにとろりと潤んでいた。そんなに愛しそうに見つめられたら、もう敵わない。いよいよ昏倒するより前に、私は頬を包む両手をやんわりと解いた。
「ほら、もう焼けるよ。あと十秒、九、八……」
熟したリンゴとバターの香りがオーブンから押し寄せてくる。必死に声を出してタイマーを刻む私を、穂波ちゃんはにこにこと眺めていた。そうして羞恥を誤魔化していることも、きっと見抜かれているのだろう。壁を乗り越えた穂波ちゃんは本当に強い。
この甘さは、空白を埋めるには濃密過ぎる。まるでこれからの私達を表しているようで、その想像が更に胸を燻らせた。満たされ過ぎるのも困りものだ。贅沢な悩みを振り払うように、この後アップルパイを思いっきり頬張った私を、穂波ちゃんは可笑しそうにカメラに収めていた。
笑顔で振り返る穂波ちゃんの声は期待を乗せて弾んでいた。私はその背中にぴったりと身を寄せ、肩越しにオーブンレンジを覗き込む。
二人で作ったアップルパイは完成に近く、ふっくらと焼き色を帯びた様子がオレンジ色の庫内灯に照らされていた。鼻をくすぐるバターの香りが、食欲より先に不安を煽る。
「なんか緊張してきたかも……」
「どうして?」
首を傾げる穂波ちゃんに、私はもじもじと俯いた。
「ほら、私って穂波ちゃんと違って料理とか慣れてないから……」
穂波ちゃんは同じ女子高生とは思えないほど家庭的で、料理から裁縫まで何でもお手の物だ。対する私は恥ずかしながら、お母さんの家事を手伝える程度のレベル。これでも穂波ちゃんと同じ家庭科部に所属しているけど、部員の中でも私は限りなくひよっこに近い。
今回二人でアップルパイを作る時だってそうだ。流れるように工程を踏んでいく穂波ちゃんに対して、私は無駄に緊張しながら穂波ちゃんの指示通りに手を動かすばかりだった。
穂波ちゃんの主導で作ったものだから、味は焼き上がる前から保証済みだ。だけど一方、素人の私が手を入れたせいでクオリティに余計な傷がつくのでは……という懸念があるのも否定できなくて。
「ふふ、そんなことないよ」
不安を掬い取るように穂波ちゃんは微笑んだ。
「だってナナシちゃん、わたしが教えるのをすごく真剣に聞いてくれていたよね? そんなナナシちゃんが一緒に作ってくれたアップルパイだから、きっとわたし一人で作るよりもずっとおいしくなっていると思うな」
穏やかに励ます声がじんわりと胸に染みていく。くすぐったさが込み上げてきて、たまらず私はぎゅっと背中に抱き着いた。
「そう言ってくれるなら信じる」
どんな料理も心を込めて作ればおいしくなるという通説は、時として空疎な綺麗事にも響く。だけどそれが穂波ちゃんの口から紡がれると、途端に嘘偽りない光を纏い、心に巣食う澱みを晴らしてくれる。
穂波ちゃんはいつだって優しくて、温かくて、木漏れ日のように私を包んでくれる。そんな穂波ちゃんが私は世界でいちばん大好きだった。
私と穂波ちゃんは先月から交際をしている仲だ。クラスも部活も同じな影響もあり、水と魚が交わるように自然と打ち解け合った私達だけど、まさかそこから恋仲にまで発展するなんて、今でも夢みたいに思っている。
穂波ちゃんは誰にでも優しいのだから、変に期待をしてはダメ。そんな風に自分を戒めていた時期もあった。だからこそ、私に向けるその優しさが、他の誰にも見せない特別な意味を含んだものだと知った時の衝撃は忘れない。あの時は一生分の幸福が雪崩れ込んだような気分に見舞われ、その後しばらくは寝ても覚めても心が浮きっぱなしの毎日を送っていた。
だけど私達が一緒にいられる時間は決して多くない。部活と委員会を除けばそこそこ暇な私に対して、穂波ちゃんは部活と委員会に加えバイトにバンド活動と、多忙なスケジュールを組んでいるから。
こういう二人きりの時間は、とてもかけがえのないものだった。
キッチンは甘い匂いに包まれている。柔らかい背中に顔を埋めると、大好きな恋人の匂いがした。アップルパイよりも甘くて優しいこの匂いも私は大好きだ。
「くすぐったいよ、ナナシちゃん」
耳元でくすくす笑う声。満更じゃなさそうなのが嬉しくて、私はもっと身体を擦り寄せた。
普段の私ならこんな風に甘えることはない。甘えたくても照れが邪魔するからだ。だけど今はそんな自意識も忘れて、身体が素直に穂波ちゃんを求めている。久しぶりに二人きりで過ごす休日だから、心が浮き立つあまり枷が外れたのかもしれない。これではアップルパイを食べる前からお腹がいっぱいになってしまいそうだ。
オーブンレンジの稼働音が静かに耳を震わせる。心地良い振動に揺られながら、しばらく無言で温もりに浸っていると、優しい気配が不意に遠のいた。
「……ごめんね」
頬を叩く雨粒のように、唐突な一言だった。
「どうしたの? なんで謝るの?」
困惑のあまり顔を上げると、切なげな視線が私を見下ろしていた。穂波ちゃんはそっと身体を離し、正面から向かい合う形で私を見つめる。
「わたし、ナナシちゃんに寂しい思いをさせてばかりだなって」
細長い指がそっと頬に触れる。花びらを掬うような繊細な触れ方は、かえってざわざわと私の心を波立たせた。
穂波ちゃんは幼馴染の親友達とバンドを組んでいる。レオニードと呼ばれるそのバンドは、最初こそ青春の一環で活動していたけど、いろいろと紆余曲折あった末、今はプロの道を志している。それからというものの、穂波ちゃんはますます活動に精を入れるようになった。
だけどその変化は同時に、私と穂波ちゃんの間に更なる空白が生まれることを意味していた。
「わたしも本当はもっとナナシちゃんと一緒にいたいんだけど、なかなか二人の時間を作ることができなくて……。そのせいで、いつもナナシちゃんにばかり我慢させているよね?」
私を見つめる双眸の奥には、罪悪感とかやるせなさとか、そんな胸を締めつけるような感情が縺れ合っていた。
誰かのために心から悩んだり悲しんだりできるのは穂波ちゃんのいいところだ。だけどその優しさは時に、私をもどかしい気持ちにもさせる。
「……確かに、寂しくなる時もあるよ」
穂波ちゃんと、その幼馴染の星乃さんに、天馬さんに、日野森さん。四人の間を結ぶ絆は、彼女達にしか描けない形をしているから。部外者である私は陰から応援することしかできなくて、何度も歯痒い思いをした。幼馴染の子達が羨ましくて羨ましくて、心臓を焼かれるような思いをすることもあった。
「でも……穂波ちゃんはただ、大切なものをたくさん持っているだけだから。その中に私がちゃんと含まれてるのも、わかってるから……」
「ナナシちゃん……」
穂波ちゃんはいつだって私を見てくれる。私にたくさんの優しさをくれる。それでも時折寂しさを覚えるのは、私が欲張りだからに過ぎない。
「私、寂しくてもちゃんと我慢するよ。だから謝ったりなんてしないでよ。せっかく二人っきりなのにそんな顔されたら悲しいよ」
私はもう一度、今度は正面から抱き着いた。エプロンに纏ったシナモンパウダーがほんのりと鼻に香る。
「今日は一日中独り占めするつもりで来たんだから。もっと笑ってよ」
あえて拗ねた風に言いながら腕を強く回した。あなたはいつも私にこれだけのものをくれる。その真実が心の芯まで届くように最愛の恋人を抱き締める。
穂波ちゃんは私の言葉を噛み締めるように沈黙していた。やがて、ふっと緩い吐息が降りると共に、豊かな胸が上下する。
「ありがとう、ナナシちゃん」
背中に回された腕は、細くありながらも力が込もっていた。壊れ物に触れるような躊躇いを捨てて、穂波ちゃんは強く私を抱き締める。
「そうだよね。今日はナナシちゃんとずっと二人で過ごすと決めた日だもん。それなのにわたしったら急にこんな話しちゃって、ごめんね」
「ううん……ありがとう」
時の流れがある限り、人は変わっていくものだ。だからこそ、お互いの気持ちを確かめ合うことを忘れてはいけないんだと思う。その機会をくれた穂波ちゃんには、むしろ感謝の気持ちしかない。
穂波ちゃんの右手がゆっくりと滑り、私の髪を梳く。触れた髪の一本一本を慈しむような手つきがこそばゆくて、私は目を細めて頬擦りをした。
「卒業したら、一緒に暮らそうね」
頭上から降ってきた言葉に、一瞬頭が真っ白になる。
「え、え、それってプロポーズ⁉︎」
弾かれたように顔を上げると、今度は穂波ちゃんが狼狽えた。
「プ、プロポーズって、それはまだ先の話だよ!」
「で、でも、一緒に暮らすって結婚と同じようなもんでしょ!」
興奮気味に捲し立てると、穂波ちゃんは呆気に取られた顔で私を見返す。そして、くすりと笑みを零した。
「……ふふ、そうだね。確かにプロポーズかも、今のは」
私達は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
穂波ちゃんと一緒に暮らす。想像するだけで胸が熱く痺れてきた。それまでに私はもっと家事をこなせるようになりたい。穂波ちゃんに従うのではなく、穂波ちゃんと支え合えるような関係になりたい。
「穂波ちゃん、大好き」
囁きながら背伸びをし、頬にひとつキスを送る。唇の熱は触れた瞬間に伝染し、花が色づくように穂波ちゃんを赤くした。
「も、もう、ナナシちゃんったら。いきなりそれは恥ずかしいよ」
「えへへ、だって好きなんだもん」
ぱちぱちと目を瞬かせて照れる穂波ちゃんが可愛くて、私は思わず得意になった。
そうやって調子に乗っていたからだろう。反転する気配に気づけなかったのは。
「……ふふ、そっか。じゃあ、わたしもお返し」
「え?」
初々しく恥じらう姿はもうそこになかった。私は戸惑う暇も与えられず、両の手のひらに頬を包まれる。ほんの少し強引に引き寄せられたかと思うと、迷いなく重なる柔らかい熱。
ゆっくりと吐息が解放された瞬間、爆発的な羞恥が火を吹いた。
「え、あ……それはずるいでしょっ!」
浮かれていた隙を突くようなキスに、半ばパニックになりながら抗議する。だけど穂波ちゃんは悪びれる様子がない。私の頬を挟んだまま浮かべる笑みは、清々しいほどに吹っ切れている。
「ナナシちゃん、ほっぺたが真っ赤。自分からするのは平気なのに、わたしの方からされると照れちゃうんだ。かわいい」
「だって、私はあくまで頬だし……」
「ふふ、ごめんね。わたしだってナナシちゃんのことが大好きだから、それをちゃんと伝えたかったんだよ」
二つの瞳は蜂蜜を絡めたようにとろりと潤んでいた。そんなに愛しそうに見つめられたら、もう敵わない。いよいよ昏倒するより前に、私は頬を包む両手をやんわりと解いた。
「ほら、もう焼けるよ。あと十秒、九、八……」
熟したリンゴとバターの香りがオーブンから押し寄せてくる。必死に声を出してタイマーを刻む私を、穂波ちゃんはにこにこと眺めていた。そうして羞恥を誤魔化していることも、きっと見抜かれているのだろう。壁を乗り越えた穂波ちゃんは本当に強い。
この甘さは、空白を埋めるには濃密過ぎる。まるでこれからの私達を表しているようで、その想像が更に胸を燻らせた。満たされ過ぎるのも困りものだ。贅沢な悩みを振り払うように、この後アップルパイを思いっきり頬張った私を、穂波ちゃんは可笑しそうにカメラに収めていた。
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