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ナナシという人間はどこまでもピンキーと反対だ。
彼女は旅の仲間の一人なのだが、その性格は悲しいほど旅に向いていない。とにかく臆病なビビり屋で、その上大人しく人見知り。引っ込み思案でなかなか口を開かず、こちらが話しかけてもうじうじと煮え切らない。思わず「はっきりしなさいよ」と怒るとびくりと肩を震わせ、泣きそうな顔で黙りこくってしまう。
ピンキーは気が短い。彼女はボム兵の中でも長い導火線の持ち主だが、心の導火線はささやかなものだった。
ナナシといるとイライラする。気が強くて短気なピンキーにとって、気が弱くて内気なナナシはそもそもの相性が最悪なのだ。一言交わすだけでも神経がひりつき、何度目の前で爆発しそうになったかわからない。
それなのに、なぜか放っておけない自分がいる。
「さーて、どこから見ようかしら。こっちの店はあまり来たことないから新鮮だわ」
ジェフの店に入るなり言うと、後ろからナナシが「う、うん」と返事をする。緊張が手に取ってわかるような声だが、いちいち気を遣ってはキリがない。ピンキーは気にせず店内をずんずん進んだ。
冒険が一段落ついてキノコタウンに帰るとパーティーは一旦解散し、翌朝まで自由に過ごすことになっている。
マリオはルイージに土産を寄越しにマイホームへ。クリオは修行のため道場へ。カメキはロマンを広げにキノポンの書庫へ。パレッタは手紙を配達しに空へ。
それぞれの目的に向かい意気揚々と散っていく仲間達だが、その中に一人、とぼとぼと覇気のない足取りでキノピオハウスに向かう者がいた。
ナナシだ。せっかくの自由時間なのに散歩もしようとせず、真っ直ぐにキノピオハウスを目指している。
さては部屋に引きこもって残りの一日を終えようというのか。そんな陰気臭い真似はさせない。
ピンキーはすかさずナナシの進路に回り込み、ショッピングに誘った。唐突な誘いにナナシは激しく狼狽し、逡巡の様子を見せたが、やがて小刻みながらも首を縦に振った。渋々といった調子ではあるが、了承を得られた時点でこちらのものだ。
ピンキーは考えた。ナナシがうじうじしているのは心を閉ざしているせいだと。閉ざしているならば開いてしまえばいいと。
誘う際はとにかく強引に、ナナシを絶対に逃がさないほどの圧で押し切った。壊れ物を扱うようなアプローチではいつまでも進展を見込めないし、第一ピンキーの得意分野じゃない。
ピンキーはボム兵だ。それもただのボム兵じゃない。素人の爆発ではビクともしない壁も、ピンキーにかかれば朝飯前。瞬く間に木っ端微塵にしてのける。
そんなピンキーになら、臆病な少女の分厚い心の壁だってきっと壊せる。そうして今の摩擦だらけの関係から脱却してやるのだ。
……といった目論見を念頭に置きつつ、ピンキーは店内を巡る。時折ちらりと振り返ってナナシが傍にいるのを確かめつつ、何か目ぼしい品はないかと辺りを見回した。
同じキノコタウンのショップでも、王道な品揃えを誇るキノキノ雑貨店に対して、こちらのジェフの店は少々風変わりというか、選ばれた者のみ価値がわかるといった風情が漂っている。
だが、こういった店にこそ多くの「きっかけ」が潜んでいるものだ。ありきたりな品より珍しい品の方が、話のとっかかりや場の景気付けになり得る。今回の目的は単なるお買い物ではない。これを機にいかにナナシと接近するかが重要なのだ。
ここならば壁を壊す手段も見つかるだろう。期待を膨らませて物色していると、華やかな一角で足が止まった。
「なにこれ、チョーカワイイ!」
ナナシの気を引くための演技ではない。ピンキーは我を忘れて声を上げていた。
そこは女の子向けの雑貨売り場だった。ぬいぐるみにストラップ、文具にコスメ、その他様々なアクセサリーに日用品。陳列されたアイテムはどれもが掛け値なしに可愛らしく、乙女心という概念をぎゅっと詰め込んだかのようだ。年頃の少女の例に漏れず可愛い物に目がないピンキーは、一目見た瞬間にハートを撃ち抜かれた。
「ほんとだ……可愛い……」
目を奪われたのはピンキーだけじゃなかった。いつの間にかピンキーの隣に並んだナナシも、所狭しと並んだファンシーグッズを夢中で眺め回している。見上げた横顔は心なしか明るく、いつもは青白い頬にほんのりと赤みが差していた。
「へぇ、あんたもこういうの好きなの?」
「ふぇ⁉︎」
ぎょっとして振り向いたナナシと目が合う。その瞳はピンキーの知らない輝きを宿していた。
「うん、うん……好き……」
人形のような動きでこくこく頷くと、ナナシは売り場に目を戻す。だがピンキーは既に雑貨どころじゃなかった。
身体が熱い。あの輝かしい目が脳裏に焼きついて離れない。いつもは物憂げなナナシもあんな顔を見せるのだ。それを知れた喜びがピンキーの自信を上へと押し上げた。
──やっぱり、ムリやり連れて正解だったのね!
この調子なら壁を壊すのもあっという間かもしれない。ピンキーは雑貨を物色するふりをしながら観察を続けた。ドキドキと騒ぐ興奮を内に押しやり、横目でナナシの挙動を逃さず拾う。
ナナシはしばらく棒立ちで売り場に見惚れていたが、不意に手を伸ばすと一つの品を手に取った。
小さなリボンの髪飾りだ。蝶結びのリボンは桃のように淡いピンク、結び目を飾る宝石は熟れた苺のように深いピンク。ピンク尽くしのカラーリングだが、リボン全体には薄い白のレースがあしらわれており、派手過ぎないふんわりとした甘さを醸している。
ピンクといえば、ピンキーと同じ色だ。ナナシもこの色が好きなのだろうか。そう思うと自然と口が動いていた。
「いいじゃない、それ。絶対ナナシに似合うわよ!」
ナナシはハッとこちらを見、首を左右に振った。必死に振り過ぎて残像がいくつもできている。
「わ、わたしは全然っ。それよりピンキーちゃんの方が似合うんじゃ……」
「あたいはボム兵だからそういうアクセはNGなの」
「あ、そっか。爆発で台無しになっちゃうから……」
「そういうこと。こういうアクセはニンゲンのナナシにこそ相応しいのよ」
人間はどの種族よりもオシャレの幅が広い。服にヘアメイク、ピアスにネイルアート、どれもがボム兵のピンキーとは無縁に等しい代物だ。ボム兵に生まれたことを悔やんではいないが、こういう面においてはちょっとだけ人間を羨ましく思う。
「ほら、気に入ったなら買っちゃいなさいよ。ナナシなら絶対似合うからさ。せっかくカワイイのにオシャレしないなんてもったいないじゃない!」
ここでナナシがリボンを買えば、それは一つの思い出になる。そして買い物に居合わせたピンキーも必然とその一部になる。即ちこのリボンは、ナナシとピンキーが同じ時間を過ごした証にもなるのだ。リボンを見るたびにピンキーの顔が思い浮かぶようになれば、壁はなくなったも同然ではないか。
そんな確信があったから押しの一手に出た──が、返ってきた反応は期待通りのものではなかった。
ナナシは困ったように視線を泳がせ、手にしたリボンに目を落とす。改めて眺める顔はどこか居心地悪げだった。
「えっと……このリボンは確かに可愛いし、すごく気に入ってるけど……」
「……けど?」
冷たい予感が熱を奪う。おかしい。そんなはずはないのに、いつの間にか不穏な流れになっている。その先の言葉を聞きたくなかった。だけどもう遅い。ピンキー自身の口から先を促してしまった。
ナナシはリボンから目を逸らし、ぽつりと零した。
「わたし自身は……可愛くなんてないから」
消え入りそうなほど小さな呟きが、やけにうるさく耳に響いた。弱々しい声はしつこく纏わりつき、それを跳ね除けるようにバチリと火花が爆ぜる。
「あんたってなんでいつもウジウジすんの?」
ピンキーは目を吊り上げてナナシを睨んだ。もし腕が生えていたら掴み掛かっていそうなほどの剣幕に、ナナシは顔色を失って立ち竦む。
「あたいがカワイイって言ってるのに信じられないわけ? ナナシっていっつもそう。誰が否定したわけでもないのに勝手に一人で落ち込んでさ!」
いつもの爆発的な怒りではない。それよりももっとドロドロとした、マグマのように煮えたぎる激情が身体の底から止めどなく溢れていた。
ナナシは何も言わない。ただ怯えた顔で震えている。いつもこうだ。何かあればすぐ殻に閉じこもり、こちらの呼びかけに応えようとしない。そんなナナシが憎い。憎くて憎くて、暗い炎がどこまでも唸りを上げていく。
「あんたのそういう態度、ほんっとイライラするんだけど!」
殴るように吐き捨てた瞬間、ナナシの顔が泣きそうな形に歪んだ。飽きるほど見慣れたその顔が、熱されたピンキーの頭に冷水をかける。怒りが急速に覚めると同時に「しまった」と焦った。
これではいつもと変わらない。怒るピンキーに怯えるナナシ。二人の間にはいつも壁があった。ピンキーはただそれを壊したかった。
壁さえ壊せば前に進める。ずっとそう信じていた。
「ご、ごめんね、やっぱり帰っ……」
ナナシはリボンを元の位置に戻し、素早く踵を返した。あっと思った時には店を飛び出し、引き止める間もなく走り去っていく。
ピンキーは何も言えず立ち尽くしていた。店の扉がガチャリと閉まり、ナナシを視界から断つ。それでも視線はナナシの飛び出した方向から動かず、寒々しい沈黙が流れた。
「なに、今の子? 急に店を飛び出していったけど」
「さっき怒鳴り声もしたよね。ケンカかな」
他の客がひそひそと囁き合う。そこでようやく我に返り、同時に頭が沸騰した。
「ああんもう、あたいのバカバカ!」
今更反省してもナナシはもういない。ピンキーが追い出したようなものだ。それを自覚すると、どうしようもない虚しさが襲った。
「……ほんとうに、バカじゃないの」
冷たい喪失感が空っぽの心に広がっていく。
ピンキーが思わず激昂したのは、ナナシの後ろ向きな態度に腹が立ったからではない。その根っこに絡まるのは、怒りよりも遥かに醜く、身勝手な感情だった。
ナナシがリボンを手に取って見つめていた時。その目は確かに輝いていた。見間違いではない本物の光をピンキーはこの目で見た。
だけどナナシが初めて見せた光は、ピンキーが励ました途端に曇り、最後には元の暗い色に戻ってしまった。その残酷なほどの温度差が、ピンキーの心に深く爪を立てた。
何日も一緒に過ごしてきたピンキーよりも、たった数分前に出会ったばかりのリボンの方が。何度も声をかけてきたピンキーよりも、物言わず客に見初められるのを待っていただけのリボンの方が。いとも容易く、過程すらも飛び越えてナナシの心を掴めてしまう。
悔しかった。認めたくない現実だった。ピンキーの言葉はナナシにとって無価値なのか。ピンキーはナナシにとって邪魔な存在なのか。悔しさがネガティブな想像を膨らませ、それに対する強い拒絶が、歪な形で表に出たのだ。
こんなの、ただの嫉妬と思い込みでしかない。歪みをぶつければ更なる歪みが生まれるのは当然だ。歪ませるどころか壊してしまった。
ナナシは今頃泣いているだろうか。できるなら今すぐにでも謝りたい。だがこの状態では駆けつけたところで口を聞いてはもらえないだろう。
ならば放っておくべきなのか。それは違う。このまま何もせずにいたらナナシはさらに遠くへ行ってしまう。最悪ピンキーと一緒にいるのが嫌になり、旅を辞める可能性だってある。離れるどころではない。二度と会えなくなるかもしれないのだ。
「どうすれば……どうすればいいのよっ」
こんなことになるなら無理やり買い物に誘わなければよかった。のんびり見守ってあげましょうとパレッタも言っていたではないか。それを素直に聞き入れなかった結果がこれだ。苛立ちと後悔が氾濫して何も打開策が浮かばない。
しばらく悩み、悶え、唸り──それを繰り返していると、ふとした疑問に行き着いた。
そもそもピンキーはどうしてナナシにこだわるのだろうか。二人の相性の悪さは既に証明済みだ。今までのピンキーだって、ナナシと一緒にいるとイライラすることの方が多かった。
ならば何がピンキーを必死にさせているのか。疑問はぐるぐると巡り、幾重にも渦を巻いていく。渦はどんどん大きさを増し、やがて中心の底から、ふっと欠片が浮上した。
「あの、えっと……ナナシ、です……」
初めて聞いた声は虫が囁くよりも頼りなく、湿った牢屋の中でなければ聞き逃していただろう。
ノコレッドに逆らった罪で収監され、怒りと苛立ちと悔しさで荒れ狂う日々を過ごしていたピンキーの前に、彼らは突然降ってきた。
誰もが知るスーパーヒーローのマリオ。お喋りで物知りなクリオ。ストレートな熱血漢のカメキ。三人と元気に挨拶を交わした後、マリオに促されておずおずと名乗り出た少女がナナシだった。
最初に出た感想は「カワイイ」だった。ピーチ姫以外の人間の女は珍しく、好奇心が先走っていたのもある。しかし、ときめきはそれっきりだった。
彼女はパーティーの異分子で、言い換えれば酷く浮いていたのだ。
マリオ、クリオ、カメキの三人はノコブロスの卑劣な罠に嵌められても挫けず立ち上がっている。ポジティブなエネルギーが全身から溢れている。
そんな中、このナナシという少女は一人だけ死の間際に立たされたように沈んでいた。わたし達このまま餓死するのではと青褪めた顔で震えては、みんなで力を合わせれば必ず脱出できるさとマリオに励まされたり、ナナシはすぐそーゆーこと言うよねえとクリオに生暖かい目を向けられたり、諦めたらここで終わりっスよとカメキに喝を入れられたり。
牢屋にぶち込まれた者の振る舞いとしては、ある意味百点満点だ。ピンキーは心底からげんなりとした。
せっかく有名人のマリオに出会えてウキウキしていたのに、こんなうじうじした子もついてくるなんて。それでも無事に牢屋を出た後、彼らについて行くと決めたのは、ノコブロスとその親玉であるクッパを自らの手でこらしめたいのと、マリオと一緒に冒険できるという魅力に抗えなかったという理由があってのことだ。
ナナシには極力構わないと決めていた。
ピンキーはうじうじした奴が嫌いだ。ブルースの存在だけでも胃がもたれるというのに、あんなテレサよりも陰気な根暗女にまで気を回していたら身が保たない。彼女の対応はマリオや他の仲間に任せる。そうしてナナシという濁りを意識の外へ追いやり、ピンキーはピンキーで楽しい旅に専念するつもりだった。
だが一緒に旅をしていると、嫌でも意識しなければならない時もある。
食事でちょうど席が向かい合ったり、戦闘でアイテムをパスし合ったり、爆発する際「危ないから離れてなさいよ」と声をかけたり。一つ一つは小さな交わりに過ぎない。しかし小さな交わりも積み重なれば、雨粒が土に染みるように、ナナシという存在がピンキーの中に住み着いていく。
気づけばピンキーはナナシを目で追っていた。
ナナシは引っ込み思案で誰にも心を開かない。自身の周りを鉄壁で固め、その内側に身を潜めるようにして生きている。そんな彼女を見ていると、苛立ちとは別の騒めきを覚えるようになった。
あの壁の向こうには何があるのか。どんな世界が広がっているのか。
確かめたいと思った瞬間、ナナシに話しかける日々が始まった。
だが、何度話しかけても思うようにはいかなかった。ピンキーが心を開こうとすればするほどナナシは怯え、壁の奥に引っ込んでしまう。そうして手を焼いているうちにもパレッタが仲間になり、マールを救出し、旅はどんどん先へ進んでいく。ナナシとの時間だけが止まったままだった。
このままだと何もないまま旅が終わる。
焦りは募る一方だった。どうすればナナシとうまく話せるのか。ただ相対するだけで、なぜこうも面倒が付き纏うのか。焦りと苛立ちは濁流のように押し寄せ、いつしかピンキーは目の前の壁しか見えなくなっていた。大切なものを忘れたことに気づけないまま、ただ壊すことだけに必死になった。
必死になった末に、今がある。
思い出す。ぼやけていた記憶が像を結び、確かな道標を与えてくれる。
もう、二度と忘れない。
置き去られたリボンに目を移す。手に取ると、ナナシの熱が微かに残っている気がした。ピンクの宝石が店内の照明を反射してキラリと光る。
ナナシのことはまだよくわからない。それでも一つだけ、わかっていることがある。
まずはジェフに喧嘩のことを詫びなければ。そう思いながらピンキーはレジの方へ足を向けた。
***
西に落ちていく陽が地平線を赤く染めていた。
居場所の目星はついている。こういう時のナナシが内に縋るのは付き合いの長くないピンキーでも想像のつくことだ。
キノピオハウスに駆け込み、奥の一室に入ると案の定いた。扉を開けた瞬間、椅子に腰掛けて窓を見ていた少女はびくりと震え、こちらを振り返ると更に震え上がった。
目の周りが赤く腫れている。予想していた光景なのに、いざ目前にすると足が竦んだ。ずっと一人で泣いていたのだろうか。店の中で怒鳴った自分を思い出し、罪悪感がちりちりと胸を炙る。
それでも逃がしてはならない。ピンキーは強張る足を叱咤してナナシに近づいた。目の前まで来るとナナシは慌てて椅子から腰を浮かし、視線をあちこちに彷徨わせる。
「えっと、その、ごめ──」
「待って、ナナシは謝らないで。あれはあたいが言い過ぎたのが悪いの。ホントにゴメン!」
怒涛のような謝罪にナナシは一瞬目を丸くする。だがすぐに納得はしなかった。
「で、でも」
「とにかくいいの! 言っとくけど、あたいは別に怒りに来たんじゃないんだから。それよりあんたに渡したいものがあるのよ」
強引に言い込めて、ピンキーは小さな包みを取り出した。
「はい、これ」
ぐいっと突きつけると、ナナシは勢いに屈したように受け取った。戸惑いながら椅子に腰を下ろし、手にした包みに目を落とす。その顔は疑問符で埋まっていた。
「これって、お店の……」
「開けてみて」
促すと、ナナシはおずおずと従った。慎重な手つきでテープを剥がし、包装紙を開くと、その顔が驚愕に染まる。
「……これって」
思わぬ再会に面食らったのだろう。ナナシは包みから現れたものに目を見張った。
手のひらにちょこんと収まるピンクのリボン。結び目の宝石は店に並んでいた時のまま色褪せず、室内の灯りに照らされて甘美な煌めきを振り撒いていた。
「他のヤツの手に渡ったらいけないと思ったの。だからそれはナナシが持っててよ」
ぱちぱちと瞬いていた目が、ゆっくりとピンキーに移る。
「……本当にいいの?」
「いいの。ちょっとしたプレゼントだと思ってよ。あ、コインはいらないからね。あたいが勝手にやったことだからさ」
「……ありがとう、ピンキーちゃん」
ナナシの口元が僅かに緩んだ。まだ戸惑いは抜けないようだが、顔色は健康を取り戻している。ピンキーがほっとしたのも束の間だった。
ナナシの視線はすぐにピンキーを離れ、手元のリボンに釘付けになる。その瞳が輝いているのは気のせいではない。
ショッピングの時と同じだ。熱い眼差しはいつもピンキー以外のものに注がれる。安堵したばかりの心に穴が空き、隙間風が吹き抜けた。
だが今はこれでいい。ナナシともう一度話せた。渡したいものを渡せた。何より仲直りができた。十分過ぎるほどだと思う。これ以上欲張ったらバチが当たりそうだ。
ここから少しずつ仲良くなっていけばいい。ピンキーは寂しさを振り払うように背を向け、部屋を出ようとした。
「あ、待って……」
去りかけた足がたたらを踏む。引き止められるとは思わず、慌てて振り返ると、気まずそうな顔をしたナナシと目が合った。
「えっとね、その……ピンキーちゃんは、似合うって言ってくれてた……よね」
記憶違いを恐れているのか、尋ねる口調は自信なさげだった。
ピンキーは内心驚いていた。まさかナナシが自分の言葉を覚えていたなんて。ピンキーが思っている以上に、ナナシはピンキーのことを見ていたのだろうか。
「ええ、絶対似合うわ。あたいが百パー保証するから」
真っ直ぐに目を見て、頷いた。
「ナナシは自分のこと可愛くないって言ってたけど、あたいは全然そう思わない。あたいはナナシのこと本気で可愛いって思うし、ナナシが何と言おうとそれは変わらないから」
不思議な気分だった。固い蝶番が弾けたように、伝えたいことが次から次へと溢れてくる。思えば今まで、こんなに正面からナナシと向き合ったことはなかった。
ナナシはしばらく呆けた顔でピンキーを見返し、ふっと目を伏せた。頬がほんのりと赤い。その様子は嫌がっているというより照れているように見えた。
「……そっ、か」
少しの間を置くと、ナナシはいきなり背を向けて移動した。備え付けの鏡台の前に立ち、何やらごそごそし始める。
「なにしてんのよ?」
近寄ろうとするピンキーだが、片手で制された。
「ちょっと待ってて……すぐ終わるから」
「う、うん」
いったいどうしたのだろうか。珍しく不可解な行動に悶々としていると、やがてナナシは戻ってきた。
「お、お待たせ」
時が止まるような衝撃が、脳天から爪先へと突き抜けた。
「えっと……どう、かな」
ナナシはそわそわと服の袖をいじる。髪を飾るピンク色のリボンは、まるで始めからそこにあったかのようにぴったりと馴染んでいた。
胸の高鳴りが耳を打つ。ボム兵にないはずの心臓が脈を打ち鳴らしている。その音は爆発を知らせるカウントダウンに似ていた。
高鳴りは程なく頂点に達し、心に溜めた熱情を解き放った。
「カワイイカワイイカワイイカワイイ、すっごくカワイイわ! サイコーに似合ってる! カワイすぎてバクハツしそうよもう!」
ピンキーはナナシの周りをピョンピョン跳ね回った。繰り返しぶつけられる高い声に、ナナシはおろおろと狼狽える。顔どころか耳まで赤くなっていた。
「さ、さすがに大袈裟じゃ……」
「大袈裟じゃないわ。あたいはホントのことしか言わないわよ」
ピンキーは飛び跳ねるのを辞めてナナシを見る。ナナシは口をぽかんと開けて固まるが、その顔は次第に綻び、やがて一つの笑顔が咲いた。
「──ありがとう」
目の前が眩しいのは室内の灯りのせいではない。ずっと見たかった。いつも心のどこかで求めていた。そんな景色がそこにあった。
春のような温もりが胸の隙間を満たしていく。涙が出そうになり、ぐっと堪えた。泣いたらぼやけてしまいそうだ。そうして目の前の笑顔を焼き付けようとした時、ナナシはふと真面目な顔になった。
「……ピンキーちゃんはいつも明るいよね」
「え?」
「ピンキーちゃんだけじゃない。マリオさんも、クリオくんも、カメキくんも、パレッタさんも……みんな明るくて、いつも前を見てる」
その目はピンキーを見ているようで、見ていない。もっと遠くの何かを見つめているようだった。
「……わたしね、たまに思うの。こんなわたしが本当にみんなといていいのかなって。わたしはみんなと違って全然明るくないのに、一緒に旅なんてしていいのかな……って」
ナナシの顔がまた曇る。だけどもう苛立ちは湧かない。むしろ悩みを打ち明ける姿を見ていると、無性に愛しさが込み上げてきた。
「なるほど、それがあんたにとっての壁ってワケね」
自分でも聞いたことがないほど、穏やかな声だった。
「だけどさ、そんなに心配することないわよ」
「……どうして?」
ナナシは首を傾げる。ピンキーは目を細めて笑った。
「だって、とっくに笑ってたじゃない」
大きく見開いた瞳がピンキーを映す。信じられないような顔で見返すナナシがなんだかおかしくて、そしてやっぱり愛しかった。
「……わたし、笑ってた?」
「あら、気づいてないの? ならもう一度笑わせてあげる。ほら、カワイイカワイイカワイイカワイイ!」
「えっ⁉︎ ちょ、ちょっと待って、それは……!」
狭い部屋が少女の笑い声で満ちていく。
壊す必要なんてなかった。気づけばもうそこに立っていた。
身体がふわふわする。目に見える全てが眩しい。乗り越えた先の世界は、どんな太陽の下よりも暖かかった。
ナナシも感じているだろうか。きっと感じているはずだ。だって、同じ世界にいるのだから。
部屋の外から声がした。クリオとカメキだ。道場と書庫の帰りにちょうど鉢合わせたのだろう。ナナシもそれに気づき、慌てて頭からリボンをもぎ取った。
「あー、ちょっと! なんで外すのよ。せっかく着けたのにもったいないじゃない!」
「だって、やっぱり恥ずかしいし……」
「別に恥ずかしくないじゃない。マリオ達だってきっと褒めてくれるわよ」
「ううん、いいの」
ナナシは照れ臭そうに微笑み、手のひらを見せた。
「ピンキーちゃんにだけ見せることにする」
確かにそれがいい。この色は、ふたりだけのものだ。
彼女は旅の仲間の一人なのだが、その性格は悲しいほど旅に向いていない。とにかく臆病なビビり屋で、その上大人しく人見知り。引っ込み思案でなかなか口を開かず、こちらが話しかけてもうじうじと煮え切らない。思わず「はっきりしなさいよ」と怒るとびくりと肩を震わせ、泣きそうな顔で黙りこくってしまう。
ピンキーは気が短い。彼女はボム兵の中でも長い導火線の持ち主だが、心の導火線はささやかなものだった。
ナナシといるとイライラする。気が強くて短気なピンキーにとって、気が弱くて内気なナナシはそもそもの相性が最悪なのだ。一言交わすだけでも神経がひりつき、何度目の前で爆発しそうになったかわからない。
それなのに、なぜか放っておけない自分がいる。
「さーて、どこから見ようかしら。こっちの店はあまり来たことないから新鮮だわ」
ジェフの店に入るなり言うと、後ろからナナシが「う、うん」と返事をする。緊張が手に取ってわかるような声だが、いちいち気を遣ってはキリがない。ピンキーは気にせず店内をずんずん進んだ。
冒険が一段落ついてキノコタウンに帰るとパーティーは一旦解散し、翌朝まで自由に過ごすことになっている。
マリオはルイージに土産を寄越しにマイホームへ。クリオは修行のため道場へ。カメキはロマンを広げにキノポンの書庫へ。パレッタは手紙を配達しに空へ。
それぞれの目的に向かい意気揚々と散っていく仲間達だが、その中に一人、とぼとぼと覇気のない足取りでキノピオハウスに向かう者がいた。
ナナシだ。せっかくの自由時間なのに散歩もしようとせず、真っ直ぐにキノピオハウスを目指している。
さては部屋に引きこもって残りの一日を終えようというのか。そんな陰気臭い真似はさせない。
ピンキーはすかさずナナシの進路に回り込み、ショッピングに誘った。唐突な誘いにナナシは激しく狼狽し、逡巡の様子を見せたが、やがて小刻みながらも首を縦に振った。渋々といった調子ではあるが、了承を得られた時点でこちらのものだ。
ピンキーは考えた。ナナシがうじうじしているのは心を閉ざしているせいだと。閉ざしているならば開いてしまえばいいと。
誘う際はとにかく強引に、ナナシを絶対に逃がさないほどの圧で押し切った。壊れ物を扱うようなアプローチではいつまでも進展を見込めないし、第一ピンキーの得意分野じゃない。
ピンキーはボム兵だ。それもただのボム兵じゃない。素人の爆発ではビクともしない壁も、ピンキーにかかれば朝飯前。瞬く間に木っ端微塵にしてのける。
そんなピンキーになら、臆病な少女の分厚い心の壁だってきっと壊せる。そうして今の摩擦だらけの関係から脱却してやるのだ。
……といった目論見を念頭に置きつつ、ピンキーは店内を巡る。時折ちらりと振り返ってナナシが傍にいるのを確かめつつ、何か目ぼしい品はないかと辺りを見回した。
同じキノコタウンのショップでも、王道な品揃えを誇るキノキノ雑貨店に対して、こちらのジェフの店は少々風変わりというか、選ばれた者のみ価値がわかるといった風情が漂っている。
だが、こういった店にこそ多くの「きっかけ」が潜んでいるものだ。ありきたりな品より珍しい品の方が、話のとっかかりや場の景気付けになり得る。今回の目的は単なるお買い物ではない。これを機にいかにナナシと接近するかが重要なのだ。
ここならば壁を壊す手段も見つかるだろう。期待を膨らませて物色していると、華やかな一角で足が止まった。
「なにこれ、チョーカワイイ!」
ナナシの気を引くための演技ではない。ピンキーは我を忘れて声を上げていた。
そこは女の子向けの雑貨売り場だった。ぬいぐるみにストラップ、文具にコスメ、その他様々なアクセサリーに日用品。陳列されたアイテムはどれもが掛け値なしに可愛らしく、乙女心という概念をぎゅっと詰め込んだかのようだ。年頃の少女の例に漏れず可愛い物に目がないピンキーは、一目見た瞬間にハートを撃ち抜かれた。
「ほんとだ……可愛い……」
目を奪われたのはピンキーだけじゃなかった。いつの間にかピンキーの隣に並んだナナシも、所狭しと並んだファンシーグッズを夢中で眺め回している。見上げた横顔は心なしか明るく、いつもは青白い頬にほんのりと赤みが差していた。
「へぇ、あんたもこういうの好きなの?」
「ふぇ⁉︎」
ぎょっとして振り向いたナナシと目が合う。その瞳はピンキーの知らない輝きを宿していた。
「うん、うん……好き……」
人形のような動きでこくこく頷くと、ナナシは売り場に目を戻す。だがピンキーは既に雑貨どころじゃなかった。
身体が熱い。あの輝かしい目が脳裏に焼きついて離れない。いつもは物憂げなナナシもあんな顔を見せるのだ。それを知れた喜びがピンキーの自信を上へと押し上げた。
──やっぱり、ムリやり連れて正解だったのね!
この調子なら壁を壊すのもあっという間かもしれない。ピンキーは雑貨を物色するふりをしながら観察を続けた。ドキドキと騒ぐ興奮を内に押しやり、横目でナナシの挙動を逃さず拾う。
ナナシはしばらく棒立ちで売り場に見惚れていたが、不意に手を伸ばすと一つの品を手に取った。
小さなリボンの髪飾りだ。蝶結びのリボンは桃のように淡いピンク、結び目を飾る宝石は熟れた苺のように深いピンク。ピンク尽くしのカラーリングだが、リボン全体には薄い白のレースがあしらわれており、派手過ぎないふんわりとした甘さを醸している。
ピンクといえば、ピンキーと同じ色だ。ナナシもこの色が好きなのだろうか。そう思うと自然と口が動いていた。
「いいじゃない、それ。絶対ナナシに似合うわよ!」
ナナシはハッとこちらを見、首を左右に振った。必死に振り過ぎて残像がいくつもできている。
「わ、わたしは全然っ。それよりピンキーちゃんの方が似合うんじゃ……」
「あたいはボム兵だからそういうアクセはNGなの」
「あ、そっか。爆発で台無しになっちゃうから……」
「そういうこと。こういうアクセはニンゲンのナナシにこそ相応しいのよ」
人間はどの種族よりもオシャレの幅が広い。服にヘアメイク、ピアスにネイルアート、どれもがボム兵のピンキーとは無縁に等しい代物だ。ボム兵に生まれたことを悔やんではいないが、こういう面においてはちょっとだけ人間を羨ましく思う。
「ほら、気に入ったなら買っちゃいなさいよ。ナナシなら絶対似合うからさ。せっかくカワイイのにオシャレしないなんてもったいないじゃない!」
ここでナナシがリボンを買えば、それは一つの思い出になる。そして買い物に居合わせたピンキーも必然とその一部になる。即ちこのリボンは、ナナシとピンキーが同じ時間を過ごした証にもなるのだ。リボンを見るたびにピンキーの顔が思い浮かぶようになれば、壁はなくなったも同然ではないか。
そんな確信があったから押しの一手に出た──が、返ってきた反応は期待通りのものではなかった。
ナナシは困ったように視線を泳がせ、手にしたリボンに目を落とす。改めて眺める顔はどこか居心地悪げだった。
「えっと……このリボンは確かに可愛いし、すごく気に入ってるけど……」
「……けど?」
冷たい予感が熱を奪う。おかしい。そんなはずはないのに、いつの間にか不穏な流れになっている。その先の言葉を聞きたくなかった。だけどもう遅い。ピンキー自身の口から先を促してしまった。
ナナシはリボンから目を逸らし、ぽつりと零した。
「わたし自身は……可愛くなんてないから」
消え入りそうなほど小さな呟きが、やけにうるさく耳に響いた。弱々しい声はしつこく纏わりつき、それを跳ね除けるようにバチリと火花が爆ぜる。
「あんたってなんでいつもウジウジすんの?」
ピンキーは目を吊り上げてナナシを睨んだ。もし腕が生えていたら掴み掛かっていそうなほどの剣幕に、ナナシは顔色を失って立ち竦む。
「あたいがカワイイって言ってるのに信じられないわけ? ナナシっていっつもそう。誰が否定したわけでもないのに勝手に一人で落ち込んでさ!」
いつもの爆発的な怒りではない。それよりももっとドロドロとした、マグマのように煮えたぎる激情が身体の底から止めどなく溢れていた。
ナナシは何も言わない。ただ怯えた顔で震えている。いつもこうだ。何かあればすぐ殻に閉じこもり、こちらの呼びかけに応えようとしない。そんなナナシが憎い。憎くて憎くて、暗い炎がどこまでも唸りを上げていく。
「あんたのそういう態度、ほんっとイライラするんだけど!」
殴るように吐き捨てた瞬間、ナナシの顔が泣きそうな形に歪んだ。飽きるほど見慣れたその顔が、熱されたピンキーの頭に冷水をかける。怒りが急速に覚めると同時に「しまった」と焦った。
これではいつもと変わらない。怒るピンキーに怯えるナナシ。二人の間にはいつも壁があった。ピンキーはただそれを壊したかった。
壁さえ壊せば前に進める。ずっとそう信じていた。
「ご、ごめんね、やっぱり帰っ……」
ナナシはリボンを元の位置に戻し、素早く踵を返した。あっと思った時には店を飛び出し、引き止める間もなく走り去っていく。
ピンキーは何も言えず立ち尽くしていた。店の扉がガチャリと閉まり、ナナシを視界から断つ。それでも視線はナナシの飛び出した方向から動かず、寒々しい沈黙が流れた。
「なに、今の子? 急に店を飛び出していったけど」
「さっき怒鳴り声もしたよね。ケンカかな」
他の客がひそひそと囁き合う。そこでようやく我に返り、同時に頭が沸騰した。
「ああんもう、あたいのバカバカ!」
今更反省してもナナシはもういない。ピンキーが追い出したようなものだ。それを自覚すると、どうしようもない虚しさが襲った。
「……ほんとうに、バカじゃないの」
冷たい喪失感が空っぽの心に広がっていく。
ピンキーが思わず激昂したのは、ナナシの後ろ向きな態度に腹が立ったからではない。その根っこに絡まるのは、怒りよりも遥かに醜く、身勝手な感情だった。
ナナシがリボンを手に取って見つめていた時。その目は確かに輝いていた。見間違いではない本物の光をピンキーはこの目で見た。
だけどナナシが初めて見せた光は、ピンキーが励ました途端に曇り、最後には元の暗い色に戻ってしまった。その残酷なほどの温度差が、ピンキーの心に深く爪を立てた。
何日も一緒に過ごしてきたピンキーよりも、たった数分前に出会ったばかりのリボンの方が。何度も声をかけてきたピンキーよりも、物言わず客に見初められるのを待っていただけのリボンの方が。いとも容易く、過程すらも飛び越えてナナシの心を掴めてしまう。
悔しかった。認めたくない現実だった。ピンキーの言葉はナナシにとって無価値なのか。ピンキーはナナシにとって邪魔な存在なのか。悔しさがネガティブな想像を膨らませ、それに対する強い拒絶が、歪な形で表に出たのだ。
こんなの、ただの嫉妬と思い込みでしかない。歪みをぶつければ更なる歪みが生まれるのは当然だ。歪ませるどころか壊してしまった。
ナナシは今頃泣いているだろうか。できるなら今すぐにでも謝りたい。だがこの状態では駆けつけたところで口を聞いてはもらえないだろう。
ならば放っておくべきなのか。それは違う。このまま何もせずにいたらナナシはさらに遠くへ行ってしまう。最悪ピンキーと一緒にいるのが嫌になり、旅を辞める可能性だってある。離れるどころではない。二度と会えなくなるかもしれないのだ。
「どうすれば……どうすればいいのよっ」
こんなことになるなら無理やり買い物に誘わなければよかった。のんびり見守ってあげましょうとパレッタも言っていたではないか。それを素直に聞き入れなかった結果がこれだ。苛立ちと後悔が氾濫して何も打開策が浮かばない。
しばらく悩み、悶え、唸り──それを繰り返していると、ふとした疑問に行き着いた。
そもそもピンキーはどうしてナナシにこだわるのだろうか。二人の相性の悪さは既に証明済みだ。今までのピンキーだって、ナナシと一緒にいるとイライラすることの方が多かった。
ならば何がピンキーを必死にさせているのか。疑問はぐるぐると巡り、幾重にも渦を巻いていく。渦はどんどん大きさを増し、やがて中心の底から、ふっと欠片が浮上した。
「あの、えっと……ナナシ、です……」
初めて聞いた声は虫が囁くよりも頼りなく、湿った牢屋の中でなければ聞き逃していただろう。
ノコレッドに逆らった罪で収監され、怒りと苛立ちと悔しさで荒れ狂う日々を過ごしていたピンキーの前に、彼らは突然降ってきた。
誰もが知るスーパーヒーローのマリオ。お喋りで物知りなクリオ。ストレートな熱血漢のカメキ。三人と元気に挨拶を交わした後、マリオに促されておずおずと名乗り出た少女がナナシだった。
最初に出た感想は「カワイイ」だった。ピーチ姫以外の人間の女は珍しく、好奇心が先走っていたのもある。しかし、ときめきはそれっきりだった。
彼女はパーティーの異分子で、言い換えれば酷く浮いていたのだ。
マリオ、クリオ、カメキの三人はノコブロスの卑劣な罠に嵌められても挫けず立ち上がっている。ポジティブなエネルギーが全身から溢れている。
そんな中、このナナシという少女は一人だけ死の間際に立たされたように沈んでいた。わたし達このまま餓死するのではと青褪めた顔で震えては、みんなで力を合わせれば必ず脱出できるさとマリオに励まされたり、ナナシはすぐそーゆーこと言うよねえとクリオに生暖かい目を向けられたり、諦めたらここで終わりっスよとカメキに喝を入れられたり。
牢屋にぶち込まれた者の振る舞いとしては、ある意味百点満点だ。ピンキーは心底からげんなりとした。
せっかく有名人のマリオに出会えてウキウキしていたのに、こんなうじうじした子もついてくるなんて。それでも無事に牢屋を出た後、彼らについて行くと決めたのは、ノコブロスとその親玉であるクッパを自らの手でこらしめたいのと、マリオと一緒に冒険できるという魅力に抗えなかったという理由があってのことだ。
ナナシには極力構わないと決めていた。
ピンキーはうじうじした奴が嫌いだ。ブルースの存在だけでも胃がもたれるというのに、あんなテレサよりも陰気な根暗女にまで気を回していたら身が保たない。彼女の対応はマリオや他の仲間に任せる。そうしてナナシという濁りを意識の外へ追いやり、ピンキーはピンキーで楽しい旅に専念するつもりだった。
だが一緒に旅をしていると、嫌でも意識しなければならない時もある。
食事でちょうど席が向かい合ったり、戦闘でアイテムをパスし合ったり、爆発する際「危ないから離れてなさいよ」と声をかけたり。一つ一つは小さな交わりに過ぎない。しかし小さな交わりも積み重なれば、雨粒が土に染みるように、ナナシという存在がピンキーの中に住み着いていく。
気づけばピンキーはナナシを目で追っていた。
ナナシは引っ込み思案で誰にも心を開かない。自身の周りを鉄壁で固め、その内側に身を潜めるようにして生きている。そんな彼女を見ていると、苛立ちとは別の騒めきを覚えるようになった。
あの壁の向こうには何があるのか。どんな世界が広がっているのか。
確かめたいと思った瞬間、ナナシに話しかける日々が始まった。
だが、何度話しかけても思うようにはいかなかった。ピンキーが心を開こうとすればするほどナナシは怯え、壁の奥に引っ込んでしまう。そうして手を焼いているうちにもパレッタが仲間になり、マールを救出し、旅はどんどん先へ進んでいく。ナナシとの時間だけが止まったままだった。
このままだと何もないまま旅が終わる。
焦りは募る一方だった。どうすればナナシとうまく話せるのか。ただ相対するだけで、なぜこうも面倒が付き纏うのか。焦りと苛立ちは濁流のように押し寄せ、いつしかピンキーは目の前の壁しか見えなくなっていた。大切なものを忘れたことに気づけないまま、ただ壊すことだけに必死になった。
必死になった末に、今がある。
思い出す。ぼやけていた記憶が像を結び、確かな道標を与えてくれる。
もう、二度と忘れない。
置き去られたリボンに目を移す。手に取ると、ナナシの熱が微かに残っている気がした。ピンクの宝石が店内の照明を反射してキラリと光る。
ナナシのことはまだよくわからない。それでも一つだけ、わかっていることがある。
まずはジェフに喧嘩のことを詫びなければ。そう思いながらピンキーはレジの方へ足を向けた。
***
西に落ちていく陽が地平線を赤く染めていた。
居場所の目星はついている。こういう時のナナシが内に縋るのは付き合いの長くないピンキーでも想像のつくことだ。
キノピオハウスに駆け込み、奥の一室に入ると案の定いた。扉を開けた瞬間、椅子に腰掛けて窓を見ていた少女はびくりと震え、こちらを振り返ると更に震え上がった。
目の周りが赤く腫れている。予想していた光景なのに、いざ目前にすると足が竦んだ。ずっと一人で泣いていたのだろうか。店の中で怒鳴った自分を思い出し、罪悪感がちりちりと胸を炙る。
それでも逃がしてはならない。ピンキーは強張る足を叱咤してナナシに近づいた。目の前まで来るとナナシは慌てて椅子から腰を浮かし、視線をあちこちに彷徨わせる。
「えっと、その、ごめ──」
「待って、ナナシは謝らないで。あれはあたいが言い過ぎたのが悪いの。ホントにゴメン!」
怒涛のような謝罪にナナシは一瞬目を丸くする。だがすぐに納得はしなかった。
「で、でも」
「とにかくいいの! 言っとくけど、あたいは別に怒りに来たんじゃないんだから。それよりあんたに渡したいものがあるのよ」
強引に言い込めて、ピンキーは小さな包みを取り出した。
「はい、これ」
ぐいっと突きつけると、ナナシは勢いに屈したように受け取った。戸惑いながら椅子に腰を下ろし、手にした包みに目を落とす。その顔は疑問符で埋まっていた。
「これって、お店の……」
「開けてみて」
促すと、ナナシはおずおずと従った。慎重な手つきでテープを剥がし、包装紙を開くと、その顔が驚愕に染まる。
「……これって」
思わぬ再会に面食らったのだろう。ナナシは包みから現れたものに目を見張った。
手のひらにちょこんと収まるピンクのリボン。結び目の宝石は店に並んでいた時のまま色褪せず、室内の灯りに照らされて甘美な煌めきを振り撒いていた。
「他のヤツの手に渡ったらいけないと思ったの。だからそれはナナシが持っててよ」
ぱちぱちと瞬いていた目が、ゆっくりとピンキーに移る。
「……本当にいいの?」
「いいの。ちょっとしたプレゼントだと思ってよ。あ、コインはいらないからね。あたいが勝手にやったことだからさ」
「……ありがとう、ピンキーちゃん」
ナナシの口元が僅かに緩んだ。まだ戸惑いは抜けないようだが、顔色は健康を取り戻している。ピンキーがほっとしたのも束の間だった。
ナナシの視線はすぐにピンキーを離れ、手元のリボンに釘付けになる。その瞳が輝いているのは気のせいではない。
ショッピングの時と同じだ。熱い眼差しはいつもピンキー以外のものに注がれる。安堵したばかりの心に穴が空き、隙間風が吹き抜けた。
だが今はこれでいい。ナナシともう一度話せた。渡したいものを渡せた。何より仲直りができた。十分過ぎるほどだと思う。これ以上欲張ったらバチが当たりそうだ。
ここから少しずつ仲良くなっていけばいい。ピンキーは寂しさを振り払うように背を向け、部屋を出ようとした。
「あ、待って……」
去りかけた足がたたらを踏む。引き止められるとは思わず、慌てて振り返ると、気まずそうな顔をしたナナシと目が合った。
「えっとね、その……ピンキーちゃんは、似合うって言ってくれてた……よね」
記憶違いを恐れているのか、尋ねる口調は自信なさげだった。
ピンキーは内心驚いていた。まさかナナシが自分の言葉を覚えていたなんて。ピンキーが思っている以上に、ナナシはピンキーのことを見ていたのだろうか。
「ええ、絶対似合うわ。あたいが百パー保証するから」
真っ直ぐに目を見て、頷いた。
「ナナシは自分のこと可愛くないって言ってたけど、あたいは全然そう思わない。あたいはナナシのこと本気で可愛いって思うし、ナナシが何と言おうとそれは変わらないから」
不思議な気分だった。固い蝶番が弾けたように、伝えたいことが次から次へと溢れてくる。思えば今まで、こんなに正面からナナシと向き合ったことはなかった。
ナナシはしばらく呆けた顔でピンキーを見返し、ふっと目を伏せた。頬がほんのりと赤い。その様子は嫌がっているというより照れているように見えた。
「……そっ、か」
少しの間を置くと、ナナシはいきなり背を向けて移動した。備え付けの鏡台の前に立ち、何やらごそごそし始める。
「なにしてんのよ?」
近寄ろうとするピンキーだが、片手で制された。
「ちょっと待ってて……すぐ終わるから」
「う、うん」
いったいどうしたのだろうか。珍しく不可解な行動に悶々としていると、やがてナナシは戻ってきた。
「お、お待たせ」
時が止まるような衝撃が、脳天から爪先へと突き抜けた。
「えっと……どう、かな」
ナナシはそわそわと服の袖をいじる。髪を飾るピンク色のリボンは、まるで始めからそこにあったかのようにぴったりと馴染んでいた。
胸の高鳴りが耳を打つ。ボム兵にないはずの心臓が脈を打ち鳴らしている。その音は爆発を知らせるカウントダウンに似ていた。
高鳴りは程なく頂点に達し、心に溜めた熱情を解き放った。
「カワイイカワイイカワイイカワイイ、すっごくカワイイわ! サイコーに似合ってる! カワイすぎてバクハツしそうよもう!」
ピンキーはナナシの周りをピョンピョン跳ね回った。繰り返しぶつけられる高い声に、ナナシはおろおろと狼狽える。顔どころか耳まで赤くなっていた。
「さ、さすがに大袈裟じゃ……」
「大袈裟じゃないわ。あたいはホントのことしか言わないわよ」
ピンキーは飛び跳ねるのを辞めてナナシを見る。ナナシは口をぽかんと開けて固まるが、その顔は次第に綻び、やがて一つの笑顔が咲いた。
「──ありがとう」
目の前が眩しいのは室内の灯りのせいではない。ずっと見たかった。いつも心のどこかで求めていた。そんな景色がそこにあった。
春のような温もりが胸の隙間を満たしていく。涙が出そうになり、ぐっと堪えた。泣いたらぼやけてしまいそうだ。そうして目の前の笑顔を焼き付けようとした時、ナナシはふと真面目な顔になった。
「……ピンキーちゃんはいつも明るいよね」
「え?」
「ピンキーちゃんだけじゃない。マリオさんも、クリオくんも、カメキくんも、パレッタさんも……みんな明るくて、いつも前を見てる」
その目はピンキーを見ているようで、見ていない。もっと遠くの何かを見つめているようだった。
「……わたしね、たまに思うの。こんなわたしが本当にみんなといていいのかなって。わたしはみんなと違って全然明るくないのに、一緒に旅なんてしていいのかな……って」
ナナシの顔がまた曇る。だけどもう苛立ちは湧かない。むしろ悩みを打ち明ける姿を見ていると、無性に愛しさが込み上げてきた。
「なるほど、それがあんたにとっての壁ってワケね」
自分でも聞いたことがないほど、穏やかな声だった。
「だけどさ、そんなに心配することないわよ」
「……どうして?」
ナナシは首を傾げる。ピンキーは目を細めて笑った。
「だって、とっくに笑ってたじゃない」
大きく見開いた瞳がピンキーを映す。信じられないような顔で見返すナナシがなんだかおかしくて、そしてやっぱり愛しかった。
「……わたし、笑ってた?」
「あら、気づいてないの? ならもう一度笑わせてあげる。ほら、カワイイカワイイカワイイカワイイ!」
「えっ⁉︎ ちょ、ちょっと待って、それは……!」
狭い部屋が少女の笑い声で満ちていく。
壊す必要なんてなかった。気づけばもうそこに立っていた。
身体がふわふわする。目に見える全てが眩しい。乗り越えた先の世界は、どんな太陽の下よりも暖かかった。
ナナシも感じているだろうか。きっと感じているはずだ。だって、同じ世界にいるのだから。
部屋の外から声がした。クリオとカメキだ。道場と書庫の帰りにちょうど鉢合わせたのだろう。ナナシもそれに気づき、慌てて頭からリボンをもぎ取った。
「あー、ちょっと! なんで外すのよ。せっかく着けたのにもったいないじゃない!」
「だって、やっぱり恥ずかしいし……」
「別に恥ずかしくないじゃない。マリオ達だってきっと褒めてくれるわよ」
「ううん、いいの」
ナナシは照れ臭そうに微笑み、手のひらを見せた。
「ピンキーちゃんにだけ見せることにする」
確かにそれがいい。この色は、ふたりだけのものだ。
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