短編
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
さむい、あつい、いたい、くるしい、きもちわるい。
暗闇のなか、そんな言葉だけがずっとぐるぐるしていて、もはや何がどうなっているか何も分からなかった。
自分はこのままずっとこの中にいるのだろうか、そう思っていると、ふいに一筋の光が見えた。
導かれるようにそれに触れると、闇が裂けた。
もやがかかったような視界で目を動かすと、ひと粒の涙がこぼれた。自分の吐く荒い息がやけに熱く感じる。指先に力を入れるとほんの少しだけ動いた。
なにも、分からない。
私はどうしてここに居るのか。
一体どういう状況に置かれているのか。
「涼花」
私を呼ぶ、やわらかな声。
目隠しをされるように、大きな手がまぶたに覆い被さる。
「もう、大丈夫だから」
その声に、聞き覚えがあった。
だからこそ、これは夢なのだと思った。
だって、あの人はきっともう、こんな優しい声で私のことなんて呼んでくれないはずだ。
その手の心地よい重さと温かさで、優しい眠りに手を引かれる。ぐずぐずに溶けそうになる思考をなんとか繋ぎ止めて、私はその名前を口にした。
「 」
それは、声にはならなかった。
ひゅっ、と枯れたような吐息だけをこぼして、私はもう一度闇の中に戻っていった。
◇◇◇
季節外れの転校生。
まさか、自分がそのシチュエーションを体験するなんて思ってもみなかった。
しかも、黒板に名前を書いて振り返れば、そこに居たのは、たったの3人だけ。
五条悟、夏油傑、家入硝子
物珍しそうな視線を隠すことなく3人から見つめられて、少しだけ耳が熱くなる。それを隠そうと深くお辞儀をして、「よろしく、お願いします」と、小さな声で言った。
呪術師の家系でもなんでもない私が、能力に目覚めたのは高校に入ったばかりの時だった。
呪霊に襲われそうになった時に、助けてくれた呪術師の人の勧めで、この呪術高等専門学校に転校することになったのだ。
なにも知らなかった私は、授業について行くのに必死だった。でも、3人の仲間達がいたから私は諦めずに頑張ることができた。
彼らは間違いなく、かけがえのない大切な仲間だった。
◇◇◇
目を開ける。
前に目を開けた時よりは、幾分か視界がマシになっていて、汚れのひとつもない白い天井がよく分かった。
あれから、どのくらい経ったのだろう。
海の底にいるみたいに頭がぼんやりする。
ふっと、温かいものが私のおでこに触れた。
「熱は少し下がったみたいだね」
やはり聞き覚えのある、そのやわらかな声に、目線だけ動かして声の主を見る。
やっぱり夢なんだろうか、これは。
「 」
名前を呼ぼうとしても、やはり声が出なくて、音にならない息が漏れた。胸が痛くて苦しくて顔を歪める。
「結構な量の毒を吸い込んだんだ。喉も気管も肺も全部やられてるからね。しばらくは喋れないと思うよ」
「…………?」
毒?どうして私は毒を吸い込んだりしたんだろう。
なにをしていたか、思い出せない。
「……可哀想に。記憶が混濁しているんだね。
大丈夫。しばらくここでゆっくり休むといいよ。私が、涼花の傍にいるからね」
大きな手が、またしても私のまぶたに覆い被さった。
そして、またその心地よさに身を委ねて、私の意識は闇に戻っていった。
◇◇◇
「もう!手加減しないでって言ったじゃない!傑!」
「さすがに女の子相手じゃ、全力でいけないよ。私だって」
「呪霊は女子だからって、手加減してくれないんだからね!」
「ハイハイ。だったら、悟にでも相手をしてもらえば?」
「嫌だよ!悟はすぐ意地悪するんだもん!悟ってば、こないだ鍛錬中なのに、私の頭にバッタ乗せてきたんだよ?!」
「ぷっ…、バッタ!…………小学生男子だな、あいつ」
「ほんとそれ!ほぼジャ◯アンだよ」
「……………誰がジャイ◯ンだって?」
「……げっ!悟!」
「今度はでっかいカマキリでも乗せてやろうか?涼花チャン♪」
「絶っっ対やだ!!もうっ助けて!傑!」
「…………ハイハイ」
◇◇◇
目を開けると、自分を覗き込む真っ黒な瞳と目が合った。
驚いていると、ふっとその目が優しく細められた。
「……涼花、少し笑っていたよ。良い夢でも見たかい?」
夢、だろうか。あれは。
私には今のこの状況の方が、夢のように思えてならない。
最後に会った時よりも随分鋭い顔つきになって、少し年を重ねた姿のその人をじっと見つめる。
「 」
名前を呼ぼうにも、やはり声は出なかった。
口をパクパクさせる私に、その人は仕方がなさそうに笑い、私の髪の毛を梳くように丁寧に撫でた。
◇◇◇
目の前には、真っ青な海が広がっていた。
海のない所に住んでいた私を、悟が勝手に憐れんでくれて、高専に入って初めての夏休みに4人で遊びに来たのだ。
でも、よりによって、その年は冷夏だった上に、その日は強い風が吹いていたので、私と硝子は水着にはならずに砂浜で遊んで、屈強な男2人は海で遊んでいた。
「やっぱり、けっこう冷たいね」
「あいつら、よくこんな中で泳ぐわ……」
サンダルを脱いで、波打ちぎわで貝殻拾いをしていると、ぶわっと強い風が吹いた。
「あっ、」
被っていた つばの広い麦わら帽子が海に飛ばされる。
少し沖の方まで飛んでいって、どうしようかと思っていたら、海で遊んでいた悟と傑が気付いたようで、勝負でもしたのか、2人は競い合うように帽子の方まで泳いで行って、先に帽子に手を付けたのは傑だった。
「あ、……ありがとう。傑」
海から出てきた傑は、帽子を振って水滴を払ってから、ふわりと私の頭に被せてくれた。
「今日は風が強いから、これ結んでた方がいいよ」
そう言って、帽子に付いていた長めのリボンを、私の顎の下で綺麗に蝶々結びにしていく。男の子なのに、そのやけに器用に動く指先に妙にドキドキしてしまう。
「……うん。可愛い」
傑はその蝶々結びの出来に満足そうに笑って、帽子の上からポンと私の頭を優しく叩いた。
「……うっわ、タラシ〜」
後ろから硝子がボソリと呟いた。
私はじわりと熱くなった耳を見られないように、そっと帽子を深めに被った。
恋なんて、ほんの些細なことがきっかけで始まるものなのだ。
◇◇◇
支えられながら何とか上体を起こせるようになった時には、ここに来る前の記憶をだいぶ取り戻していた。
あの時、私は準一級呪霊の討伐で、とある小学校に行っていた。一級呪術師の私にとっては容易い仕事のはずだった。でも、想定外のことが起こってしまい、呪霊の強い毒霧に囲まれて倒れたのだった。
(あの子、ちゃんと逃げれたかな……)
あらかじめ、小学校からは全員避難させていたはずなのに、忘れ物を取りに来たという男の子が帳を下ろす前に入り込んでいたのだ。
とにかく、校門まで逃げて、補助監督の所まで行くようにと叫んだが、どうなったのか分からない。
そもそも、あそこで倒れた自分がなぜ傑に助けられたのかも分からない。
聞きたいことは山程あるが、相変わらず声は出なかった。
傑に訴えようとするも都合のいいようにふわりと無視される。
「はい、どうぞ」
傑がおかゆを掬ったレンゲを私の口元に差し出してくる。
仕方なしに口にすると、まだ喉や胸が痛くてケホケホと咳が出た。
「……まだ、痛むみたいだね」
傑が私の背中を優しくさする。
そのあまりに優しい手つきに、やっぱり、こちらの方が夢なんじゃないかと思えてきた。
◇◇◇
私達が変わりだしたのは星漿体の事件の後からだった。
私はその時は違う案件を担当していたので、直接の関わりはなく、すべてが終わった後にその事件の顛末を聞いた。
2人とも、私や硝子の前ではいつもみたいに笑っていた。
でも、あの事件は、悟と傑に今までにない暗い影を落としたよう思う。
3年になって、悟と傑は任務を1人でこなすことが多くなっていた。
私は後輩と比較的簡単な任務に行くことが多く、前みたいに4人揃ってバカみたいに騒いだり遊んだりすることは少なくなっていた。
その夏は、特に呪霊の多い夏だった。
ある日、任務から帰って、寮のシャワーを浴びようと向かっていたら、その手前にある談話ルームでベンチに座る傑を見つけた。
数日ぶりに会う傑に、嬉しくてつい駆け寄りそうになったが、その少し重たい空気を感じて、そぉっと近付く。
傑はすぐに気付いて、ふわっと優しく目を細めた。
「……なんか、ちょっと、久しぶり、だよね」
「最近はバラバラで任務につくことが多いからね」
「……傑、なんか、ちょっと痩せた?大丈夫?」
「最近、忙しかったから、夏バテかな……」
「……あっ!そうだ!さっき依頼主の人からお菓子貰ったんだ!傑にもあげる!」
そう言って私は、先程の依頼主のおばあちゃんから両手いっぱいに渡されて、よく見ずにそのままポケットに突っ込んだお菓子を取り出す。
「……あれ、これ、黒飴ばっかだ。……ははっ、なんで、おばあちゃんって、みんな黒飴が好きなんだろうねぇ」
自分の祖母も黒飴を常備していて、小さい頃よく貰っていたことを思い出して、ついニコニコしてしまった。
すると、傑はすっと立ち上がって、えっ?と思った瞬間、もう抱きしめられていた。
ボトボトっと黒飴が私の手から落ちる。
身長の高い傑の体に、私の体はすっぽりと収まって、身動きも出来ない。
「……ごめん、すこしだけ、このままで……」
「…………うん」
どうしてだろう。その時、傑は泣いているんじゃないかと思った。私よりもずっとずっと強くて大きな体が、少しだけ震えていた。
私は、その広い背中に手を回して、よしよしと背筋を撫でた。
胸の中に一滴ずつ溜まった想いが静かに溢れて、
ああ、やっぱり、私はこの人のことが好きだと思った。
好きだって、言いたかったけど、
でも、今じゃないと思って言えなかった。
少しして、私の体を離した傑は、床に落ちた黒飴を拾い集めて「これ、悟と硝子にも分けに行こうか」と、少しイタズラっぽい、いつもの顔で笑った。
結局、あんな風に笑った傑を見たのは、それが最後だった。
◇◇◇
「「お姉ちゃん!!」」
そう言って、飛び付くようにベッドに駆け寄ってきた少女達を、私は誰だか分からなかった。
「菜々子だよ!」
「美々子、です」
そう告げられて、はっとした。あの村にいた、双子の少女達だ。
あの時から随分と大きくなった姿を見て、まず先に嬉しさが込み上げた。
両サイドから、それぞれ手を握られる。
「ずっと、お姉ちゃんに会いたかったんだ!」
「会って、お礼を、言いたくて……」
「「夏油様に出会わせてくれてありがとう」」
その双子らしく揃った明るく無邪気な声に、どうしてだか、背中に一筋の嫌な汗が流れた。
私は後ろで微笑ましそうにその様子を眺めている傑をじっと見つめる。
あの村に生存者は居なかった。でも、双子の少女達も居なかったと聞いた。だから、傑が助けてくれたのだとは思っていた。でも、
「あっ、お姉ちゃん、この指……」
左手を握っていた美々子が、そっとその小指を掴んだ。
とっさに引っ込めようとするが、存外強い力で掴まれていて動かなかった。
「爪、戻らなかったんだね……かわいそう」
そう。そこの小指にだけ爪が無い。
他の爪は元通りになったのに、そこだけは何故か生えてこなかったのだ。
「……でもね、あの後、お姉ちゃんの爪を剥がした奴、夏油様がもっと凄いことしてくれたんだよ」
「ははっ!あの時のアイツの顔、マジでウケたよね!」
「お姉ちゃんの事、傷付けた奴ら……皆、夏油様が苦しめてくれたからね」
「ザマァっての!」
くすくすと何の悪意もなく笑う少女達に、涙が出そうになった。
違う!違う!こんなことになるために、あの時この2人を助けたかったわけじゃない!
迫害されていたこの子達に、広い外の世界を見せてあげたかった。世の中には沢山の呪術師がいて、あなた達だけじゃないんだよって言ってあげたかった。高専に行ったら大切な仲間や好きな人だってできるかもしれない。そんな明るい未来のために助け出したかったのは、私のエゴだったのだろうか。
「2人共、涼花が疲れてしまうから、そろそろ帰りなさい」
「「はぁい!」」
「また来るね!お姉ちゃん!」
「また、ね……」
2人が部屋から出て行った瞬間に、我慢していた涙がはらりと流れた。傑を睨みつける。
『なんてことを!!!』
そう大声で叫ぼうとしても、声は出なかった。
その代わり喉に鋭い痛みが走って、ゴホゴホと咳が出て胸が苦しくなった。
「涼花」
信じられないくらい優しい声で、傑が私の名前を呼ぶ。
咳が止まらない私の背中をさする手つきも怖いくらいに優しい。
傑が私の左手を取る。そして、その爪の無い小指にキスをした。
「涼花にあんな事をしたんだ。当然だろう?」
れろり、と、その爪の無いところを舐められる。
全身の肌が粟立つが、痺れたようにこの手が動かない。
そのまま、甘噛みされ、口に含まれ、また舐められて、キスされて、そんな事を繰り返して、どのくらいその水音を聞いていたのだろう。最後に手の甲に音もなく そっとキスされた。
「涼花、愛しているよ」
どこまでも優しくて、うっとりするような甘やかな声。
私はこの人のことを初めて怖いと感じた。
◇◇◇
「……ねぇ、これ、一体誰にやられた?」
ふわりと上昇した意識の中で、聞いたことのないような怒気を含んだ硝子の声が聞こえた。
ひっ、と恐怖に震えた伊地知くんの声が漏れる。
(言わないで)
そう言おうとしたけど、うまく声が出なかった。
硝子が治してくれたのか、全身の痛みはもうなかった。
でも、指先を動かそうとすると、うまく動かせなかった。
だって、両手の半分以上の爪が剥がれているのだ。
「残穢も呪力もひとつも感じないんだけど。
……呪霊の仕業じゃないよね、これ」
私の左手を誰かが、ぎゅっと握った。
目を開けると、傑だった。ベッドから見上げた傑の顔は、今までに見たことないような怖い顔をしていた。
「………すぐる、 」
私が小さく呼びかけると、傑はハっとして、いつもの傑の顔に戻った。
「……涼花、気が付いたかい?」
「…………あの、ね、……あそこに、双子の、女の子がいるの……呪術師で、つよい力持ってる……。
助けて、あげたかった、けど、上手にできなくて……村のひと、怒らせて、しまって……あの子たち、助けてあげて……」
縋るように右手を差し出すと、私の手は赤い手袋を着けたみたいに真っ赤だった。乾いた血が照明でてらてらと光る。指先にはあるべきものが無い。
傑はためらいもなく、私の赤い手を取って、優しく笑った。
「大丈夫だよ、涼花。私が、何とかするから」
「…………おねがい」
どうしてあの時あんな事を頼んでしまったんだろう。
今となっては後悔しかない。
でも、あの時はそれが最善だと思ったのだ。
だって、傑は、強くて優しくて冷静で、だから、不器用な私と違って、うまくあの子達を連れ出してくれるんじゃないかと思ったのだ。
◇◇◇
窓のない、真四角の真っ白な部屋。
時計やカレンダーなんて勿論ない。
今がいつで、何時なのか、あの小学校での討伐からどのくらい経っているのか、なにも分からないままだ。
何とか自力で歩けるようにはなったが、この部屋を一回りするだけで息が切れてしまう。
相変わらず、声は出ないままで、身体は鉛をつけたかのように重たいし、手も足もわずかに痺れたままだ。
やたら豪奢な一人掛けのソファに座って、ぼんやりと白い壁を見つめる。
少し手を動かすと、ひらりと袖のレースが揺れた。
黒いゴシック調のドレスは美々子の趣味だ。
立てるようになってから、美々子と菜々子が毎日のように来て、着せ替え人形のようにそれぞれの趣味の服を私に着せては満足そうに帰って行く。
「まるで、囚われのお姫様みたいだね」
ソファの後ろから声が掛かる。振り向くことですらもう億劫だった。
傑が前に回り込んで、満足そうに上から私を眺める。
『帰りたい!』
傑の袈裟の裾を掴んで、声にならない声で訴えかける。
傑は仕方のなさそうな顔で笑って、私の頭をよしよしと子供をなだめるように撫でた。
「まだダメだよ。……声が出るようになったら帰してあげるから」
そう言って、傑は私の下顎を掬うように持ち上げる。
身体が酷く重たくて、それに抗う気が今の私にはもう残されてはいなかった。
力なくそっと目を閉じると、あたたかいものが優しく唇に触れた。
本当に、ここから出られるのだろうか。
いくら強い毒を吸い込んだからといって、こんなにも治らないなんてことあるのだろうか。
呪術師は普通の人間よりは回復が早いはずだ。でも、私の身体は相変わらず重たいままだ。それに、ここで目覚めてから自分の呪力を感じられないでいる。
早く、帰りたい。
私の居場所はもうこの人の傍ではないのだから。
◇◇◇
あの時、私が最初に調査に行ったのがいけなかったのだろうか。
あの時、私があの子達を助けたいと思ってしまったのがいけなかったのだろうか。
なにが正解だったのか。
何度も何度も頭の中で考えた。
でも、どれだけ違うことを選んでも、結局は同じ結果にしかならなかったような気もするのだ。
「……えっ?」
「今、会った“あいつ”に。新宿にいるよ。五条にも連絡したからね」
お礼だけ言って、携帯電話をすぐに切って、私は走り出していた。詳しい場所は分からない。でも、絶対に会えるという確信を持っていた。
「君が最後か。涼花」
なんでもないような、いつもの顔で、声で、傑が少し笑って、私は怒ればいいのか、泣けばいいのか、分からなくなった。
「…………ごめん……わたし、が……」
私がもっと強かったなら、私がもっと冷静だったなら、私がもっと器用に立ち回ることができてたら、あなたを止めることができたのかな?
「同じだよ。涼花がどうしようが」
声にならない言葉の先回りをして傑は答えた。
少し突き放すような言い方にも、どうしてだか優しさを感じて、ポロリと涙がこぼれてしまって、それを隠すように俯く。
「真白、私と一緒に来ないか」
「……いかない。絶対に」
「それは残念」
「……傑が、戻って、きてよ」
「…ハハっ、無茶言うなぁ」
「……これで、本当に、お別れなの……?」
「…………涼花」
「……なんで、……こんな……」
「涼花」
2度目の名前を呼ばれた時に、やっと私は顔を上げた。
大きな手が涙で濡れた私の頬を拭って、ふわりと片手で抱き寄せられる。
「涼花、好きだよ」
私が驚きで目を見開いていると、ふっと傑が笑った。
そして、「じゃあね」と、いつもの学校帰りみたいな軽さで手を振って去って行った。
その愛の言葉は呪いのように私の心を蝕む。
私も好きだった。いや、こんなことになった今でも好きだ。でも、私にはそんな呪いの言葉は吐けなかった。
ねえ、あの時に好きだって言ってたら、
この世界は少しでも変わっていた?
◇◇◇
目を開ける。
私を閉じ込めるように、ぴったりとくっついた素肌がやけに熱く感じて、ごそごそと身動ぎすると、私を抱きしめていた腕がはずれた。
「おはよう、涼花」
やけに機嫌のよさそうな声で挨拶されるが、私はそれを無視して起き上がろうとする。
上体を起こした時に下半身に痛みが走って、力なく崩れかけた私の身体を傑が受け止める。
下腹部が生理の時みたいに痛くて重たくて、私はぎゅっと眉間に皺を寄せた。
「ごめん、無理させたね。涼花が誰のものにもなってない事が嬉しくて、つい……」
傑の大きな手が、私の無防備な背骨をつうっと撫でる。
「……悟も馬鹿だな。さっさと自分のものにすればよかったのに」
ぼそりと呟いたその言葉に、腹が立って、拳を振り上げようとする。でも、力が入らなくて、中途半端に空に浮いて、ぽとりと傑の胸の上に落ちた。
私の握った拳を大きな手が包み込む。触れている肌はこんなにも優しくて温かいのに、心も身体も鉛みたいに重たい。
「お詫びに、今日は 私がずっと涼花の面倒を見るよ」
楽しい悪戯を思いついたみたいな、ご機嫌な様子で傑は力の入らない私を抱き上げた。
バスルームに連れて行かれて、頭のつむじから足の指先まで全身をくまなく丁寧に洗われて、そう広くはない湯船に一緒に浸かった。
もはや、恥ずかしがったり、抵抗したりする気力もなく、ぼんやりとされるがままになっていた。
ふかふかのタオルで優しく身体を拭かれ、髪の毛も綺麗にブローされて、私がもしペットの犬か猫だったら、さぞかし喜んだであろう。
今日は菜々子のチョイスだろうか、白い下着に白いワンピースを着せられて、傑は私を抱きかかえたまま、この部屋にあるたったひとつの豪奢な一人掛けソファに座る。
そして、膝に乗せた私を、壊れものみたいに優しく抱きしめた。
傑に抱きしめられながら、私はただこの部屋の真っ白な壁を見つめることしかできない。
「……唯一、後悔していたんだ。
あの時、無理にでも君を連れてこなかったことを」
そんな事を言いながらも、傑は私の首筋に遊ぶみたいに甘噛みとキスを繰り返している。
『……帰りたい』
私が口をパクパクさせてそう訴えると、傑はいつもそうするように、聞き分けのない子供をなだめるみたいに私の頭をよしよしと撫でる。
「そうだね。……声が出るようになったらね」
その時に、ようやく私は理解した。
自分の声がもう二度と出ないということを。
愕然としている私に気付いて、傑は学生の時みたいな無邪気な顔で笑った。
そして、私の頬を大きな手で覆って、耳元で囁く。
「涼花、愛しているよ」
苦くて甘い、甘美な毒のような呪いの言葉。
私はもうその呪いを解く声も言葉も持ってはいない。
目を閉じると、あの夏の青い海が広がった。
恋に落ちた瞬間も、好きだと思った瞬間も、今のこの瞬間も、すべてが泡沫の夢であればいいのに。
1/4ページ