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『今夜、そっちに行ってもいいかな?』
絵文字もなにもない、その簡素なメールを受け取ったのは、営業回りの途中に車内でコンビニのおむすびを頬張っている時だった。ごくり、ご飯を飲み込む音がやけに耳に響いた。
『少し遅くなるかもだから、勝手に部屋に入ってていいよ』
私も私で簡素な返事を送る。
私は元々こんな感じなので別にいいのだ。彼の場合、普段の雑談のようなメールには目がパチパチするくらい絵文字が躍っているのに、こんな時だけ絵文字がないのは後ろめたさの表れだろうか、なんて 勝手に思ってしまう。
『ありがとう』
返事はすぐに返ってきた。
“了解”とか“分かった”でもなく、“ありがとう”なのが、律儀な彼らしいなと思う。
そもそも、合鍵は渡しているので、別に連絡をせずに勝手に来てくれてもいいのだけど、それをしないのは私たちが“恋人”ではないからだろうか。まあ、それを言ったら恋人でもないのに、お互いに部屋の合鍵を持っているのもおかしな話ではある。
ふう、ため息をひとつ吐いて、おむすびのフィルムをくしゃりと手の中で潰した。
◆◇◆
「あっ、おかえり〜!お疲れちゃーん!」
私の部屋でいつも通り明るく出迎えてくれたのは、シャイニング事務所所属のアイドル“寿嶺二”である。
私たちは早乙女学園の同級生で、共に夢を目指した仲間だった。彼は夢を叶えてアイドルになったが、私はそれを諦めて一般企業の営業職となった。
もう十年近い付き合いになるが、いまだに部屋に彼がいるのを見ると、自分の部屋にアイドルがいるという気恥ずかしさと、同級生がいるという気まずさを感じてしまう。
「嶺二くん、もうご飯食べた?」
「うん、少しだけ」
「じゃあ、これ、食べれるようなら摘んで」
そう言って、先程デパ地下で買ってきた惣菜を紙袋から出してテーブルに並べる。
「えっ、どうしたの?デパ地下!?」
普段はスーパーかコンビニの惣菜くらいしか買わない私がそんな事をしているので、彼はすこし驚いた様子で私と惣菜を見比べている。
そんな彼に私はニヤリと笑って、もうひとつの紙袋から心地よい重さのワインボトルを取り出してテーブルにどんと置いた。
「今月の営業成績1位のお祝いです!」
アイドル時代に散々やってきたウインクとピースをバシッと決めると彼から大きな拍手が送られた。
「えっ!すごいすごい!さすがだね!」
「やっぱり、私って、アイドルよりこっちが向いてたみたい」
アイドルの夢を投げ出して飛び込んだ営業職だったが、営業にも 容姿の良さや愛嬌、度胸、努力は必要なもので、元アイドルとして全てを兼ね揃えていた私は営業にはうってつけの存在だった。ちなみに、歌唱力とダンスは宴会芸で大変役に立っている。
「今度、ぼくからもなにかお祝いさせてね」
そう言って彼はうやうやしくワインをグラスに注いで渡してくれた。「乾杯」とグラスを軽く合わせるとカチンと小さな音が狭い部屋に響いた。
ひとしきり喋りながら食べて飲んだあと、ふう、と一息つく。すこしの沈黙のあと私は口を開いた。
「……で、なにかあったの?嶺二くん」
昼間にあんなメールを寄越して、わざわざ私の部屋に来たのは、私の営業成績1位のお祝いをしに来たわけではないという事だけは確かだ。
「……あのさ、」
彼は言いづらそうな表情で私をちらりと見る。
私が促すような視線を送ると、彼はもう一度口を開いた。
「……愛音って、兄弟とかいなかったよね?」
その意外な質問に私はきょとんとして彼を見つめる。“愛音”その名前も彼の口から聞くのは久しぶりのことだった。
「愛音くんはひとりっ子だったはずだけど、どうして?」
質問の意図がよく分からなく聞くと、彼はぽつぽつと話し出してくれた。
最近シャイニング事務所からデビューした“美風藍”というアイドルと今日初めて会ったらしいのだが、その子が私たちの同級生でもあり彼の一番の親友だった“如月愛音”にそっくりだったらしい。年齢は15歳ということで本人なわけがないし、かといって親類というわけでもないらしい。
(ちょっと、会ってみたいな)
そんな事を一瞬だけ思って、すぐに考えを改める。
やっぱり会いたくなどない。こんなに彼が動揺してるくらいだから、相当似ているのだろう。そんなの、会ってしまったら、私はきっと取り乱して泣いてしまうかもしれない。
力なく床に置かれた彼の手に、そっと自分の手を重ねる。
彼の瞳を見つめて(ああ、また、揺れてる)と思った。ここにはアイドルとしての“寿嶺二”はもういない。でも、ここにいるのは、ただの私の同級生で友達の“寿嶺二”でもなくて、
「嶺二くん」
やさしく名前を呼ぶと、彼が私の頬にそっと触れた。
そして、私たちは赤ワインの甘い香りとほろ苦い味のキスをした。
◆◇◆
如月愛音。
15歳の私は、その気持ちが恋なのかも分からないまま、ただその人のことを想っていた。
もう覚えてないくらい、些細なことをきっかけに私は嶺二くんとよく喋るようになった。そして、彼がいつも一緒につるんでいた、片桐響、音波圭、そして如月愛音とも親しくなった。
その4人はいつもクラスで騒ぎを起こす目立つ存在で、最初は少し引いた目で見ていた私だったが、いざ仲良くなってみれば、だいたい騒がしいのは響くんと嶺二くんで、それを静観しているのが圭くん、それを制止するのが愛音くんという感じが分かって、一番の常識人である愛音くんに好感をもったのだった。
それからすこし経って、
私はいつの間にか、気付いたら愛音くんを目で追うようになっていた。
愛音くんは、まるで、うすはりのグラスのような人だった。
繊細で脆くて、でもその美しさと優しさで誰もを惹きつける不思議な人だった。
男兄弟の中で育った私は、大雑把で繊細さのかけらもなかったので、そんな正反対の性質を持つ彼に惹かれたのかもしれない。
「ねぇ、君って、愛音のことが好きなの?」
卒業を控えたある日、嶺二くんがそう言った。
いや、好きは好きだけど、そうじゃなくて…。みたいなことをゴニョゴニョと言っていたら、嶺二くんは被せ気味に「ぼくが、協力してあげよっか?」と言った。
私がやや混乱した顔で見つめると、彼は、
「愛音も君のこと、気になってるみたいだし〜!」
と、さらっと爆弾発言をして、私の頭をさらに混乱させた。
でも、混乱する私の頭の中には“恋愛禁止!”、“退学!”というワードだけが警告色でチカチカと表示されて、私は大きくかぶりを振った。
「愛音くんのことは好きだけど!でも、そんなんじゃないから!……恋愛感情とか、じゃない、し……」
そう言って、その場から走り去ったのであった。
そして、その日から何となく勝手に気まずくなってしまって、卒業まで愛音くんとまともに話すことができなかった。
◆◇◆
愛音くんとまた話ができるようになったのは、卒業してすこし経った時だった。
私たちはなんとか無事に全員事務所に入れることになったが、問題はそれからだった。仮契約の2年のうちにCDデビューをしないとクビということで、私たちは大いに焦っていた。でも、その中でも愛音くんと、そのパートナーである圭くんはいち早くデビューを勝ち取っていた。
その時にもう本当に本当に嬉しくて、私は今までの気まずさをその時だけは都合よく全て忘れて、花束を持って愛音くんに「おめでとう!」と満面の笑顔で言いに行った。
愛音くんをイメージして作って貰ったパステルカラーの花束を抱えた彼は本当に嬉しそうに笑ってくれて、そしてその瞳からはらりと音もなくひとつ涙がこぼれた。
「えっ、」
その透明な美しい涙を見て、私は心臓が止まりそうなくらいドキっとして、動けなくなった。
「ごめん…。きみに、嫌われたのかと思ってたんだ…」
その言葉を理解するのに、すこし時間がかかった。
そして、都合よく忘れていた今までの気まずさの原因を思い出してハッとする。
自分が今まで彼を避けていたせいで、彼が傷ついていたなんて思ってもいなかった。
「ち、違うの!全然そんなことなくって!嶺二くんが愛音くんが私のこと気になってるとか言うから、なんか、ちょっと変な感じになっちゃって!……ごめんなさい」
私はバカ正直にそう言って頭を下げた。
「…………嶺二が、そんなこと言ってたの?」
「よく考えたら、嶺二くんの冗談だよね。私ったら、真に受けちゃって……ごめんね」
「……本当だよ」
「えっ、」
一瞬の間をおいて、私は下げた頭を勢いよく上げて、愛音くんをじっと見つめた。
「……それ、本当のこと、だよ」
花束の隙間から、愛音くんの透き通るような白い肌が、みるみるうちに頬から耳まで赤くなっていくのが見えた。
「え、」
え、えっ、もっと気の利いたことを喋りたいのに、私の口からはそれしか出てこなくて、そのうち私の顔まで彼と同じように真っ赤に染まってしまった。
お互いに似たように真っ赤になった顔を見て、私たちは同じタイミングでぷっと吹き出した。
そして、しばらくの間、同じようにずっとクスクスと笑ったままだった。
◆◇◆
あの時に、お互いにはっきりと“好き”だと言わなかったのは、私たちには変に真面目な所があって、二人の頭の中には“恋愛禁止”の文字が浮かんでいたからだろう。
それから、私たちは何度かご飯に行ったり、たまに水族館や動物園に行ったりした。そして帰り道はこっそり手を繋いだ。一度だけ、別れ際にそっと抱きしめられて、触れるだけのキスをした。まるで中学生みたいな恋愛だったけど、それが楽しかったし、嬉しかった。好きな人と一緒にいられることが幸せだった。
そんな初めての恋愛にうつつを抜かしていると、1年なんてあっという間に過ぎて、私はまた大いに焦っていた。
仮所属の契約終了まであと1年もない。とっくにデビューしていた愛音くんは、その時 大きな映画の仕事をオーディションで勝ち取っていた。
こっそりデートを楽しむ余裕なんてお互いになかった。
私は私で、彼は彼で、とにかく必死だったのだ。
たまに電話で話す時にその映画の話はよく聞いていて、私はその映画を、大きなスクリーンに映る愛音くんを観れることを、ただ純粋に楽しみにしていた。
だから、彼が「この役、僕にはすこし難しいんだ」と、こぼした時も「愛音くんなら絶対に大丈夫だよ!」と、なんの悪気もなく明るく返した。なんだったら、その時の私は役のことで悩めること自体がすこし羨ましかったのだ。
だから、後に、私は嶺二くんを責める気になんてなれなかったのだ。だって、私たちは きっと、その時同じことを考えていたのだから。
あの頃のことを振り返って、いつも思う。
あの時に素直に「好き」だと言って、あの関係に“恋人”という名前がついていたのなら、愛音くんが最後に電話したのは“恋人”である私だったんじゃないかと。
◆◇◆
完全に、蚊帳の外だった。
だって、私はなにも知らなかった。
愛音くんがその日に何度も嶺二くんに電話をかけていたことも。それ以前に弱音をこぼしていたことも。
全部、なにも、知らなかった。
その日、私は あるオーディションに受かって、CDを出すことが決まった。
真っ先に頭に思い浮かんだのは、親でも兄弟でもなく、愛音くんだった。
喜びで震える手で何とか携帯を操作して電話をかけた。
愛音くんは出なかった。もう一度かけて、やはり出ないので、そういえば今日は映画の撮影だったことを思い出して、自分の早る気持ちがすこし恥ずかしくなった。
もう夜の8時を過ぎていたが、撮影が長引いているのだろうと思った。9時を過ぎて、もう一度かけた。10時過ぎて二度かけたけど出なくて、あれ?と思った。
私、もしかして何か嫌われるようなことしたっけ?と思った瞬間に、前に愛音くんが言った、“嫌われたのかと思った”という言葉を思い出して、私は彼にこんな想いをさせていたのかと思うと、本当に心から申し訳なくなった。
この時、「大好き」だと、ちゃんと伝えようと思った。
そして、彼からも「好き」だという言葉をちゃんと聞きたいと思った。
11時を過ぎて、もう一度電話をかけた。出ない電話を切ったあとに、嶺二くんから電話がかかってきた。
電話を切ったあと、私は吐きそうな気持ちの悪さを抱えて、事務所まで全速力で走った。
◆◇◆
なんで、なにも言ってくれなかったの。
なんで、私に電話をかけてくれなかったの。
なんで、嶺二くんだったの。
私だったらすぐに電話に出れた。
私だったら、早朝でも深夜でも、どうやってでもあの海に駆けつけて、冷たい海に佇むあなたを抱きしめた。
なんで、どうして、そんな言葉だけが頭の中を駆け巡っていて、どうにかなりそうだった。
「貴方のせいですよ。寿君」
静かな部屋に、ぽつりと呟いた圭くんの言葉はよく響いた。「おい、やめろよ、圭」響くんが圭くんの肩をなだめるように叩く。
「……そうだね。ぼくのせいだ」
私の隣りに立つ嶺二くんは静かに、でも 力強い声でそう言い切った。俯いていて表情は分からなかったが、その指先がかすかに震えていた。
「……違う、でしょ」
私の声もまた震えていた。その時の私は意味もなく怒っていた。この状況に。この4人に。私自身に。愛音くんに。
「そりゃあ、電話とらなかった嶺二くんもどうかと思うよ!それでも、愛音くんが最後に頼ったのは、嶺二くんだった!他の3人の誰でもない。他の誰かに掛けてくれたら出たかもしれないのに。でも、他の誰にも頼ってくれなかった!それって、私たちが頼れる存在じゃなかったってことでしょ?!」
自分で投げた言葉が自分の心に突き刺さる。
でも、それはパートナーとして一番近くにいたはずの圭くんにもだいぶ刺さってしまったようで、パシっという乾いた音が耳元で鳴ったかと思えば、すこし遅れて私の頬はじんと熱くなった。頬を叩かれた、と認識したと同時に私の手はもう勝手に動いていた。バシっ!とさっきよりも大きな音が響いた。
お互いに無言で睨み合う。そう、だって、圭くんは元々大事なパートナーに近付く私のことを良く思っていなかったのだ。
そのままお互いに胸ぐらでも掴みそうな勢いになって、慌てて響くんが圭くんを、嶺二くんは私を止めた。
「お前ら!!その辺でもうやめとけ!」
すっかり忘れかけていたが、そこに居た龍也先輩の地面まで震えそうな一喝で私たちは小さな子供みたいになって静まり返った。
そして、学園時代に同じ夢を追いかけた仲間たちは、一瞬にして見事にバラバラになったのである。
◆◇◆
その数日後、私はデビューシングルのレコーディングだった。
声が、出なかった。
それまでは全然普通に喋っていたのに、いざ歌おうとすると声が枯れ果てたようになにも出なかった。
スタッフさんが気を遣ってくれて、数日後に撮り直しをしたが、まったく同じ結果だった。
愛音くんのために頑張りたかった。愛音くんが叶えられなかった夢を私が叶えたかった。そう思っていたはずなのに。声の代わりに涙がボロボロと溢れて止まらなくて、歌うことができなかった。
私は、歌詞を書いた紙をくしゃくしゃに握り潰して、ゴミ箱に捨てた。その時に一緒にその夢も投げ捨てた。
私の夢など、その程度のものだったのだ。
あの歌を、誰よりも愛音くんに聞いて欲しかった。
いや、本当のことを言うと、愛音くんにだけ聞いて欲しかった。
だって、その歌は愛音くんに宛てた、とっておきのラブソングだったのだから。
数日後、事務所に退所の挨拶をしに行った私に、龍也先輩が嶺二くんのデビューが決まったことを教えてくれた。
真っ先に心に浮かんだのは純粋な喜びだった。本当に嬉しいと思ったのに、でも、うまく笑えなくて、これじゃ本人に直接お祝いを言えないなと思った。
さらに数日後、すべてを片付けて、寮を出る日に、私は嶺二くんの部屋の前にいた。元々会うつもりなどなかった。
『嶺二くん、デビューおめでとう。愛音くんの分まで頑張って下さい』
その呪いみたいなお祝いの言葉を添えた花束を、そっとドアの前に置いて、私は振り返りもせずに去って行った。
◆◇◆
事務所を退所後、私は大検を取って、次の年に短大を受験して無事に入学した。アイドルの勉強しかしていない私が受験して入れる大学なんて限られていたが、別になんでもよかったのだ。アイドルじゃない、ふつうの学校でふつうの生活を送りたかった。
その願いは簡単に叶った。短大に入学した私はふつうに友達を作って、ふつうに遊んで、ふつうに勉強して楽しんだ。その時に彼氏というものもできた。
嶺二くんと再会したのは、大学卒業のすこし前のことだった。
さっさと就職先が決まっていて暇を持て余していた私は、自動車学校に通いつめて最短で車の免許を取った。
1年ちょっとの仮のアイドル生活ですこし貯金があったので、安い中古車を買って早速公道を走り回っていた。
そこに行こうと思ったのは、本当に何となくだった。
その日がなんの日かも思い出すことなく、ただその砂浜を目指した。
着いた頃にはもうすっかり日が落ちかけていて、そこには誰もいなかった。冬の冷たい海風が頬を刺す。
彼が、失踪する最後に目撃されたのがこの砂浜だった。
「あいね、くん」
その名前を発声すること自体久しぶりだった。
あの時の仲間とはもう誰とも連絡をとっていない。事務所を退所した日、その時の携帯を捨てて新しく買い直した。
今のふつうの大学生活で愛音くんに関わるものはなにもない。一応、彼氏だっているのだ。
「愛音くんっ!!」
それなのに、なんで。
なんで、ただその名前を呼んだだけで、一瞬で気持ちが清らかな泉のように湧き上がるのだろう。
ぱしゃり、小さな波が私の足元に跳ねて靴を濡らした。冷たい、そう思ったけど、なぜか私は砂浜のほうに引き返さず、そのまま海の中に足を進めていた。ふくらはぎの半分くらいまで海水に浸かった時にふと空を見上げる。冬のしんとした空気の星空が美しかった。
愛音くんはここで何を考えていたんだろう。
彼の気持ちを救ってあげたかった。それができないなら、一緒になって溺れたってよかったのに。
「なんで、なにも言ってくれなかったの……」
私は自分の体を抱えて、グズグズとだらしなく泣いた。
大きな波が跳ねて、膝まで濡らした。
バシャっバシャっ!と、ひときわ大きな波音が聞こえたかと思ったら、ものすごく強い力で腕を引かれた。
「ちょっと!!なにやってんの?!」
嶺二くんだった。
そのまま強引に腕を引かれて、海の中から砂浜へ戻る。私はなんだか力が抜けてしまって、その場でへたりと座り込む。濡れたところに砂が張り付いて気持ちが悪い。嶺二くんは私の隣りに崩れ落ちるように座って、海水と砂でベタベタの私を引き寄せて強く抱きしめた。
「……嶺二くん、なんでここにいるの?」
「それはこっちのセリフだよ!!なんであんな海の中にいたの?!死ぬ気?!」
なんだかこの妙な状況にへらっと薄笑いしている私に、嶺二くんは今まで見たこともない表情で怒った。
「……ごめん。そんな気は全然なかったの。…ただ、愛音くんがここで何考えてたんだろう、とか色々考えてたら、いつの間にか海の中に入ってた……」
果てのないどこまでも黒い海を見つめると、急に冷静になってゾッとした。本当に自分はなにをしてたんだろう。
「本当に、怖かった…。君までいなくなるかと思った……」
ぎゅっと、きつくきつく抱き締められる。
私は安心してもらおうと、彼の背中に手を回してポンポンと軽く叩いて、この手が震えていることに気づく。
「嶺二くん……さむい、すごく」
「えっ?」
改めて自分のしたことを自覚すると、急に猛烈に寒くなってきた。手はブルブルと大きく震えていて、震えで奥歯がカチカチ鳴っている。
嶺二くんは慌てて自分のコートにマフラー帽子と自分の持つ全ての防寒具で私を包んでくれた。
「とにかく、早く暖まるところに行こう!」
君の車は明日取りに来ればいいから、と嶺二くんは自分の車に私をぎゅっと押し込んで急いで車を走らせた。
都心からだいぶ離れた、山と海に囲まれたこの周辺の地域にまともな宿泊施設があるはずもなく、結局なかなかの年季の入ったラブホテルに泊まることになった。
「はー、死ぬかと思ったぁ」
お風呂に浸かって体温を取り戻した私は、ソファで熱いお茶を飲みながらやっと一息ついた。
「それはこっちのセリフだよ……。海の中に入っていく君を見た時に、こっちも心臓止まりそうだったんだからね!」
嶺二くんがなぜあそこの海にいたかというと、私は気にしていなかったが、今日は愛音くんが失踪した日で、なにも無いとは思いつつも、なにかあるんじゃないかと思って、あそこに来たらしい。
そして、車を停めると、見慣れない車がすでに停まっていて、砂浜に下りると海の中に入っていく女性の姿が見えて、慌てて近寄ると、それがよりによって私だったので、本当にヒヤッとしたらしい。
しばらくして、落ち着いたあと、私たちは近況報告しあった。圭くんと響くんも私が事務所を辞めたすこし後に二人とも辞めたようだった。
すこし話をして、もう寝ようとなった時に、ソファで寝ると言った嶺二くんに、私は一緒にベッドで寝ればいいじゃん。と軽く言った。だって、このバカでかいキングサイズのベッドは二人で寝ても余るくらいだ。
端っこと端っこで寝たら、真ん中にもう1人入れそうなスペースが空いてすこし笑った。
「嶺二くん、手ぇ出さないでね。私、彼氏いるから」
「はぁっ?!彼氏できたの?!なんでっ!」
「なんでって、なに…。告白されたから付き合っただけだよ」
「好きなの?そいつのこと」
「まあ、嫌いではないよね」
「……なにそれ」
彼の声に明らかな不機嫌さが混ざって、ちょっと面倒くさくなったので、話題を嶺二くんの方に振る。
「嶺二くんは?彼女できた?」
「……アイドルは恋愛禁止だよ」
「ふふっ、律儀に守ってるんだ?」
まあ、自分が言える立場ではないが。
律儀に守った結果がこれなら、あの時にもっと抱きしめて、キスして、セックスでもすればよかった。
今の彼氏でさっさと処女を捨てた私は、恋愛が思っていたよりも崇高なものではないことを知った。
「…………そんなの、ばかばかしいよ」
ぽつりとこぼした言葉に返事はなかった。
重たくなってきた瞼を閉じて、私は思った。
体の関係がない恋愛だったからこそ、あの恋が神聖で崇高なものに思えて、愛音くんへの想いが忘れられないんじゃないかと。
「……おやすみ」
まどろみの中で聞いたその声が、あまりにやさしくて、愛音くんみたいだと思いながら、私は眠りにおちた。
◆◇◆
日にち薬、とはよく言ったもので、
5年も6年も経つ頃には、私たちの心に残った傷口には何となくうっすらと瘡蓋のようなものができかかっていた。
その頃から私たちは今まで不自然なくらい触れてこなかった、学園生活の話を笑いながらできるくらいになっていた。
あの砂浜での一件から、嶺二くんとはまた連絡を取り合うようになり、たまにご飯や飲みに行く、ふつうの友達に戻っていた。
あれから何度か彼氏が変わったが、結局、誰と付き合っても本気にはなれなくて長くは続かなかった。
そして、愛音くんが失踪して6年目のその日。
私の家で二人で飲んでいた時に、急に嶺二くんはこう言った。
「なんで、あの時、君が愛音のこと好きだって分かったと思う?」
「私って、そんなに分かりやすく態度に出てた?」
「んーん、上手に隠せてたと思うよ!けーちゃんもひびきんも卒業して君達が付き合うまで、分かってなかったみたいだし〜!」
「じゃあ、嶺二くんが鋭いだけだ!そーいうの、すぐ気付きそうだもんね」
「……違うよ」
嶺二くんの声のトーンが一段低くなり、私はなぜだか妙に胸がそわそわした。
「……ぼくが君の想いに気付いたのは、ぼくがずっと君を目で追いかけてたから、だよ」
ごくり、自分の喉からワインを飲み込む音がやけに大きく聞こえた。
私はその言葉の意味を理解するのに数十秒かかった。理解したと同時に、私は、いやいやいや…そーいうのじゃないから。違う違う。と自分に突っ込んだ。
「…なんてね☆」っていう、続きを期待して、チラリと彼を見たが、その表情は真剣そのもので、私は気まずさを誤魔化すためにグラスに残ったワインを全部飲み干した。
「愛音よりも先に、ぼくは君のことが好きだった。
……今でも、ずっと、ね」
逃げようのない言葉が私を掴む。
なにを言えばいいのか分からなくなっていた私をよそに、嶺二くんは堰をきったように話し出した。
入学式の日、隣の席に座る私が気になってたこと。どうにか仲良くなろうと話題を探してたこと。仲良くなったらあっという間に好きになってしまったこと。でも私の視線の先には愛音くんがいたこと。愛音くんもまた私に惹かれていたこと。
「多分、愛音以外だったら、ぼくは迷わず君にアプローチしてたと思うけど、愛音、だったから。敵わないなって。…だからさ、二人にはさっさとくっついて、ぼくのことを諦めさせて欲しかったんだ」
あの時、嶺二くんが「協力してもいい」と言ったのは、そういうことだったらしい。でも、そのことで私が気まずくなってしまって、愛音くんと少しこじれてしまった時に申し訳ない気持ちと、でも少しラッキーという気持ちで複雑だったようだ。
そんなことまで全部話してくれる嶺二くんに、私はすこしだけ苦笑いをする。
「だからさ、愛音のデビューをきっかけに君達が付き合い出したって聞いて、複雑だったけど、すごく嬉しかった。あの時の君達のしあわせそうな顔を見てたら、いつか諦められるって、思ってたんだ……」
「でも、やっぱり、どこかで羨ましい気持ちが、あったんだろうな……。真っ先にデビューして、映画の主演も決まって、君のことも手に入れた、愛音のことが。……だから、あいつから相談を受けた時も、そこまで真剣に取り合わなかったんだ。ぼくから見たら、愛音はしあわせの絶頂にいるように見えてたから……」
「嶺二くん……」
「愛音も、君も。……けーちゃんもひびきんも叶えられなかった夢を、ぼくはひとりだけ叶えてしまった。アイドルとして、スポットライトを浴びる。こんなにしあわせなことはないのに、ぼくは、心の底から楽しめたことがないんだ……」
「今だったら、愛音の気持ちが分かる。他人から見たら、絶好調でしあわせそうに見えても、心の中は不安や悲しみでいっぱいだったんだよ…。それなのに、ぼくは、本当に愛音に酷いことをしてしまった……」
ポタポタと、嶺二くんの瞳から涙が溢れて床に落ちる。
私はずっと、嶺二くんも私と同じように徐々に傷が癒えてきたのだと思っていた。でも、そうじゃなかった。彼の心の傷はずっとずっと根深くて、じゅくじゅくに膿んでいたのだ。
私の頭には、実際に見てもいないのに、あの夜の砂浜で、冷たい海水に足をつけて佇む愛音くんの姿が思い浮かんだ。そして、その姿がいつしか嶺二くんに変わる。
嶺二くんも、あの夜の海の中にずっと取り残されたままなのだと思った。深くて、暗い、その奥底に。
気付いたら、嶺二くんを抱きしめていた。
哀しい、と思った。でも、どこかで、その傷の痛みですら羨ましいと思う自分がいた。愛音くんは、私には優しすぎた。嶺二くんには一生治らない傷を付けたくせに、私には治る程度のちいさな傷しか付けてくれなかった。
その痛みを、分けて欲しかった。
私はその唇に、そっとキスをした。
嶺二くんの瞳が、揺れていた。彼から見た私の瞳もきっと揺れていたのだろう。
お互いに、最初はいけないことのように、恐る恐る触れるだけの、探るようなキスをした。でも、お互いの舌先がふと触れて、その熱さを感じた時に、なにかが音を立てて崩れていった。そこからもう罪悪感もかなしみも何もかも全て放り投げて、息を忘れそうなくらいにお互いの口内を貪り合った。
その夜、私たちはあの暗い海に溺れるみたいに抱き合った。
◆◇◆
愛音くんがいなくなって、8年が経った。
愛音くんがいなくなって何年かは、愛音くんの好きな食べ物や、いつも飲んでいたドリンク、好きな花、一緒に歩いた道、そんなものを見るたびに、胸がきゅっと締めつけられて泣きそうな気持ちになったのに、今はその時の気持ちを引き出すことが難しくなってきた。
今の私は、スーパーの惣菜コーナーで唐揚げを見ると、嶺二くんを思い出してしまう。ドーナツを買う時には、この手が自然と彼の好きな物も選んでいる。雑貨屋さんでキャンドルを見つけると、自分で使いもしないのについ手が伸びてしまう。
もう、私は、愛音くんがどんな声で私を呼んでいたのか、どんな表情で私と話していたのか、おぼろげにしか思い出せなくなっていた。大好きだったはずなのに、今だって大事なはずなのに、私の記憶からあぶくのようにそれは消えていく。
でも、嶺二くんと抱き合っている時だけは違う。
彼のその罪悪感の中に愛音くんはずっと住んでいる。嶺二くんを通じてだけ、私は彼に触れることができるのだ。
肌と肌が重なって、お互いの吐息が絡み合う。
私たちはこうやって慰め合うふりをして、傷つけ合っているだけかもしれない。
でも、私はそれでも構わない。こうやって、二人でいる限りは愛音くんのことを忘れることなんてできないのだから。
「…………だいすき、」
その言葉は一体だれに言っているのだろう。
私がその言葉を吐くたびに、彼の瞳のきらめきが薄く曇っていく。でも、その瞬間を見るたびに、胸が締めつけられる痛みの奥に、一筋の高揚感を得て、私は満足するのだった。
嶺二くんの手が、私の頬にそっと触れて、その唇が、とろけるような甘さで私の名前を呼ぶ。
その後に何か言おうとして、すこし唇が動いたけど、それは言葉にならないまま、その代わりに深く口付けされる。
嶺二くんの額の汗が、ぽとりと私の頬に落ちた。
涙みたい、なんて思いながら、私はその汗ばんだ背中に手を回して、ぎゅっと強く強く抱きしめた。
甘くて苦い、痺れるようなこの胸の痛み。
私はこの感情の名前をずっと分からないままでいる。