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楽しくない、楽しくない、楽しくない!!!
悪魔メフィストフェレスは憤っていた。
あれから何年経ったのだろうか。
忌々しい、あの、ファウストの魂を逃してから。
あれから、いくつもの人間を騙し、思う通りにその魂を奪ってきた。だが、渇きは癒えない。
ふと、思い出すのだ。あの人間のことを。あの時に奪えなかった、たったひとつの、ちっぽけな魂のことを。あれから百年は経とうとしている今でも思い出しただけで腸が煮えくり返るような怒りが湧く。
あの時の、神の勝ち誇ったような態度も気に入らない。
神は平等だと、人間は言うけれど、決してそんなことはない。あのファウストのように、神が特別に目をかけている人間はいる。だからと言って、神がその人間に特別に手を貸すようなことはないが。神はすべての人間を愛している。でも、その中でも優劣はつけている。それ自体が傲慢じゃないのか。人間はなぜあのようなものを崇めるのだろうか。それなら悪魔である自分だって崇めてくれればいいじゃないか。こっちは人間程度が望むものなど簡単に叶えてやれるというのに。
(まあ、もっちろん!魂と引き換えに、だけどね!)
◆◇◆
メフィストフェレスがその時、神の“お気に入り”を見に行こうと思ったのは、ただの気まぐれであり、ただの暇つぶしだった。
今までに何度も神のお気に入りの魂を奪ってやろうと画策したことがあるが、さすがに神のお気に入り達はなかなか思う通りに誘惑に乗らない。ほんの少しだけ楽しく遊びたいだけなのに、楽しいどころか、苛立ちばかりが募るようになってもう止めた。ファウスト以降は神のお気に入りに手を出していない。
だから、ただの気まぐれ、だったのだ。
その時までは。
うつくしい、娘だった。
容姿の話ではない。その清廉で高潔な魂の話だ。
そのガラス玉のような、ひとつの曇りもない純粋無垢な瞳を見た時に、この魂が“欲しい”と強烈に思った。いつものように“奪いたい”ではなく、“欲しい”と思ったのだ。
地獄に落とすなんて、そんなことは勿体ない。美しい宝石を愛でるように、この魂を自分の傍にずっっと置いておきたい。そう思ったのだ。
サクラという、その娘は敬虔なクリスチャンだった。
毎日教会に来ては、聖書を読み、賛美歌を歌い、神に祈りを捧げる。それ以外は真面目に働き、家事をこなし、家族に尽くす、メフィストからすれば、なんの面白みもない生活をしていた。
人のフリをして、彼女に近付いた。
彼女は、誰にでも親切で、平等で、人を疑うことをしなかった。親しくなるのにそう時間はかからなかった。
そして、真綿で首を絞めるように、ゆっくりと、じんわりと、確実に、彼女から大切なものを奪っていった。
可愛いがっていたペットを、幼い頃からの親友を、尊敬する兄と姉を、慈しんでいた弟と妹を、愛する両親を。その度に、人のフリをしてやさしく慰めた。そして、彼女に問った。大切なものを取り戻したくないのかと。その問いに、彼女はいつも首を横に振るだけだった。
いつか、あまりに頑なな彼女にこう言った。
「はっ!“神は越えられない試練を与えない”とでも言うのか?!」
彼女が自分のものにならない苛立ちに、それまで繕っていた紳士の皮は剥がれ、獰猛な悪魔メフィストフェレスの本性が出ていた。
そのいつもと違う横暴なもの言いに、彼女は少し驚いたように目を見開いたが、すぐにいつもの顔に戻った。そしてガラス玉の瞳でメフィストを見つめてこう言った。
「その“試練”というのは本当は誤訳なんですよ。本来の聖書には、そこは“誘惑”と書かれてあるんです」
「はっ?どういうこと?」
「神は耐えられない“誘惑”を与えることはありません。そこには、“悪魔”や“偶像礼拝”からの誘惑は避けなさい。神はその誘惑から逃れる道を備えていて下さっている、ということが記されているんですよ」
悪魔、誘惑、という言葉に、あるはずもない心臓が、ドキリと大きく動いたような気がした。
彼女はとっくに気付いていたのだろうか。自分の正体に。
そのガラス玉の瞳は、純粋無垢なようで、でも、なにを考えているのかがさっぱり分からない。すべてを見透かされているような気がした。
彼女の魂を奪うには彼女の心から“神”を消すしかないんじゃないかと思った。
もう、ほとんど子供の癇癪だった。
彼女のまわりの人間を一人ずつ消していった。しばらくして、その小さな町には自分と彼女だけになった。
それはメフィストにとっては瞬く間のことだったが、この世界の時間は違ったようだ。
崩れかけた教会の、朽ちてボロボロになった木の長椅子に座って彼女は神に祈りを捧げている。天井の大きな穴からは陽光が降り注ぎ、その姿を照らしていた。
まるで、聖母マリアのようではないか。
あまりの眩しさにメフィストは目を細めた。
彼女の視線はボロボロになって傾いたイエス・キリストの像に注がれていて、その目尻にはうっすらと数本の皺が刻まれていた。
その純真さが、もはや狂気のように思えた。
メフィストはイエス・キリスト像を隠すように、彼女の前に立つ。
「……まだ、神を信じるのか?!あんたは!神は、なぁんにもしてくれないぞ?俺なら、あんたが望むもの全て叶えられる!だから、契約しろ!この、悪魔メフィストフェレスと!」
メフィストが人の姿を半分解くと、その頭には雄牛のような角が表れ、その口からは尖った牙が見えた。
彼女はなにも驚いてはいなかった。
そのガラス玉の瞳で静かにメフィストを見つめていた。
「……ちっ!最初っから、こうしてればよかった」
メフィストは彼女の下顎を強引に掴み、その唇を貪るように塞ぐ。無理やり舌を捩じ込んで、その舌を強く吸う。
契約のキスでも何でもない。そもそも、本人の意志のない契約は悪魔でもできない。これは単なる憂さ晴らしだ。
その薄っぺらい身体を、朽ちた長椅子に押し付けると、ぎしりと軋み、パラパラと木屑が落ちた。
彼女の細い首筋に顔をうずめて、牙を立てる。
その清廉な魂からは想像もできなかった、蠱惑的な香りがメフィストの鼻をくすぐる。こんな、ちっぽけな、ただの人間の娘相手に、どうしようもないくらい昂っていた。
彼女はなんの抵抗もしなかった。
彼女のその純潔の花を散らした時に、まだこんな甘やかな快楽がこの世界にあるのかと思った。悪魔としてこの世界のすべての快楽を手に入れたはずなのに。
「“汝、姦淫することなかれ”
……あはっ、神様との約束、破っちゃったねぇ!!」
アッハッハ!ここ何十年で最も嬉しそうな笑い声が出た。
彼女のガラス玉の瞳から、はらりと涙がこぼれた。
痛みか、悲しみか、はたまた快楽か。メフィストはその長い舌でひとつもこぼさずにその涙を舐め上げた。
彼女の中で何度も果てたあと、メフィストは、ふと、とても楽しそうなことを思いついてしまった。
「“姦淫”ってのは、結婚相手以外と関係を結ぶってコトだよねぇ〜?だったら、俺達が一緒になれば、“姦淫”にはならないってことだ」
あはっ、と楽しそうに笑う声が、崩れかけの教会によく響いた。
「あんたの、大事な大事な、神との約束が、それで守れるじゃないか」
メフィストは彼女の左手をとって、その薬指にうやうやしく口付ける。
「……こんな時、人間は、こう言うんだろう?
“病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで”って」
彼女はメフィストに握られた左手をじっと見つめて、まるで歌うような軽やかさで、スラスラとその聖書の一節を言った。
「愛は寛容であり、愛は親切です。また、人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」
メフィストがその当てつけとも言える内容を、噛み砕いてすべて理解した時に、彼女はふっと微笑んだ。その感情に、はじめて触れたような気がした。
◆◇◆
あれから、誰もいないあの小さな町を捨て、人のフリをして彼女と一緒に別の町に夫婦として移り住んだ。
メフィストにとってはただの遊びだった。魂が奪えない代わりに、おままごとをして遊んでいただけだ。
メフィストにとっては瞬くような時間だった。
だが、彼女にとってはそうじゃなかった。
白いシーツに置かれた手を握る。
もうすっかり衰えてしまった、骨と皮だけのくしゃくしゃの枯れ木のような細い手だった。
彼女の手がピクリと反応して、重たげな瞼がゆっくりと開く。年老いてもなお、そのガラス玉の瞳の、純粋無垢な輝きだけは変わらない。もうすぐ、その命の灯火が消えることは分かっていた。
「サクラ!俺と契約しろ!……あんたの魂だけは、地獄に落とさずに俺が大事に大事に傍に置いててやるからさぁ」
そう言うと、彼女のしわくちゃの目尻に、さらに深い皺が寄って、その表情が少女の頃のように淡く綻んだ。
メフィストの手をか弱い力で握り返す。
「……わたしだけの、寂しがりやの悪魔さん、」
彼女はふっと微笑んで、ゆっくり目を閉じた。その手がもう動くことはなかった。
「……ははっ……なんだ、それ」
ハハっ、ァハハハっ!湿った声の高笑いだけが、しばらくの間その部屋に響いていた。
◆◇◆
天に召された、ということは、その魂は巡り巡っていずれまた地上に戻ってくるということだ。
何十年、何百年、それ以上かかるかもしれない。
だが、そんな時間は悠久の時を過ごす自分にとっては些細なものだ。
たとえ、どんな姿になっていようが、自分はすぐに見つけ出すだろう。その、うつくしい魂を。
ふぁ、と、ひとつ欠伸がでた。
悪魔は眠くなることはない。睡眠など必要としない。
それでも、少しだけ眠りたいと思った。
瞼をそっと閉じる。ガラス玉の瞳がこちらを見て微笑んでいた。