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はじめて君が来た日をよく覚えているよ。
それは、アンティークスのオーナーから店を任されるようになって、まだあまり日が経っていない頃だった。
その年の冬は本当に寒くて、都心でも雪が降ることが多かった。
その日も雪が降る予報で、キンと刺すような冷たい空気だった。そのせいか、朝からお客さんはまばらで、元也には休ませて一人で店を回していた。
夕方になって、はらはらと小さな雪が舞い出した頃に、店内に居たお客さんはもうみんな帰ってしまって、一人でのんびりと片付けをしていた。
しばらくすると、窓から見える景色がどんどんと白くなっていって、いつの間にか、地面のアスファルトにはうっすらと雪が積もっていた。
(あちゃー……今日はもう店じまいかな)
さすがにこの雪じゃもうお客さんは来ないだろうと思って、片付けが済んだら早めに店を閉めるつもりでいた。
そんな時、カランと、店の扉の鐘が控えめに鳴った。
おずおずと少し不安そうな顔で入ってきたのが君だった。
この辺りではあまり見かけないセーラー服の制服姿で、厚手のダッフルコートにモコモコのマフラー、でも、足は素足にハイカットの靴下で、いかにも女子高生という感じだった。
その、一度も染めたことがなさそうな黒髪には帽子みたいに白く雪が積もっていて、寒さでほっぺと鼻先が林檎みたいに赤くなっている姿がなんだか微笑ましかった。
「……あの、まだ、大丈夫ですか?」
「もちろん!いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
そう言うと、君は窓際の席に座って、ふぅと安心したように小さく息を吐いた。店内の暖かさで、頭に積もった雪が水になって、ポトリと落ちた。
俺は慌てて、裏から新しいタオルを持ってきて、君に差し出す。
「これ、よかったら使って?」
「……えっ!そんなの、悪いです!だ、大丈夫なのでっ」
「風邪ひいちゃうといけないから、ね?」
うろたえる君に、半ば強制的にタオルを押し付けると、おずおずと受け取って、その濡れた髪の毛を遠慮がちに拭いた。
「すみません……ありがとうございます」
「いいの、いいの。外、寒かったでしょ?なにか温かいものがいいかな?」
「……あ、じゃあ、ホットココアでお願いします」
「かしこまりました。少々お待ち下さいね」
◆◇◆
「……おいしい」
その、思わず漏らしたような小さな声は、しっかりと俺の耳にも届いていた。
キッチンスペースの見えない所で小さくガッツポーズをする。意図せずに何気に出た、心からの「おいしい」が一番嬉しいのだ。
雪が舞う窓の外の風景と、しあわせそうに目を細めて温かいココアを飲む君が、ひとつの絵画みたいだったことを、今でもよく覚えている。
そして、店を出る時に、小さな声で
「……美味しかったです。…また、来ます」
と言って、はにかんだように笑った君は、本当にそれから何年もずっとこの店に来てくれたね。
◆◇◆
高校生の時は、友達と来てホットココアやクリー厶ソーダを飲んでいた君が、大学生になって、彼氏と来てカフェラテやコーヒーフロートを頼むようになり、社会人になってからは一人で来てブラックコーヒーを飲むようになって、その移り変わりを、切ないような愛おしいような気持ちで見つめていたなんて、きっと君は知らないはずだ。
今やすっかり君の定位置になった、カウンターの一番端っこの席を見ると、君が仕事の資料を読みながらコーヒーを飲んでいる。
ふと、その横顔を見て、綺麗になったな、と思った。
高校生の頃はふっくらして愛らしかったほっぺは少しシャープになり、メイクもスーツも馴染んできたその姿は、もうすっかり大人の女性だった。
そんな視線にも君は気付かず、その代わりに元也が目ざとく気付いたようで、ツンツンと肘で小突かれた。
「涼くんさー、あの子のこと、お気に入りだよね」
「えっ?」
「あの子も涼くんのこと、気になってると思うんだけどな〜」
「いやいやいや、んなことないでしょ!何回か彼氏連れて来たことあるし……」
「でも、すぐ別れてるっぽくない?」
「それは分かんないけどさ……。それに、俺は、店のお客さんには手を出さない主義なのっ!」
「……ふーーん。別にいいと思うけどなぁ」
元也は簡単にそう言うけど、実際に店員と客から変化する関係は面倒くさいことが沢山あるのだ。
実は、このアンティークスで働く前、飲食店でアルバイトしていた時に、何度かお客さんに言い寄られて、何となく付き合ったことがある。
結局、どの子とも上手くいかず、ただ苦い思い出だけが残った。
そうなるくらいなら、ただの店員とお客さんの関係でいい。
それに、俺の気持ちは恋愛感情なんかじゃない。
確かにあの子には、他のお客さんよりも思い入れがある。
でも、それは、俺がこの店を継いだ当初から来てくれる古参の常連さんであるから。
それに、初めて来た時のあどけない制服姿から、どんどん大人の女性になっていく過程を見ているせいで、変に情が移ってしまっているだけだ。
そうやって思い込むことで、俺は本当の気持ちに蓋をして、喫茶アンティークスの店長として君の前では振る舞っていたんだ。
◆◇◆
いつもの時間に君が来ない。
まあ、たまにはそんな日もあるだろうと思っていても、何だか気になってしまって、つい時計をチラチラと見てしまう。
とうとうラストオーダーの時間になって、諦めて店の扉に掛かっているプレートを“Closed”にしようと外に出ると、小走りでやって来る君の姿が見えた。
「あっ!……もう、おしまい、ですよね……」
「だいじょうぶ。ギリギリセーフだよ。
いらっしゃいませ。中へどうぞ?」
扉を開けて、入るように促すと、君は少し申し訳なさそうな顔で会釈をして、いつもの席に座った。
君が最近お気に入りのキリマンジャロのコーヒーを出すと、「ありがとうございます」と微笑んでくれたけど、その表情は少しいつもと違って、憂いを帯びている気がした。
何となく、話しかけて欲しくないような雰囲気を感じて、「ごゆっくりどうぞ」と一声だけ掛けて、キッチンスペースへ下がる。
閉店まであと30分というところで、他のお客さんはみんな帰ってしまった。今日は元也も用事があるからと、早めに上がったので、店内には俺と君の二人だけになった。
他のテーブルの片付けをしながら、カウンター席に座る君をチラリと見る。コーヒーはまだ半分以上残っていて、もうすっかり冷めているはずだ。
君はコーヒーカップの持ち手に指を添えたまま、心ここにあらずという感じでぼんやりしている。
俺は少し思い付いたことがあって、キッチンに戻った。
◆◇◆
「今日はコーヒーの気分じゃなかったかな?よかったら、こっちを飲んでみる?もちろん、サービスだよ」
そう言って、俺は冷めたコーヒーカップを下げて、君の目の前に新しいマグカップを置く。
「……え、あっ、すみません!そんなわけじゃ……!」
慌てた様子の君をにっこりと笑顔で制して、マグカップを指すと、君はその中身に気付いてくれた。
「あっ、ココア!……懐かしい。
好きだったの、覚えててくれたんですね」
「高校生の時はこればっかり飲んでたよね。
久しぶりに、どうかなって思って」
「……ありがとうございます。いただきます」
まだ白い湯気が立つマグカップに、そっと口を付ける。
「……あまくて、おいしい」
目元がほころんで、ホッとしたやわらかな表情になる。
張りつめていた君の空気がすこし解けるのを感じた。
「心が疲れてる時は、甘いものが一番だよ」
そう言うと、君は泣き出しそうな表情になった。
「……店長さんは、何でもお見通しなんですね」
「そうかな?」
少しの間を置いて、君はおずおずと口を開いた。
「…………実は、結婚を前提に付き合ってた彼に浮気されて……破談になったんです」
「えっ!」
はは、と自嘲気味に君は笑おうとしたけど、うまく笑えていなかった。
そして、俺は、そんな寝耳に水の話を聞かされて、内心ものすごく動揺していた。
君は社会人になってからは、ここに誰かを連れて来たこともなかったし、そんな彼がいたことも聞いていなかったからだ。
「……でも、そもそも、私が、悪いんです。
本当は、昔からずっと想っている人がいるのに、他の人と付き合ったりするから……」
「え……、そう、なんだ?」
今まで君からいくつかの恋愛話なら聞いてきたけど、そんな相手がいることは初耳だった。今までずっと口に出さなかったということは、それだけ本気だということだろう。
胸の奥に、ほんのすこしの靄がかかる。
「……高校生の時に、年上の素敵な男の人に恋をしたんです。
その人は、すごくやさしくて、私の子供じみた悩みにも真剣に相談に乗ってくれて、励ましてくれて……。それが本当に嬉しかった。でも、本当は、分かっていたんです。それは私が“お客さん”だからだって。最初から叶わない恋だって分かっていたんです」
「だから、友達に“もっと現実見なよ”って言われて、今までに何人かと付き合ったけど、うまくいかなくて……。
そりゃそうですよね。他に好きな人がいるのに、うまくいくわけがないですよね」
「……わたし、本っ当に、バカです。
こんなことになったのに、少しだけホッとしてる。
だって、今だって、叶うわけないのに、ずっとその人のことが、好きなんです……」
君の濡れた瞳が俺のことを射貫いた時、俺の心臓が大きく跳ねた。それが誰のことかなんて、もう、明白だった。
「……それって、」
店の古い掛け時計が、ボーンと20時の時報を鳴らす。
喫茶アンティークス閉店の時間だ。
「ごめんなさい!閉店の時間ですよね。帰ります」
そう言って、気まずそうに立ち上がる君の手を掴む。
この手を離してしまったら、君はもう二度とこの店には来ないと分かっていた。
視線で促すと、君は少し戸惑った顔でもう一度イスに座る。
「……俺はね、お店のお客さんと沢山喋ったりするけど、でも、本当に深い関わりは持たないようにしているんだ。あくまで、店員とお客さん、その立場を守るようにしてるんだけど……」
「でも、もう、この喫茶アンティークスは今閉店しちゃったから、これはここの店長じゃなくて、俺個人として話をしてもいいかな?」
君がコクリと小さく頷いて、俺は隣りの椅子に腰掛けて、その目を見つめる。
「正直に言うと、君が彼氏を連れてくるたびに、そんな男止めとけよ!って毎回思ってた」
「えっ」
本当に正直な話、君のその男の見る目のなさに何度心の中でモヤモヤしたことか。
実際に君が連れて来るのは、君には優しい言葉をかけるけど、こっちには横柄な態度の男だったり、1円単位で割り勘する男だったり、自分の自慢話ばかり延々する男だったり…。あいつらの前では、いつも君は困ったように笑っていた。
「年頃の女の子にそんな事言っても、疎ましがられるだけだろうし、反対されると変に意固地になって、別れられなくなることもあるし。
……それに、俺はただのこの店の従業員だからさ、そんなこと言う権利なんてないしって思ってた」
「……でもね、本当はずっと、思ってたんだ。
俺なら、君のことをドリンク一杯でしあわせな気持ちにしてあげられるのにって」
この店に来てくれるお客さんには、せめてここに居る時は癒しの時間を過ごして、しあわせな気持ちで帰って欲しいと思っている。
でも、君に対しては、いつも俺がしあわせな気持ちにしてあげたいと思っていた。だから、君のオーダーは元也に作らせたことがないのだ。
「君のことを想っていたのは、俺も同じだよ。
君が、俺の淹れた一杯を、しあわせそうに飲む姿を見るのが俺のしあわせだったんだ」
そう言うと、君は頬を赤く染めて、ボロボロと涙を流していた。メイクが崩れて少し幼い泣き顔なった姿は、初めて会った日の君を思い出させて愛おしく思った。
濡れた頬に手を伸ばす。
身を乗り出すと、椅子が小さく軋む音がした。
触れるだけのキスをすると、ココアの甘い香りが鼻をかすめる。なんだか、堪らない気持ちになって、君の顎をそっと掴んで、その下唇を喰むようにもう一度キスをする。
唇が離れて、さっきとは違う意味で潤んだ君の瞳と見つめ合う。
「……店長さん、」
「こーら、今はここの店長じゃないって言ったでしょ?
……涼二って、呼んで」
「……涼二、さん」
「いい子だね」
ご褒美とばかりに、またキスをする。
角度を変えながら何度もキスをして、すっかり力が抜けた君の唇の隙間から舌を差し入れる。その口の中は思った通りココアの甘さがまだ残っていて、ゆっくりと丁寧に、その甘さを堪能するように味わう。
君がぎゅっと強く俺のベストを掴んで、少し苦しそうな吐息が洩れたときにやっと唇を離した。
「……あまくて、おいしい」
すこし前に君がこぼした言葉を、耳元でそっと囁くと、君の耳がみるみるうちに赤く染まっていく。
俺は、甘さの余韻を楽しむように自分の唇をぺろりと舐めて、そのしあわせに目を細めた。
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