裏僕小説その2
この日の為に、斎悧は多忙なスケジュールを何ヵ月も前から調整し、休日をとっていた。
朝、目覚めてカーテンを開くと、春の訪れを感じさせるうららかな陽射しが降り注ぐ。
昨夜も激しく繋がりあった愛しい彼は、とうに起き出して朝食の仕度をしているらしい。
珈琲の香りに誘われてキッチンに向かうと、柔らかな陽だまりの笑顔が真っ直ぐに斎悧に向けられた。
「おはようございます、斎悧さん」
今日も変わらずに、彼は傍にいてくれる。
ただそれだけの幸せを噛みしめて、斎悧は夕月を腕の中に抱いた。
「おはよう、夕月。綺麗な花だな」
ダイニングテーブルに飾られた花が、いつもとは違う雰囲気を飾っていることに気が付いて、ほのかに漂う甘い香りに斎悧は眼を細めた。
「今日は特別な日ですから。朝食を食べたら、お散歩に出掛けませんか?斎悧さんに見せたいものがあるんです」
腕が苦しいとじゃれる夕月の髪を唇で梳きながら、斎悧は陶器の器に飾られたアレンジブーケを眺める。
やはり彼は手先が器用でセンスも良い。
春の芽吹きをイメージした、淡く優しい色合いの生花のなかに、ほんの数片の薄紫色の花弁が、まるでそよ風に乗って散ったようにテーブルに落ちている。
見覚えのある色合いに斎悧が記憶を手繰り寄せていると、服の袖がくいくいと引っ張られた。
「今日は一日お休みですか?ずっと僕の傍にいてくれますよね?」
「ああ、勿論だ。散歩から帰ってきたら、昼食は俺が作るよ。夜はディナーを予約してある。ずっと二人きりで過ごそう」
そしてもう一度、あの指輪を渡したい。きっと彼は、大切にとっておいてくれるだろうから。
本当は一日と言わず、永遠に二人きりで日々を過ごしていたい。
誰にも邪魔をされず、彼がいるたった二人の世界で生きていけたらと、斎悧は叶うはずのない願望を、ずっと昔から秘めていたのだ。
平日の昼間だからか、彼らの思い出の地である桜ヶ丘公園内は、人影がまばらだった。
誰も見ていないのだからと手を差し出せば、いつもは外で手を繋ぐことを恥ずかしがる夕月も、黙って斎悧の右手に左手を重ねる。
「ぽかぽかして、気持ちがいいですね」
「もうすぐ桜も咲くだろうな。その時は、一緒に花見に来ようか」
夕月は答えずに、斎悧に微笑んでみせた。
二人は寄り添いあって、つぼみ始めた桜並木の遊歩道を散策する。
柔らかく降り注ぐ陽光は身体に心地が良く、佇む木々だけではなく雪解けから目覚めた草花も、まもなく訪れる春の到来を告げていた。
「斎悧さんとお付き合いを始めてから、もう二年になりますね。斎悧さんは今も変わらず、僕を好きでいてくれますか?」
さく、さく、と二人分の静かな足音だけが聴こえる。
通り過ぎる人もすれ違う人もおらず、この世界には初めから二人しかいなかったのだと錯覚させる。
ぽつりと呟かれた夕月の質問に、斎悧は迷うことなく頷いた。
「斎悧さんは、僕に言ってくれました。『俺の気持ちは変わらない。ずっと昔からあなたのことが好きだったから。卑怯だと言われてもいい。世界中の誰に嫌われようと、世界中の誰よりも、なによりも、俺はあなたを大切にする』……今でもずっと、忘れることなく僕の中に残っています」
胸に手を添え、夕月はかつて与えられた斎悧の告白を読む。
斎悧はずっと、夕月の口から紡がれる言葉を見つめていた。
出逢った頃よりも、日ごとあなたを想うたびに、愛しさは募るばかり。
彼の全てが眩しく、この身を焼かれるほどの恋に毎日おちている。
大好きな彼と過ごしたかけがえのない時間を、一秒たりとも忘れたことはない。
でも、彼は?
愛する人の一番に、自分はなれたのだろうか。
それとも、彼がかつて愛したあの男の存在が、彼の中の多数を占めているのか。
「夕月……あなたは」
無償に捧げる愛の裏で、斎悧はいつも恐怖心に苛まれていた。
何度も胸の中で問い掛けては、返ってくることのない答えに怯えていた。
もしかしたら、自分はひどく彼に恨まれていて、復讐をするつもりで傍にいるのでは?
ありもしない妄想に駆られる時、斎悧の両手はきまって小刻みに震える。
「斎悧さん、大丈夫ですか?」
じっとりと汗ばんだ右手を、夕月の両手が包み込んでいる。
不意に訪れる斎悧の不安定さを知りながら、夕月は問い質すこともせず、黙って傍に寄り添っている。
「すまない……」
いつの間にか歩みが止まり、斎悧は振り絞るように謝罪した。
「……斎悧さん、僕はあの時あなたに、忘れられない人がいる、と言いました。覚えていますか?」
「…ああ」
斎悧は急に、夕月の柔らかな甘い声が遠くなっていくのを感じていた。
彼がすぐ傍にいるというのに、どこか手の届かないような、ずっと遠くに離れて行くようで、斎悧は夕月の両手を強く握っていた。
「見せたいものがあるって、言いましたよね。こっちに……」
斎悧は迷子になった幼子のように手を引かれ、導かれるままに遊歩道を外れて行った。
斎悧と夕月は舗装されていない土道を進み、やがて辺りが拓かれた林の中に出る。
彼らの眼の前には、設えられたかのように、他の花々に先だって花を咲かせている低木があった。
まるでその花だけがスポットライトを浴びて、周囲の景色から隔絶された異質な空気を放っている。
「この…花は…」
斎悧はその場に縫い付けられたように歩みを止めた。
夕月は斎悧から手を放し、一歩ずつ、舞台上の俳優がクライマックスの場面に向かうように歩いて行く。
二メートルほどの背丈がある低木は、枝一杯に薄紅に紫の混じった花を咲かせていた。
夕月は満開の、後は散ることを待つだけの花々から、花弁をひとひらむしり取り、手の平に載せる。
「花蘇芳というんです。……あなたが良く知っている花だ。セイヨウハナスオウは、イスカリオテのユダがこ木の下で首を吊ったという伝説から、ユダの木とも呼ばれているそうです。花言葉のひとつは、裏切り……」
夕月は斎悧を見つめる。彼に向けていた、柔らかで優しく、繊細な陽だまりの微笑みで。
「この花には若葉がないんです。枝から直接花をつけるので、まるで作り物のように見えませんか?」
蝶形の花弁は造花のようだと、夕月は言った。
手の平に載せた花弁を指で摘まんでもてあそびながら、不自然なほどに斎悧のよく知った微笑みを浮かべている。
斎悧は喉から一切の水分が枯れ、カラカラに乾くのを感じていた。
足元から闇に覆われていくようで、自分が今、息をしているのかさえ曖昧だった。
彼だけがこの場に取り残されていたのなら、人は彼が蝋人形か何かだと錯覚するかもしれない。
それほどに、斎悧の血の気は失せ、生気さえも感じられなくなっていた。
「…ルカが亡くなった時、遺体の周りには花蘇芳が散っていました。僕はその時、この花の名を知らなかったんです」
瞬きひとつしない斎悧に構わず、夕月は続ける。用意しておいた台本を、すらすらと読み上げるように。
「犯人に復讐を誓った時、僕はそんな虚しいことをして、あの人が喜ぶだろうかと思いました。あの人だったら、僕になんと言ってくれるだろう。……でも僕は、犯人がすごく…すごく憎くて、どうしようもなく苦しかった」
斎悧は昔、夕月に問いかけた。
あなただったら、全てを忘れて生きてゆけるのかと。
その言葉に、どんな深い意味が隠されているかを考えもせず。
花弁をぐしゃりと握り潰し、夕月は自分の胸を拳で強く叩く。
彼が今まで決して見せることのなかった、煮え滾るマグマの激情をついに表面に晒し、斎悧は息を呑んだ。
「……あなたは、真実を知ったのか」
この花を目の当たりにした瞬間から、斎悧は自分と夕月を繋ぐ赤い糸が、ばっさりと断ち切られるのを感じていた。
いつか、彼が真実を知る時が訪れる。
もしもその時が来たのなら、自分は彼の眼にどう映るのか。
だが、斎悧が恐れていたその時は、斎悧が思っていたよりもずっと早くに訪れていたのだ。
黒刀と焔椎真の亡骸を前にして、夕月は泣いていた。
だがその裏で、どんなに嗤っていただろう。
どんなに辛かったことだろう。
あの花が造花に見えるように、夕月の周りにいる者は全て偽りだったと知った時、彼の眼はどんなに絶望に沈んだのか。
「夕月…あなたがその手を汚す必要など、どこにもなかったんだ。罪なら俺が独り、一生を懸けて背負っていくつもりだった」
拳を作った夕月の両手が白く冷えきって、小刻みに震えている。
斎悧は彼がいつもそうしてくれていたように、両手で包み込んだ。
斎悧が愛したこの両手が、他人の血に汚れるなど、あってはならなかったのに。
「大好きな斎悧さん。大好きで、憎くて、恨んでいる。……殺してしまいたいくらい、あなたを愛していましたよ」
どこで歯車が狂ってしまったのだろう。
自分と夕月を繋いでいると思っていた赤い糸は、どこで絡まり、離れてしまったのか。
あの男が現れたときか。
夕月を愛してしまったと自覚した、あの幼き日か。
「斎悧さん、僕の復讐はこれで終わります。これでようやく……僕は僕を棄てることができる」
夕月は斎悧の手をそっと放す。そして、ごく自然な動作でナイフを取り出した。
銀色に光る刃先は、真っ直ぐに斎悧に向けられている。
「愛しています、斎悧さん。僕のために死んでくれますか」
『おはようございます、斎悧さん』
今朝向けられた朗らかな笑顔のまま、夕月は斎悧の咽喉にナイフを突き立てた。
彼の嘘は、最後まで優しかった。
俺は一生に一度、最初で最後の恋をした。今ここで死ぬことができるのなら、どうかあなたの顔を見て、笑って死んでゆきたい。
斎悧の世界は夕月が全て。
眼に映す存在はあなただけ。
他人など、たとえ夕月が大切だと思っている人間でも、どうでもいい。
ああ、だけど。大切な夕月の手を穢させるなど、あいつらはなんて罪深い。
彼が憂うくらいなら、自分がこの手で殺しておくべきだったのだ。
「謝らないんですか。ルカを殺して悪かったと。哀しい思いをさせてすまなかった。僕からルカを取り上げて、申し訳なかったと」
「俺はいつも、あなたの幸せを願っている」
斎悧はカタカタと震えていた夕月の手首を掴み、大きく頭上に振り上げると、一気に自分の心臓を目がけて突き刺した。
夕月が僅かに眼を見開き、そして……ズブッ…、と肉を突く音がする。
痛みというよりは、衝撃だった。
ドクドクと溢れる鮮血が、花蘇芳の花弁を真紅に染めてゆく。
「斎悧さ……」
あなたの笑顔が好きだ。
あなたの声が好きだ。
髪の毛一本まで、あなたが愛おしい。
血が伝う両腕を伸ばし、夕月の頬に触れる。
流れる血がうっとおしい。これでは彼の体温が深く感じられない。
手足から力が抜ける。
背中から地面に倒れ、澄んだ青空がやけに近くに迫っていた。
「……キスを……」
あの男も、こんな景色を見ていたのだろうか。
しかし自分はあの男よりも幸せ者だ。
息絶えてゆく孤独な時間に、彼がいてくれるのだから。
勝ち誇った笑みを浮かべ、斎悧の視界は青から白に、紺から黒へと変化する。
最後に、いつもと変わらない、夕月の穏やかな笑顔が見えた。
眼が覚めたら、彼がきっと待っていてくれる。
幸せを祈っている、だなんていったけれど。
眼が覚めたら、あなたは「おはようございます、斎悧さん」と、変わらずに傍にいてくれるだろうか。
息絶えた斎悧の顔を、夕月はじっと見つめていた。
妄執なまでの執着心を、彼は最後まで手放さなかった。
満ち足りた顔は、夕月が起こすのを待っているようにも見える。
まだ血色の残る赤い唇に、夕月は一度だけ、最後のキスをした。
「これでようやく、ルカに逢えるね」
夕月は疲れ切った吐息を吐き、斎悧の鮮血に染まったナイフの刃先を自らの咽喉に押し当てた。
自らが犯した罪。失った大切だった人々。
後悔はしていない。彼らに逢えたとしても、懺悔をするつもりもない。
「愛してる、ルカ」
空を仰ぎ、夕月は刃先を皮膚にくい込ませた。
「……?」
その時、がさっと葉の擦れる音をたて、足音が近付いてきた。
音のした方を振り返り、次の瞬間、夕月は驚愕に息を呑む。
「……ル…カ……」
夕月の手からナイフが滑り落ちる。
そこにはいるはずのない、記憶に留めたままの彼の姿が在った。
花蘇芳の花弁が、風もないのにひらひらと舞っていた。