笛!
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テレビをつけると、ちょうど20時のスポーツニュースがやっていた。見慣れたキャスターが険しい顔をしてゴールシーンのリプレイを見ている。
「渋沢という精神的支柱がいない今、どのように立て直すかがこれからの課題になりますね」
「そうですね……。渋沢の怪我については詳しい情報がない状態ですから、復帰が遅れることを前提にチームを立て直す必要があります。難しいでしょうが、やるしかないですからね」
ゴールに向かって蹴られたボールは、キーパーの掌に当たることなくネットを揺らした。気がつけばタオルドライする手が止まっていて、髪の先からフローリングにぽたりと水滴が落ちる。慌ててチャンネルを回すと、クイズに答えられなかったお笑い芸人が池に落ちて、弾けるような笑い声が部屋に響いた。それにほっと息を吐いてから、自分が息を止めていたことに気が付く。
一年だ。別れてから、一年。失恋の傷が癒えるにはあまりにも短い。家が近くで、小さいころから仲の良かった克朗と付き合い始めたのは高校2年生の時だ。それから大学を卒業するまで喧嘩ひとつしたことはないし、交際は順調だった。大学生でありながら国内リーグで活躍する克朗は多忙を極めていたけれど、時間を見つけて電話をしたり、近場にはなるけれど待ち合わせをして出かけることもある。彼がどんどん遠くにいってしまう不安から、目を逸らすだけの2人の時間があった。けれど、大学を卒業してから海外に活躍の場所を移した彼と物理的に離れたことで、心の奥に根付いた不安が大きくなっていく。大好きな低い声をテレビ越しで聴く回数が、電話越しに聴く回数を上回る。私の知らない話を、雑誌のインタビューで知る。価値観の相違だとか、忙しい日々の中で生じたすれ違いだとか、学生時代には理解できなかった大きな波が私たちの間に亀裂を生むのに時間はかからなかった。
――そんなことがちょうど1週間前にあったばかりで、この状況がうまく飲み込めない。
目の前でお刺身を食べる仕草は見慣れているのに、大きな手がビールジョッキを掴むたびに心臓が口から飛び出そうだ。
「食べないのか」
「いや、うん。食べる」
「無理に連れてくるつもりはなかったんだが」
「……うん」
苦笑いした克朗に言葉を返してから、果たしてあれは無理矢理だったかもう一度考えた。定時後2時間ほどの残業が見込まれるタスクが残っていたけれど、たまたま社内システムのトラブルで早めに仕事を切り上げることになった。ため息を吐きながらオフィスを出ると、まだ外は明るくて熱気が肌にまとわりつく。最近は残業続きで明るい時間に外に出ることなんてなかったから、違和感に目を細めて明るさから逃げるように俯いた。もう一度顔を上げた瞬間、そこに克朗がいたのだ。深く被った帽子で顔を隠していたけれどすぐに分かった。なんでここにいるのか、口だけはパクパクと開くのに言葉が出ない。混乱しているうちに、腕を引かれてこの居酒屋にいた。彼が私の腕を掴む強さに強制力はなかったし、いつだって立ち止まることも振り払うこともできた。それなのに、足を止めずについてきたのは私だ。
「……うん。うん、無理にじゃなかったよ、大丈夫」
「突然悪かったな」
「まあ、突然ではあったけど」
ジョッキを手に持ってビールを飲もうとして、結局口をつけずに机の上に置いた。克朗がどうして私をここに連れてきたか、わずかに冷静になった頭で想像はついている。電話じゃなくて、顔を合わせて別れ話をすべきだと考えているのだろう。私から一方的に送った連絡には結局返事がないまま今日を迎えた。いままで世話になったからとか、きちんと面と向かって礼が言いたいからだとか、元気にしてるか確認したかったとか、彼のそういうところも好きだったぶん、理由にも検討がついてしまうのが悲しい。一年かけてつくった薄い瘡蓋が顔を見てから瞬く間に剥がれて、心臓の中の切り傷がパックリ開いてしまった。
「海外、和食なかったでしょ。他に美味しいものあった?」
「……」
「克朗、美味しいもの見つけるの上手だから」
「ああ……、そうだな。和食は恋しかったがうまいものもたくさんあったよ。例えばChipirones en su tinta」
「ん、なに? チピロ、待って全然聞き取れなかった」
「チピロネス・エン・ス・ティンタ」
「チピロネ……ティンタ、ん? だめだ、覚えられないかも」
「待ってろ」
克朗が鞄からペンを取り出して、手帳に文字を書いていく。チピロネス・エン・ス・ティンタ。カタカナで書かれた文字を目で追って、小声で呟く。和食が好きで、和菓子が好きな彼と最後にする料理の話が、この聞いたこともない料理だと思うと気が楽になる。きっとこれなら、レストランで見かけることもそうそうない。
手帳から顔を上げると、今日初めてまともに視線がぶつかった。表情を見て、しまったと思う。大切なことを話そうとして目元に力の入ったこの顔を何度も見てきた。私に好きだと告げた日、はじめてのデートの前、海外へ行く決心を伝えられたとき。思い出に刻まれたこの顔で別れを告げられたら、私はどうなってしまうだろう。
「どんな料理なの?」
「煮込み料理だよ。イカ墨で煮込むから見た目のインパクトはすごいが、食べてみたら美味くて印象に残った」
「作ってみたりもしたんでしょ?」
「ああ、今度……」
言葉が途切れる。今度、作ってくれるつもりだったの? 私に隣に並べるほどの才能や勇気があったら、克朗の作る料理をまた食べることができたのかな。
でも、それは無理だ。一年かけても失恋の傷は癒えていないけれど、自分を納得させるだけの気持ちの整理はできている。結局のところ、一般企業に勤めて画面越しに応援するだけでは彼の隣に居続けることはできなかった。
「……克朗、あのさ」
「名前、俺が向こうにいる間に店を手伝ってくれただろう」
「え? ああ、全然大したことないよ。おばさんがぎっくり腰やっちゃった間だけ。短期でバイト募集も大変だもんね」
「ちゃんと礼を伝えられていなくて悪かった。助かったよ」
「手伝っていいか克朗に確認したとき、ちゃんとお礼言ってくれたでしょ。それに、楽しかった。和菓子も少し教わっちゃったし」
「何か作れるようになったか?」
「そんなの決まってるでしょ……ああ、いや、どうかな」
作れるようになったものなんて決まっている。豆大福だ。その答えを言うには遅すぎたから、答えを濁す。おばさんに確認されてしまったら分かることだけど、きっと克朗は聞かないだろう。
話が途切れてから次に繋がることなく、頼んだ料理が運ばれてくる。大切な話をするタイミングを逃して、それからはただ世間話や近況を報告しあった。
「私も払うってば。それにちゃんと帰れるから」
「こんな時間に1人で帰すわけないだろう」
結局、ただ2人でご飯を食べただけになってしまった。終電の時間を前に帰ると伝えると、それを止められることもなく店を出る。私を送ると言いだした克朗にやんわりと辞退を申し出たところからが長かった。
「本当に大丈夫だって。残業でこれくらいの時間になることもあるんだから」
「それとこれとは別だろう」
「こんなことで足に負担かけちゃダメだよ。分かった、タクシーで帰る。それなら安心でしょ」
「……俺にとっては、こんなことなんかじゃない」
「……私だって引けないからね。家に着いたらちゃんと連絡するから」
「……」
「克朗」
彼が頷いたのを確認して、アプリを起動する。タクシーを呼んでから、スマホを鞄にしまった。怪我の具合を聞いてはいないけど、駅から10分ほど歩くのだ。彼の優しさは知っているけど、私を送ることで足に負担をかけて欲しくない。
「あと5分くらいでくるって」
腕時計を確認しようと目を落とした瞬間に、肩を抱き寄せられる。すぐ後ろを酔っ払いの大声が通り過ぎていくのがスローモーションのように感じた。久しぶりに感じた熱と、アルコールの香りに混じって近づいた彼自身の香りに急激に体温が上がる。
「ご、めん。ありがとう」
「……名前、聞いてくれないか」
「え?」
耳の近くで彼の声が響く。ヒールを履いて背伸びをしても身長差が縮まることはないから、きっと克朗が屈んでいるのだろう。
「待って……! タクシー、きたから」
絶妙なタイミングで到着したタクシーに慌てて乗り込む。走りだした車内で体の力を脱いてから、後悔と自己嫌悪で体が重くなった。
克朗が聞いて欲しいと言ったのに、大切な言葉から逃げた自分が嫌で消えてしまいたかった。
◇◇
克朗が突然会いにきた日、約束通り家に着いてから連絡をいれると、すぐに電話がかかってきた。3コール分迷って出ると電話越しに咳払いが聞こえる。硬い声に何を言われるかと構えたのに、その内容は予想だにしないものだった。
ドアを開けると、あの日からさらに強くなった日差しが眩しくて目を瞑る。今から家を出るねとメッセージを送ってから、付き合っている時のやり取りとまるで同じ文面だということに気がついた。
今のマンションに引っ越してから何度か待ち合わせをしたことがある公園へ急ぐ。入り口に立つ彼が見えてから立ち止まって、ついたよと連絡すると克朗がスマホを取り出した。画面を見た後に顔を上げて誰かを探す仕草をしたから、きっと私のメッセージを見たのだろう。手を上げて知らせようか迷って、やめた。
「名前」
「待った? ごめん。これ、冷たいから飲んで」
見上げた額に汗が光っていて、鞄からペットボトルを取り出す。手渡した瞬間に指が触れ合って、反射的に肩が震えた。
「悪いな」
「ううん。でも……一緒に歩くの、私でいいの?」
「リハビリである程度動くように言われてるんだ。付き合ってくれると助かる」
「プロじゃないんだから、少しでも痛くなったら言ってくれなきゃ困るからね」
「ちゃんと言うさ」
「……」
「……本当だ」
「……わかった、信じる」
――あの日の電話で、リハビリに付き合って欲しいと言われた。昔から人に頼られてばかりの克朗にちょっとだけ弱った声でされた頼み事を断ることができなかったし、聞いて欲しいと言われた話を無視したままだと、それこそ墓場までこの気持ちを消化できない気がした。
「日陰になってるところを歩く?」
「そうだな。こっちを歩こう」
「うん」
この公園には何度かきたから、ルートを思い浮かべて木陰を選んで歩き出す。
「昔、こういう遊びしたよね」
「そうだったか?」
「うん、影だけ踏んで歩くゲーム。克朗はさ、子供のときから背が大きかったから、私がついていけるところを選んでくれてた」
「……ああ。名前がもう行けないから先に行っていいよって言うのを、どうにか引っ張っていっただけだろう」
「そうなの?」
「一緒に歩きたかったからな」
一歩前を歩く克朗が私を振り返った。まさにこんな感じだったな、と思い出す。木陰の中で克朗が手を伸ばして、少しだけ手を引いてくれる。私はその手を掴んでジャンプするのだ。今は影だけを踏む必要もないから、自分の足で日向を踏む。もう一歩足を出すと、木陰に体が隠れてひんやりとした風が吹いた。
1時間かけてゆっくり公園を歩いたあと、駐車場に向かう克朗を見送る。
「本当に大丈夫なのね?」
「約束しただろう、痛くなったらちゃんと言うよ」
「……うん。あのさ、この前言ってた……聞いて欲しいことって」
「名前、悪い。もう少し時間をくれるか」
「え?」
「怪我が治るまでリハビリに付き合ってくれ」
「……」
「勝手を言っているのは分かってる」
今日が最後だと思っていた。克朗の頼みを聞くべきか心が揺れる。だって会うたびに、やっぱり好きだと思うのだ。隣を歩く速度も、相槌を打つ穏やかな声も、触れられなかった大きな手のひらも。それを全部振り切って、もう会わないと伝えることがどうしてもできない。そうした方がいいと頭では分かっているのに。
「……分かった」
「ありがとう」
「うん、気をつけてね」
「ああ」
彼が車に乗り込んで去っていくのを見送った後に、踵を返して歩き出す。自分の部屋の鍵を開けた瞬間に、目頭が熱くなった。瞬きと一緒に涙が頬をつたって、呼吸が苦しくなる。ドアに背を預けしゃがみ込んで膝を抱えると、少しだけ息がしやすくなった。好きな気持ちだけを抱えて彼の隣にいるには、私はもう大人になりすぎてしまった。
膝に力を入れて立ち上がってから、テレビ横のラックから一年前に発行された週刊誌を引っ張り出す。捨てようと思って捨てられなかった、克朗の熱愛報道が掲載された雑誌だ。一緒に写真を撮られたのは日本代表に所属する女子サッカー選手だけど、もちろんこんな報道は信じていない。克朗が不誠実なことをするはずないことは、私だけじゃなくて彼と関わったことがある人なら誰でも分かることだ。
それでも、私なんかよりもずっと彼女の方が隣を歩く姿が自然だと思ってしまった。サッカーに打ち込む者同士、ニュースでも祝福される2人の姿が眩しくて、目を背けていた彼に不釣り合いな自分と嫌でも向き合うことになった。雑誌を胸元に抱え込むと、それが重石のように体を圧迫して立ち上がることができない。
「だめだよ……」
公園で話して確信を持った。きっと克朗の話は、別れ話の続きじゃない。だけど私たちは、このまま別の場所で生きていく。
◇◇
リハビリに付き合うと言ってから1ヶ月。毎週土日のどちらか1時間を、歩きながら公園で過ごした。承諾したからには途中で反故にはしたくないし、冷静に考えれば克朗がどんなに忙しいかも分かっている。本来のリハビリの辛さも知っているから、これで気が紛れるなら協力したかった。克朗が何を思って声をかけてくれたかその真意まで分かっているわけじゃないけれど、私に頼んでくれたのなら最後まで付き合いたい。これが2人の最後だと思うと、余計にその思いは強くなった。それに、こんなに一緒に過ごすのは学生の時以来な気がする。自分の心さえ決めてしまえば、終わりが見えているからこそ大切な時間だった。
7月ももう終わる。今日も日差しが強い。手で太陽の光を遮りながら公園に向かうと、克朗が顔を上げて私を見た。柔らかな焦茶色が太陽の光に反射して明るく光る。
「先に待ってなくていいよ」
「俺から頼んでるんだ。名前を待たせるわけいかないだろう」
「そんなの気にしないのに」
「気にさせてくれ」
「……気にしなくていいんだよ、本当に」
答えた瞬間、強く熱い風が吹いて俯く。顔を上げると克朗と目が合った。オフィスの前で待っていたときと同じ状況に眩暈がする。あの時は深く被った帽子で表情が見えなかったけれど、もし彼が今と同じような表情をしていたとしたら、やっぱり私たちは一緒にいるべきじゃない。
「ごめん、行こっか」
「名前」
「なに?」
「ちゃんと話がしたい」
「……」
返事をしようとして口を開いて、閉じる。暑いのに体の芯から冷えていく感覚に二の腕をさすった。
「私はもう全部話したよ。一緒にはいられない」
「……名前」
抱き寄せられて、彼の胸に私の頬が触れた。耳元で心臓の音が聞こえる。
「だめだよ、お互いのためにも終わりにしよう」
「……」
「離して」
離して欲しいのに、背中に回された腕が私を拘束した。熱気と、克朗の高い体温で頭の中が掻き回される。
「俺は納得できてない。理由を教えてくれないか」
「分かるでしょ」
「分からない」
「……克朗にはもっといい人がいるから、絶対に」
「いない」
「いるって」
「いない」
「いるってば!」
「それを決めるのは俺だ!」
初めて克朗が私に声を荒らげた気がして、びくりと体が揺れる。謝るように背中を撫でられて、体の力が抜けた。
「名前に甘えていた。そう友人にも言われたんだ。……俺たちは喧嘩をしたことがないだろう」
「そういう問題じゃないよ」
「頼むから自己完結しないで、喧嘩をさせてくれないか」
わずかに震える声に、彼の胸を押して一歩距離をとる。今度は簡単に腕が解けて、見上げた頬に光るものが見えた。上を向いた私の頬にも冷たい水がぶつかって、咄嗟に上着を脱ぐ。
「夕立……? 待って、これ被って!」
克朗に自分の上着を渡して、慌ててカバンから折り畳み傘を取り出す。怪我をした克朗を走らせるわけにはいかないし、夕立で濡らすなんてあり得ない。さっきまでの言い合いで熱くなった頭が冷えていく。本降りになっても焦って走らないように自分に言い聞かせてから、傘を広げた。
「ごめん、持って」
「ああ」
傘を渡してマンションに向かう。さっきまでが嘘のように空が暗くなって、乾いた空気にポツポツと雨粒が落ちる。家まではもうすぐだ、間に合うように手をぎゅっと握ると克朗が私の腕を掴んだ。
「少しなら問題ない」
「本当に?」
「名前に嘘はつかない」
マンションのエントランスに駆け込んだ瞬間に、大粒の雨が窓を叩いた。薄暗いフロアに響いた雷鳴に空気が揺れる。
「ま、間に合った……濡れてないよね?」
「……」
「あ……ごめん、勝手に連れてきて」
「いや、助かった。でも、俺のことばかり優先するのはもうやめてくれないか」
「……」
克朗の言葉が痛い。渡した上着を返されて、俯いたまま袖を通した。
「名前に風邪をひいてほしくないのは俺も同じだよ」
「私が風邪ひくのなんてどうってことない」
「名前」
嗜めるように名前を呼ばれるけれど、納得はできなかった。私と克朗では抱えているものに大きな差があるのだ。それを口に出そうとして、エレベーターの稼働音が聞こえた。4階から一つずつ数字が下がってくるのが見えて、脳裏に週刊誌の記事がよぎる。万が一にでも、私と言い合いしているように見えるこの状況が誇張して書かれてしまったらと思うと血の気が引いた。
「私の部屋で続きを話そう」
2階まで階段で上がってエレベーターに乗り込む。気をつけていたけれど誰にも会わずに部屋まで辿り着くことができて、ゆっくりと息を吐いた。お邪魔します、という声が聞こえて振り向くと、克朗が靴を揃えている。
「この後予定とか大丈夫?」
「俺は問題ないが、名前は大丈夫なのか」
「うん」
話をする前に冷静になりたい。キッチンに向かって、お茶を淹れようと引き出しを開けたけれど、克朗の好きだったブランドの茶葉は賞味期限が切れている。
「ねえ、ごめん……あ」
「これが原因か」
リビングにいるはずだった克朗が、いつのまにか近くに立っていた。彼の手の中の週刊誌に気がついて、思わず手を伸ばした。ラックの奥にあったはずなのに、どうして見つけられたんだろう。
「違う」
手が震えて、シンクにマグカップが落ちた。静かな部屋に大きな音が反響する。
「違うの。そんな風に克朗が私を傷つけることなんかないって分かってた」
「名前」
「そういうことしない人だって、ちゃんと知ってる」
「……」
なにもかも、言い訳のように聞こえてしまう気がした。勝手かもしれないけど、週刊誌の記事なんか信じていない。それだけは分かってほしくて、彼の服の袖を掴む。
「……俺だって分かってるさ。でも、きっかけではあるだろう」
「違うよ」
「もう隠さないでくれ。お願いだ。話してくれないか」
もう一度確かめるように名前を呼ばれる。長い付き合いで、私が見たくないものを隠す場所がどこかも知られているのだ。もしかしたら私の気持ちに見当はついているのかもしれない。
「……すごくいいカップルに見えたの。今の克朗に私は釣り合ってない。だって私、普通に会社行って家に帰ってきて、テレビで克朗のことを応援してたんだよ」
「……名前」
「彼女じゃなくても、同じサッカー選手なら克朗のこと支えてあげられるでしょ。サッカー選手じゃなくてもいい。他にいい人がたくさんいる」
自分の言葉で心臓に切り傷を増やしているようだった。息を止めて、克朗をまっすぐ見る。
「私なんかと、いるべきじゃない。本当は克朗も分かってるんじゃないの」
いつも優しく触れる手が、強引に私の二の腕を掴んで抱き寄せた。今日は知らない彼ばかりを見ている気がする。思わず瞑った目を開くと、涙が溢れた。
「すまなかった。不安にさせたのは俺の落ち度だ。もう一度チャンスをくれないか」
「そういうことじゃないんだってば」
「そういうことだろう。……サッカー選手じゃなくても俺が好きだって言ってくれたのを覚えてるか」
「……」
「俺だってそうだ」
「……」
「誰よりも俺のことを見ててくれたのは名前だ。俺はそう思ってる」
ずっと、克朗のことを見てきた。私だってそれだけは自分で否定できない。
「でも、それだけだよ」
「初めてスタメンで試合に出た時、お守りを作ってくれたのを覚えてるか」
「……」
「中学最後の試合も」
「……うん」
克朗がひとつずつ思い出を話していく。サッカーの思い出だけじゃない。この部屋で初めて料理を作った日のこと、小さいころに渡したチョコレートに、誕生日にあげたF1観戦のチケット。
「情けないな。別れようと言われて、すぐに連絡しようとしたのに出来なかった。名前から直接言われるのが怖かったんだ」
「怖いって……」
「名前のことを、幸せにできていたとは言えないかもしれない」
「それは」
「マメに電話もしてやれないし、肝心なときに連絡ができなかった。本当に悪かったと思ってる」
「そんなことない!忙しかったのはわかってるから」
「だが、諦めてやれそうにない」
「え?」
「名前が必要なんだ。……もう一度俺に名前を大切にするチャンスをくれないか」
彼の腕の中で、いつもより早い鼓動だけが聴こえる。こんな風にお互いの気持ちを曝け出したことはなかったから、まるで直接心臓の音を聞いているようで冷えた指先が温まっていく。
「私でいいの?」
「名前がいい。愛してるんだ」
掠れた声で告げられた言葉に、気持ちが解けていく。広い背中に手を回してシャツを掴むと、苦しいほど抱きしめられる。
「私も……」
それから数分なのか、数十分なのか、体温が混ざり合うほどくっついてから、ゆっくりと離れた。まだ体中に彼の体温を感じながら、隣同士ソファに座る。
「連絡できなくて本当に悪かった」
「ううん、大丈夫。私も一人で決めちゃってごめんね」
「いや……」
「この際だから言っていいよ」
「もう自分のこと卑下しないでくれないか。俺にとってはずっと、大切な存在なんだ」
「うん」
「会いにこれなくて悪かった」
「私も、ごめん。考えこまずに私から連絡すればよかった。会いにいかなかったのは私も一緒だし。ああ、でも、こんなやりとりしたの子供のとき以来だね。久しぶりの仲直り」
克朗を見ると肩を抱かれて、唇が重なる。久しぶりのキスに唇が痺れて、指先から溶けてしまいそうだった。それが気恥ずかしくて誤魔化すように咳払いをしてから、髪で顔を隠す。
助け舟のようにスマホのアラームが鳴って携帯を手に取ると、カレンダーのリマインドが通知されていた。
「これ、克朗の誕生日が明日って通知。覚えてた?」
「ああ……忘れてたな。すっかり」
「やっぱり」
明日は会えるか聞こうとして、やめる。きっと何かしらの予定が入っているだろうし――いや、こういうところがダメだったのかも。勇気を出して声を出すと、2人の声が重なる。
「「明日」」
「明日、祝ってくれるか」
「うん。プレゼントは用意できないけど、練習した和菓子作ってあげるね」
「料理は俺が作るよ」
「チピロネス・エン・ス・ティンタ?」
「よく覚えてたな。ああ、こっちにきたら作ってやろうと思ってたんだ」
「渋沢という精神的支柱がいない今、どのように立て直すかがこれからの課題になりますね」
「そうですね……。渋沢の怪我については詳しい情報がない状態ですから、復帰が遅れることを前提にチームを立て直す必要があります。難しいでしょうが、やるしかないですからね」
ゴールに向かって蹴られたボールは、キーパーの掌に当たることなくネットを揺らした。気がつけばタオルドライする手が止まっていて、髪の先からフローリングにぽたりと水滴が落ちる。慌ててチャンネルを回すと、クイズに答えられなかったお笑い芸人が池に落ちて、弾けるような笑い声が部屋に響いた。それにほっと息を吐いてから、自分が息を止めていたことに気が付く。
一年だ。別れてから、一年。失恋の傷が癒えるにはあまりにも短い。家が近くで、小さいころから仲の良かった克朗と付き合い始めたのは高校2年生の時だ。それから大学を卒業するまで喧嘩ひとつしたことはないし、交際は順調だった。大学生でありながら国内リーグで活躍する克朗は多忙を極めていたけれど、時間を見つけて電話をしたり、近場にはなるけれど待ち合わせをして出かけることもある。彼がどんどん遠くにいってしまう不安から、目を逸らすだけの2人の時間があった。けれど、大学を卒業してから海外に活躍の場所を移した彼と物理的に離れたことで、心の奥に根付いた不安が大きくなっていく。大好きな低い声をテレビ越しで聴く回数が、電話越しに聴く回数を上回る。私の知らない話を、雑誌のインタビューで知る。価値観の相違だとか、忙しい日々の中で生じたすれ違いだとか、学生時代には理解できなかった大きな波が私たちの間に亀裂を生むのに時間はかからなかった。
――そんなことがちょうど1週間前にあったばかりで、この状況がうまく飲み込めない。
目の前でお刺身を食べる仕草は見慣れているのに、大きな手がビールジョッキを掴むたびに心臓が口から飛び出そうだ。
「食べないのか」
「いや、うん。食べる」
「無理に連れてくるつもりはなかったんだが」
「……うん」
苦笑いした克朗に言葉を返してから、果たしてあれは無理矢理だったかもう一度考えた。定時後2時間ほどの残業が見込まれるタスクが残っていたけれど、たまたま社内システムのトラブルで早めに仕事を切り上げることになった。ため息を吐きながらオフィスを出ると、まだ外は明るくて熱気が肌にまとわりつく。最近は残業続きで明るい時間に外に出ることなんてなかったから、違和感に目を細めて明るさから逃げるように俯いた。もう一度顔を上げた瞬間、そこに克朗がいたのだ。深く被った帽子で顔を隠していたけれどすぐに分かった。なんでここにいるのか、口だけはパクパクと開くのに言葉が出ない。混乱しているうちに、腕を引かれてこの居酒屋にいた。彼が私の腕を掴む強さに強制力はなかったし、いつだって立ち止まることも振り払うこともできた。それなのに、足を止めずについてきたのは私だ。
「……うん。うん、無理にじゃなかったよ、大丈夫」
「突然悪かったな」
「まあ、突然ではあったけど」
ジョッキを手に持ってビールを飲もうとして、結局口をつけずに机の上に置いた。克朗がどうして私をここに連れてきたか、わずかに冷静になった頭で想像はついている。電話じゃなくて、顔を合わせて別れ話をすべきだと考えているのだろう。私から一方的に送った連絡には結局返事がないまま今日を迎えた。いままで世話になったからとか、きちんと面と向かって礼が言いたいからだとか、元気にしてるか確認したかったとか、彼のそういうところも好きだったぶん、理由にも検討がついてしまうのが悲しい。一年かけてつくった薄い瘡蓋が顔を見てから瞬く間に剥がれて、心臓の中の切り傷がパックリ開いてしまった。
「海外、和食なかったでしょ。他に美味しいものあった?」
「……」
「克朗、美味しいもの見つけるの上手だから」
「ああ……、そうだな。和食は恋しかったがうまいものもたくさんあったよ。例えばChipirones en su tinta」
「ん、なに? チピロ、待って全然聞き取れなかった」
「チピロネス・エン・ス・ティンタ」
「チピロネ……ティンタ、ん? だめだ、覚えられないかも」
「待ってろ」
克朗が鞄からペンを取り出して、手帳に文字を書いていく。チピロネス・エン・ス・ティンタ。カタカナで書かれた文字を目で追って、小声で呟く。和食が好きで、和菓子が好きな彼と最後にする料理の話が、この聞いたこともない料理だと思うと気が楽になる。きっとこれなら、レストランで見かけることもそうそうない。
手帳から顔を上げると、今日初めてまともに視線がぶつかった。表情を見て、しまったと思う。大切なことを話そうとして目元に力の入ったこの顔を何度も見てきた。私に好きだと告げた日、はじめてのデートの前、海外へ行く決心を伝えられたとき。思い出に刻まれたこの顔で別れを告げられたら、私はどうなってしまうだろう。
「どんな料理なの?」
「煮込み料理だよ。イカ墨で煮込むから見た目のインパクトはすごいが、食べてみたら美味くて印象に残った」
「作ってみたりもしたんでしょ?」
「ああ、今度……」
言葉が途切れる。今度、作ってくれるつもりだったの? 私に隣に並べるほどの才能や勇気があったら、克朗の作る料理をまた食べることができたのかな。
でも、それは無理だ。一年かけても失恋の傷は癒えていないけれど、自分を納得させるだけの気持ちの整理はできている。結局のところ、一般企業に勤めて画面越しに応援するだけでは彼の隣に居続けることはできなかった。
「……克朗、あのさ」
「名前、俺が向こうにいる間に店を手伝ってくれただろう」
「え? ああ、全然大したことないよ。おばさんがぎっくり腰やっちゃった間だけ。短期でバイト募集も大変だもんね」
「ちゃんと礼を伝えられていなくて悪かった。助かったよ」
「手伝っていいか克朗に確認したとき、ちゃんとお礼言ってくれたでしょ。それに、楽しかった。和菓子も少し教わっちゃったし」
「何か作れるようになったか?」
「そんなの決まってるでしょ……ああ、いや、どうかな」
作れるようになったものなんて決まっている。豆大福だ。その答えを言うには遅すぎたから、答えを濁す。おばさんに確認されてしまったら分かることだけど、きっと克朗は聞かないだろう。
話が途切れてから次に繋がることなく、頼んだ料理が運ばれてくる。大切な話をするタイミングを逃して、それからはただ世間話や近況を報告しあった。
「私も払うってば。それにちゃんと帰れるから」
「こんな時間に1人で帰すわけないだろう」
結局、ただ2人でご飯を食べただけになってしまった。終電の時間を前に帰ると伝えると、それを止められることもなく店を出る。私を送ると言いだした克朗にやんわりと辞退を申し出たところからが長かった。
「本当に大丈夫だって。残業でこれくらいの時間になることもあるんだから」
「それとこれとは別だろう」
「こんなことで足に負担かけちゃダメだよ。分かった、タクシーで帰る。それなら安心でしょ」
「……俺にとっては、こんなことなんかじゃない」
「……私だって引けないからね。家に着いたらちゃんと連絡するから」
「……」
「克朗」
彼が頷いたのを確認して、アプリを起動する。タクシーを呼んでから、スマホを鞄にしまった。怪我の具合を聞いてはいないけど、駅から10分ほど歩くのだ。彼の優しさは知っているけど、私を送ることで足に負担をかけて欲しくない。
「あと5分くらいでくるって」
腕時計を確認しようと目を落とした瞬間に、肩を抱き寄せられる。すぐ後ろを酔っ払いの大声が通り過ぎていくのがスローモーションのように感じた。久しぶりに感じた熱と、アルコールの香りに混じって近づいた彼自身の香りに急激に体温が上がる。
「ご、めん。ありがとう」
「……名前、聞いてくれないか」
「え?」
耳の近くで彼の声が響く。ヒールを履いて背伸びをしても身長差が縮まることはないから、きっと克朗が屈んでいるのだろう。
「待って……! タクシー、きたから」
絶妙なタイミングで到着したタクシーに慌てて乗り込む。走りだした車内で体の力を脱いてから、後悔と自己嫌悪で体が重くなった。
克朗が聞いて欲しいと言ったのに、大切な言葉から逃げた自分が嫌で消えてしまいたかった。
◇◇
克朗が突然会いにきた日、約束通り家に着いてから連絡をいれると、すぐに電話がかかってきた。3コール分迷って出ると電話越しに咳払いが聞こえる。硬い声に何を言われるかと構えたのに、その内容は予想だにしないものだった。
ドアを開けると、あの日からさらに強くなった日差しが眩しくて目を瞑る。今から家を出るねとメッセージを送ってから、付き合っている時のやり取りとまるで同じ文面だということに気がついた。
今のマンションに引っ越してから何度か待ち合わせをしたことがある公園へ急ぐ。入り口に立つ彼が見えてから立ち止まって、ついたよと連絡すると克朗がスマホを取り出した。画面を見た後に顔を上げて誰かを探す仕草をしたから、きっと私のメッセージを見たのだろう。手を上げて知らせようか迷って、やめた。
「名前」
「待った? ごめん。これ、冷たいから飲んで」
見上げた額に汗が光っていて、鞄からペットボトルを取り出す。手渡した瞬間に指が触れ合って、反射的に肩が震えた。
「悪いな」
「ううん。でも……一緒に歩くの、私でいいの?」
「リハビリである程度動くように言われてるんだ。付き合ってくれると助かる」
「プロじゃないんだから、少しでも痛くなったら言ってくれなきゃ困るからね」
「ちゃんと言うさ」
「……」
「……本当だ」
「……わかった、信じる」
――あの日の電話で、リハビリに付き合って欲しいと言われた。昔から人に頼られてばかりの克朗にちょっとだけ弱った声でされた頼み事を断ることができなかったし、聞いて欲しいと言われた話を無視したままだと、それこそ墓場までこの気持ちを消化できない気がした。
「日陰になってるところを歩く?」
「そうだな。こっちを歩こう」
「うん」
この公園には何度かきたから、ルートを思い浮かべて木陰を選んで歩き出す。
「昔、こういう遊びしたよね」
「そうだったか?」
「うん、影だけ踏んで歩くゲーム。克朗はさ、子供のときから背が大きかったから、私がついていけるところを選んでくれてた」
「……ああ。名前がもう行けないから先に行っていいよって言うのを、どうにか引っ張っていっただけだろう」
「そうなの?」
「一緒に歩きたかったからな」
一歩前を歩く克朗が私を振り返った。まさにこんな感じだったな、と思い出す。木陰の中で克朗が手を伸ばして、少しだけ手を引いてくれる。私はその手を掴んでジャンプするのだ。今は影だけを踏む必要もないから、自分の足で日向を踏む。もう一歩足を出すと、木陰に体が隠れてひんやりとした風が吹いた。
1時間かけてゆっくり公園を歩いたあと、駐車場に向かう克朗を見送る。
「本当に大丈夫なのね?」
「約束しただろう、痛くなったらちゃんと言うよ」
「……うん。あのさ、この前言ってた……聞いて欲しいことって」
「名前、悪い。もう少し時間をくれるか」
「え?」
「怪我が治るまでリハビリに付き合ってくれ」
「……」
「勝手を言っているのは分かってる」
今日が最後だと思っていた。克朗の頼みを聞くべきか心が揺れる。だって会うたびに、やっぱり好きだと思うのだ。隣を歩く速度も、相槌を打つ穏やかな声も、触れられなかった大きな手のひらも。それを全部振り切って、もう会わないと伝えることがどうしてもできない。そうした方がいいと頭では分かっているのに。
「……分かった」
「ありがとう」
「うん、気をつけてね」
「ああ」
彼が車に乗り込んで去っていくのを見送った後に、踵を返して歩き出す。自分の部屋の鍵を開けた瞬間に、目頭が熱くなった。瞬きと一緒に涙が頬をつたって、呼吸が苦しくなる。ドアに背を預けしゃがみ込んで膝を抱えると、少しだけ息がしやすくなった。好きな気持ちだけを抱えて彼の隣にいるには、私はもう大人になりすぎてしまった。
膝に力を入れて立ち上がってから、テレビ横のラックから一年前に発行された週刊誌を引っ張り出す。捨てようと思って捨てられなかった、克朗の熱愛報道が掲載された雑誌だ。一緒に写真を撮られたのは日本代表に所属する女子サッカー選手だけど、もちろんこんな報道は信じていない。克朗が不誠実なことをするはずないことは、私だけじゃなくて彼と関わったことがある人なら誰でも分かることだ。
それでも、私なんかよりもずっと彼女の方が隣を歩く姿が自然だと思ってしまった。サッカーに打ち込む者同士、ニュースでも祝福される2人の姿が眩しくて、目を背けていた彼に不釣り合いな自分と嫌でも向き合うことになった。雑誌を胸元に抱え込むと、それが重石のように体を圧迫して立ち上がることができない。
「だめだよ……」
公園で話して確信を持った。きっと克朗の話は、別れ話の続きじゃない。だけど私たちは、このまま別の場所で生きていく。
◇◇
リハビリに付き合うと言ってから1ヶ月。毎週土日のどちらか1時間を、歩きながら公園で過ごした。承諾したからには途中で反故にはしたくないし、冷静に考えれば克朗がどんなに忙しいかも分かっている。本来のリハビリの辛さも知っているから、これで気が紛れるなら協力したかった。克朗が何を思って声をかけてくれたかその真意まで分かっているわけじゃないけれど、私に頼んでくれたのなら最後まで付き合いたい。これが2人の最後だと思うと、余計にその思いは強くなった。それに、こんなに一緒に過ごすのは学生の時以来な気がする。自分の心さえ決めてしまえば、終わりが見えているからこそ大切な時間だった。
7月ももう終わる。今日も日差しが強い。手で太陽の光を遮りながら公園に向かうと、克朗が顔を上げて私を見た。柔らかな焦茶色が太陽の光に反射して明るく光る。
「先に待ってなくていいよ」
「俺から頼んでるんだ。名前を待たせるわけいかないだろう」
「そんなの気にしないのに」
「気にさせてくれ」
「……気にしなくていいんだよ、本当に」
答えた瞬間、強く熱い風が吹いて俯く。顔を上げると克朗と目が合った。オフィスの前で待っていたときと同じ状況に眩暈がする。あの時は深く被った帽子で表情が見えなかったけれど、もし彼が今と同じような表情をしていたとしたら、やっぱり私たちは一緒にいるべきじゃない。
「ごめん、行こっか」
「名前」
「なに?」
「ちゃんと話がしたい」
「……」
返事をしようとして口を開いて、閉じる。暑いのに体の芯から冷えていく感覚に二の腕をさすった。
「私はもう全部話したよ。一緒にはいられない」
「……名前」
抱き寄せられて、彼の胸に私の頬が触れた。耳元で心臓の音が聞こえる。
「だめだよ、お互いのためにも終わりにしよう」
「……」
「離して」
離して欲しいのに、背中に回された腕が私を拘束した。熱気と、克朗の高い体温で頭の中が掻き回される。
「俺は納得できてない。理由を教えてくれないか」
「分かるでしょ」
「分からない」
「……克朗にはもっといい人がいるから、絶対に」
「いない」
「いるって」
「いない」
「いるってば!」
「それを決めるのは俺だ!」
初めて克朗が私に声を荒らげた気がして、びくりと体が揺れる。謝るように背中を撫でられて、体の力が抜けた。
「名前に甘えていた。そう友人にも言われたんだ。……俺たちは喧嘩をしたことがないだろう」
「そういう問題じゃないよ」
「頼むから自己完結しないで、喧嘩をさせてくれないか」
わずかに震える声に、彼の胸を押して一歩距離をとる。今度は簡単に腕が解けて、見上げた頬に光るものが見えた。上を向いた私の頬にも冷たい水がぶつかって、咄嗟に上着を脱ぐ。
「夕立……? 待って、これ被って!」
克朗に自分の上着を渡して、慌ててカバンから折り畳み傘を取り出す。怪我をした克朗を走らせるわけにはいかないし、夕立で濡らすなんてあり得ない。さっきまでの言い合いで熱くなった頭が冷えていく。本降りになっても焦って走らないように自分に言い聞かせてから、傘を広げた。
「ごめん、持って」
「ああ」
傘を渡してマンションに向かう。さっきまでが嘘のように空が暗くなって、乾いた空気にポツポツと雨粒が落ちる。家まではもうすぐだ、間に合うように手をぎゅっと握ると克朗が私の腕を掴んだ。
「少しなら問題ない」
「本当に?」
「名前に嘘はつかない」
マンションのエントランスに駆け込んだ瞬間に、大粒の雨が窓を叩いた。薄暗いフロアに響いた雷鳴に空気が揺れる。
「ま、間に合った……濡れてないよね?」
「……」
「あ……ごめん、勝手に連れてきて」
「いや、助かった。でも、俺のことばかり優先するのはもうやめてくれないか」
「……」
克朗の言葉が痛い。渡した上着を返されて、俯いたまま袖を通した。
「名前に風邪をひいてほしくないのは俺も同じだよ」
「私が風邪ひくのなんてどうってことない」
「名前」
嗜めるように名前を呼ばれるけれど、納得はできなかった。私と克朗では抱えているものに大きな差があるのだ。それを口に出そうとして、エレベーターの稼働音が聞こえた。4階から一つずつ数字が下がってくるのが見えて、脳裏に週刊誌の記事がよぎる。万が一にでも、私と言い合いしているように見えるこの状況が誇張して書かれてしまったらと思うと血の気が引いた。
「私の部屋で続きを話そう」
2階まで階段で上がってエレベーターに乗り込む。気をつけていたけれど誰にも会わずに部屋まで辿り着くことができて、ゆっくりと息を吐いた。お邪魔します、という声が聞こえて振り向くと、克朗が靴を揃えている。
「この後予定とか大丈夫?」
「俺は問題ないが、名前は大丈夫なのか」
「うん」
話をする前に冷静になりたい。キッチンに向かって、お茶を淹れようと引き出しを開けたけれど、克朗の好きだったブランドの茶葉は賞味期限が切れている。
「ねえ、ごめん……あ」
「これが原因か」
リビングにいるはずだった克朗が、いつのまにか近くに立っていた。彼の手の中の週刊誌に気がついて、思わず手を伸ばした。ラックの奥にあったはずなのに、どうして見つけられたんだろう。
「違う」
手が震えて、シンクにマグカップが落ちた。静かな部屋に大きな音が反響する。
「違うの。そんな風に克朗が私を傷つけることなんかないって分かってた」
「名前」
「そういうことしない人だって、ちゃんと知ってる」
「……」
なにもかも、言い訳のように聞こえてしまう気がした。勝手かもしれないけど、週刊誌の記事なんか信じていない。それだけは分かってほしくて、彼の服の袖を掴む。
「……俺だって分かってるさ。でも、きっかけではあるだろう」
「違うよ」
「もう隠さないでくれ。お願いだ。話してくれないか」
もう一度確かめるように名前を呼ばれる。長い付き合いで、私が見たくないものを隠す場所がどこかも知られているのだ。もしかしたら私の気持ちに見当はついているのかもしれない。
「……すごくいいカップルに見えたの。今の克朗に私は釣り合ってない。だって私、普通に会社行って家に帰ってきて、テレビで克朗のことを応援してたんだよ」
「……名前」
「彼女じゃなくても、同じサッカー選手なら克朗のこと支えてあげられるでしょ。サッカー選手じゃなくてもいい。他にいい人がたくさんいる」
自分の言葉で心臓に切り傷を増やしているようだった。息を止めて、克朗をまっすぐ見る。
「私なんかと、いるべきじゃない。本当は克朗も分かってるんじゃないの」
いつも優しく触れる手が、強引に私の二の腕を掴んで抱き寄せた。今日は知らない彼ばかりを見ている気がする。思わず瞑った目を開くと、涙が溢れた。
「すまなかった。不安にさせたのは俺の落ち度だ。もう一度チャンスをくれないか」
「そういうことじゃないんだってば」
「そういうことだろう。……サッカー選手じゃなくても俺が好きだって言ってくれたのを覚えてるか」
「……」
「俺だってそうだ」
「……」
「誰よりも俺のことを見ててくれたのは名前だ。俺はそう思ってる」
ずっと、克朗のことを見てきた。私だってそれだけは自分で否定できない。
「でも、それだけだよ」
「初めてスタメンで試合に出た時、お守りを作ってくれたのを覚えてるか」
「……」
「中学最後の試合も」
「……うん」
克朗がひとつずつ思い出を話していく。サッカーの思い出だけじゃない。この部屋で初めて料理を作った日のこと、小さいころに渡したチョコレートに、誕生日にあげたF1観戦のチケット。
「情けないな。別れようと言われて、すぐに連絡しようとしたのに出来なかった。名前から直接言われるのが怖かったんだ」
「怖いって……」
「名前のことを、幸せにできていたとは言えないかもしれない」
「それは」
「マメに電話もしてやれないし、肝心なときに連絡ができなかった。本当に悪かったと思ってる」
「そんなことない!忙しかったのはわかってるから」
「だが、諦めてやれそうにない」
「え?」
「名前が必要なんだ。……もう一度俺に名前を大切にするチャンスをくれないか」
彼の腕の中で、いつもより早い鼓動だけが聴こえる。こんな風にお互いの気持ちを曝け出したことはなかったから、まるで直接心臓の音を聞いているようで冷えた指先が温まっていく。
「私でいいの?」
「名前がいい。愛してるんだ」
掠れた声で告げられた言葉に、気持ちが解けていく。広い背中に手を回してシャツを掴むと、苦しいほど抱きしめられる。
「私も……」
それから数分なのか、数十分なのか、体温が混ざり合うほどくっついてから、ゆっくりと離れた。まだ体中に彼の体温を感じながら、隣同士ソファに座る。
「連絡できなくて本当に悪かった」
「ううん、大丈夫。私も一人で決めちゃってごめんね」
「いや……」
「この際だから言っていいよ」
「もう自分のこと卑下しないでくれないか。俺にとってはずっと、大切な存在なんだ」
「うん」
「会いにこれなくて悪かった」
「私も、ごめん。考えこまずに私から連絡すればよかった。会いにいかなかったのは私も一緒だし。ああ、でも、こんなやりとりしたの子供のとき以来だね。久しぶりの仲直り」
克朗を見ると肩を抱かれて、唇が重なる。久しぶりのキスに唇が痺れて、指先から溶けてしまいそうだった。それが気恥ずかしくて誤魔化すように咳払いをしてから、髪で顔を隠す。
助け舟のようにスマホのアラームが鳴って携帯を手に取ると、カレンダーのリマインドが通知されていた。
「これ、克朗の誕生日が明日って通知。覚えてた?」
「ああ……忘れてたな。すっかり」
「やっぱり」
明日は会えるか聞こうとして、やめる。きっと何かしらの予定が入っているだろうし――いや、こういうところがダメだったのかも。勇気を出して声を出すと、2人の声が重なる。
「「明日」」
「明日、祝ってくれるか」
「うん。プレゼントは用意できないけど、練習した和菓子作ってあげるね」
「料理は俺が作るよ」
「チピロネス・エン・ス・ティンタ?」
「よく覚えてたな。ああ、こっちにきたら作ってやろうと思ってたんだ」
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