笛!
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真新しい机に、見慣れない景色。起動させたPCに見慣れたログイン画面が映し出されて安心する。
本社に異動が決まったのは先月のことだった。4年の勤務のうちに属人化した業務を洗い出して、慌ただしく引き継ぎをしてあっという間に異動日を迎えたのがちょうど3日前。支店とは比べ物にならないほど綺麗なオフィスは落ち着かなくて、朝は45分早く起きて念入りにメイクをしている。それも持って1ヶ月だろうな、というのは自分のことだから自覚していた。
始業から10分ほどすると、独特のコール音が鳴る。本社特有のコール音は耳に馴染まなくて、指先まで緊張が走った。隣の席、ベテランの田中さんはちょうど席を立っていて、覚悟を決めて電話を取る。
私が所属するチームが担当するヘルプデスク業務は、いわばPCに関する何でも屋だ。問い合わせ内容は多岐にわたって、電話を取るまでは自分が把握している分野の質問かは分からない。
「はい、ヘルプデスクです」
「外商部通販事業部 三上です。ファイルサーバにアクセスできないのですが」
淡々とした声で告げられた内容をまとめると、電話では対応ができなそうだった。すぐに向かう旨を伝えて、電話を切る。デスクからフロアマップを取り出して、指でなぞりながら確認していると、田中さんがいつの間にか後ろに立っていた。
「どこに行くの?」
「外商部通販事業部です。恐らくドメインの再参加が必要だと思われるので……」
「そう、それなら3階ね。誰だった?」
「三上さんという方です」
「ああ……三上さん。それなら入ってすぐ右手」
「ありがとうございます、すみませんが15分ほど席を外します」
いってらっしゃい、見送る田中さんの声を背に廊下に出た。念のため首に入退室に必要なカードがかかっているかをチェックする。初日にこれを忘れてトイレに行ってしまって大変な目にあった。エレベーターで3階に降りて、外商部のプラカードを見つける。入ってすぐ右手よ、田中さんの言葉を思い出して足を踏み出すと、すぐに声をかけられた。
「ヘルプデスクの方ですか。先程電話した三上です」
「はい、電話では対応できなそうなので伺いました」
顔を見た瞬間に分かった。思わず三上先輩、と声をかけそうになる。特徴的な垂れ目はそのままで、一気に記憶が学生時代に戻る。朝の光がいつの間にか夕方の逆光として蘇った。
三上先輩は、私の中では夕方の人だったからだ。入学してすぐに好きになった。最初は憧れだった。サッカーの強豪、武蔵野森学園の10番でかっこよくて――だけど、それ以外の理由はなかった。それでも若い片思いは一途だ。とにかく私は彼を見て、見て、見続けた。必ず試合に応援に行って、時にはフェンス越しにその姿を見た。一度も目があったことはないけれど。
ひたすら見続けて分かったことは、先輩が努力の人だということだった。夕方のグラウンドでボールを蹴り続ける姿をずっと見ていたから、私の中で一番記憶に焼き付いている姿は半分カーテンに隠れた部室から見える逆光の先輩だ。それが、この年になって初めてこんなに鮮明に顔を見ることになるとは思わなくて、動揺で一歩後ろに下がる。
「どうかしましたか?」
「いえ、申し訳ありません。少しPCの操作お借りできますか?」
「こちらです」
声が震えなくて良かった。けれど、先輩がいつも使っているマウスに触れる指が震える。
「三上さん、トラブルですか? ついてませんね」
「うっせーな」
後ろで交わされる気やすいやりとりに、呼吸がうまくできない。メイクも、髪型も、きちんとしていて良かった。そんなことばかりが頭を支配して、どうしようもない。手慣れた作業に勝手に自分の手が動くのを、これほど感謝したことはなかった。
「これで問題ありません、念のため確認いただけますか」
「ありがとうございます。確認します」
ありがとう、三上先輩にそんなことを言われる日が来ると思わなくて、頭がぼうっとする。先輩がさっきまで私が操作していたマウスに手をかけた瞬間、眩しい光が目に入る。チカチカ、視界をチラつく光は、机の上に置かれた左手の金属に朝の光が反射しているようだった。
問題ない、先輩の回答を受けて自席に戻る。道中は雲の上を歩いてるようで記憶がなかった。ああ、せめて、名前を名乗れば良かった。学生時代の私には彼が全てだったのに、私は先輩の世界に小指の先さえ入ることができなかったのだ。私にとっては運命の再会でも、先輩にとって私は、いつまでも名前すらない透明人間にすぎない。
「おかえりなさい。問題なかった?」
「はい、ありがとうございます」
「かっこよかったでしょ。エースの三上くん。先月結婚しちゃって、もう本社の女の子は阿鼻叫喚だったのよね」
本社に異動が決まったのは先月のことだった。4年の勤務のうちに属人化した業務を洗い出して、慌ただしく引き継ぎをしてあっという間に異動日を迎えたのがちょうど3日前。支店とは比べ物にならないほど綺麗なオフィスは落ち着かなくて、朝は45分早く起きて念入りにメイクをしている。それも持って1ヶ月だろうな、というのは自分のことだから自覚していた。
始業から10分ほどすると、独特のコール音が鳴る。本社特有のコール音は耳に馴染まなくて、指先まで緊張が走った。隣の席、ベテランの田中さんはちょうど席を立っていて、覚悟を決めて電話を取る。
私が所属するチームが担当するヘルプデスク業務は、いわばPCに関する何でも屋だ。問い合わせ内容は多岐にわたって、電話を取るまでは自分が把握している分野の質問かは分からない。
「はい、ヘルプデスクです」
「外商部通販事業部 三上です。ファイルサーバにアクセスできないのですが」
淡々とした声で告げられた内容をまとめると、電話では対応ができなそうだった。すぐに向かう旨を伝えて、電話を切る。デスクからフロアマップを取り出して、指でなぞりながら確認していると、田中さんがいつの間にか後ろに立っていた。
「どこに行くの?」
「外商部通販事業部です。恐らくドメインの再参加が必要だと思われるので……」
「そう、それなら3階ね。誰だった?」
「三上さんという方です」
「ああ……三上さん。それなら入ってすぐ右手」
「ありがとうございます、すみませんが15分ほど席を外します」
いってらっしゃい、見送る田中さんの声を背に廊下に出た。念のため首に入退室に必要なカードがかかっているかをチェックする。初日にこれを忘れてトイレに行ってしまって大変な目にあった。エレベーターで3階に降りて、外商部のプラカードを見つける。入ってすぐ右手よ、田中さんの言葉を思い出して足を踏み出すと、すぐに声をかけられた。
「ヘルプデスクの方ですか。先程電話した三上です」
「はい、電話では対応できなそうなので伺いました」
顔を見た瞬間に分かった。思わず三上先輩、と声をかけそうになる。特徴的な垂れ目はそのままで、一気に記憶が学生時代に戻る。朝の光がいつの間にか夕方の逆光として蘇った。
三上先輩は、私の中では夕方の人だったからだ。入学してすぐに好きになった。最初は憧れだった。サッカーの強豪、武蔵野森学園の10番でかっこよくて――だけど、それ以外の理由はなかった。それでも若い片思いは一途だ。とにかく私は彼を見て、見て、見続けた。必ず試合に応援に行って、時にはフェンス越しにその姿を見た。一度も目があったことはないけれど。
ひたすら見続けて分かったことは、先輩が努力の人だということだった。夕方のグラウンドでボールを蹴り続ける姿をずっと見ていたから、私の中で一番記憶に焼き付いている姿は半分カーテンに隠れた部室から見える逆光の先輩だ。それが、この年になって初めてこんなに鮮明に顔を見ることになるとは思わなくて、動揺で一歩後ろに下がる。
「どうかしましたか?」
「いえ、申し訳ありません。少しPCの操作お借りできますか?」
「こちらです」
声が震えなくて良かった。けれど、先輩がいつも使っているマウスに触れる指が震える。
「三上さん、トラブルですか? ついてませんね」
「うっせーな」
後ろで交わされる気やすいやりとりに、呼吸がうまくできない。メイクも、髪型も、きちんとしていて良かった。そんなことばかりが頭を支配して、どうしようもない。手慣れた作業に勝手に自分の手が動くのを、これほど感謝したことはなかった。
「これで問題ありません、念のため確認いただけますか」
「ありがとうございます。確認します」
ありがとう、三上先輩にそんなことを言われる日が来ると思わなくて、頭がぼうっとする。先輩がさっきまで私が操作していたマウスに手をかけた瞬間、眩しい光が目に入る。チカチカ、視界をチラつく光は、机の上に置かれた左手の金属に朝の光が反射しているようだった。
問題ない、先輩の回答を受けて自席に戻る。道中は雲の上を歩いてるようで記憶がなかった。ああ、せめて、名前を名乗れば良かった。学生時代の私には彼が全てだったのに、私は先輩の世界に小指の先さえ入ることができなかったのだ。私にとっては運命の再会でも、先輩にとって私は、いつまでも名前すらない透明人間にすぎない。
「おかえりなさい。問題なかった?」
「はい、ありがとうございます」
「かっこよかったでしょ。エースの三上くん。先月結婚しちゃって、もう本社の女の子は阿鼻叫喚だったのよね」