*人間失格
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「ぱぁぱ!ぱーぱ、」
黄色いベル型の帽子にピンク色のスモックを着た娘が、乱暴に玄関扉を押しのけて靴を脱ぎ捨てた。
金切り声で叫びながら、彼女は靴を脱ぐのに四つん這いになったところから二足歩行になり、靴下で滑りそうになりながら、フローリングの向こうにあるカーペットへ向かって走っていく。
今日はパパがいるんだとなれば毎回これだ。
ハッキリ言ってうんざりだが、あのハッチャケ娘の相手を任せておける分、わたしの気はいくらか穏やかだった。
「みて!みーて!みて!!」
「ぐぇっ、あ…、おかえ、り、うん分かった、分かってるよ。見てる見てる。」
4歳の子供なんて自分が何よりも一番だ。
とにかく自分が先、自分が最優先でないと癇癪を起こす。
どうせわたしが幼稚園のお迎えに行っている間もカーペットで眠りこけていたんだろう、座布団を空飛ぶ絨毯よろしくお尻に引いた娘が太ももめがけてドスンと飛び乗るのが少々爽快でもあった。
「年少さんの面倒も見てあげて、去年よりもぐっとお姉さんらしくなりましたね」なんて先生は言っていたけど、わがまま放題、わたしが産んだとは思えない娘には日々疲れるばかりなのだから。
「ぱーぱはやく!みて!」
「見てるってぇ…。」
ふん、とわたしは鼻で笑った。
冷蔵庫の扉を開くと、使い残しのピンク色のかまぼこが眠っていた。
昼はこれでチャーハン、でいっか。
それから、これもまた暴れん坊の娘が突如育てると言って窓際に置き始めた豆苗。
あれも入れればいい。
貧乏家庭だと思われてわたしは嫌だから、彼女のお友達が来るときには冷蔵庫に突っ込んでいるけど。
「ぎょえ…今日はまた一段と派手だね。」
言ったのは彼だ。
豆苗のある窓際に向かうわたしの足が彼の頭付近を通る。
暴れる娘を見ても波風一つ立たぬ表情でその感想を返した。
頭にくっついているのは、お遊戯会で作った紙製のうさぎさんのお耳、なんかじゃない。
獣の耳そのまんまだ。
「あっ、やめ、爪危ない、」
娘がキャハハと笑う。
短い腕で振るっているのは鋭い、三日月のような形をした長い爪で、あんな爪がそういえばずっと昔の世の中で流行っていたのを思い出した。
パパの困っている様子が彼女の支配欲を満たす。
まだ何と名前を付けたわけでもないけれど、それが彼女の異能力であると、彼女は今のところ理解をしていない。
「はい、お終い。」
「あーー!」
いつ噛んでくるか分からない犬を怖がるような手つきで、彼は彼女のむちむちした腕を掴んだ。
シュウウ、と煙をあげて耳や爪が消えてゆく。
興が冷めた彼女が、人間の丸っこい手でパパの胸を思いきり殴った。
「なんでそーゆーことするの!?」
そりゃ彼の台詞だろう。
わたしは一瞥してから豆苗を刻んだ。
あんな爪、包丁よりよっぽど危ないのに、今のヨコハマはすっかり一般人と異能力者の共存世界が作り上げられており、道行く初老の男性も女子高生も「可愛らしい狼さん」だと言って彼女を愛でた。
こんな世界になるのだと、あの頃生きる意味を探し続けたわたしたちは、知っていたらもっと若い時代を輝いて生きられただろうか。
「こんな異能の子、居たっけ?」
「あ、そうそう、それね、」
声をかけてきたのはパパだ。
弱ったなという顔は、今日この日まで女児に振り回される日々ではなく、大人の女性のちょっと過激な愛情表現から生まれていた。
時の流れがわたしと彼にもたらした一人の女の子。
彼女の異能力は「まねっ子」。簡素に言ってしまえばそんなものだ。
晴れた日に出来た影を踏むと、その影を持つ人物の異能の真似が出来てしまうらしい。
「転園してきた子がいて。ヨコハマ外から。」
「……、ああ、なるほど。」
わたしは「うん」と頷いた。
相変わらず娘は彼の洋服を力いっぱいに引っ張っている。
その彼女の頭を、さっき消えてしまったけれど獣の耳が見えているかのように彼はポンと撫でた。
「満月の夜、か。」
切り終えた豆苗をボウルに移して、わたしは背中でその声を聞いた。
狼と言えば満月。
まだ少年だった頃の、どこかの青年を思い出しているのだろうか。
一般人と異能力者の共存世界など、言ってみれば耳障りは良いが、「外」の世界からはじき者にされた異能力者たちの駆け込み寺のようなものだ。
転園してきたのだというその子のお母さんも、随分神経を使ってきたのか細い体をしていたけれど、今日話しかけてみればホッとした表情を浮かべていた。
この世界を作ったのは、わたしたちだけれど。
「あのね?敦くんはもう子供じゃないんだからね?」
はいスプーン並べて、とわたしは彼と彼女に押し付けた。
誰もが必要とされる世界を望んだ敦くんは、今も変わらず「はじかれ者」を救い続けているだろうか。
それとも、これで良かったのかなと悩んでいるだろうか。
「気にしたんでしょう?」
彼の額を冷たい指で押すと、丸い目にわたしが映った。
食卓に3つのスプーンが並んで、娘がわたしの足にタックルをかます。
ほら並べたよ褒めてよと言いたいのだろうけど、大抵わたしは彼女に冷たく叱る役だから、彼女の「だいすき」はパパにしか向けられたことがない。
少なくともこの破天荒が好き勝手に「まねっ子」をしなくなる歳までは、彼もまた「必要とされる」世界なのだ。
「人のことばっか心配してないで、うちの子を心配してよね。」
あなたは「必要とされる」人だ。
死にたいの4文字が夜の部屋の隅っこに落ちているのがたまにぼやけて見える日もあるけれど、いつも翌朝には掃除されている。
彼女が生きる世界が、わたしたちの頃のように哀しみに溢れてほしくない。
探偵社無きあとも、わたしたち亡きあとも。
誰もが必要とされる世界がこのヨコハマから広がればいいのに。
小さな部屋の、大きな未来が、アオーンと狼の鳴き声をまねっ子していた。