愛憎短篇集

8億年後の世界





 目を覚ましたムルの目の前には、美しいダリアに囲まれて眠る、シャイロックが横たわっていた。
 否、それはシャイロックではなかった。"これ"は生きた何かではなく、ただの人形だと、ムルはわかった。
 しかし、精巧に作られたそれは、彼の愛する友人と何の区別もないように思える。

「きみの口から溢れる皮肉が聞けなければ、きみはきみではないのかもしれないね」

 あたりを見回すと、そこは鬱蒼とした廃墟だった。もはや屋根としての機能も果たせていない崩壊した教会の、神の像の前にムルと"それ"はあった。

「また誰かに呪われでもしたかな。この場所に怪しい魔力の気配は感じないけれど……」
「おはようございます。ムル」
「ああ、おはよ……う……」
「……? どうかしましたか? まだ眠いのでしょうか」
「え、いや、動けるんだな、と思って」
「……」
「……」
「やっぱり、まだ夢の世界から抜けきれていないようですね」

 シャイロック(のようなもの)は行儀良く立つと、うやうやしく礼をして見せた。

「はじめまして、月に恋して身を滅ぼす、迷惑男ムル。私はシャイロック。貴方のお造りになられた、追従型アンドロイドです」
「俺のつくった?」

 その言葉に機械人形のシャイロックは、にっこりと微笑んだ。

「とはいえ、私は"シャイロック"型の4816019体目の機体になりますが」
「それはまた、随分な数だね」
「本当に。魔法科学技術や魔法を駆使して、数百年は耐えられる構造になっているそうですが」
「へえ、それじゃあ今は……」
「8億年です」
「え?」
「貴方が最初の眠りについた時からこの瞬間まで、約8億年の時が経っています」

――――8億年

「貴方はより長生きする為に、多くのものを犠牲にしてきました。貴方自身も、周りも」

シャイロック(に似ている)はふわりとストールを靡かせると(一体この時代で服をどうやって用意しているのだろう?)、まるで子どもに教えるような仕草でこちらに近づいてくる。はて、シャイロックはこんな表情をする人物だったろうか――――

「まず、現在の貴方は指数関数的に眠る時間が増え、起きる時間が短くなっています。貴方が起きたのはこれで、4億5016年ぶりです」
「4億……。よくその間俺の身体もきみの機体も無事だったね?」
「私の機体は実際には2体存在します。機体に寿命が来る前に、もう一体をメンテナンスし、そちらにコアを移し替えています」
「へえ、もう1体はどこに?」
「今は雨風に晒されないよう、あの瓦礫の隙間の方に。ちなみに、精巧な造りではありますが、決してラブドールのように扱ってはいけませんよ」
「…………それは、過去に俺が何かしでかしてたり……?」
「しておりません。ですが、次に目が覚めた時にはこうおっしゃるようにと以前の貴方様が」
「性格悪いな、俺」
「存じております。そして、貴方様の身体ですが……」

 シャイロック(皮肉がきいてる)が言うにはこうだった。俺の身体はとっくに寿命を迎えてはいるが、その寿命をどうにか超えて行けないかと俺自身のあらゆるものを魔力に還元したことで、短時間の活動だけは出来るらしかった。
 特に魔力として犠牲になっているのが記憶、知識、睡眠……。記憶も知識も、そこそこ長く生きたために存分な貯蓄があったと思うが、時間が経つごとに代償が大きくなっているのだろう。俺の最後の記憶は、シャイロックのバーでカクテルを注文したところで止まっていた。

「俺はあとどれくらい持つんだろう?」
「私にもわかりかねます。前々回の貴方様は549日と17時間21分、前回の貴方様は7日と3時間5分活動しておりました」
「そうか、わからないのか」
「はい。申し訳ありません」
「……とにかく俺は1週間もしないでまた眠ってしまうんだな。それどころか、もう起きないかもしれない。いや、いいさ。きみが悪いわけじゃない」
「ありがとうございます」

 シャイロック(仮)はまた恭しく礼をした。彼は見た目こそシャイロックそっくりだが、中身はシャイロックとは似ても似つかないほど機械的だった。まあ機械だから、それはそうなのかもしれないが。

「きみはシャイロックみたいだけど、シャイロックではないんだよな」
「はい。私は貴方様に造られたアンドロイドです。シャイロックの模倣ではなく、貴方様にとってのシャイロックになり得るよう造られております」
「ふうん」
「ですから、貴方様のご要望があれば、なんでも致しますよ」
「例えば、どんなこと?」
「そうですね……」

 シャイロック(ではない)は不敵にも魅力的な笑みを浮かべる。それは俺のよく知るシャイロックのようだった。どこか好戦的に、俺に語りかけてくる。

「貴方様の望む"シャイロック"を演じましょう。貴方様の思うまま、貴方様のしたいことを」
「……」
「貴方様の望みは何ですか?ムル」
「そうだな……」

――きみに、もう一度会いたいよ。シャイロック。

 それは、とても小さな声だったが、確かにムルの声だった。
 機械人形のシャイロックは、それを聞くとにっこりと微笑み、彼の頬に触れる。
 世界を照らし始めていた月光は雲に隠れ、あたりは静寂に包まれていた。

「私はここにいますよ、ムル」
「……きみは俺のことをよく知っているようだね」
「あなたのこれまでの人生は、私の中に全て記録されていますから」
「へえ」
「あなたのこれからの人生は、私が全て記録していきます」
「そうか。それは、楽しみだな」

 機械人形のシャイロックは、その言葉を聞いて微笑む。
 月はいつの間にか顔を出し、その微笑んだ口元だけを照らしていた。










『8億年後の世界』おわり
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