夜の淵に咲く
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「そうか…。実弥と名前が…」
静まり返った屋敷の中。
床に臥したまま1人の男の声が凛と響いた。
上肢を放り出して枕元にいる鎹鴉にその手を伸ばそうとした。
もうその腕に感覚はなかった。
「どうか、彼らに希望を…」
△
「ーーくそがァ!いちいち消えるんじゃねェ‼︎」
鬼の猛攻を掻い潜りながら、こちらも攻撃を仕掛けるが…やはりその前に姿を消されてしまう。
狙いは私を鬼にする事だ。
鬼の攻撃は私に集中するため師範と背中合わせの状態なら何とか防御はできるが…。
「防御に入るだけで精一杯です…っ」
攻撃のチャンスはほとんどなかった。
下手に斬りかかればこちらに今度は隙ができてしまう。
師範と連携しながら何とか攻撃を仕掛けるが逃げられてしまう。
そのうえ私は呼吸を乱さないよう、意識を鬼にだけ向けるのに必死だった。余計なことを考えれば、すぐにでもこの足を掴まれ、奈落の底に引き摺り込まれそうだった。
鬼はまた姿を消して、今度は森の方へ移動したようだ。
もしかしたら奴も頻回に血鬼術を使えるわけではないのかもしれない。時折森に姿を消してはしばらく現れない。
こちらを動揺させようとしているのかと思ったが、あれは特殊な血鬼術だ。やつもスタミナが切れる事があるのかもしれない。
「何かねェのか。ヤツを油断させられるようなものは」
「お前たちを油断させる面白い話ならあるぞ」
「‼︎」
師範の声にかぶさるように鬼の声がした。
これは明らかに私たちの動揺を誘うためのものだろう。
しかし、こちらからは鬼の位置がはっきり掴めず、その声に耳を貸すほかなかった。
「俺が過去に喰い損ねた稀血の話をしてやろう」
「なんだとォ?」
それは先ほども鬼が独り言で言っているのを聞いた。
「もう何年も前だ。あの稀血さえ取り込むことができれば俺の血鬼術は完全となると確信した…しかし、あの時は喰い損ねた」
「悪ィが、死に損ないの昔話聞いてるほど暇じゃねェんだがなァ」
師範が柄を強く握り込む音が微かに聞こえた。
目の前の茂みの中から、鬼の気配が少しずつハッキリしてきた。
しばらくその一点を見つめていると、鬼は平然とこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
師範が踏み込もうと僅かに足の位置を変えたのに気が付き、私も背後を警戒しながら飛び込むつもりでいた。
しかし。
「まさか…柱になっていたとはな。見つからないわけだ」
「!!」
「どういうこと…?」
師範も訳がわからないと言った顔をしていた。
当然、師範がこの鬼と対峙したのはこれが初めてのはずだ。
私の心臓がうるさく鳴り出した。
嫌な予感がした。
「お前はあの時、まだ餓鬼だったがな」
耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
続きを聞きたくない。
師範は正面に構えていた刀をゆっくりおろした。
「稀血でも人間はやはり喰えん。稀血を喰った鬼を食べるのが俺には1番効率が良いからな。お前を喰わせようと鬼を差し向けたのに…まさか子供のお前が日の出まで持ち堪えるとは思わなかった」
「何だ、と…」
ーーー嘘だ。
師範の刀を持つ手には力が入っておらず、刀は地面にその手から垂直にぶら下がっているだけだった。
ーーーそんな。
私は自分でも身体が震えているのがわかった。
握った柄からカタカタと小さく音が響いていた。
こいつは、
この鬼が、
師範の母上を鬼にしたのだ。
「なんて…なんて事を…っ‼︎」
私の絶望に一つ別の感情が湧いてくるのを感じた。
抑えきれない。
これは、
以前にも感じた。
明確な殺意。
大切な人の右腕が無慈悲にも切り落とされた時と同じだった。
「うわあああぁぁ!!!」
私は勢いよく地面を蹴った。
とにかくその時出る最大の脚力で鬼に向かって飛び出した。
師範が静止する声にも構わなかった。
コイツだけは。
この鬼だけは私が殺す。
必ず首を落として太陽の下に晒してやる…‼︎
鬼は一瞬驚いたような顔をした。
私の刀の切先はやつに届いた。
が、
キィィィンーーーっ
刀から強い振動が、柄を掴む掌に伝わった。
そして甲高く耳をつんざくような、それでいて飴細工が割れるような繊細な音が聞こえた。
「愚か者が。そんな乱れた太刀筋の脆い刃では…その辺の鬼も斬れぬわ」
「…はっ…ぁ」
鬼は届いたと思った私の刀を…その刀身を手刀で叩き割った。
刀は半分の長さになり、折られた切先は遠くへ飛んで茂みの方へ落ちたようだった。
「…その殺気は見事だったがな。一瞬人であった頃を思い出したぞ」
「…ふっ…ぅ」
上手く喋れない。
下を見ると、鬼の左手。その爪は深く私の右胸を貫いていた。
「名前‼︎‼︎」
師範の声で呼吸を止めていることに気がついた。
鬼の血を注ぎ込まれたら終わりだ。私は呼吸で止血をしようとするが上手くいかない。
「ぁ…がッ…ッ‼︎」
息をしようとすれば
重たい水の中にいるようだった。
口から溢れたそれは水ではなく己の血であった。
視界が霞む。その中で、鬼がすぐさま今度は右手を振りかぶり、その爪をこちらに向けたのが見えた。
ーーーーーダメだ。
同時に私の背中に何か温かいものがぶつかった。
その瞬間体は浮遊感に包まれた。
「名前おい!呼吸しろ…ッ‼︎」
師範の声が聞こえた。
右胸の激痛が今更襲ってくる中、師範が私を抱えて鬼から遠ざけてくれたのだとわかった。
私は地面にゆっくりと降ろされる。
「ハハハっ‼︎もうお終いだな!そのまま放っておけばその女は死ぬぞ!」
「っおい!名前!呼吸で止血しろ!」
師範は出血している私の胸に手を当てて必死にその血を止めようとしてくれた。
だが、ダメだ。肺をやられた。
呼吸はままならず、激痛と出血で今にも溺れそうだった。
「…っしは、ッ」
「くそッ‼︎何で…くそがァ‼︎」
地面の岩肌を踏み締める足音が近づいてきた。
「大丈夫だ。その女を鬼にすれば助かるぞ」
「黙りやがれェ‼︎」
笑い声混じりに鬼の声が響く。
このままでは私は鬼にされる。
私は何とか声を出そうともがく。側にいる師範の羽織を掴んだ。
「し…しは…」
「喋んなァ!呼吸する事だけ考えろ‼︎」
「…ごッ…っ殺し、て…くっ…」
「‼︎」
鬼になるなんて
鬼になった私が師範を殺めるなんて
死ぬよりも
里に帰れないよりも
辛いではありませんかーーー
師範の顔色がみるみるうちに青くなっていく。
「ぉ、ねがっ……‼︎」
どうかあなたの…母上の仇であるこの鬼と同じ血が流れる人形の、私を切り捨ててください。
あぁ、何故こんな鬼に。
貴方のような優しい人の、大切な人が鬼にされなければならないのか。
もう、苦しいのです。
この身に、この血が流れる以上…
私はもう生きることを許されないような気になるのです。
私はもはや鬼のようなもの…
師範が日輪刀を握り、その柄がガチャリと音を立てるのが聞こえた。
「黙れ」
私はハッとする。
そう言った師範の声は、凛として…
その顔は見たこともないくらい優しかった。
「…っッ」
どうして…。
平気なはずがない。
間違いなくあの鬼は、貴方が最も憎むべき鬼だ。
貴方の大切な人を、奴が奪った。
そいつと同じ血が、私にも流れているのに…。
憎くは、ないのですか?
それは鬼に対してか、私に対してか。
私は自分でも師範に何を聞きたいのかよくわからなかった。いったい何と答えて欲しいのか…。
私の思っていることがわかったのか、師範は表情をいつものように戻し、険しくして言った。
「当然…気が狂いそうなほど憎い」
「…」
まるでその言葉が自分に向けられたのではないかと、一瞬心臓がじくりと痛んだ。
「だがな。そのせいで馬鹿な弟子まで鬼なっちまったら俺はどうなる?柱として示しがつかねェだろうがァ」
「…」
師範がゆっくりと立ち上がった。
「…お前だけは、守ってやる。お前が里に帰れるその日まで」
「‼︎」
私は何か堰き止められぬ感情が溢れるようだった。
泣き出してしまいたかった。
どうして、貴方はそんなに優しいのか。
その喉が張り裂けそうなほど湧き上がる憎悪を、呪いの言葉を叫びたいはずだ。
それなのに、
汚れた血の流れるこの紛い物の命に、己の目的のためとは言え最も憎むべき鬼を信じた愚かな私に、貴方はどうしてそんな言葉をくれるのか。
「弟子1人守れねェで何が柱だァ‼コイツがくたばる前に先にてめェを刻んでやらァ‼︎」
「…愚かな鬼狩りめ…ッ‼︎」
師範が勢いよく走り出した。
それを見た私は少しでも動けば引きちぎれそうに痛む体を、何とか転がしてうつ伏せになる。
「や゛っ…め…!!」
行かないで。
私はまた大切な人が傷つくのをただ見ていることしかできないのか。
地面に這いつくばって、無様にそこでもがくしかできないのか。
伸ばした右手は虚しく宙を掻き、左手の爪が地面の土を抉る。
「いいだろう。貴様は例え肉片になろうと構わないからな‼︎」
鬼が消える。
「しはッ…‼︎」
行かないでください。
お願い。
貴方にもまだいるではないですか。
笑って会いたい人が。
大切な人が。
鬼が師範の後ろに現れた。
その爪が、師範の背中の“殺”の文字に向かってまっすぐ伸びていく。
「ッ…‼︎」
口から叫びたい言葉は出てこず、代わりに泡立った血が溢れる。
誰か、お願い、助けて。
彼を死なせてはいけない。
助けて。
鈍く、鬼の爪が突き刺さった音がした。
静まり返った屋敷の中。
床に臥したまま1人の男の声が凛と響いた。
上肢を放り出して枕元にいる鎹鴉にその手を伸ばそうとした。
もうその腕に感覚はなかった。
「どうか、彼らに希望を…」
△
「ーーくそがァ!いちいち消えるんじゃねェ‼︎」
鬼の猛攻を掻い潜りながら、こちらも攻撃を仕掛けるが…やはりその前に姿を消されてしまう。
狙いは私を鬼にする事だ。
鬼の攻撃は私に集中するため師範と背中合わせの状態なら何とか防御はできるが…。
「防御に入るだけで精一杯です…っ」
攻撃のチャンスはほとんどなかった。
下手に斬りかかればこちらに今度は隙ができてしまう。
師範と連携しながら何とか攻撃を仕掛けるが逃げられてしまう。
そのうえ私は呼吸を乱さないよう、意識を鬼にだけ向けるのに必死だった。余計なことを考えれば、すぐにでもこの足を掴まれ、奈落の底に引き摺り込まれそうだった。
鬼はまた姿を消して、今度は森の方へ移動したようだ。
もしかしたら奴も頻回に血鬼術を使えるわけではないのかもしれない。時折森に姿を消してはしばらく現れない。
こちらを動揺させようとしているのかと思ったが、あれは特殊な血鬼術だ。やつもスタミナが切れる事があるのかもしれない。
「何かねェのか。ヤツを油断させられるようなものは」
「お前たちを油断させる面白い話ならあるぞ」
「‼︎」
師範の声にかぶさるように鬼の声がした。
これは明らかに私たちの動揺を誘うためのものだろう。
しかし、こちらからは鬼の位置がはっきり掴めず、その声に耳を貸すほかなかった。
「俺が過去に喰い損ねた稀血の話をしてやろう」
「なんだとォ?」
それは先ほども鬼が独り言で言っているのを聞いた。
「もう何年も前だ。あの稀血さえ取り込むことができれば俺の血鬼術は完全となると確信した…しかし、あの時は喰い損ねた」
「悪ィが、死に損ないの昔話聞いてるほど暇じゃねェんだがなァ」
師範が柄を強く握り込む音が微かに聞こえた。
目の前の茂みの中から、鬼の気配が少しずつハッキリしてきた。
しばらくその一点を見つめていると、鬼は平然とこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
師範が踏み込もうと僅かに足の位置を変えたのに気が付き、私も背後を警戒しながら飛び込むつもりでいた。
しかし。
「まさか…柱になっていたとはな。見つからないわけだ」
「!!」
「どういうこと…?」
師範も訳がわからないと言った顔をしていた。
当然、師範がこの鬼と対峙したのはこれが初めてのはずだ。
私の心臓がうるさく鳴り出した。
嫌な予感がした。
「お前はあの時、まだ餓鬼だったがな」
耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
続きを聞きたくない。
師範は正面に構えていた刀をゆっくりおろした。
「稀血でも人間はやはり喰えん。稀血を喰った鬼を食べるのが俺には1番効率が良いからな。お前を喰わせようと鬼を差し向けたのに…まさか子供のお前が日の出まで持ち堪えるとは思わなかった」
「何だ、と…」
ーーー嘘だ。
師範の刀を持つ手には力が入っておらず、刀は地面にその手から垂直にぶら下がっているだけだった。
ーーーそんな。
私は自分でも身体が震えているのがわかった。
握った柄からカタカタと小さく音が響いていた。
こいつは、
この鬼が、
師範の母上を鬼にしたのだ。
「なんて…なんて事を…っ‼︎」
私の絶望に一つ別の感情が湧いてくるのを感じた。
抑えきれない。
これは、
以前にも感じた。
明確な殺意。
大切な人の右腕が無慈悲にも切り落とされた時と同じだった。
「うわあああぁぁ!!!」
私は勢いよく地面を蹴った。
とにかくその時出る最大の脚力で鬼に向かって飛び出した。
師範が静止する声にも構わなかった。
コイツだけは。
この鬼だけは私が殺す。
必ず首を落として太陽の下に晒してやる…‼︎
鬼は一瞬驚いたような顔をした。
私の刀の切先はやつに届いた。
が、
キィィィンーーーっ
刀から強い振動が、柄を掴む掌に伝わった。
そして甲高く耳をつんざくような、それでいて飴細工が割れるような繊細な音が聞こえた。
「愚か者が。そんな乱れた太刀筋の脆い刃では…その辺の鬼も斬れぬわ」
「…はっ…ぁ」
鬼は届いたと思った私の刀を…その刀身を手刀で叩き割った。
刀は半分の長さになり、折られた切先は遠くへ飛んで茂みの方へ落ちたようだった。
「…その殺気は見事だったがな。一瞬人であった頃を思い出したぞ」
「…ふっ…ぅ」
上手く喋れない。
下を見ると、鬼の左手。その爪は深く私の右胸を貫いていた。
「名前‼︎‼︎」
師範の声で呼吸を止めていることに気がついた。
鬼の血を注ぎ込まれたら終わりだ。私は呼吸で止血をしようとするが上手くいかない。
「ぁ…がッ…ッ‼︎」
息をしようとすれば
重たい水の中にいるようだった。
口から溢れたそれは水ではなく己の血であった。
視界が霞む。その中で、鬼がすぐさま今度は右手を振りかぶり、その爪をこちらに向けたのが見えた。
ーーーーーダメだ。
同時に私の背中に何か温かいものがぶつかった。
その瞬間体は浮遊感に包まれた。
「名前おい!呼吸しろ…ッ‼︎」
師範の声が聞こえた。
右胸の激痛が今更襲ってくる中、師範が私を抱えて鬼から遠ざけてくれたのだとわかった。
私は地面にゆっくりと降ろされる。
「ハハハっ‼︎もうお終いだな!そのまま放っておけばその女は死ぬぞ!」
「っおい!名前!呼吸で止血しろ!」
師範は出血している私の胸に手を当てて必死にその血を止めようとしてくれた。
だが、ダメだ。肺をやられた。
呼吸はままならず、激痛と出血で今にも溺れそうだった。
「…っしは、ッ」
「くそッ‼︎何で…くそがァ‼︎」
地面の岩肌を踏み締める足音が近づいてきた。
「大丈夫だ。その女を鬼にすれば助かるぞ」
「黙りやがれェ‼︎」
笑い声混じりに鬼の声が響く。
このままでは私は鬼にされる。
私は何とか声を出そうともがく。側にいる師範の羽織を掴んだ。
「し…しは…」
「喋んなァ!呼吸する事だけ考えろ‼︎」
「…ごッ…っ殺し、て…くっ…」
「‼︎」
鬼になるなんて
鬼になった私が師範を殺めるなんて
死ぬよりも
里に帰れないよりも
辛いではありませんかーーー
師範の顔色がみるみるうちに青くなっていく。
「ぉ、ねがっ……‼︎」
どうかあなたの…母上の仇であるこの鬼と同じ血が流れる人形の、私を切り捨ててください。
あぁ、何故こんな鬼に。
貴方のような優しい人の、大切な人が鬼にされなければならないのか。
もう、苦しいのです。
この身に、この血が流れる以上…
私はもう生きることを許されないような気になるのです。
私はもはや鬼のようなもの…
師範が日輪刀を握り、その柄がガチャリと音を立てるのが聞こえた。
「黙れ」
私はハッとする。
そう言った師範の声は、凛として…
その顔は見たこともないくらい優しかった。
「…っッ」
どうして…。
平気なはずがない。
間違いなくあの鬼は、貴方が最も憎むべき鬼だ。
貴方の大切な人を、奴が奪った。
そいつと同じ血が、私にも流れているのに…。
憎くは、ないのですか?
それは鬼に対してか、私に対してか。
私は自分でも師範に何を聞きたいのかよくわからなかった。いったい何と答えて欲しいのか…。
私の思っていることがわかったのか、師範は表情をいつものように戻し、険しくして言った。
「当然…気が狂いそうなほど憎い」
「…」
まるでその言葉が自分に向けられたのではないかと、一瞬心臓がじくりと痛んだ。
「だがな。そのせいで馬鹿な弟子まで鬼なっちまったら俺はどうなる?柱として示しがつかねェだろうがァ」
「…」
師範がゆっくりと立ち上がった。
「…お前だけは、守ってやる。お前が里に帰れるその日まで」
「‼︎」
私は何か堰き止められぬ感情が溢れるようだった。
泣き出してしまいたかった。
どうして、貴方はそんなに優しいのか。
その喉が張り裂けそうなほど湧き上がる憎悪を、呪いの言葉を叫びたいはずだ。
それなのに、
汚れた血の流れるこの紛い物の命に、己の目的のためとは言え最も憎むべき鬼を信じた愚かな私に、貴方はどうしてそんな言葉をくれるのか。
「弟子1人守れねェで何が柱だァ‼コイツがくたばる前に先にてめェを刻んでやらァ‼︎」
「…愚かな鬼狩りめ…ッ‼︎」
師範が勢いよく走り出した。
それを見た私は少しでも動けば引きちぎれそうに痛む体を、何とか転がしてうつ伏せになる。
「や゛っ…め…!!」
行かないで。
私はまた大切な人が傷つくのをただ見ていることしかできないのか。
地面に這いつくばって、無様にそこでもがくしかできないのか。
伸ばした右手は虚しく宙を掻き、左手の爪が地面の土を抉る。
「いいだろう。貴様は例え肉片になろうと構わないからな‼︎」
鬼が消える。
「しはッ…‼︎」
行かないでください。
お願い。
貴方にもまだいるではないですか。
笑って会いたい人が。
大切な人が。
鬼が師範の後ろに現れた。
その爪が、師範の背中の“殺”の文字に向かってまっすぐ伸びていく。
「ッ…‼︎」
口から叫びたい言葉は出てこず、代わりに泡立った血が溢れる。
誰か、お願い、助けて。
彼を死なせてはいけない。
助けて。
鈍く、鬼の爪が突き刺さった音がした。