夜の淵に咲く
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私はこんな感覚は初めて経験した。
目の前には年若く、精悍な顔立ちをした男がいた。
黒々とした瞳を細めてこちらを見ている。
黒髪を前髪から全ての髪を後ろに流してまとめ、今では随分と浸透してきた西洋の服にきっちりと身を包んでいた。
見るからに身分の高そうな、しかし柔らかく笑うその表情はとても好青年といった雰囲気を纏っている。
と、本来ならそう感じるだろう。
私はその男を見た瞬間、一瞬全身が冷水を被ったように動かなくなった。
「…お待たせいたしんした。絢藤花魁が見えるまでお酌させてもらいんす。新造の羽月です」
私は何とか震えそうになる声を抑えて平静を装った。
何かがおかしい。
初見の相手に対してこのような反応をする自分が不思議でしょうがなかった。
「やぁ。無理言ってすまなかったね。君が噂の秘蔵っ子だね。やはり美しい」
男は上機嫌そうな笑顔を浮かべ、いたって普通に話し出す。
私は未だに全身を這う寒気が治らなかった。
男に近づこうと一歩踏み出すごとにそれは酷くなる。
これは、拒絶反応というのだろうか?
私の体は男に近づくことを警戒していた。
一体何故…?
「どうしたんだい?さぁ、こちらに早く来て!君の美しい瞳を見せてくれないか!」
男はにこにこと笑いながら隣に来るよう仕草で促してきた。
「紫水晶のように美しい遊女がいると聞いて、わざわざ絢藤花魁に別の馴染みが来るように仕向けたんだから」
そこまで聞いて私の脚はついに止まった。
「私と同じその瞳をね」
声が、出ない。
男は笑う。
「まさか…こんなところで見つけられるとはな。お前はどうやって“こちら”へ来た?」
男の口調は先程とは明らかに変わった。
その声は重たくのしかかるように響き、私は金縛りにでもあったように動けなかった。
この男…私がこの世界の人間でないのを知っている?
その時、焚いてあったお香の…藤の香りがむせ返るように強くなった気がした。
それをきっかけに私の体は動いた。
帯に隠していたクナイを男に向かって投げる。
男はそれを避けるため立ち上がって横に飛びのいた。
その隙に重たく邪魔な着物は脱ぎ捨てて中に着ていた忍び装束になる。
不味い。
ここには刀がない。
「…チャクラはやはり使えないのか。術は不完全なようだな。今の月影は何代目だ?」
私は唇が僅かに震えるのをもう抑えられなかった。
「お前…お前が…っ初代月影か…?」
男は不気味に口角を上げる。
「随分と昔の話だがな。お前のような者が現れるのを待っていた。我ら一族は術の完成を諦めるような連中じゃないからな。必ず来ると思っていた。予想より随分と遅かったがな」
そう言って男は目を閉じて大きくため息をついた。
何を…呑気なことを言っているのだ?
この男のせいで一族は抜け出せぬ幻想の中に囚われ、私のような命が作られ、博士やカゲツは死に、サソリは右手を失った。
そんな男が、こちら側では鬼となって人を苦しめている…。
藤の香は…?何故この男に効かないのだ?
「…巻物を寄越せ。俺なら術を完成させられる」
閉じていた目を開き、こちらを見据えた。
そこには先ほどとは変わって、私と同じ色をした瞳があった。
「今度こそ俺が…我が里を五大国をも凌ぐ大国へと導くのだ」
そしてこの男…鬼は、今も尚哀れな幻想を抱いている。
男は攻撃してくる気配もなくただ話し続けた。
私は憎悪や憐れみ、色んな感情が自分の中で渦巻いているのを感じた。しかしここでその感情に流されまいと思考を切り替えようと必死だった。
私は日輪刀のある部屋までどうやって向かおうか算段を立てる。
「その瞳を持っているということは…お前は俺の子孫に当たるのだろう。お前さえ協力すれば国に返してやれるぞ」
冷静を装おうとしたものの、私はその言葉に愚かながらも反論せずにはいられなかった。
「私はお前のような愚かな男の子孫ではない!ましてや月隠れの民でもない!私は砂隠れの忍だ!」
同じにしてくれるな。
人の命を弄び、民を重んじもせずに欺き続け、己の私欲だけに生きているお前達といっしょにしてくれるな。
そう叫ぶ私に、男は初めて表情を曇らせた。
「そんなはずはない。お前は俺と同じ瞳を持っている。それにその血の匂い…間違いなく朔夜一族のもの…」
その後一瞬目を見開き、何かに気付いたように驚いていたが、それはすぐに愉悦に口元が歪んだ。
「そうか!人体の複製は完成していたか!ここまで完成度が高いとはな…!」
私は1人嬉しそうに話し出す男をもはや相手にする気にはなれなかった。一刻も早く、この忍の恥さらしの頸を切り落としてしまいたい。
しかし…今は調子を合わせなくては。
「私は偶然の産物だ。成功したとは言い難い。残念だったな」
「…ほぉ」
男は一旦動きを止めてこちらを静かに見ていた。
何か考えているようにも見えた。
「羽月…いや、本名ではないだろうが。俺に協力してほしいのだ」
「…協力?」
虫唾が走る思いだが…ここは大人しく相手の話を聞くしかなかった。この男も私のそんな様子がわかっているように見えた。余裕のある笑みで話を続ける。
「お前も早く月隠れ…いや、砂隠れに帰りたいだろう?お前さえ協力してくれれば、俺なら術を完成させお前を国に帰すことができるぞ」
私は耳を傾けてはいけない言葉と分かっていながら、その意識は嫌でもこの鬼の戯言に向いてしまう。
「お前はただ巻物を渡し、その血を少しだけ俺に与えればいい」
確かに…私が元の世界に帰るためには、この男が最後のチャンスかもしれない。
どうすれば油断を誘って帰る方法を聞き出せるだろうか…。
私はひとまず調子を合わせようと会話を続けることにした。
「…本当に帰れるのか…?」
「当然だ。この血継限界の始まりにして、その術の発案者は俺だぞ?」
私は腰のホルダーにしまってある巻物に手を伸ばす。そしてホルダーの留め具を離して中から巻物を取り出した。
それを片手でゆっくりと開いていった。
男は興味深そうにその巻物を見ていたが、ある程度開かれた時目を見開いた。
「…お前、それを破ったのか?」
「…致し方なく」
大きく裂かれ、糊で繋いだ箇所を見て男は驚いていた。
男は何か言おうとして、次の瞬間にはまた不愉快に笑った。
「まぁ良い。俺なら直せるからな。そうすればお前もチャクラが再び使えるようになる」
「…」
男の反応に僅かに引っ掛かるところもあったが、今は気づかないふりをした。
どうする?このままあっさり巻物を渡してしまうのは危険だ。巻物だけ奪われる、なんて泣くに泣けない結果に終わる可能性が高い。
ここはもう一つ踏み込んでみるしかなさそうだ。
「その保証はどこにある?貴様…鬼であろう?術を再び発動させることなどできるのか?」
「可能だ。俺はそのために鬼になったのだからな。俺はチャクラを失ったが、代わりに血鬼術を手に入れた。この力があれば再び術を発動させられる。ただし」
男はこちらを指差し笑った。
「それにはお前の…朔夜一族の血とその巻物が必要なのだ。俺にはその2つがない」
つまり私とこの鬼が協力すればお互いにないものを補い合い、元の世界に帰ることができると言いたいのだろう。
「お前には俺の血鬼術と、その術に関する知識が必要だ。どうだ?悪い話じゃないだろう?」
黙っている私に構わず鬼は話を続ける。
確かに、利害は一致している。
巻物を失った私は今まさにこうなる事を望んでいた。
里に帰る。そのためだけにこの男を探していたのだから。
しかし…。
「その話、信じる証拠はあるのか?話がうますぎる。それに…」
この男は鬼だ。
今までも何の罪もない無抵抗で善良な民を喰らってきたのかと思うとやはり信じる気にはなれなかった。
うまい餌を目の前にぶら下げて、その罠に食らいつくのを待っている猛獣にしか見えない。
「何故お前には藤の花の香が効かない?」
続けて口を開こうとしたが、突然外の気配に違和感を感じた。外といってもこの部屋の外…この建物の中ではなくもっと遠く…別の場所から感じる。
遠すぎてわからないが胸騒ぎがした。
「ちっ、堕姫か。随分派手にやっているな」
その違和感にこの男も気付いたのか、忌々しそうな顔をして吐き捨てるように言った。
私はその様子を見てすかさず男を問い詰めた。
「お前何か知っているのか?他にも鬼がいるのか?!」
男は一瞬何か考えているような素振りを見せたがすぐに一歩後ろに下がった。
「悪いが時間切れだ。チャンスを逃したな」
どういう意味だと、聞き返す間もなかった。
次の瞬間には、鬼は瞬きする間に消えてしまった。
「え?!」
我々が全集中の呼吸と最大の脚力を使ってその場から瞬時に移動するのとは違って、まるでその存在が切り取られてしまったかのように消えたのだ。気配はもうすっかり感じられなかった。
「時空間移動…?」
奴は血鬼術で本当にその力を取り戻したというのか。
チャンスを逃したという言葉が私の脳内で警報のように煩く繰り返された。
帰郷への願いはこれで断たれるのかと焦燥にかられた。
「ま、待て!」
しかしもう一体の鬼の存在が頭に過り、一度冷静さを取り戻す。
丸い格子状の窓枠をそれごと蹴り飛ばして外し、身を乗り出して外の様子を覗いた。外は妙に静まりかえっていたが、おそらくあれは…炭治郎さんが潜入した遊郭だ。妙な気配がする。おそらく鬼が動き出している。
「…音柱様は」
その時タイミングよく、音柱様の鴉がこちらに向かってくるのが見えた。
「鴉様!」
私は止まりやすいよう腕をそちらに伸ばした。
音柱様に似た特徴的な装飾品を頭につけた鎹鴉が腕に止まった。
「名前、こちらも何かあったようだな」
「鬼と接触しました。元鬼殺隊で…私の同郷のものです」
私は出来るだけ簡略的に状況を伝えた。
鬼殺隊員が討伐に失敗した末、鬼にされてしまったことは今までも何度もあったが、私の同郷と聞いた鴉様は身体をピクリと反応させた。
「そうか…。こちらも鬼が動き出した。どうやら上弦の鬼だ。炭治郎含む隊士3名と音柱が討伐及び3人の嫁の救出に向かった」
このタイミングでまたしても上弦の鬼に出くわすとは…。
砕かれてしまった一華が思い出されて私は焦って話し出した。
「私も上弦の鬼の討伐に向かいます!炭治郎さんたちを奥方様達の救出にっ…」
しかし話を遮るように鴉様は翼を広げた。
「お前は今接触のあった鬼の討伐にこのまま向かえ。同郷のものなら少なからず手の内がわかるかもしれない。お前が適任だ」
そう言われてハッとした。
今の自分は冷静さを欠いている。
確かに上弦の鬼相手に炭治郎さんたちが心配ではあるが、あの月影を野放しにしておくわけにはいかない。私の個人的な因縁も含め。
「手に負えないようであれば深追いするな。増援を待て」
「わかりました。どうか御武運を…」
私はその場から瞬時に消えた。
私は急いで刀を取りに部屋の窓から侵入した。
襖を勢いよく開け、押入れに隠してあった刀と隊服を引っ張り出してすぐさま着替えた。
そして刀を握り、そのまま走り出した。
まだ近くにいればいいのだが…。
鬼が時空間移動の血鬼術を有しているのなら、もうとっくに手の届かないところにいるのでは。
あの鬼の最後の口ぶり。
まるでもうここへ戻ってくる気はなさそうであった。
しかし奴にとっても、私が里に帰る唯一の望みであるはず。
必ずまた接触してくる。
私は一度深く息を吸って刀を忍服の革帯に収め、鞘から刀を抜いた。
そこには行燈の赤い明かりをぼんやりと反射させて私の花緑青色の刃が輝いていた。
不思議とさざ波だった心が凪いでいくように落ち着き、呼吸が楽になった。
「…サソリ、師範。必ずヤツを見つけます」
刀を納め、窓のへりに足をかけ、思いっきり飛んだ。眼下には道の側にぶら下がった提灯の明かりが列をなして並んでいるのが見えた。
その先には山が連なり灯の見えない景色が広がっていた。
私は炭を塗ったような夜へ飛び込んでいった。