限界社会人と死の使い
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死が私を呼んでいる。
底知れぬ、深い闇から。
あらゆるものが輝いて見えた視界はだんだんとくすんでいって、灰色がかるころにはビネット加工された画像のように視野が狭まっていた。
奏でる音で満ちあふれていた私の世界はいつしか雑音が生じるようになって、今では不協和音がいつまでも反響し続けている。
――――――――――
子どものころから夢見ていた。
どんな願いでも一つだけ叶うのなら、天使になりたいと。
それが現実に叶うことはないと知ってからは、シンガーソングライターになるのが夢になった。
声が枯れるまで歌って、指先が硬くなるほどギターの練習をして、寝食を忘れて曲を書いた。
だけど、結局その夢も叶うことはなかった。
どれだけがむしゃらに努力を重ねようとも、自分の願い通りにならないこともあるのだと身をもって学んだ。
そうして、私はただの社会人になった。
経歴書に特筆できることもない、何の取り柄もない、ありふれた人間だ。
そう、何者でもない。
いや、むしろそれ以下の存在なのかもしれない。
社会に出てからというもの、ほかと自分との差を感じはじめ、いつしか劣等感が増していった。
みんなが人並みにできることが、当たり前にできない。
足並みがそろうラインまでが途方もなく遠くに感じられる。
みんなの普通が、私にはとても難しい。
そうと気づいてからは、死に物狂いで努力した。
シンガーを目指していたとき以上にがんばった自負がある。
そうしなければ、この世界では生きていけないからだ。
けれど、努力すればするほどに、自分がいかに不出来であるか痛切に実感させられたに過ぎなかった。
はじめのころこそ「誰でもあることだから」と優しく声かけをしてくれる人がいたが、やがてうっかり屋認定されるようになり、常習犯のレッテルを貼られるころには、足手まといだというささやきがそこここから聞こえるようになった。
気にしないように、気にしないようにといくら自分に言い聞かせていても、小さなすり傷は知らず知らずのうちに蓄積されていって、息苦しさを自覚するころには、身を抉られるほどの深い傷になっていた。
胸の奥深くまで刻まれた傷が奪ったのは、自尊心だけじゃなかった。
プレッシャーが膨らむごとに、今までであれば気づけたであろう些細なミスでさえ見落とすまでになり、気をつけようと意識することでかえって失敗が増えていく。
それが毎日、嫌というほど繰り返されるようになってしまった。
そのたびに呆れたような叱責を受け、必死で挽回することに注力するだけの日々。
何のために、努力してきたんだろう。
何のために、がんばればいいんだろう。
何のために、生きていけばいいんだろう。
一体、何のために。
いつしか、そんな思考ばかりが頭のなかで渦巻きはじめるようになった。
気が狂いそうなほど目まぐるしい日常のなかで揉まれ続けているうちに、突然、私のなかでぷつりと何かが切れる感覚がした。
そこからは、まるで夢を見ているかのようだった。
忙しなく備品を運ぶ人も、取引先に向かおうとする人も、電話対応をしている人の声も、すべてが不明瞭で、まるで自分一人だけこの世界から浮いているような気分だ。
残っている仕事もそのままに席を立って、会社をあとにした。
私を呼び止める声はなかったが、そんなことはもうどうだって良かった。
もう、何も考えられなくなっていた。
そうして宛もなく歩いているうちに陽が落ちて、いつの間にか名前も知らない雑居ビルの屋上にいた。
名前は知らないが、私にとっては馴染み深い場所でもある。
シンガーを目指していたときから、ここへは何度も足を運んでいた。
人が訪れる気配がなく、弾き語りの練習にうってつけだったからだ。
今の会社に入ってからはとんと訪れなくなってしまっていたが、こんなかたちで二度も訪れことになるとは。
無中になって夢を追いかけていたあのころの私は、いつかそれが叶うと信じて疑わなかった。
あんなに希望に満ちていたはずの未来が、まさかこんなことになるなんて、一度たりとも思いもしなかった。
人生って、こんなにも皮肉に満ちたものなのか。
泣きたいくらい胸が苦しいはずなのに、涙の一滴もこぼれない。
さっきから鳴り続けていたスマートフォンには、会社からの着信がいくつも入っていたが、着信履歴の一覧を埋め尽くす社名を見ても何も感じない。
「これも、もういらないな……」
電源ボタンを長押しすると、画面が真っ暗になると同時に、煩わしかったバイブレーションの音がようやく止んだ。
手から滑らせたスマホが、カシャリと音を立てて地面に転がる。
ようやく訪れた静寂に身を委ねる。
頬をくすぐる風の音に耳を傾けたのはいつ振りだろう。
本当に、ただ生を繋ぐためにこなすだけの日々だった。
だけどそれも、もう終わり。
私はもう、十分がんばったはずだ。
そういえば、遺書を持ってくるのを忘れていた。
でもまあ、もういいや。
誰に宛てるでもなく、たった二言「人生に疲れました」「さようなら」と書いただけの紙切れなんて用意したところで、死因が自殺であるという判断材料にしかならない。
それを読んで心から嘆いてくれるような人なんて、もうこの世のどこにもいないのだ。
金網に手をかけ、下を覗く。
先日も今日のように一度は死のうと思いここに来た。
そのときはこうして下を覗き込んだだけで、あまりの高さに怖じ気づいてしまったけれど、今は不思議と怖くない。
これから会社に戻ることを考えれば、ここから飛び降りることのほうがずっと簡単なことのように思えてくる。
これから先の人生を歩んでいくことよりも、ずっと。
ぐらぐらと揺れる金網は雨ざらしのせいか錆びついていて、ほんの少しだけ、恐怖心が蘇りそうになる。
なるべく下を見ないようにして、無心になって金網を乗り越える。
ようやく地面に足がつき、恐るおそる背後を振り返った。
「綺麗……」
金網越しにしか見たことのなかった景色が、視界いっぱいに広がる。
もう二度と、何にも心を揺り動かされることはないものと思っていたが、まだ私にも景色を綺麗だと思える心が残っていた。
けれど、そんな風に感じ入る情緒も、景色に心を揺り動かされている最中(さなか)でさえ胸にとぐろを巻き続けるつらさも、ここから一歩踏み出せば、すべて消えてなくなるのだ。
建物や街灯の明かりの一つひとつが、静かに街中を照らし、私を死の淵へと誘う。
髪を巻きさらう風はこんなにも冷たいのに、オレンジ色の淡い光はどこか温かくて、手を伸ばせば今にも届きそうなほどに近く感じられる。
最後に見る景色が夜景というのも、案外悪くない。
覚悟を決め、後ろ手に金網を掴む手の力を緩めようとしたときだった。
「命を無駄にするな」
突如、背後から男性の鋭い声に制止をかけられた。
どこかで聞いたような説得のフレーズだったからか、それが私に向けられたものだとすぐにわかった。
今まさに意を決して踏み切ろうとしていた私は、少し苛立ちながらも仕方なく振り返った。
そうして、金網の向こう側に立つ人物の姿を捉えた自分の目を疑った。
「……誰?」
その人物に抱いた第一印象は、“白”だった。
髪や眉、身にまとう服に至るまで、すべて白。
一際(ひときわ)目を引いたのは、その男の背にある純白の大きな翼だ。
まるで、天使のような。
「誰、か……」
呆気に取られたままの私に、男は緩慢に答えた。
「その質問は何度受けても答えようがないな」
その口振りからして、私のような反応にはきっと慣れているのだろう。
ついと片眉を上げながらも、気に留めている様子はない。
「そうだな。……強いて言えば、神の使い。いや、俺の役目からして、さしずめ死の使いと称するべきか」
コスプレイヤーの可能性を疑ったが、その考えはすぐさま打ち消された。
なぜならこの死の使いを名乗った男は、背中の翼をゆったりと羽ばたかせながら、地面より少しばかり宙に浮いているからだ。
この不可解な状況を理解するのは非常に難しい。
しかしながら、今まさに常軌を逸した決断に踏み切ろうとしていた精神状態がそうさせるのか、得体の知れない人物を前に私は至って冷静だった。
「つまり……あなたは天使ですか?それとも、死に神?」
「人間は皆、俺たちをそう呼ぶな。時に悪魔と呼ぶ者もいるが」
いずれにせよ、俺たちにはどうでも良いことだ。
死の使いはさも興味なさそうにそう切り捨て、大きく翼をはためかせると、ふわりと屋上に降り立った。
すると、広げられていた翼は羽を休める蝶のように折りたたまれた。
作り物とは思えない繊細な動きに圧倒され、つい本物なんじゃないかと信じ込みそうになる。
しかし、ゆったりとした歩調で歩み寄って来た男と間近で視線が絡み合ったとき、わずかながらに残っていた疑念は一瞬にして取り払われてしまった。
切り込みを入れたような、細い瞳孔。淡く発光する、黄金色の瞳。
それを言葉で言い表すことはとてもできないが、男がこの世の者ではないことはその目を見れば明らかだった。
浮世離れした美しさについ見とれてしまいそうになるが、囚われそうになった思考を振り払う。
今の私には、目の前の人物が天使だろうと悪魔だろうと関係のないことだ。
この人物がどんな目的で私の前に現れたのかに至った途端、現状に引き戻される。
「天使だか何だか知らないけど、私に何の用ですか?まさか、自殺を止めに来た、なんて言わないですよね?」
私の詮索に関心したように唸ると、その骨ばった指先であごをさすりながら小首を傾げた。
「君たち人間は俺たちの存在について懐疑的なはずだが、それにしてはなかなかに実態を知り得ているようだな」
勝手なイメージで憶測を述べただけだったが、案外的外れというわけでもないようだ。
「おおむね君の察する通りだ。そうとわかっているのなら話は早い」
おもむろに伸ばされた男の手が、金網をすり抜けた。
ドラマなどでよく見るような、幽霊が壁を通り抜けるかのような光景を実際に目の当たりにして、さすがに驚かされる。
その拍子に、男の手が私の手首を強く掴んだ。
その手は、幽霊のように冷たいこともなく、私と同じで温かい。
「今すぐ、こちら側に戻るんだ」
腕を掴む手には微かに痛みを感じるほどの力が込められているのに対し、男の顔には何の感情も見えない。
まるで、ただ淡々と、無感情に成すべきことを成そうとしているかのような行動に、例えようのない拒絶感が沸き起こる。
「……嫌!」
だが、振り払おうにも手の力は強く、抗うことを許さない。
こんな状況に置いてもなお、無駄なことだと思い知らされるなんて。
虚しさを覚え始め、だんだん抗うのも馬鹿馬鹿しくなってくる。
腕を引く手を緩めると、男は腕を掴む手をようやく離してくれた。
話をしたところで、きっと何の意味もない。
自宅に置き忘れてきたたった二行の遺書と同じ。
そうとわかりながらも、私の意に反して口からは言葉があふれてくる。
「あの日……何日か前にも一度、私はここから飛び降りて死のうとしたんです。けど、あのときは怖くて勇気が出せなかった。それに、まだ何とかなるかもしれないと強く自分に言い聞かせて、すんでのところで思い留まりました」
こぶしで打った金網が、カシャン!と強く音を立てる。
「だけど、結局それには何の意味もなかった!ただただつらい日々が今日まで続いただけだった。ほ、本当に……本当に苦しかった」
心に押し込むように溜めてきた思いを口にした途端、涙が堰を切ったように流れ出した。
私の話に黙って耳を傾け続ける死の使いの目が、涙でぼやける視界のなかで微かに見開かれた気がした。
「どうせあの日死ぬはずだったんです。それが今日に変わっただけ。やっと決心が固まったところだったのに、どうして今日に限って私の前に現れるんですか……!」
しゃくり上げる私になおも無言を貫いていた男は、長い沈黙のあとようやく口を開いた。
「なぜ今日俺が現れたのかについては、君自身がすでに理由を述べた」
無感情な物言いに、涙でぼやけていた視界がだんだんクリアになってくる。
そうして目の前にふたたび現れた男の面差しは、やはり無表情だった。
まるで鉄仮面のごとく変化に乏しい顔つきからは一切の人間味が感じられず、視線が絡み合ううちに、高ぶっていた感情が萎んでいく。
「やっと決心を固めた。君は今、そう言ったな。それが、俺が君の前に現れた理由だ」
「あの日は私の決心が定まっていなかった。だから、傍観していたってことですか?」
「違う。……レナ、俺は」
男の声に、微かに動揺の色が混じる。
だが、一度あふれだした言葉は、留まるところを知らずに口からこぼれ続ける。
「神の使いだか死の使いだか知らないけど、死ぬ覚悟ができた人の前に現れて生き永らえさせようとするなんて、残酷です……」
金網を掴む手に力を込める。
言葉にすればするほど、悲しみよりも虚しさが込み上げてくる。
それ以上言葉が出てこず、ただうつむくことしかできない。
すると、言葉を飲んでいた男の手が、今度は金網越しに、私の手にそっと重ねられた。
「レナ、どうか誤解しないでくれ」
幾分か優しい響きをまとう声。
弾かれたように顔を上げると、男は私から視線を逸らすように、その長く白いまつげを伏せた。
「俺は、道徳的な観点から君を説得しているのではない。なぜならそれは、あくまで人間が作り出した倫理観に基づく理念に過ぎないからだ」
「……どういう意味ですか?」
男は慎重に言葉を選ぼうとしているらしく、微かに眉根が寄せられている。
「俺たちは、基本的には良きも悪しきもあまねく受け入れる。そういう決まりだ。寿命を迎えた魂を回収するのが主な役目だが、まだ寿命を残している者の命を繋ぐのもまた役目だ」
「そんなの、そちらの都合でしょう?」
「寿命というのは、何もただ生きられる長さのことを言っているわけではない。自殺するまさにその瞬間に寿命が尽きる命もある。だが、君の場合はそうではないのだ、レナ」
何が言いたいのか、よくわからない。
私の表情からそれを察したらしく、男は「説明が難しいな……。どうすれば理解してもらえるのか」と悩む素振りを見せ始めた。
腕組みをしてしばし考え込む死の使いに、この隙に私がここから飛び降りれば、彼はどうするだろうとふと過ぎる。
しかし、男はややあって顔を上げ「では、こう言い換えよう」と改めて説明を始めた。
「レナ、君にはまだ多くの寿命が残っている。寿命があるうちは、君を死なせるわけにはいかない。それは、俺たちの利益のためではない。むしろ、君にとって好都合なことだからだ」
私を納得させるための方便なんじゃないか。
そう紡ぎかけた言葉をつぐむ。
「これは、本来口外すべきことではないのだがな。……仕方がない。特別に、予言を授けるとしよう」
もったいぶったようにそう言うと、男はおよそ信じがたいことを口にした。
「レナ、近い将来、君にこの上ない幸せが訪れる」
「……幸せって?」
「俺が把握しているのは、君に幸せが訪れるという抽象的な結果のみに留まる。
詳細については神にしか知り得ないことだ」
曖昧な表現に、まざまざと怒りが込み上げてくる。
私を言いくるめるための時間稼ぎに嘘をついているとしか思えない。
「あなたの言っていることが本当だと証明できない限り信じられません」
「君が信じようが信じまいが、これは決定事項だ。生きていれば、今にわかることだ」
男は動じない。
それどころか、自分の言動がさも当然であるかのようにきっぱりと言い切る。
表情が読めないぶん、余計に本当のことを言っているように感じられる。
いや、そう思いたいだけなのかもしれない。
私の前に唯一垂れ下がる希望の糸に、しがみつけるのならばと。
……だけど。
「無理だよ……」
ビルの谷間風が、強くなる。
「もう、十分耐えがたい思いをしてきたの。つらいのはもう嫌……!」
「だったら、俺が現状を変えてやる。そうすれば君は踏み留まるか?」
「そんなの、絶対嘘。信じられない。どんなに都合のいい言葉を聞かされたって、私には悪魔の甘い囁きにしか聞こえません」
「では、どうすれば俺の言葉を信じる?」
「だったら!」
風にかき消されないよう、切なる思いを込めて声を張り上げる。
「私の願いを、今ここで叶えてください。そうすれば、あなたを信じる」
男は眉間の皺を微かに深めた。
そして、ふたたび考え込むように目を閉ざす。
無茶なことを言っているとわかっている。
けれど、男の言葉を信じるに足るだけの何かがどうしてもほしい。
無条件に信じてしまったばかりに痛い目を見たとき、私はきっと今度こそ堪えられない。
次に目を開けた男は、腹を決めたような顔つきをしていた。
「……いいだろう」
その言葉とともに深く頷いた男に、心臓が一つ鼓動を打った。
「ただし、叶えられる願いは一つだ」
「どんな願いでも叶えられるの?」
「……もちろんだ」
「さあ、願いは何だ?」と促す死の使い。
願いはとうに決めている。
私は意を決して、一つの願いを唱える。
「私を、天使にしてください」
私の口にした願いに、死の使いの顔が露骨にこわばった。
男は動揺を隠さず、静かに首を左右に振る。
「……レナ、それは聞き届けられない」
「どうしてですか?」
「君にとって、今以上の苦しみを負うことになるかもしれないからだ」
「私にとっては、今が一番つらいときなの。これ以上の苦しみなんて」
「俺と同じになるということがどういうことか、君はまったく理解していない。俺たちの役目はそう甘くはない。時に、無残な死を目の当たりにせざるを得ない場合もあるのだ。君はそれに耐えられるのか?」
男の目は真剣そのものだ。
彼の表情が乏しいのは、この世のものではないからなのだと思っていた。
けれど、彼の言う通りなのだとしたら。
目にしたくもない惨状を数えきれないほど目の当たりにしてきたせいで、感情を殺す必要があったのかもしれない。
けれど、経験はなくとも私にだって想像できることだ。
「神の使いともあろう人が、約束を違えるんですか?」
こんなことを言っては、きっとすごく困らせてしまうだろう。
男は、ますます困惑した顔で、金網越しに私の手に重ねた手を力なく下ろした。
「……生者を神の使いに創り変えるなど、神もお赦しにならないだろう」
男の答えに、私はひどく落胆した。
ああ、どんなに願おうとも、やっぱり私の願いは叶わない。
「……だったら、交渉はもう終わりにします」
私の思い描く通りの存在が実在するというのに、私がそれになることは叶わないなんて、これ以上残酷なことがあるのだろうか。
「あなたと話をしても、私の気持ちは少しも変わらなかった。あなたが私の願いを叶えてくれないのなら、私もあなたの説得を聞き入れたくない」
「君を今以上に不幸にする願いを聞き入れられないというだけのことだ。それに、ほかの願いをまだ聞いていない」
「天使になれないのなら、もう願いなんてありません」
そもそも命を繋いでもらったところで、この世界でこれからも生きていける望みなんてもうない。
「もう消えてしまいたいの。こんな世界から」
自嘲の笑みを浮かべ、金網から手を離した。
「レナ、よせ!」
男の体が金網をすり抜けて私の腕を取ろうとするが、届かない。
死が、私を奈落の底へと勢いよく引きずり込む。
それは、心地良いものでも何でもなかった。
襲い来る浮遊感に、今までに感じたことのない恐怖が込み上げてくる。
私の意識とは関係なく、気づけば無我夢中で声を張り上げていた。
私の名を叫ぶ声に目を見開くと、頭上に大きな翼を広げた天使が舞い降りてきた。
目の前が白に覆われたと思った瞬間、体が強く抱き止められる感覚がした。
それと同時に、強い重力がかかり、やがて浮遊感がなくなったと思ったとき、体を縛る感覚が消え去った。
辺りを見渡すと、そこは先ほどまでいた屋上だった。
見慣れた景色に、涙があふれてくる。
思わず、男の胸にしがみついた。
彼は黙って私を受け止めた。そっと背中に腕が回され、きつく抱きしめられる。
「君の叫びは、魂の声だ。まだ死にたくないと、魂が叫んでいるんだ。わかるだろう?」
泣き崩れる私に、死の使いはそれきり何を語るでもなく、私が泣き止むまであやし続けた。
次に気がついたとき、私は自宅のベッドの上だった。
あの屋上でのことが夢ではないことは、手についた金網のあとと、涙の乾いた跡で引きつる頬の感覚が如実に物語っている。
彼の腕のなかで泣き疲れた私は、いつの間にか眠ってしまったんだろう。
どうやって帰ったのか一切の記憶がないが、恐らくあの神の使いが私を家まで運んだに違いない。
簡単に身なりを整えると、私はもう一度あの屋上へと向かった。
もう一度、あの神の使いを名乗る男に会いたい。その一心で。
屋上には、私の思い描いた通り、すでに先客がいた。
陽光に煌めく白髪を風にそよがせるその男は、私が昨日飛び降りた金網の前に立ち、向こうの景色を眺めている。
屋上のドアを閉ざすころ、男は私の到着に気づき、少し目尻を下げた。
「目が覚めたか。君は、もう一度ここを訪れるだろうと考えていたところだ」
「……もう一度、あなたに会いたかったから」
本心からの言葉だったが、男が目を瞬かせたことで、小恥ずかしいことをさらりと口にしてしまったことに今さらながら気づかされる。
しかし、まさかそんな顔を浮かべるなんて意外だった。
感情に乏しい人なのだとばかり思っていたが、存外に人間じみたところもあるようだ。
男は軽く咳ばらいをすると、私に向き直った。
そうして、改まった態度でこう問いかけてきた。
「今一度問おう。レナ、君は本当に俺のようになりたいのか?」
男の問いに、私は迷いなく頷いた。
「実は子どものころからずっと天使に憧れていました。もしどんな願いでも一つだけ叶うのなら、私は天使になるんだって」
私の答えに、男は意を決したように頷いた。
「わかった。その願い、承服しよう」
「……本当に?」
「ただし、それには2つ条件がある」
食い気味にそう言うと、男は私の肩に手を置いた。
「まず一つ。レナ、君には俺の相棒として働いてもらう」
「あなたの?」
「そうだ。本来、人間を神の使いにするなどもってのほかだが、神はお赦しになった。しかし、その条件として君を俺の保護下に置くようにと命ぜられた」
「わ、わかりました。それで、2つ目の条件は?」
男は、視線を流すと、少し気恥ずかしそうに声を低めた。
「君が神の使い……天使に、そこまでこだわる理由が知りたい」
そう聞かれるまで、その理由を考えたことがなかったことに気づく。
ただ漠然と、そうなりたいと願ってきただけだったからだ。
けれど、本物を目の前にして、その理由がはっきりとわかった気がする。
「天使が、綺麗だからです」
「……俺たちが、綺麗だと?」
「はい、とても」
私の肩から手を離し「そうか」とたった一言呟いた男は口元を覆った。
どこか嬉しそうに微笑む姿に、不覚にも心臓が跳ねる。
「わかった。では、覚悟が決まり次第、君には神のおわす世界に来てもらう。そうなると、もう人間には戻ることはできない。何か思い残したことはないか?」
私には、別れを惜しむような家族や友人はいない。
死の間際でさえ、思い残すことなんて何一つないと思っていた。
けれど、今になって、一つのことが浮かんでくる。
最後に、たった一つだけ。
「歌を歌いたいです」
「そうか。人前で歌いたいのか?」
「いいえ、ここがいいです。ここは、私にとってこの世界で唯一の大切な場所だから」
雨ざらしの金網があるだけの、殺伐とした雑居ビルの屋上。
何の感慨もない人からすれば、どこにでもあるような古びた風景に過ぎないだろう。
けれど私にとっては、ここが唯一のかけがえのない場所なのだ。
静かに吹きそよぐ風に、そっと歌を乗せる。
これが、人としてこの場所に立つ、最後のひとときなのだ。
そう思うと、ほんの少しだけ、名残惜しくもある。
私の歌声に耳を傾ける死の使いは、心地よさそうに静かにまぶたを落としている。
思うままに歌い終えたころ。
しばし余韻に浸っていたが、やがて男がぽつりと私の名を呼んだ。
「君にもう一つ予言を授けたい」
男は、今までにないほど朗らかな笑みを浮かべている。
「君はこれから、多くの人の死に立ち会うことになるだろう。だがその際、君のその歌声が旅立つ彼らのよすがとなる日がいつしか必ず訪れるはずだ。……俺が保証する」
願ってもないことだった。
本当に叶うのなら、そんなに嬉しいことはない。
「さあ、時間だ。君を正式に神の使いとすべく、まずは神と対面してもらう必要がある」
「本当に今更なんですが、神様や天使って、本当にいるんですね……」
しみじみとつぶやいた私に、男はふっと噴き出した。
「本当に、今更だな」
屈託のない笑顔に、私まで笑みがこぼれる。
「では、行こうか」
そっと差し出された手に、心を決め、自分の手を重ねる。
朝の澄み渡った空から、天のヴェールがそっと光射す。
雲間から差した陽の光は、そのヴェールの光を飲み込むようにして大きく広がりながら柔らかに降り注ぎ、その温かな光はやがて私たちの体を優しく抱擁するように包み込んだ。
「限界社会人と死の使い」終