魔歌師 ―MELODIA CASTER―
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第30話「冷たい炎:下」
東雲(しののめ)の空が、スペクターの黒い衣に微かな朱を差し、フードの奥の目元に深い影を落としている。
私の腕を掴む彼の手は未だに力を緩める気配がなく、強く掴まれたままだ。
じっと注がれる冷ややかな瞳に、何か悪いことをしたわけでもないのに気が咎める。
何か声をかけるべきか。
躊躇しているあいだに、私の腕を掴んでいないほうの手が突然額に伸ばされ、あっと声が出る。
「血が滲んでいるな」
親指の腹で、額を拭われたのが感触でわかった。
この状況にすっかり気を飲まれてしまっていたが、首なし騎士を倒したからか、額の痛みはとうに収まっている。
スペクターはしばらく私の額を拭うように指先で擦っていたが、そのうちに額から私の胸元に視線を移した。
静かにその石を見つめるスペクターの顔が、みるみる不機嫌な顔つきに変容していく。
どうしたのか尋ねようと顔を覗き込んだところで鋭い視線が飛んできて、喉元まで出かかっていた言葉は押し込まれてしまった。
「どうして村から出てきた」
咎めるような声。
明らかに、私に対して怒っていることだけはわかる。
だけど、彼がどうしてそれを理由に怒るのか理解できないでいた。
「フィオンが、体調も悪いのに飛び出していって……一人じゃ危険だと思ったから、それで」
「確かに、あの青年は本調子ではなかった。だが、彼はフェルナヴァーレンでは"火炎の剣(フレイムサーベル)"として名を馳せる剣士だ。だから君の護衛役として君の師匠に推薦した。彼の腕前がいかなるものか、とうに知っているだろう」
「だとしても!何もせずにただ待っているなんて私にはできなかった」
「だが実際、あのタイミングで俺が現れなかったら、君はあの騎士の亡霊の餌食(えじき)となっていた。違うか?」
彼の語気が強まり、一層腕が締め付けられる。
私を真っすぐに見つめる瞳は怒りで揺らめき、それ以上の反論を許さない。
彼の気迫に圧倒されているのに、どうしてか、怖いとは思えない。
未だ怒りの炎を孕む瞳の奥に、そこはかとなく悲しみが潜んでいることに気づいてしまったから。
途端に喉の奥が詰まって、じわじわと目の奥から熱いものが込み上げてくる。
何故こんな気持ちになるのかわからない。だけど、どうしようもなく胸が苦しい。
私の様子に気づいて、スペクターが息を呑んだ。
私の腕を掴む力が緩められ、気遣うように顔を覗き込まれる。
滲んだ視界に映り込む彼の面つきにはすでに怒気はなく。
瞬きとともに零れ落ちた涙を拭うと、そこに現れたのは当惑したように伏せられた優しげな双眼だった。
「こんなことが言いたいわけじゃないんだ。俺は、ただ君が……」
守られてばかりで何もできない自分が悔しい。
それなのに、分不相応にも出しゃばって。本当に、情けない。
「……泣くな」
「……っ」
泣いているところを見られるのが恥ずかしい。
なのに、いくら拭っても涙は止めどなくあふれてくる。
「アネリ」
ふたたび、腕を掴む手に力が込められ、切ない声に名を呼ばれる。
その瞬間、私の体は強く引き寄せられ、気づけばスペクターの腕のなかにいた。
服越しにじんわりと伝ってくる体温。
汗のにおいに混じり、ほのかに彼のにおいが鼻腔を掠める。
掻き抱く彼の腕に締め付けられて苦しいはずなのに、不思議と不快感はない。
「スペクター……?」
大きな背中にそろりと回した腕は、彼の背を抱きしめる前に遠ざけられた。
けれど、引き離されたことよりも、その後の彼の行動に意識を取られる。
スペクターが、自身の口元を覆うマスクをずらし、長らく覆い隠されていた口元をあらわにしたのだ。
整った唇に視線が向かい、羞恥心から思わず顔を背けてしまう。
驚くままに、彼の指が今度は私の肩に食い込む。
背けていた顔を上げたところを、その大きな手のひらに頬を包み込まれたと気づいたときには、すでに唇を奪われていた。
強く抑え込む手の力とは裏腹に、彼の唇は柔らかくて温かい。
けれど、少しも優しくはなかった。
呆気に取られている私をよそに何度も重ねられる唇は、ついばむようなものから次第に噛みつくような深いものへと変わっていく。
息をつく間もほとんどないほど、続け様に与えられる口付け。
抵抗しようともがいた腕で彼の胸を押すがびくともしない。
そうしているあいだにも熱い吐息とともに口内に舌が差し込まれ、不覚にもゾクッと背筋に甘い感覚が走った。
ねっとりと執拗に絡められているうちに、だんだんと足に力が入らなくなってくる。
それを悟ってか、肩を掴んでいた彼の手がぬるりと腰に回され、くすぐったい感触にくぐもった声が漏れ出る。
彼が私の腰を支えていなければ、きっと私は崩れ落ちていただろう。そうとわかるほどには膝がガクガクと震えている。
口付けの最中(さなか)見上げると、うっすらと目を開いたスペクターと視線が絡み合う。
私を見下ろすその眼差しはまるで蔑んでいるかのように冷たいのに、緩慢に収縮を繰り返す瞳孔の奥には、蒼い炎が渦巻いて見える。
背中を叩いて息苦しさを訴えるが、私の腰を抱える腕の力が強くなっただけだ。
呼吸の合間にやっとの思いで名を絞り出すと、スペクターは我に返ったように目を見開き私の体を解放した。
ぐいっと遠ざけられた体が、冷たい空気に晒される。
互いの荒い息遣いが今しがたの行為を彷彿とさせ、次第に顔中に熱が集まる。
「ど、どうして、こんなこと……っ」
胸を押さえながら息も絶え絶えに問い詰める。
スペクターは二、三ほど深く息を吐き出すと、口元を汚す唾液を拭いながら、自嘲気味に笑みを浮かべた。
「どうして、か……」
また悲しげな顔。
良く知りもしないくせに、どうしてか。彼がこの表情を浮かべるたびにどうしようもなく胸が締め付けられる。
「アネリ。俺は、君の……」
言いかけられた言葉は、彼の視線がちらりと私の背後に向けられたことにより留められた。
背後を振り返ろうとしたとき、彼の手が私の胸元の石を手に取った。
「……師匠に感謝しろ。その石が俺を呼ばなければ、君は先ほど命を落としていたはずなのだからな」
吐息交じりの低い声は、取り繕ったような物言いではあるものの、まだ微かに熱がこもっている。
石からそっと離れた手が、私の頬に触れようと伸ばされる。
けれど、指先が触れようとしたところで、それを押しとどめるようにこぶしを握りしめ、名残惜しそうに離れていった。
スペクターは最後にもう一度私と目を合わせると、そのまま何も言わずに背を向けてしまった。
去り行く背中にかけるべき言葉も見つけられず、ただ茫然と立ち尽くすことしかできない。
黒い霧が彼の姿をくらませてもなお鳴り止む気配のない鼓動の音は、耳を塞いだところで私の思考をいつまでも乱し続ける。
第30話「冷たい炎:下」 終