魔歌師 ―MELODIA CASTER―
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第10話「スペクター」
まばゆい光が瞬時に消え去ると、視界がゆっくりと開けていった。
目が慣れてくると、そこが森の中だと気づく。
「ここは……」
屋敷に入ったときにはまだ昼ごろだったはずだが、すでに陽は傾いており、夕陽に染まった木々が細長い影を伸ばしつつある。
足元にあったはずの魔法陣はなく、フィオンの姿も見当たらない。
フィオンは特定の場所にしか飛べないと言っていたが、ここがその"特定の場所"なのかさえわからない。
この世界の知識なんて魔具のごく一部の種類と簡単な生成方法くらいで、あとは人に頼るしかないのはこれまでもそうだった。
けれど、こんな見知らぬところに一人放り出されてしまっては、本当に成すすべがないのだ。
旅なんてしたことがないなんて言いわけだ。せめて、事前準備だけはちゃんとしておくべきだった。
これからどうすれば良いのだろう。
このままフィオンを待つべきなのだろうか。
ここでじっとしていてモンスターに襲われでもしたら……。
なんて考えているあいだにも、陽は刻一刻と沈んでいく。
とりあえず、いつまでもこんな人気のない場所に居続けるのは危険だ。
どこか休めそうな場所を探した方がいいかもしれない。
近くに集落でもあればいいのだけれど。
幸いなのは、ここが森の袋小路ということだ。
向かうべき道は一つしかない。
地図がない今、勘に頼る必要がないのはちょっと救いだ。
今のところ周囲に野生動物やモンスター気配は感じられないが、いつでも逃げられるように念のため警戒は張っておいたほうがいいかもしれない。
そう自分に言い聞かせながら道の延びる先へ足を踏み出したときだった。
「護衛役を待たずにどこへ行く?」
背後から唐突に声を掛けられ、上ずった声が出る。
フィオンがこちらに着いたのかと思ったが、聞こえた声は彼よりも幾分か低かったように思う。
ショルダーストラップをきつく握り締め勢いよく振り返った私は、木の影に佇む人を見つけた。
たった今周囲の気配に気を配ったばかりだというのに、いつのまに背後に現れたというのか。
黒いマント。目深に被ったフードの奥の冷たい深緑の瞳。
見覚えのある容姿にますます驚く。
「あ、あなたは大聖堂地下の……!」
男は草むらのなかからゆっくりと姿を現した。
マントと同じく黒いマスクに覆われて顔の半分が隠れており、相変わらず面相ははっきりとしない。
「アネリ。無事で何よりだ」
感情のこもらない淡々とした声で安否を気遣われる。
しかし、それよりも気になる点が一つあった。
「どうして私の名前を?」
「とあるつてにより知っている、それだけだ」
当然の疑問を訪ねたつもりだったが、やんわりとはぐらかされてしまった。
説明できない事情でもあるのだろうか。
思えばこの男は正魔法使い認定試験の前にも、私が聖堂地下に向かうことを事前に知ったうえで警告してきた。
つまり、以前から私のことを知っている、ということだ。
「あなた、一体何者なんですか?どうして私の前に現れるの?」
「俺が何者であるかは関係ないと以前伝えたはずだが」
この様子じゃ、踏み込んだ内容の質問にはどれも答えてくれそうにないだろう。
……何だかもやもやする。
話が途切れ、沈黙が下りる。
何か会話を繋げようと考えてはみるものの、何も思いつかない。
沈黙のあいだも注がれる視線に何となく気まずくなって目を逸らすと、男は思案するように顎に手を添えつつ、おもむろに口を開いた。
「君と俺との関連性を説明するなれば、さしずめ俺は君にとって案内人、といったところだろう」
私に配慮してくれたんだろうか。
物言いは相変わらず堅苦しいうえに曖昧な表現ではあるものの、できる限り言葉を選んでくれているのは何となくだが伝わってきた。
「……案内人?つまり、エリービルまでの?」
問い返してみたものの、真っすぐに視線を向けられるばかりで返事はない。
それで合っているという意味だろうか。
声に出さずともせめて首くらいは動かしてほしい。
そのとき、ふと男の目が見開かれ、辺りに視線を巡らせはじめた。
私には特に何の気配も感じられないが、何かを察知したとでもいうのだろうか。
「間もなくあの剣士の青年が現れるはずだ。剣士が現れたらひとまずここから最寄りのイェーツ村に向かうのがいいだろう」
「イェーツ村?」
そうだ、と男は頷く。
「イェーツ村に到着したら、まずはミサンナ=スメリアという薬師を探すことだ。彼女の調合する薬があれば、エリービルまでの道中額の痛みを抑制することができる」
「どうしてあなたがそんなことを?根拠はあるの?」
「効能は期待できるとだけ言っておく。だが、俺の情報の信憑性が気になるのならば、詳細はその薬師に確認するといい」
口早に説明し、私の前から立ち去ろうとする。
急いでいるのだろうか、少し焦っているようにも見える。
だが、彼が去る前にもう一つ確認しておきたいことがあった。
「待って!」
そのまま行ってしまうかに思われたが、男は足を止めてこちらを振り返ってくれた。
「何だ?」
答えてくれないかもしれないが、念のためこれだけは聞いておきたかった。
「あなたのことは何と呼べばいい?」
私の問いに、長い前髪の奥で男の目が微かに揺れたのを見逃さなかった。
しかしさほど動じる素振りはなく、顎に手を添えながら俯き、そうだな……とつぶやいた。
「では、"スペクター"とでも名乗っておこうか」
「亡霊(スペクター)?……偽名よね?」
てっきり冗談でも言っているのかと思ったが、男の目は至って淡泊だ。
「……呼び名が必要だと言ったのは君だろう」
敢えて偽名を名乗った、ということか。
さっきは答えてくれるかもと少しだけ期待してしまったが、結局今回もいいようにかわされてしまった。
何だかすっきりしない。
「私は単に呼び名があったほうがいいと提案したわけじゃない。あなたの名前を聞いているの。
それに、私のことだけ知られているというのも何だか複雑だわ」
「名など単なる呼称にすぎない」
「またそれなの?」
ここまで秘匿することにこだわるなんて。
もしかして、名前や身分を明かせないような立場の人なんだろうか。
「悪いが、雑談をしている暇はない。俺は一足先に発たねば」
「ちょっと待って、まだ話は……」
「また会おう、アネリ」
「スペクター!」
私の引き留めには応じず、スペクターと名乗った男は霧のように消え去った。
私の心にわだかまりだけを残して。
結局、聖堂地下で助けてもらったお礼を言えなかった。
「なに一人でぶつくさ言ってんの?」
ふたたび背後から声を掛けられ、肩がびくりとしなった。
振り返ると、そこにはスペクターと入れ替わるようにして現れたフィオンが怪訝な顔で腕組みをしながら立っていた。
同じ愛想のない顔でも、彼のこのぶっきらぼうな顔つきには何だか安心感を覚える。
「フィオン!良かった、違う場所に転移しちゃったのかと思って焦ったよ」
駆け寄るとフィオンは少し戸惑った顔で視線をさ迷わせはしたものの、後頭部を掻きながら、小さく「一人にして悪かったよ」と詫びた。
「あの魔物が思いのほかしつこくてね。少々手こずってたら遅くなった」
「そうだったんだ。あの魔物は一体……?」
「説明は後だ。思ったより時間がかかり過ぎた。日が暮れる前に宿を探さないと」
「この近くに集落があるの?」
「ああ、最寄りにイェーツっていう小さな村がある。でも、先に断っておくとあそこのあそこの宿飯は正直勧められたもんじゃないから覚悟しておくんだね」
もっと日が高ければ別の集落に案内してたところだよ、となおもぶつくさ文句を垂れながら先導するフィオンについて行きながら、私は黒ずくめの男……スペクターとのやり取りを思い起こしていた。
"イェーツ村"。
スペクターの情報と同じだ。
スペクターは、イェーツ村が単に最寄りだから勧めたのだろうか。
それとも、私の額の印を気遣って?
それとも……ほかにも理由があるのだろうか。
さっきだって、急いでいる様子ではあったけれど、恐らくはフィオンが現れるまでのあいだ私を一人にさせないために一緒にいてくれたんじゃないかと思う。
彼は、どうして私を助けてくれるのだろう。
「ところで」
声をかけられ、はっとして見上げると、肩越しにフィオンがこちらを見下ろしていた。
「僕が合流したときに、話し声が聞こえた気がしたんだけど……もしかして君のほかに誰かいた?」
十中八九スペクターのことだろう。
フィオンが現れたときにはすでに去ったあとだったため姿は見ていないはずだけれど、私が彼を呼ぶのを見られてしまったのかもしれない。
フィオンには伝えておいたほうがいいだろうか。
しかし、スペクターはフィオンに会わずに姿をくらませた。まるで、出くわすことを避けるように。
それには何か理由があるのかも。
「……ううん、何でもないの」
私は、伝えないことにした。
何故かはわからないが、今はまだそのときではないような、そんな気がしたのだ。
「ふーん。ま、いいけど」
フィオンは存外食い下がってはこなかった。
もっとねちっこく追及されるんじゃないかと思っていただけに何だか意外だ。
「ほら、さっさと先に進まないと日が暮れるよ。もっとも、こんな鬱蒼とした森の中で野宿したいなら話は別だけど」
「ぜ、絶対に嫌よ。寝込みをモンスターに狙われるかもしれないじゃない」
「僕だってまっぴらごめんだね。君みたいなろくに戦えもしない女と二人きりで野宿なんて」
「いちいちむかつく……」
第10話「スペクター」 終