【ぬけがら】
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繭としては何となくの嫌な予感はあったが、いよいよ本格的にマズいことになってしまった。
お世辞にも成績が良い方ではないが救いようのないほど絶望的でもない、ただ唯一、英語だけはどうにも苦手でどうしようもないのだ。
補習からの再テスト、ここで合格点をクリア出来ないとスマホを没収される可能性が出てくるのは高校生としては死活問題だ。
幸いにも、凛は英語が得意だ。
よって、何とか凛に頼み込みアポイントの獲得にまでは至れたという訳だ。
繭の部屋の丸テーブルの上には教科書やノート、補習時のプリント、英語テストが散乱している。
そして今は、レ点だらけの答案による恥さらしの真っ最中な訳だ。
「…………は?」
軽蔑するとか、断罪するとか、そういうことではなく完全なる理解不能。
凛はそんな雰囲気をありありと出していた。
そんなに目を開いた顔は久しぶりに見た、繭はこっそりそんな事を思った。
「何だこれ」
「テストです……」
「見りゃわかる」
すぐにはじまるのは結果への批評ではなく、こうなった原因の解明のようだ。
凛は指先で答案の上の方を雑に叩いた。
「ここ、読めば取れるだろ。基礎の基礎だ」
「所々読めなくて……」
「質問文の方だ」
「読んだんだけど……」
「じゃあなんでこうなる」
「単語とか、文法?意味?を理解出来てないから……」
「わかってんなら潰せ」
「そうなんですけど……」
繭は謎の敬語混じりと苦笑いになる。
当然、そこに配慮も何もあったものではないようで、テストはよれた紙の音と共にテーブルに無造作に置かれた。
「授業聞いてねぇのか」
「聞いてるよ……BGMみたいな感じで……」
「聞いてねぇじゃねえか」
「……歴史は得意」
「英語だろ」
「……そうですね」
繭はテーブルの右上から教科書を引き寄せ、それをぱらぱらめくりながら言った。
「範囲はここからここまで。あとこのプリント。で、58ページは勝確で出ると思うんだ。先生の微妙な言い回しと含みはそういう意味と見てる!」
「変なとこに意識回してるから頭入んねぇんだろ」
「……でも大事だよ!?無駄ではない」
「逃げてんじゃねぇ」
「……」
有無を言わせぬ凛の圧が増えてきたので、繭はとりあえずペンケースからシャーペンを出す。
そして、課題プリントを引き寄せた。
いかにも自信のないへろへろした英字が、少しづつ繭の手元に増えていった。
「違ぇ」
「……」
「そこ違ぇ」
「…………」
「違うっつってんだろ」
「…………………………」
逐一、接続詞だとか不規則動詞だとかの説明は聞こえるのだが。
凛の説明は淡々と早いし情報が最低限で、繭としてはそれだけでは理解にまで落としきれないのだ。
この時間がフラストレーションになっているのはお互い様で、いよいよ舌打ちまで聞こえてきた。
横から、プリントを無理矢理抜き取られた。
凛は空きっぱなしのペンケースから一番手前のシャーペンを取り、プリントに添削を始める。
「ここいらねぇ。ここも」
「……」
「ここ、テストで出来てた所じゃねぇか」
「……」
「ミスが酷ぇ。まずスペル正確に覚えろ」
「……」
意外と早く、プリントはスライドされて繭の手元に返ってきた。
ただ、状況は良くなったとは言えそうもなかった。
「もうちょい丁寧に書いて欲しい、読めない……」
「読める範囲だ。あとは文脈で読め」
「要所の単語がわからない……」
「調べながらやれ」
「時間かかり過ぎる……」
「…………」
直接見なくても、聞かなくても、凛の出す空気はここではわかりやすい。
一気に何かが冷えた感じが、時間の流れまで重たくする。
「やる価値ねぇよ」
投げられたシャーペンが飛ぶ。
それはテーブルで一度跳ねて、カーペットにまで落ちた。
凛はテーブルから身を引き、思い切り視線を窓の外にまで投げてしまう。
シャーペンの短い無機質な音が、やたら耳に残る感じがした。
繭は小さな溜息をついた。
そして、テーブルに顔を落とした。
片頬にはテーブルの堅い感触が通り、右手に持ったままのシャーペンがあと少しで転がってしまいそうになる。
このままでは、凛が繭を含むこの空間ごと匙を投げるのも時間の問題だ。
空気も勉強の進行も止まっているのに、繭の頭の中だけは意外と動いていた。
繭の今のレベルと凛が想定するレベルが噛み合っていないし、繭の求めるものと凛が提供を許可出来るものも噛み合っていない。
このあたりのすり合わせをしていなかったのは痛恨のミスだが、今更そこからやり直しでは虫が良すぎてさすがに通らない可能性が高い。
「…………」
繭が思いつく範囲で、取れる解決策はシンプルにひとつだ。
“この場の意義付けの再定義”
そして、それを得るために必要なことは3つある。
凛をこの場に留めること。
方向性を具体的にすること。
あとは、両者に対するイエスを取ることだ。
ここまでは頭でわかっていても、どうするのが正解なのかは結局取り残されている。
いよいよ凛が立ち上がり、最短でドアに向かおうとする。
繭は自分の横を過ぎる瞬間に、とっさに右手のシャーペンを伸ばした。
「困る」
「……」
「いなくならないで」
「……」
一旦、動きが止まった。
凛の手首袖口に引っかけたシャーペンのノック部分が、最後の頼みの綱だ。
「明日が再試だから」
「……知らねぇよ」
「一人じゃ終わらない」
「お前の問題だろ」
「……58ページだけでいいから」
テーブルに顔を付けたまま、凛の顔を見れないのはこの方法が正しいかどうかの自信がないからだ。
繭のシャーペンを払うように、袖がそれた。
その手の行き先はポケットの中で、出てくるのはスマホだ。
ちらりと見えたのはタイマー画面で、凛のスマホは放るようにテーブルの上に置かれた。
凛はまたも最短で元の場所に戻ってくる。
「15分だ」
「……」
「どけ」
「はい」
繭は言われるまま、急いで顔を上げた。
凛が片手で引き寄せる教科書から、紙のめくられる音がする。
58ページで、一旦全ての動作が止まった。
凛は片手をテーブルにつき背丈のある身を伸ばした、その目的は先ほど投げられたカーペット上のシャーペンだった。
1秒もかからずそれを回収し、また定位置に戻ってくる。
教科書の3行目と真ん中下あたりにだけ、乱雑な線が引かれた。
それを強引に押して移動されると、テーブル隅にあったノートが今度は反動で下に落ちていった。
「ここだけ覚えろ。暗記じゃねぇ、文法の意味拾え。パターンで刺せ。あとは捨てろ」
「……はい」
「鳴るまでにわかんねぇ所聞け。プリントは後で叩き込め。他は自分で何とかしろ」
「……はい」
とりあえず、落ちたノートを拾って線が引かれた一文を書き写してみる。
「今度ジュースおごるね……」
「いらねぇ。やれ」
「……はい」
ジュースも半ば賭けだったが、これは不成立に終わった。
===
翌日。
繭は無事に再テストをクリアした。
昨夜は殆ど眠れていないが、目の前の厄介ごとが一つ片付いたと思えば結果は万々歳だ。
睡眠不足の脳がやたらハイなのか、今の気分はとにかく晴れやかそのものだった。
つい、鼻歌でも歌いたいくらいになる。
そんな時、前方に凛の姿を見つけた。
「あ」
格好はジャージであるしジョギング中、そんな雰囲気だった。
お互いに存在認識はしても、ここで脚を止める理由はない。
だから凛はそのまま走り去る、これは繭にも予想がついた。
想像通りで、視界は急に静かになった。
「……」
空気が流れ去る前に、繭からその場を振り返った。
同時に、脚を急がせた。タイミングなら今が最適だ。
「ねえっ」
繭の意図にも行動にも、きっと凛は気付いている。
その上で自分のペースを崩さないままだ。
けれど、繭には関係ない。
併走するまでに追いついてから、前を向く横顔を見た。
「再テスト、無事に終わった!乗り切った」
「……」
「おかげで昨日3時間しか寝てないけど」
「……4時に起きた」
「そこ、勝負じゃないからっ」
唐突なダッシュすら意外と気分は悪くなかった。
繭の表情は緩やかで、自然と自分の顔の近くまで片手が上がる。
「はいっ」
「……」
スポーツマンにはこの意図は100%伝わるはずだ。
凛は視線だけでそれを捉えている。
ただ、この時間は長く維持出来そうもない。
「……もお遅い!」
「……」
「……てか、速いね!?ゆっくりに見えて」
「……」
「……無理、速い、……遅いってば!!」
「……どっちだよ」
結局、繭の速度がぱたぱた落ちると、凛はむしろ加速を強くする。
「次は最初から勝て」
凛は振り返りもしないままあっさり小さくなっていった。
睡眠不足の急ダッシュが、今になって繭には堪える感じだ。
Fin
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