【ぬけがら】
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人間は慣れる生き物だ。
学校帰りもまだまだ暑いけれど、「またか」みたいな感覚の方が強くなる。
住宅地を歩いていても、遊ぶ子供や犬の散歩をする人はまだ多くない。
これも勝手に、気にならないものになってしまっている。
けれど1つ、今日は不自然なものがあった。
音源はここから遠くない感じだ。
蝉は休む間もなく鳴き続けるのに、音量を維持したままだった。
声の間隔もやたら不規則で知っているものとは何かが違った。
繭は耳と目を使って、音の主の場所を探した。
「……」
二軒先の家だった。
表札の隣に植えられた幹がつるんとした、葉の細かい木の上だ。
重なる葉っぱではっきりとは見えなかったけれど。
騒がしい鳴き声に合わせるみたいに羽をバタバタさせているから、蝉の場所はすぐにわかった。
飛びそうで飛ばず、蝉はその場から動かなかった。
声だけは今も鋭く、羽で空気をかき混ぜているだけだ。
夏も半分以上は過ぎた。
弱ってうまく飛べないコなのかと思った。
「…………」
けれどやっぱり、知っている光景とは何かが違う。
ずっと、ずーっと、蝉はその場で暴れて鳴き続けるだけだ。
よく見えない木の上を、繭は食い入るように見た。
少しづつ、頭の中に別の情報が追加されてゆく。
「……あれ、」
葉の緑にまぎれているからわかりづらいが、別の形の何かがある。
葉っぱじゃないし蝉でもない、枝にしては妙な角度の他のなにかだ。
細く長く、それの形は蝉とは対照的だ。
胸部から腹部に続く浅い曲線は記憶の中にある。
一番肝心の部分が葉で見えないけれど。
これは、きっとカマキリだ。
思わず口が開いた。
自分の中で合点がいくだけで、蝉のやかましい声が一瞬で断末魔になる。
「……」
総質量で言えば蝉の方が大きい気すらした。
カマキリの顔もカマの部分も、判断材料は何も見えていないけれど。
蝉はもがくばかりで多分もう逃げられない。
勝手に蝉の運命を決めている自分がいた。
そして一人で、何とも言えない気分になっている。
その間も、カマキリは何も気にしていない。
目の前の獲物を食べるだけだ。
セミも、鳴いているだけで。
生きたまま食べられているだけ。
ふと、少し先の塀に動きが見えた。
このあたりに時々いるキジトラ猫だ。
猫も、こっちを見ているだけだった。
「……」
蝉を哀れんでいるのか、カマキリに魅せられたのか。
自分でも、何故止まっているのかよく分からなかった。
普段の繭なら猫の方を気にしたと思う。
でも今日は、猫を気にかけながらも虫を見ている。
もしここで手を出して、蝉を助けたら。
蝉はもう少しだけ長く生きられるかもしれない。
その代わりに、カマキリの命を削ることになるのか。
考えるだけで、結局一ミリも身体は動かないままだ。
遠くからパタパタと足音が混ざって聞こえた。
子供が2人走ってきて、近くで立ち止まった。
「あれ?こっちでセミの声してるのにいないね」
「どこかなぁ?」
「……」
繭は木の上を指さして、場所を教えた。
教えてから、子供に見せるものじゃなかったかも、とも考える。
同時に、子供はどんな感想を持つのか気になった。
「セミが可哀想……」
「カマキリかっこいい!」
正解はない。
どっちもわかる、とは思った。
子供と同じ目線までしゃがんだら、カマキリの顔まではっきり見えた。
子供の視点の方がよく見えることもあるみたいだ。
蝉は頭部から、想像よりも食い破られていた。
「あれはとれないね!」
「とりたくない……」
「……」
子供達は去ってしまった。
あれだけ暴れていたセミの声がいよいよ減ってゆく。
鳴く間隔が小刻みになり、止まる時間が長くなってくる。
命の終わりが近いのか。
先に発声器官が砕かれたのか。
目の前の光景が、感情とは別のところへ勝手に入り込んでくるみたいだ。
蝉の声が、ほとんど聞こえなくなってきた。
時々まだ ぱた、ぱた、と羽は動いている。
なんとなく繭から先にその場を離れた。
動いた繭を猫の目が追いかける。
近づこうかと思って、今日はやめておいた。
蝉がうるさいのも、死ぬのも。
本来ならば猫の方が気になるのも。
繭の思う「当たり前」なだけだ。
でも今日は、自分の知っている世界に小さな異物を押し込まれた気もした。
もしかしたら元々自分が持っている異物が、ふと顔を出しただけなのかもしれない。
それともやっぱり、これは“イレギュラーな光景”だったのか。
今日の繭の感覚がどこか膨らんでいるだけなのか。
揺らいだ何かは、認知か、感情か。
そしてそれは、妥当か、過剰か。
理由を探すことはいくらでも出来る。
でも結局は、全部含めてどうでもいい。
自分の中からあるいは外から、そんな声も聞こえる気がする。
スマホが震えた。
連絡は母親からだった。
“ごめんね!トラブルで残業!
簡単でいいから夕飯になるもの何か買っておいて。
繭の好きなものでいいよ!!”
好きなものでいいと言いつつ、カップラーメンや菓子パンを選ぶと文句を言う。
母親のこういう所は知っているし、悪い事でもないと思うから繭は頭を動かした。
足先を変えた。
ここから一番近いスーパーに寄って、冷やし中華にしようかと考えた。
ハムよりも、サラダチキン派だ。
ついでに、清涼感のある入浴剤も欲しくなる。
今日は少しお高いヤツを使いたい気分だ。
fin
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