【ぬけがら】
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いよいよ太陽が本気を出す季節だ。
さすがに出しゃばり過ぎやしないかと文句を言いたくなる。
繭はこめかみを伝う汗を丸めた指で押さえた。
目がやたら疲れるのは、サービス過多な光量のせいだと思う。
ヤツらが鳴き始めた頃は「夏が来た~」と微笑ましく感じていたのが、今では嘘のようだ。
夏の代表だと言わんばかりに存在を主張しまくる気配に、いつの間にか囲まれている。
繭はどろんと放置された目で道の真ん中を見た。
ひっくり返っているヤツを避けるように、足が遅くなる。
「先、行って」
独り言みたいにそう言うと、言われなくても との速さで凛が前に出た。
凛の襟足は少し濡れているけれど繭よりは涼しそうに見えた。
太陽との距離は凛の方が短いはずなのに、鍛え方の違いなのだろうか。
繭は視線を、凛の後頭部から地面に移動させた。
「セミ、生きてる?」
「知らねぇ」
「確認して」
「自分でやれ」
電柱の上の方にいたヤツが、ジジジと存在証明をはじめた。
「セミ、急に暴れだすから嫌い」
「お前も嫌われてんだろ」
「それは良かった。光栄」
「クソどうでもいい」
繭は口を丸めて、細く息を吐いた。
セミには目もくれない凛が横を過ぎても、ヤツは静かなままだ。
「セミ、死んでる?」
「知らねーよ」
凜は既に、安全保証のないデッドゾーンを超えた先にいる。
繭はやる気ゼロの足を動かした。
靴底がアスファルトに擦れる音がする。
やはり、ヤツの乱数じみた挙動がはじまった。
生き物の規格を超えた騒音が鳴り響く。
「ほら!!」
「……」
「なんかそんな気したもん!!」
「……」
「なんでこんなにスペースあるのにこっち来るの!?」
まず、羽音が暴力的だ。
なぜ求愛の歌にその声を選んでしまったのかと問いたくなる。
物理法則を放棄して暴れ散らかすさまに、空気の方が処理落ちを起こしている。
「暑い……」
「自業自得だろ」
「セミが……」
「お前がうっせえ」
「汗が、ヤバい……」
背中と、胸と、頬から顎をしずくが流れる感触が走る。
一度手の甲で輪郭を撫でたけれど、すぐまた落ちてくる。
溢れるみたいに火照るのに、どこか冷えて集まるようだった。
「さっさと歩け」
「急ぐと、暑い……」
「じゃあここでのたれ死ね」
「汗が、ホントに、ヤバい…………」
「……」
目にまで入りそうで、指でまぶたをぬぐった。
頭の中には嫌な締め付け感が響いてくる。
サウナみたいな玄関前で一瞬止まった。
部屋は出禁にしたけれど、家まで出禁にした覚えはない。
そもそも、今はそんなことを考えている余裕も少なかった。
「この家、なに、暑すぎ……」
「お前ん家だろ」
本来ならば冷暖房フル稼働だ。
猫に配慮する必要がなくなってから最初の夏なので、まだ慣れていないだけだった。
繭は前傾姿勢でリビングのソファに向かった。
投げるみたいに置かれた身体は異様に揺れる感じがするし、腿に張り付くソファカバーの感触がぐにゃぐにゃして気持ち悪かった。
「エアコンのリモコンどこだ」
「……えっと、……キッチンのカウンターか、テレビ台のとこ」
凛が部屋を横切った。
自室にいた時は意外と気にしていなかったけれど、広いはずのリビングにいる方が凛の動きが目立つ気がした。
止まる凛から、エアコンの電源音がした。
高速で進む温度調節のピピピを5つまでは数えたけれど、その先は追いつかなかった。
エアコンがごうごうと張り切る音が、ここではえらく頼もしい。
繭は手のひらを後ろに回した。
後ろ髪の隙間から首のあたりまで、まるで水を触ったみたいにぬるくさらさらする。
「汗が、ホントに、引かない……」
「なんか飲め」
「冷蔵庫、何か取って。牛乳はヤダ」
「ここで選ぶバカいねえだろ」
エアコン音に消えないくらいの声で「コップ、適当に使って」とだけ言った。
ガチャガチャするわずかな気配の後、リビングのテーブルに丸ごと出てきたのは冷蔵庫常備の水出し麦茶だ。
凛はこぼしそうな勢いでそれを注いだ後、襟元のシャツで一度だけ顔を擦っていた。
話す気力もなくて、リビングには冷風と半端に遮断されるヤツの声と。
あとは麦茶を飲んだり注ぎ足したりする音だけだ。
外からも内からも、やっと温度が下がり出した頃、繭の意識が薄くなってきた。
自分の中の処理センサーが、なし崩しに畳まれてゆくみたいだ。
「…………めちゃくちゃ眠くなってきちゃった」
首筋の髪も服も、張り付いてとにかく不快だ。
唇が乾く感じがしてリップクリームを塗りたくなった。
けれどもう、手を動かすことすら億劫になる。
ふにゃんとだけ自分で舐めておいた。
一気に狭くなる視界の中で、凛が何か言っていた気はした。
だが、半身を守るソファのクッションが柔らかい事しかわからなくなってしまった。
聞こえたのはドアの音だ。
繭は目を覚ました。
帰宅したのは母親だった。
「ただいまー!もう、お米炊いてって連絡したのに!そんな所で寝てたの!?」
あれから数時間は経ったようだ。
親はリビングをさくさく歩きながらあれこれ何かを言っている。
けれど、繭の頭は曇ったままで追いついていなかった。
先ほどの事を思い出しながら言った。
「……帰って汗止まんなくて。だるくて眠くなって、そのままここで寝ちゃってた」
「やだ熱中症?大丈夫なの!?」
「うん。今は平気」
「本当に?」
「もう普通」
外側に沈んだ重さはあるけれど、内側はスッキリしている感じだ。
母親はじっと繭の顔を見てから、また声を戻してきた。
「前髪どうしたの」
「え?変?寝癖?」
「7:3みたいになってるわよ」
「何だろ、汗かな」
触ってみたら確かに。
自分でも知らないうちに、額がぽこんとだけ不自然に覗いていた。
「今週は特に暑いらしいし気をつけてよー。にしても部屋の温度下げすぎじゃない!?何℃にしてるの!?」
言われて見れば部屋は少し涼しすぎた。
この家の設定温度は昔から、猫の快適に寄せた27℃だ。
繭は液晶画面を見ながら、リモコンの温度ボタンを押す。
「……24℃」
「それは低いでしょう!」
「……凛がやったんだもん」
「凛くん?凛くん助けてくれたの?糸師さん家にお礼した方がいいかしら」
「……そこまで大ごとじゃない」
忙しなく動き続ける母親が、リビングの入口に向かった。
「着替えてくるから、もう大丈夫ならお米といで急速で炊いて」
「……あーだるいかも、大丈夫じゃなさそうー」
「大丈夫そうね。あとお風呂先に入っちゃって」
「……はーい」
適当な返事と一緒に立ち上がった。
下に引っ張られる寝起き感はあるが、ふらつきはなかった。
繭はテーブルの上を見る。
空のグラスが2つだけ置きっぱなしになっていた。
それを持って、のろのろキッチンに向かった。
リビングに戻る母親が、エプロンをかけ冷蔵庫を開けた。
空っぽに近い麦茶ポットを見て、また小言を出してくる。
これも半分以上は凛のせいだ。
けれど、あまり気にならなかったし、むしろ変な方向からの安定感みたいな可笑しさが先にきた。
Fin
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