【ぬけがら】
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そもそもなぜ。
自販機で見たこともないメーカーのジュースを買い、味わうよりも先に豪快に飲む羽目になったのか繭にはまだわからなかった。
今はただ、意味不明の感覚が妙に生々しいだけだ。
===
数十分前までは、普通の帰り道だった。
街路樹が葉を揺らしざわざわ音を立てている。
風に煽られる凛の髪が、妙に面白く見えた。
「髪すごいよ、カオス」
「お前の方がヤバい」
繭は指に絡まる髪をざっくりまとめて、左手で耳にかけた。
そこにふと、横からの視線が落ちてくる。
しぐさ一つにおかしい事をしたつもりもないので、繭は一旦左手を下ろし疑問の目を向けた。
「なに?」
目が合わないのは、凛の目先が繭の手元に下っているからだ。
「袖」
「え?」
「血か」
「……あー」
繭は左手を持ち上げ、指摘の矛先を見た。
黒ずむシミを残す袖口は、先日、鼻血が出た時の名残だ。
「……よくわかったね。血だって」
凛はサッカーで怪我も多い。
繭よりも血を見慣れているからかもしれない、とは何となく思った。
「……なんか、洗っても落ちなくてシミになって。でも、捨てるの勿体ないし……」
「……」
「……そう、あの日ちょうど体育あって。体育の授業で顔にボールぶつかって……」
「何説明してんだ」
「……だから、帰りに鼻血が出て。その時に、その時の。シミになっちゃって……」
「それ何回言う」
理屈が前に出すぎている、その自覚は繭にもあった。
その割に、繭の中にはやたら溶けた感じがあるのも事実だ。
「話聞いてねえだろ」
「……聞いてるよ」
「何の話だ」
「……血の話」
「違う」
「……何が違うの」
繭は一度息をつく。
これはそもそも、そこまでこだわる事でもない。
声のトーンを高めて、少しだけ話題を切り替えてみる。
「鼻血ってさぁ」
「……」
「ティッシュ詰めない方がいいらしいよ」
「急に具体的だな」
「……」
繭の歩調が、ほのかに短くなる。
表情に堅さが乗るのが繭自身にもわかった。
「なんでそんな、……詰める感じなの」
「詰めてねぇだろ」
「……そっか」
確かに、これは繭の主観の問題だ。
繭自身に、あえて言っていないことがあるからかもしれないとは思った。
別に隠すことでもやましいことでもないのだから、重く考える必要もない。
繭は目線を高めた。
「この前、冴に会った」
一瞬だけ、凛が明らかに止まった。
繭のまばたきも止まっている。
「…………アイツにか」
「うん」
足には風に流されぷつぷつ当たる小さな砂の感触がある。
あとは、葉の揺れる音だけだ。
繭は一度、視線を逃した。
足元で勝手に踊っている葉クズを、無意味に目で追いかけてみる。
「その時に急に鼻血出て困って。そしたら、助けてくれた」
「……変な理由それか」
「……そこまでじゃない」
「変だろ」
繭にすれば、変という指摘は微妙に違う気はした。
少なからず、何らか影響されている自覚はあるけれど、顔から力が抜ける感じがするのはどちらかと言えば快の感情からだ。
空気が重いというよりも、どこか狭い感じがする。
繭は足を速め、凛の先を歩いた。
「……なんか……ちょっと嬉しかったんだ」
「……」
「……なんだろ、色々……リティのコト話したり」
後ろからの声が、やや遠くなる。
「単純すぎんだろ」
「いいよ、単純で」
「よくねぇ」
「私がいいんだからいいでしょ。ほっといて」
自分の声色にざらつきが乗るのがわかった。
勢いに任せ、繭は更に足を急がせた。
先日のこと。
確かに、過剰解釈はあるのかもしれないけれど。
誇大妄想を持つまでの重みは乗せていないつもりだ。
それをどう消化するかは繭の自由でしかない。
時間を置いた今では、淡くまとまっているのだからそれはそれで良いように思う。
足下の自分の影がやたら長く見えた。
瞳が乾くせいか、視界がキリキリする。
突如、影の長さが削れた。
消えたというより、消された ような。
頭の上から予期せぬ声が降ってくる。
「……うぜぇ」
自分の中の何かが騒ぎ、繭は素早く振り返った。
その場が塗り替わるみたいな気がして、退路が一気に狭く見える。
「…………なんか、近い」
「だから何だ」
顔を上げる前に視線が逃げ、凛の肩口あたりに固まった。
凛の目を見れない理由はないのに、何故か出来ないままでいる。
「……何がしたいの」
「必要か、それ」
「……えっと」
「喋んな」
あれほどしていた風の音が今は遠い。
掠れるくらいの低音を、耳が選択の余地なく必死に拾っていた。
「…………あ、……だから」
細くなる自分の声を横に置きながら。
正解も間違いもわからない状態で、今は頭の中から見えないものを必死に探している。
「……えっと」
「……」
「……あの時」
「……」
「……冴、凛の話も、してた」
「…………それ今出すか」
「…………いつ、何話すか、私の自由……でしょ」
口を開いていても、言葉が出るのにどうしてか時間を要する。
「…………き、……気になる?」
些細な間が、やけに長く思える。
無音が異様に耳障りだ。
「……別に」
「……」
「興味ねぇ」
「……」
凛はそのまま、あっさり歩き出した。
横を過ぎる影が完全に分断されるまで、目を離せなくなる。
その後、静かに入ってくるのは覚えのある背中と抜ける風の音だ。
なのに、繭だけは今もその場に止まり続けていた。
切り替えの仕方が見えないままでいる。
視界の右側に唯一見えた自動販売機へ、吸われるように移動した。
選びもせずに、目の前の見たことないメーカーのジュースを買い、ペットボトルの蓋を開けて味わうよりも先に豪快にそれを飲み込んだ。
今はただ、意味不明の感覚が妙に生々しいだけだ。
「……なにコレ、微妙なんだけど」
主語が何なのか、繭にもよくわからなかった。
繭の歩幅は普段の半分以下だ。
途切れを見せずに前を進む凛を視界に入れ、ペットボトルの蓋を意味なく閉め直してから、声を絞り出した。
「……今の、何だったの」
「知らねぇ」
「……だって、え、怖いんだけど」
「勝手にビビってるだけだろ」
揺れのない声を聞いていると一瞬そうなのかと錯覚しそうになるが、そんなはずはない。
喉が意図せず、固唾を呑んだ。
「いや、勝手にとか、そういうコトじゃない……」
目の前で、わずかに歩幅を緩める凛につられ、また脚が止まりかけた。
尖った横顔も見慣れているのに、今はそれ以外の質量までもが乗っかって見えてくる。
「……弱」
「……え?」
「何もしてねぇ」
「………………」
繭が思っている以上に、凛はただ、いつも通りだ。
縋るみたいに、繭はジュースをもう一度飲んだ。
先ほどよりは、味がわかる感覚はあった。
微妙というより普通にまずいし、よく見たら色も濁っていて変だ。
匂いもトイレの芳香剤みたいだし、貼られているラベルもちぐはぐでダサかった。
このまま、蓋の開いたクソまずいジュースを投げつけてやりたい自分もいたが、それをやったら負けな気がしてさすがに思いとどまった。
「……マズすぎるんだけど……この謎ジュース」
「捨てろ」
「ヤダ。絶対捨てない」
咄嗟に出た答えは、自分でも驚く程に早口だった。
何の決意表明なのか繭もわからないけれど、間違ってはいない気がした。
Fin
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