【ぬけがら】
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いつもの帰宅路で、繭の足が無自覚に止まった。
珍しい顔を見たからだ。
先方もこちらに気付いているようで、動きのない目だけを繭に向けてくる。
自分の視線が半端に揺れている自覚はあった。
繭は口先だけで、ぎこちない第一声を出した。
「……久しぶり」
「ああ」
「……どうしてここにいるの?」
「必要なもの取りに来ただけだ」
理由のないざわめきが、胸の奥で微かに立ち上がる気がした。
普通に通り過ぎても構わないのに、何故か止まったままになる。
冴の方から、沈黙を破ってくる。
「まだいるのか」
「え?」
「リティ」
繭の目元が止まった。
リティは繭の家の飼い猫だ。
繭が生まれた時からいるので、冴も知っているのはわかる。
だが、昔のことだ。
冴が最後にリティに会ったのはいつだったか、繭も覚えていなかった。
「……いるよ。もうおばあちゃんで、昔みたいなキレ全然ないけど」
繭の表情がほんのり柔らかくなる。
「相変わらずツンデレしてる」
「昔、お前より懐かれてた」
「たまたまでしょ?」
「事実だろ」
猫の模範たるリティは人に媚びないし自分勝手な子供が嫌いだ。
確かに、冴が一番リティの扱いがうまい時期はあった気がする。
「リティのコト、覚えててくれたんだ」
「覚えてるだけだ」
「それが、嬉しいかな」
「そうか」
「うん」
繭の視線が、曖昧さを消して前に固まった。
冴は色のない無表情だが、今はそれが“らしい”とも見えてくる。
正体不明の透明な質量を放つ感じは、いつからか変わっていない。
「お前も変わらねぇな」
「……そうかな?」
「まだ凛といんのか」
にわかに、繭のまぶたが上がった。
「…………それ、どういう意味?」
「質問返しか」
「……だって」
「即答はしないんだな」
「……」
どこか、深いところを撫でられるみたいな言葉だけが返ってきた。
人と話しをしていて、こういう感覚になることはそんなに多くない。
今度は繭の方から、冴を追いかけてみる。
自分の中の何かが、うっすら硬くなるのがわかった。
「……何が聞きたいの?」
「わからないなら、いい」
「違う。私の答えがどうとかじゃなくて、何て言うか……何を見て、話してる?」
「……」
「何だろう、なんか違和感ある」
理解の手前で、意図せず思考を摘まれるような。
冴の視線が、わずかにそれたのが見えた。
「無理だな」
「……え、なんで?何が?」
聞けば、答えてくれる。
意味も、おかしくはない。
おそらく冴には、嘘も荒さもないとは思う。
けれど繭自身は、腑に落ちない感覚が晴れないままでいる。
「それ聞いてる時点で違うだろ」
「…………確かに」
近づくほど遠ざかるような軌道を描きながら。
煙に巻かれるというよりは、不可解の確信を浮き彫りにされるみたいだ。
「……なんか、普通に話すっていうよりも」
「……」
「“見透かしてる”って感じする」
軽く、冴の視線が戻った。
繭としてはまだ、何も掴めていない。
「推理?前提?……よくわからないけど」
「考えてるわりに雑だな」
「………………」
けれど、少しだけ転換出来たことはある。
おそらく、自分の頭の中にあるカメラを、空の上の上まで持ち上げて俯瞰するイメージで考えてみればいい。
冴の中心にあるのは、サッカーだ。
そうすれば繭にも、薄く見えてくるものはある。
「……1つだけ、わかった」
自然と、顎が引けて眉が詰まった。
冴を真っ直ぐ見ているのに、目の焦点は空間に飛ぶ感じだ。
「さっきの“まだいるのか”って、よくわからなかったんだけど……これ、多分……」
「……」
「私への質問じゃない。知りたいの凛のことでしょ」
「半分正解だ。主語は凛。けど、お前も含まれてる」
「……」
残るのは、手応えの弱い成果だけだった。
もう、そろそろ終着だ。
繭はわざとらしくため息をついた。
不思議を浮かべる顔を作り声色を上げる、空気を真逆に切り替えた。
「そういうのは、本人に直接聞いたら?」
必要か、不要か。
するか、しないか。
それは置いておいて。
これはただの感情のしわ寄せだ。
繭なりの小さな反撃のつもりだった。
そんなもの、冴には簡単にばれている気もした。
繭はなるべく普通に挨拶だけをして、冴の横を過ぎた。
===
繭の視線は、慣れた道の奥の方に固まっていた。
リティの話もしたはずなのに、殆ど頭に残っていない。
脚の動きが、やたら急いでいる。
突如、顔面に違和感がくる。
「……っ……?!」
視界の下方に入る鮮血が誰のものなのか、一瞬わからなかった。
胸元に目をやれば、落ちる赤が服に染みこむのが見えた。
この感じは多分鼻、思わず左手の甲でそれを覆い首を上げた。
バッグの中に、ハンカチタオルはあったはずだ。
片手の感触だけではうまく探せず、仕方なく視線と左手を使えば、血が唇を伝うのがわかった。
頭より神経が動いて、また上を向き左手を鼻に被せた。
意図せず喉に落ちるのは、あの味だ。
顔が歪む中で、一度それを飲み込んだ。
「……おい」
冴の声に、身体が反応し振り返った。
「上向くな」
「……」
「視線戻せ」
「……」
同時に、左手首を無感情に掴まれ横にずらされた。
すぐに出血部分に触れたのは黒っぽいタオルだ。
過去に一度も嗅いだことがない香りがする。
「自分の、あるから……」
「いい」
「でも……」
「やる」
自覚よりも先に、左手はすぐに解放された。
質量を失う自分の手元が、ゆるやかに下に落ちてゆく。
なのに呼吸の取り方も、次の行動も、全く定まらないままでいる。
体温が見えるような距離も、髪の流れまで伝わる位置も、目の先に触れる指先も、処理が追いつかないせいだ。
「…………っ」
けれどこの場で一つだけ、感じた事がある。
日頃、ふとした瞬間に凛の中から冴が浮かぶことはある。
なのに今、冴の中には凛の片鱗が全く存在していない気がした。
「自分で押さえろ」
「……」
繭は汚れた左手を動かした。
黒い部分だけを選ぶように、タオルを押さえ直した。
ようやく、身体にわずかな開放感が戻った。
目に写るものもおかしいものではなくなった。
頭は独断で、何かを話そうと必死に回っている。
「……今日、体育の授業バレーボールで。その時、顔面に直撃して、そのせいかな」
これは実話、なのに変に言い訳じみていないか、そんな事が気になった。
繭は右手で、バッグを漁りはじめる。
「……ティッシュ持ってるから、詰める」
「それ、傷広がるからやめろ」
「……そうなの?」
「圧迫で止めろ」
「……わかった」
冴は繭から、完全に視線を外した。
「そのまま押さえて帰れ。家着く頃には止まる」
「……うん」
「顔はそんなに汚れてない」
「………………うん」
また、あの感じだ。
何かを見透かすような。
沈んでいるものをすくいあげるみたいな。
掴めないのに、ゆるく奥を触るものに乱されるような、引き込まれるみたいな。
よくわからない所に勝手に落とされてしまう。
繭は一歩脚を引き、自分の靴先あたりを見た。
「……タオル、ありがとう」
「後で捨てろ」
「……じゃあね」
「ああ」
今すぐにこの場を走り去りたい思いはあったけれど。
それをすると何か言われる気がして、歩きで足を急がせた。
一度だけ、呼吸を正確に止めてから意味もなくタオルに触れる左手を緩めてみる。
握りしめた指が血で固まり、やたらべたついていた。
Fin
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