【ぬけがら】
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
朝の通学路で、繭は大きな欠伸をした。
周りの様子が今日はどうにもゆっくり見えて、音が遠いし身体が半分ふわつく気がする。
後ろから聞こえる声も、どこか曇っていた。
「数学の参考書貸せ」
頭の中が止まるまま、首の方が先に動いた。
「遅ぇ」
「……」
凛は、通常運転だ。
温度差が脳を動かす感じはあったが、今日は言葉に出すのが地味に億劫になる。
「……なんで?」
「使う」
「……目的ではなく原因」
「忘れた」
「……忘れ物とかするんだね」
繭は視線を前に戻し、上がらない脚を動かした。
「私、1時間目に使うからそれ以降に取りに来て」
「……面倒くせぇ」
「じゃあ、諦めて」
「…………何組だ」
クラスを言ったら、凛は繭を追い越し朝の人並みの中に消えた。
隣からは今の時間の話題が流れてくる、繭もいよいよ歩調を急がせた。
===
休み時間になる。
今日はやたらと時間の経過が長い。
黒板の文字も先生の声も入ってこないのに、クラスの忙しなさだけは内側に残る感じだ。
繭の顔は机に落ちたまま、指先は無意味にペンを撫でていた。
「繭、放課後に駅前の新しく出来たお店行かない?」
「んー……」
「行こうよー!可愛いカフェっぽい飲み物あるらしい」
「……」
小春の出す雰囲気は、澄んでいる。
ふんわりしたいい匂いが、今日は若干気になった。
急に、小春の声が止んだ。
教室内の空気が薄く揺れる音も、耳が一方的に拾っていた。
整う爪先が、首の後ろを子供みたいにとんとん叩いてくる。
そのリズムに合わせて、チェーンが揺れる華奢な音がした。
この流れを作る凛の動きも、何となく背中が察知している。
迷いの影を落とさないあの感じだ。
「……」
主観と客観が混ざるこの感覚、繭は何度か経験がある。
とばっちりのようで居心地が良いものではない。
自分から行けば良かったかと、一瞬だけ思ってみたりもした。
繭は机の中から、所望のものを取り出した。
濃紺のそれは案外早く見つかり片手で渡すと、凛は黙って受け取りその場を去って行った。
教室はまた、いつも通りに回り始める。
一番はじめに聞こえたのは小春の弾む声だ。
「わお」
「……」
「近くで見ると迫力ヤバ」
「……」
「阿吽の呼吸感あったね♡」
「……」
相変わらず、小春はやたらポジティブだ。
===
放課後。
少量の日が横に長くなる。
普段は使わない動線は本日2度目、凛は参考書を片手に繭のクラスに向かった。
まばらに人の残る教室内で、繭は昼間と変わらず机に突っ伏している。
一旦、そこに近付いた。
「あ、糸師クン」
後ろからの声を受け、わずかにだけ振り返った。
昼間も、繭の近くにいた女子だ。
「あれ、 繭まだ寝てるの?」
「……」
「起きなよ。糸師クン来てるよ」
小春は繭に近寄り、わずかに動いている肩に触れた。
そっと揺さぶってみても、繭は起きないままだ。
ぼんやり溶けた繭の頭の中で、肩に触るものがあるのはわかった。
誰かの声も聞こえる気はした。
他にかすかに通るのは、ぬるい机の温度くらいだ。
顔の半分は堅く潰れて、もう半分はやけに白く赤くて目が痛い。
なんだか自分が、ここにいるのに遠いみたいな感じはした。
喉元だけが、知らない都合で断りなく揺れる。
「…………さえ」
自分の声を自分で聞いて、急に血が通う気がした。
単語、音色、意味。
何に反応したのか繭自身もわからなかった。
同一上で、湿度のない音が直線で落ちてくる。
「……、……」
目に写るのは、黒い制服の袖口と細くのぞくシャツの白。
あとは伏せられる濃紺のそれだ。
「寝ぼけんな」
熱のない声がした。
空間に針を投げる感じも、余韻を見せない去り際の早さも、普段と劇的に違う訳ではない。
なのに、繭の中の何かが覚醒する。
どこかに落ちるように世界が狭くなる気がした。
「……うわ、怖ぁ」
「……」
「……てか繭、今 何て言った?」
「…………」
小春の声を逃がすように、繭は腕で身体を支えて立ち上がった。
頭が前にブレる感じがして、椅子までも余計な音を立てる。
目の前の参考書を、手が勝手にバッグに放りこんだ。
「……帰るね」
「……あれ、なんか顔色悪くない?」
確かに、目の奥に何かが詰まっているような、全身が下に引っ張られるような。
今になって、声を出すことにも名前のない負荷がかかっている感じだ。
「大丈夫?……糸師クン、家近いなら送ってもらった方が」
「いい」
「でも、ふらふらだよ」
「平気」
だって。
今は“あの顔”を見たくないと思う。
理由は言うまでもない。
理由はわかるけれど、その意味が繭にはわからないままだ。
===
家に帰ってダイニングの棚に向かい、薬箱にあるものの中から一番無難な鎮痛薬を取った。
下手に平行移動する脚で階段下にたどり着き、そこに手すりが付いていたことに今気が付いた。
部屋のベッドに、バッグと共に身を投げる。
布団の柔さに逆らうように薬を引き寄せ、同時に水を持ってきていなかった現実も見えた。
バッグを引きずり中を開ける、水筒の重さは朝と変わっていなかった。
少しだけ頭を上げて、薬と共に中身を飲み込んでおく。
「…………」
それをする今も、目を縛るのはバッグからわずかに覗く参考書だ。
「……見なくてよかった」
蓋をした水筒を放り、身体を仰向けにした。
胃の中からは、飲み込んだものが揺れ返る感じがくる。
「…………最悪」
両腕が何かを避けるみたいに、意思とは関係なく視界を覆っていった。
Fin
【ぬけがら】へ戻る
12/12ページ