【ぬけがら】
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「――――じゃあ繭、そういう訳だからよろしくね!」
「ええぇ~!?ヤダ、面倒くさいんだけど」
これは昨日の母親と繭との会話だ。
今年度、順番制の町内会係になっている親が、どうしても仕事の都合がつかないとのことで毎年恒例の「ホタル観賞会」の代替を頼まれたのが発端だった。
子供の頃には数回参加した事はあるけれど、高校生にもなってしまうと今更感の方が強い。
しかも今回は参加者側ではなく運営側、雑用係みたいなものだ。
繭としては正直「面倒くさい」が1番素直な感想だった。
===
当日の夕方過ぎ、集合時間に指定の場所に行った。
今日は昼間も晴れていたので、この時間でも気温はそこそこだ。
湿度が強い日はホタルがよく飛ぶらしい。
参加者は例年の通り、未就学児や小学校低学年とその保護者、あとは年配者が主に見えたが繭の想像よりも人数は集まっていた。
繭と一番年齢が近いコは、確か今年4月に中学に上がった別班の女子だ。
あまり面識はないので特に挨拶はしなかった。
飼い犬を連れてきている人も2人だけいた。
一匹は近所の柴犬で、黒々する潤んだ目をつい見つめてしまった。
小型犬は初っぱなから飼い主に抱かれ、自分で歩く気はないようだ。
運営側と言っても、やることはそこまで多くない。
備品準備や参加者名簿作成などの下準備は町内会長やその他役員達が終えているようだった。
「結城さん家の繭ちゃん!?」
「久しぶりね~お手伝いなの?偉いわね」
「ご無沙汰してます!……今日は親の代理で」
顔見知りのご近所さんに声をかけられ、その対応の方が忙しいくらいにも思えた。
受付机の前で、繭は参加者名簿をバインダーに挟み、配布用チラシを取り出しトントン整えた。
チラシの内容は毎年同じで変更するのは日時のみ、それは親が済ませたから繭は用意されたものを持ってきただけだ。
あとは積まれた貸し出し用の懐中電灯をざっと数えた、数は合っている。
なのに、横から子どもたちが勝手に持っていくから気づくと一本だけ消えていたりした。
「これ、つかないよー!」
子供の声と共に目の前に飛び込む懐中電灯を受け取り、 スイッチを何度か押してみた。
電池の位置が甘いだけだったのか、数回揺らすと普通についた。
「ほら、ちゃんとついたよ」
「ありがとっ」
その程度の雑務が、途切れ途切れに続くだけで大変というほどではなかった。
むしろ、繭一人がいなくても誰かが適当にやるだろうと思うと、余計に“親の代理で立たされてる感”の方がこっそり強くなる。
「そろそろ川のほうに行きましょうか」と、先の方にいる町内会長か誰かの音頭に合わせて、参加者の列がゆっくり動き出した。
繭は最後尾でついていくだけ、誘導係というほどの役割もなく“後ろに誰かいる”という安心材料みたいなものだった。
川沿いに入ると、空気が暗く沈んでいた。
街灯の光が届かないぶん、 足音と草の擦れる音がはっきりしてくる。
水辺との距離のせいなのか湿度が高く、肌にまとわりつくこの時期特有の“いかにも”の感覚がある。
前のほうから、子どもの「いた!」との声が聞こえて反射的に視線を向けた。
黒い空気の中に、点がひとつ、ふっと浮かんだだけだった。
光はすぐに消え、また別の場所でついたりする。
ついた。 消えた。
また、ついた。
その繰り返しを追っているうちに、 呼吸がいつのまにか少しだけ深くなっていた。
光が見えるたびに胸の奥がゆっくり動くのに、身体が勝手に合わせているみたいだ。
緊張がほどけたわけでも感動したわけでもないけれど、ただ、光が点いた方向へほんの数ミリだけ身体の重心がそちらに寄る、そんな感じはあった。
「きれいねぇ」
「……そうですね」
隣にいた別班のおばちゃんの声に、つい同調した。
繭は手に持ったままの名簿のバインダーを、両手で抱え直した。
次の誘導の声が前の方から聞こえて、繭は視線を光から外した。
けれど、消えたはずの光がまた点く瞬間に、つい目が戻ってしまう。
身体のどこかが、光の点滅に合わせて何か反応しているみたいだった。
===
あれから。
ホタル観賞会は無事終了し、片付けも終えた頃には辺りは完全に夜に落ちていた。
首のあたりはまだじめつくが、顔に触れる空気はたいぶ涼しくなっている。
忘れていたが今になってお腹も空いてきた。
脚は不思議と今が一番軽かった。
けれど、歩く速度はだいぶゆっくりだ。
この道は砂利混じりで歩幅が自然と小さくなる。
ふと、脚が止まった。
白のはずが灰色に見える繭のスニーカーの先には、ホタルの光が一つだけある。
靴先が少しだけ、後ろに引っ込んだ。
足元のホタルは動かないまま、ただ光って、消えてを繰り返している。
繭は自然とその場にしゃがみ込んだ。
「…………」
今日はじめて、落ち着いて観賞出来た瞬間だと思った。
ホタルの発光器は勝手に丸だと思っていたが、実は長方形をしているみたいだ。
光る濃淡も電気スイッチのそれではなく、グラデーションで移動している感じに見えた。
人間でいうと筋肉に力を入れる感じで光るのか、あるいは反射的に勝手につく感じなのか、なんて想像を巡らせてみる。
色は「緑がかった黄色」が近いが、じゃあ黄緑かと言われると全く違う。
これは、色鉛筆にはない色だ。
意識の視点が急に切り替わる。
外から来る微かな違和感に気付いた。
足元が一段深く沈んでいく感じがした。
靴底が地面を押す感触だけが、やけに脚に響く。
「…………」
背中の一点だけが冷える感じは、風でも温度でもない。
“誰かがいる”と身体が判断した時のあの独特の感覚だ。
鮮明に、ある文言が脳裏に浮かんだ。
【不審者が増えています。
お子様や女性は特にご注意ください。】
これは先ほど、役員から「来月の回覧板用資料だから親に渡してね」と手渡されたファイルに挟まっていたものの中身だ。
ちらりとしか見ていないのに、今はっきりと思い出した。
夜道の静けさが、心地良さから自分を孤立させる空間に変化する。
距離が縮まってくる気配が、 背骨の下からじわじわと這い上がってくるみたいだ。
前に伸びる道が妙に長く頼りなく見えた。
呼吸が勝手に浅くなるから、心臓の音だけが内側で跳ねているのがわかった。
振り返りたいとも思うけれど、それをした瞬間に何かが確定してしまう気がして首が動かなかった。
逃げるべきか、 振り返るべきか、 声を出すべきか。
どれも正解じゃない気がして、結局今も繭は固まったままだ。
血が抜かれたように、身体が空間に投げられ浮く感じがする。
「…………っ」
振り返った瞬間、全ての音が消えた。
「びっくりした」
「……」
「ホントやめて」
「……」
「不審者かと思った 暴漢とか」
「…………失礼すぎんだろ」
肺から抜ける空気が、一気に肩を軽くした。
よく見れば、辺りはそこまで真っ暗でもない事に気づいた。
遠目には街灯や民家の明かりも見えているし、ここは最初からそこまで閉鎖された場所でもない。
「だって歩き方?気配?がいかにも過ぎる……」
「道の真ん中でお前の方が不審者だろ」
繭はゆっくりのまばたきをする。
黒っぽいジャージが夜に溶けてはいるが、凛は普段の通りだった。
「良かったぁ……こんな遅くまで練習?」
「……」
「にしても、めちゃくちゃいいタイミング。ちょっとお願いある」
「……」
繭は手元で凛を呼び、地面の明りに再び目を落とす。
そこでは相変わらず、動かないホタルの光の出し入れが続いていた。
背中には数歩だけの動きの空気がある。
「このコ、あっちの木の辺りに移動させてあげて」
静かに呼吸をおいてみても、音も何もないままだった。
繭は膝を抱え直し、斜め後ろに目を向けた。
「ここにいたら踏まれちゃう」
「自分でやれ」
「私、虫触るのヤダ」
「じゃあ放っとけ」
「それはなんか、後味悪いっていうか……」
「……」
凛の顔色は変わらなかった。
仕方なく視線を外そうとした瞬間に、少しだけ凛の目元が横にそれたのがわかった。
「……それ、使え」
その先は繭の肩あたりだ。
トートバッグの中から配布用チラシの余りが頭だけを出している。
「いいね。ナイスアイディア」
形だけの指ならしをして、一枚だけ抜き取った。
すくえる程度の曲線を作り、ホタルに触れるギリギリの所に下ろしてみる。
光る瞬間にだけは、細かめの文字までもわずかに見えた。
紙先で刺激を与えれば飛ぶかとの期待もあったが。
ホタルはチラシに押されて、平行移動するだけだった。
乗ってくるのは粗めの砂ばかりで、それを一回横に払うと、横目に脚が動くのが見えた。
「…………」
曲線の深さを変えたり、地面に入れ込む強さを調整してもみたが。
結局は、繭の方が半歩分前にずり出る羽目になるだけだった。
「意外と難しいな……」
「貸せ」
横で、砂利の動く音がした。
目の前の暗さが強まると、ホタルの光が一気に濃く明るく見える。
横からチラシを抜かれ、そのまま先端を軽く折る様子があった。
すぐに止めたくなる荒さではないが先が尖った分、見ていて危なっかしい感じはある。
繭は横から小さくチラシを摘まんだ。
「もうちょっとだけ、優しく扱ってあげて」
「指図すんな」
「ホタルって柔らかいんだって」
「知らねぇよ」
「私も知らないけど。そのチラシに書いてあった」
“ホタルはカブトムシと同じ甲虫類だが、非常に柔らかい特徴がある”
繭自身も先ほど知ったばかりだ。
雑味を含む溜息が聞こえ、チラシの先端が一旦止まった。
救出活動は先ほどよりは慎重になったが、状況は然程変わっていないように見える。
「動けよ」
「ね。それ」
またも、角が擦れる音が増してきたので口を挟もうか迷った時。
「あ」
光が舞った。
繭の目元は、勝手にそれを追いかけた。
光はあっという間に遠くなる、思ったよりも急だった。
いつの間にか、満天とは言えないまだらな星も視界に入ってくる。
刹那、そちらに意識を取られた隙にホタルは川辺の闇に溶けてしまった。
「……なんだ、自分で飛べるんじゃん」
繭の口から、境界が和らいだみたいな声が出た。
その先はもう、ランダムな光がぼんやりするだけになる。
視線を戻せば、足下はいよいよ暗かった。
繭はチラシを持つままの凛の手元を見る。
「……今年、糸師さん家ご参加なしだったからそれあげる」
「……いらねぇ」
半端によれたチラシだけが、その場に残された。
チラシの端を持ち上げれば、何やら湿って重みを増していた。
そう言えば、繭の灰色見えするスニーカーにも所々に泥汚れがついている。
立ち上がり、着ていた服の裾を軽くだけ払っておいた。
先に歩き出した背中に、繭は声を投げてみる。
「私はさっき沢山見たんだけど」
「……」
「ホタル見れて良かったねー」
「興味ねぇ」
正直、半分は同意だと思った。
Fin
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