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凪誠士郎はこの学校の隠れ有名人だ。
特に接点もなく、クラスも違う繭がダメ元で告白をして、まさかのOKをもらってから今日で一ヶ月になる。
とは言え、この一ヶ月間は繭にとっては、空になるような時間だった。
今ではすっかり心に穴が出来ている気がする。
これといった喧嘩や事件があった訳でもないのに、何をどう整理すればいいか繭にはわからないままでいた。
===
放課後の帰宅の時間になった。
帰路につく生徒が増え、下駄箱の外は騒がしかった。
今日は天気も良かったので、今でも少し汗ばむくらいの気温がある。
繭の目に映るのは、整備の行き届いた花壇だ。
普段は意識することもないのに、今日は何故かまばゆいくらいに視界に入ってくる。
勝手にそれを見て、勝手な溜息が出た。
学園の空気はいつもと変わらないのに、繭の脚はだるかった。
目に入る明るい光も、触れる生暖かい風も、えらく鈍く感じられる。
繭は靴の底を擦るように脚を動かし、正門に向かうしかなかった。
「あれ、凪の……」
「凪」というワードに身体が反応した。
繭は素早く振り返った。
「あ……」
一瞬だけ、視界が戻ってくる感じはあった。
この学園で御影玲王を知らない人間はいない。
超、がつく有名人だからだ。
凪と仲が良いことは知っていたがここまで近くで見たのも、会話をするのも初めてだった。
伸びた背筋も、自信を裏付ける顔つきも、立っているだけでキラキラして見える。
正直、今の繭には目の毒だ。
玲王は数歩で、ふんわり近づいてきた。
近寄るだけで、違う空気にあてられる気がして繭の視線が地面に落ちていく。
「5組の結城 繭ちゃん、だよね」
「……」
「凪と付き合ってる」
「……」
学園の王子が認識してくれているなんて、普通なら嬉しいし喜ぶ所だ。
しかもクラスと名前まで、フルネームで完璧に覚えているとは。
頭が上がらないとはこの事だ。
それと同時に、目元が急に細くなる。
地面のゴミひとつないコンクリートが色あせて見えてくる。
きっと凪は、繭のクラスは知らない。
この一ヶ月に2回だけ、LINEの中で名字呼びされる事があったくらいで、凪は繭の下の名前すらも知らない可能性がある。
「確か、今日で付き合って1ヶ月だろ」
「……」
「記念日とか何かすんの?」
「…………っ」
ますます、目に入る地面の幅が狭くなってゆく。
肩が固まり、急に呼吸が小さくなる気がする。
御影玲王の言葉が、研がれた刃のように真っ直ぐ過ぎて、今の繭には痛い。
喉元が熱くなってくる。
目元が歪んで、目の前の顔がだんだんわからなくなる。
「今日は、サッカー練習休みだからちょうど……」
「……っ……う……」
こんな所で、初めて話す相手の前で、まさかいきなり泣く事になろうとは繭だって思っていなかった。
御影玲王は何も悪い事はしていないし、むしろ丁寧で気さくな対応をしてくれているのに申し訳ない。
それでも涙は止まらないし、この1ヶ月、一人で抱えていた不安がようやく出口を見つけたようで、繭は片手で目元を押さえるしかなかった。
手の甲に流れる自分の涙が、変に暖かい気がした。
「……え、どした?」
「……っ……ぅ……」
「……一旦ストップ。とりあえず泣くならあっちいくか」
「……っ……」
その声は最初よりも、トーンが落ちた感じがした。
言われるまま、繭は脚を動かした。
周りには、帰宅に向かう生徒がちらほらいるし、玲王に話かける者もいる。
玲王の歩みはゆっくりだが、その場に停滞を許さないくらいの速度はあった。
繭のぼやけた視界に入るのは、明るい色の地面と自分の黒いローファーだ。
靴だけは、朝に磨いてきたから今も艶々に綺麗だった。
===
徐々に周りが静かになった。
狭い通りの先にはあまり人の来ない場所がある。
だからなのか、空気もどこか停滞している感じだ。
最短で進み、塀のあたりに並んで座った。
少し歩いたからか、涙は一応止まっていた。
涙が乾いた目元が、パリパリするのは正直不快だ。
玲王は横から、静かに話かけてくる。
「……凪がなんかやった?」
「……なにも、本当になにも、なんにも、やってない」
「……あー、そっち?」
「……面倒なこと、しなくていいよって言ったの私だけど。……でも」
「……いや、そうは言っても限度はあるよなぁ」
詳細は何も話していないのに、びっくりするくらい話が通じるのはありがたかった。
御影玲王の方が繭よりもずっと、凪のことをよくわかっている気がする。
落とした視界には、膝の上に乗る自分の手元が見える。
繭は指先を意味もなく握ったり、伸ばしたりし続けている。
「アイツ悪気ゼロだろ。だから余計タチ悪ぃ時あるんだよ」
「……」
本当に、それだと思った。
繭の言いたいこと、感じていること、その上で責めたって仕方のないこと。
全部を翻訳して言葉にしてくれることが、この場では救われる思いだ。
「あーレオー」
玲王のいる方向から、凪の声が聞こえた。
繭の背筋が勝手に伸びた。
凪はスマホを横に構えて持ったまま、頭をゆるく掻き真っ直ぐこちらに向かってくる。
「今日練習ないんでしょ。帰り送ってー」
「ちょうどいい。凪、そこ座れ」
玲王の声は、さっきよりも若干低い。
隣を指差す玲王に言われるまま、凪は玲王の隣に座った。
ここで、背中を丸めて座る凪が、ようやく繭に気付いてくれる。
「あ、結城さん」
「……」
「いたんだ」
「……」
「レオしか見えてなかった」
その言い方に、繭の肩が落ちた。
凪には悪気はない。先ほどの言葉だけがここでは唯一のお守りのように思う。
「お前なぁ……場所替え、そっち寄れ」
「えー」
玲王は素早く立ち上げると、凪の逆隣りに移動する。
いよいよ、隣り合っての一ヶ月ぶりの対面となる。
繭は凪に目を向けた。
上背の高さも、あどけない感じも、垂れた目元も、凪は一ヶ月前と何も変わらないままだ。
今も当たり前にスマホを手に持っているのに、どうして返信がやたら遅かったり既読スルーをするのかなんて、いじけた視点が浮かんできてしまう。
「ほら。繭ちゃん、さっきの続き」
「……え」
「いや、俺に言っても意味ねーだろ」
「……」
凪の横から、玲王がぴょんと顔を出してくる。
それを見てからまた、凪の方に怖々顔を戻してみる。
「…………何?」
凪のスマホの位置が、わずかに下がった。
「……凪くん、なんで付き合ってくれるって言ったの?」
「んー。レオが、恋愛とかもするといいって言ったから」
「…………」
「あと結城さん、面倒くさいことしなくていいって言ってくれたし」
「…………」
今の繭の呼吸は、虫くらい浅いと思う。
胸が詰まる感じがするし、身体がずっと固まっている。
またも、ぴょこんとのぞき込む玲王の呆れた表情の方が、繭には自然に入ってくる。
「……じゃあ、私のこと好きじゃないよね」
「好きだよ」
「……それは、どういう意味で?」
「楽だし」
「……」
自分の周りの空気が、じめじめまとわりつくみたいだ。
またも、繭の顔は勝手に下を向いてしまう。
「…………もうわかった」
「……うん」
「終わりにしよ」
「え、なんで?」
「……だってそれ、好きじゃないし。それに付き合ってる感じしない」
繭に見えるのは、握った自分の拳だ。
一瞬、空白が入り込むように、音が消えてしまう。
「やだ。別れたくない」
「……」
「結城さんと一緒にいるの楽だし」
「……」
「…………え、そんなダメ?」
「……」
「付き合ってるのに?」
「……」
「レオ、これ普通じゃないの?」
「いや、お前もうちょい頑張れよ……」
正直、こんなにはっきり付き合っている自覚があるとは、繭自身も思っていなかったが。
繭は立ち上がり足を動かそうとする。
視界の先はもう、校舎の裏側に生えている巻かれた蔦のあたりだ。
「待って」
肘に伝わるものがあった。
触れられた部分には、手のひらの感触がわかるくらいの重みがある。
「……イヤになった?」
「……」
「俺、別れたくない」
「……」
「結城さん面倒くさくないし、時々くれる変なスタンプのLINE面白かったし」
「……」
「やだ」
「…………」
ここで顔を見たら、もう結果が自分でわかる。
蔦の数を、数えていればいいだけなのに。
なのに気付いたら、目の前には近づきたくて仕方なかった人がいた。
大きな目も、綺麗な顔も、透明な感じも、真っ直ぐにこちらを見てくれている。
繭はもう一度、そっとその場に腰を下ろした。
「……わかった」
「あー良かったー」
凪は足を投げ出し空を仰いで、まるで子供みたいだ。
その仕草を見て、繭も力が緩む気はした。
横から、玲王の軽やかな声がする。
「ま、雨降って地固まったってことでいい?」
「うん。……なんか、ありがとう、ね」
「これからは俺も少しは協力?教育?するからさ!せめて泣かせないようにしろよ凪」
「え?結城さん、泣いたの?」
凪は不思議そうな顔をして、少しだけ身を乗り出してくる。
急に視界に入る距離感に心臓だけがなる。
「……だから、その、……凪くんと、もっと仲良くなりたくて……」
「仲いいじゃん」
「……そうなの?」
「付き合ってるし」
「……」
「違うの?」
「……」
繭は無言のまま、首を左右に振った。
===
それから。
玲王は「明日はサッカーの練習さぼるな」と凪に釘を刺し、その場を去った。
凪の伸びていた脚が、地面をずりながら縮むのが見えた。
「レオもう行ったし」
「……うん」
「俺らも帰ろ」
「……え、一緒に?」
「……イヤ?」
「全然イヤじゃないっ!!」
「……うん」
「……っ……」
自分の声がやたら大きいので、自分で驚く思いになる。
===
結局。
帰るとは言ったものの、今は途中の河川敷で背中を並べて座っている。
そこには、犬の散歩をする人や子供の遊ぶ様子がある。
風も涼しくなってきたし、空の色合いには夕日が混ざってきた。
草の匂いに混ざって、紅茶の甘い香りも際立っている。
今日の一日だけでも、知れたことがある。
凪は、お気に入りの休憩スポットまでの最短ルートを知っていること。
コンビニに入って一番先にするのは、エアコンの前で涼むこと。
レジ横の新発売ゲームのポスターを食い入るように見ていたこと。
「ついでだから」と、繭の飲み物も一緒に買ってくれたこと。
見えた財布の中には小銭が入っていたのに、会計は千円札一枚だけ。
好きな飲み物はレモンティーだと教えてくれたから、今日は繭も同じものを選んでみた。
繭も案外単純だ。
大きく息を吸い込めば、胸が満たされ溢れるくらいになる。
自分の口から出る言葉が、あまりにも自然で自分でも驚いてしまう。
「今日会えて、嬉しかった」
「……」
凪は飲んでいたペットボトルの蓋を閉めて、それを足元に置いた。
いつの間にか、ぬるさを増した紅茶はじんわり汗をかいている。
「何だかんだで、良い一ヶ月記念日になったなぁ」
「……今日?あ、ほんとだ」
「でも、ここまで来るの長かったなあ」
「……俺はすぐだった」
繭の視線が動いた。
ちょうど、凪の右上あたり蝶がひらりと舞うのが見える。
長い前髪がほんのりとだけ風に揺れている。
「結城さん、普通にいる感じする」
そのまま日が落ちてくると、影も少しつづ長くなってゆく。
Fin
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