丹恒のケモノ
「あの獣は、なんだ?」
金の継ぎ目がほどこされた、赤黒い剣先が喉元に添えられる。
自身の獲物は先ほど弾き飛ばされ手元に無い。
指先が、せめてもの抵抗として槍の柄を掴むように空を掻く。
「何故、あのようなものを側に置く」
名も知らぬ黒髪の男が、射殺しそうな赤い目で再度問う。
一口に赤といっても、ひとつの惑星が終わりを迎える瞬間の明滅の色だ。
混乱し散らばる思考を抑え、青年は冷静になろうと男を睨み返す。
何も話さない青年に痺れを切らした男が、再三口を開こうとしたその時。
二人は命が吹き返す幽かな音を捉えた。
声のする場所へ横目に見やれば、生き物の部位が点々と転がっている。
それは、男が、先ほど切り捨てたものの残骸だ。
肉と血の、道しるべを辿るとソレは身を起こし立ち上がろうとしていた。
泣き別れになったはずの下半身は再生し、傷口から未熟な脚のような肉塊が盛りあがりかけていた。
力の入らない脚を何度も踏み外し、それでも立ち上がろうとする姿がいじらしくも痛ましい。
半分ほどしか再生しきっていないのにも関わらずケモノが跳躍した。
ケモノの咆哮により止まっていた時が廻りだし、誰もが行動を起こした。
「邪魔だ」
ざらついた苛立った声色。
ケモノの牙が届く寸前で、男の刀身が頭部を撥ねる。
視界の端で捉えた光景に、もうこの一刻で何度もみたのに、青年は吐いた息が凍るような心地がした。
指先はすでになじみのある、固い感触を掴んでいた。
放物線を描いた球体は思いのほか軽い音をさせ、数度地を転がっていく。
頭部のない骸が男に爪を突き立て、おびただしい血飛沫をあげさせた。
男はかまわず骸を蹴り飛ばし、食い込んだ鉤爪を無理くり引き剝がす。
肩の肉が丸ごとえぐり取られ、白いものが見えても平然とする男に怖気立つ。
ケモノは地に伏せたまま今度こそ動かなくなったが、それでも息はあるようだった。
男は相貌を歪めた。
憎悪と拒絶、それから少しの憐憫を混ぜて。
「――ハ」
男は嗤う。口唇から緋い雫を滴らせて嘲笑う。
「何故、あのような忌み者を連れている」
背後から槍に貫かれてもなお、男は問う。
答えを持ち合わせない青年は、一息に槍を引き抜いた。
※※※
話があると姫子に呼ばれ、ラウンジにやってきた丹恒は独特な香しい匂いを嗅ぎ、心の帯を引き締めた。
丁度新しいコーヒーを淹れたところだった姫子は、にこやかに青年を手招きする。
定位置の椅子に腰掛け、自ら焙煎したコーヒーを堪能しながら今日の出来に満足そうに頷いた。
恐る恐る目の前に出されたコーヒーカップを覗き込む。黒々と波打つ液体を見て『今日は固形じゃないな』と丹恒はわずかばかりの安心を得た。
以前丹恒は、うっかり姫子のコーヒーを薦められるがまま飲んでしまった。姫子は他人に振る舞うのも好きなタイプのコーヒー党だった。当然、新入りにも振る舞う。純然たる好意ならば、それを拒む理由を青年は持ち合わせていない。しかしながら差し出されたものを前にして、彼女は泥水と間違えたのではないのかと目を疑った。そもそもこれは本当に飲み物なのか?
香ばしいを通り越して焦げ臭い匂いを放ち、灰色の湯気が立つ黒々しい水面を見つめながら彼は考え込んだ。抗議の気持ちを込めて姫子を見れば、彼女は洗練された所作でカップを傾け美味そうに飲んでいた。ひょっとして美味いのだろうか?丹恒は自分の目が可笑しくなったのかと勘繰りそうになったが、カップが傾いた拍子に中身の液体がほとんど波打っていなかったので即座に改めた。
「どうかした?」
「いや……」
姫子はいつまでも手を付けない青年を不思議に思い声をかける。しかし何故か言葉を濁したままコーヒーを見つめ続ける彼。普段明哲である彼女だが、今回ばかりはこの世にコーヒーを知らない人間がいることに思い至らず、最終的に斜め上の回答へ行きついた。
「あら、私ったら気が利かなかったわね」
姫子は突然立ち上がり、何かを手にして丹恒のもとへ近づいてきた。
「丹恒、お砂糖はいくつにする?」
シュガーポットの蓋をずらし敷き詰められたものをみせる。キューブ型に整えられたそれはコーヒーの黒と対象に白く輝いていた。彼女はシュガートングをソーサーの上に添える。
どうやら姫子は、丹恒のことを甘くしないと飲めないタイプの人間だと勘違いしたようだった。見当違いの気遣いであるが、この提案に丹恒は光明をみた。
トングでまず一粒摘まむ。虚無の星神に堕ちた自滅者のように角砂糖は黒海へと形を崩していく。姫子の表情は変わらない。丹恒は続けてもう1つ放す。コールタールに沈殿していく姿に、これが世の無常かと悟りを開く。姫子の表情は変わらない。三粒目を落とす。姫子の柳眉がわずかに動いた。丹恒は素早くトングをスプーンに持ち替え中身を掻き回し――……一息に煽った。
それ以来丹恒は、姫子が手ずから入れた黒い液体のことを飲み物のカテゴライズから外した。
分類先は『鍛錬――“精神”』の項目だ。
あれは実に最適な材料だと、丹恒は新たな境地に至った。
このエピソードを後から聞いたパムとヴェルトは大いに泣いて喜び彼の武勇を称えた。その日から彼の朝食のベーコンが一枚多くなり小鉢が一品添えられるようになった理由を姫子だけが知らない。
***
姫子の話を聞きながら丹恒は顔色ひとつ変えずカップの中身を啜った。舌にドロリと残る粘着気味な苦みに耐える。ちなみに次から砂糖を断ったため砂糖は付いていない。これだけ独特な味わいであればどれだけ砂糖をいれてもキリがなく、無駄な食材の浪費になるからだ。
姫子の話は続いていく。
「この間、取り寄せた共感覚ビーコンをあの子に使おうとしたけど、その、上手くいかなかったじゃない?それでヘルタに相談したら、いいものがあるって返信が来たのよ」
含みを持たせた言い方をした後、姫子はメッセージのやり取りを見えるようにかざした。
内容は本人が言った通りで、『詳しくはアスターに聞いて』という文で締めくくられていた。
事の始まりは、丹恒らが星間跳躍に慣れだした頃のことだった。
姫子はケモノに興味を持った。ケモノは頭がいい。こちらの言葉を分かっているようで、鳴きはしないがはっきりと意思表示をする。手先も器用で端末の操作なんてお手のもの。識字も認識しているらしく、丹恒と同じようにアーカイブの資料に興味を持っていた。だがどちらかといえば機関室に強い興味を抱いたようで、エンジンの音に身体を震わせ興奮した素振りをみせた。ただ、姫子とパムからお許しを貰えずふさふさの尻尾をしおれさせたことは記憶に新しい。
ここまでくればこの動物が普通の狼では無いとに察しがつく。姫子はそこで「もしかしたら、会話もできるんじゃないか」と提案したのだ。確かに。識字が分かるなら言語能力を獲得出来る可能性がある。発話に必要な筋力が無いだけでその壁を乗り越えれば、あるいは。
幸いなことに偉大なスターピースカンパニーには共感覚ビーコンという代物を販売している。
早速取り寄せて届いた品物をケモノに打ち込もうとした……の、だが。
「まさかアイツがあそこまで注射嫌いだったとは……」
あの時のことを思い出し、丹恒は頭が痛くなった。
***
まず、丹恒の手にするものを見て、今から自分が何をされるか分かったケモノは一目散に逃げだした。
ただここで問題なのは逃げ出したことではなく、ケモノの逃走手段だ。
突然眩しく光ったかと思えば、ケモノの姿が消えたのだ。自分の目の前から唐突にいなくなったことに動揺したのもつかの間、ラウンジの端っこからうなり声がして振り返る。そこには総毛立たせて牙をむき出しに警戒態勢を取っていたケモノがいた。のちに乗客になったゴミ箱漁りが趣味の少年が見たら『やんのかステップ・ケモノ版』とコメントされるだろう光景だ。一緒にいた皆も当然ながら、長年付き添ってきた丹恒ですら把握していない能力に驚きを隠せない。
「大丈夫、怖くない怖くない……」
「うぅるるるるる‼」
「ま、待ってくれ!」
いち早く立ち直ったヴェルトが落ち着かせようと近づいたが、途端ケモノは薄く発光し、光が強まったと思えば反対の隅に移動していた。本当に一瞬のことだった。ヴェルトと丹恒はケモノが目にも止まらぬ速さで駆け抜けたのかと考えたが姫子だけは違った。ケモノが姿を消す一瞬の光が、彼女が一番間近で見てきた“ソレ”にとてもよく似ていたのだ。
「この独特な波長反応……まさか小規模跳躍しているの?」
「な、なんじゃとぉ⁉」
姫子のセリフにパムが真っ先に反応する。
宇宙を旅するうえで欠かせない量子学技術。いかに銀河の技術が発展しようとも、銀河同士は隣接する虚数の壁を超越することは容易ではない。虚数エネルギーの研究はまだまだ未解明な部分が数多くあるのだ。それでも星々が現在のように発展できたのは、開拓の星神アキヴィリ率いるかつての星穹列車が未知の星域を切り開いた恩恵あってのもの。逆に言えば、星神の権能なくば生命体は未だ到達できない領域ということだ。
似たようなシステムや能力は数多ある。例えば構造物を量子単位まで分解し特定の場所へ収納するというようなシステムは博識学会がすでに確立し、世間一般に利用されている。武器や鞄の収納の主だった利用法は大抵これである。
だがこれらはあくまで無機物などの非生物に限られている。有機生命体の量子分解/再構築に成功した事例はまだ保障されていない。もちろんそれを可能にしている稀有なケースもある。丹恒もごく最近馴染み深くなった界域アンカーが代表的だろう。しかしあれもアキヴィリの被造物で、開拓の加護の力が働いている。
ただのいち生物が、道具を用いずに単体で行使できるのは異空間に住むモンスターか、星神かその使令か――それに限りなく近い存在だけだ。
「ケモノにそんな力があったとは……」
「ふふふ、俄然あの子に興味湧いてきたわね」
「ほどほどにしてくれよ……」
「お前たち、話してる余裕があるなら早く後輩を捕まえんか!このままではケガをするし、なにより俺の列車が滅茶苦茶になってしまうぞ‼」
ケモノがどちらに属するのか判断できないが、まずは落ち着かせなくては始まらない。断続的に瞬間跳躍を繰り返すケモノはいつもの冷静さを失っていた。幸いなことに今は大した被害はないが、このまま悪戯に追いかけても、そう広くない列車の中を滅茶苦茶に搔きまわすだけだ。
パムの悲痛な叫びを皮切りに、それぞれ等間隔に距離を置いて位置についた。ケモノを傷つけるわけにもいかないので、手近にあったクッションやブランケットを手に持ち、身を守りつつ様子を伺う。突っ込んできたところを捕縛する単純な方法だが、跳躍を使わずともケモノの脚力は並みの異界生物より速い。速度110の丹恒が辛うじてついていけるくらいだ。半狂乱になってる状態でさえ軽く30㎞は出ているかもしれない。自動車の衝突くらいなら開拓の加護のおかげで耐えられるが、そんなもの何度も受けていられない。
丹恒が追い込み姫子とヴェルトが待ち構える挟み撃ち作戦を何度か繰り返し、なんとか成功したころには列車内は見るも無残な惨状になっていた。
正気に戻ったケモノは耳をぺしゃんこにしてパムにしこたま怒られた。
それからみんなで車内を清掃し、疲れ果ててその日は解散になったのだった。
***
「ビーコンも壊れたうえに、手間ばかり取らせてすまない」
「いいのよ、誰だって苦手なことくらいあるわ。あの子だって反省してるし」
「いや、これは俺が把握していれば済んでいた事態だった」
そこまで言って重苦しくため息を吐いた丹恒に、姫子は彼が何を思い浮かべたのかすぐに分かった。
実はケモノに威嚇されたのは初めてのことだったらしく、あの日から数日間ほど気落ちしていたのだ。触るのも話しかけるのも怖々といった調子だ。ケモノもケモノで、自分がしでかしたことを引きずってみんなに遠慮しているものだから、懐っこい性格はなりを潜め、いつものように強く出られないでいる様子。微妙な距離感のふたりを、姫子も含め周囲は気を揉んで見守るしかない状況が続いていた。
そんな時、ヘルタからのメッセージを受け取った姫子はこれ幸いとばかりに一人一人呼び出して作戦会議を開くに至る。ブリーフィングで全員に伝えないのは、ケモノの脱走を防ぐためだ。
「そんなに気を落とさないで。あんたたちの付き合いは、こんなことで終わったりしないでしょう?」
自分と丹恒のカップにコーヒーを注ぎ顔をあげた姫子はハッとした。空っぽの陶磁器のなかに注がれていく様子を、丹恒は虚ろな目で見ていたのだ。
彼が仲間になってからたびたび見かける固い表情。姫子にはそれは途方に暮れた迷子の子供の顔に見えて仕方がなかった。指摘してしまうときっとこの青年はさらに気持ちを隠してしまうだろうと思い、姫子は気づかないフリしてカップに口付ける。
「……彼女とは故郷で出会った」
おもむろに丹恒が口を開き、姫子はコーヒーを飲む手を止めた。
無意識なのだろう。
『彼女』が誰を指してるのかは明白だが、彼はいつも同行者のことを名前以外で呼ぶことはほとんどない。たまにアイツとかコイツとかいうけれど、誰かに説明するなどの義務的な場合に限った。
だから、初めて丹恒の口から『彼女』と近しく呼ぶことに驚いた。まるで親のこと思う子のような、もしくは逆か、それ以上のような感情が含まれている気がしてならなかった。“ケモノ”などという余所余所しい名前を付けて距離を置く癖に、それでもまだいじらしく気持ちの置き所を探しているのだ。
気にならないといえば嘘になる。宇宙巨獣を倒した彼らの虚ろな表情を見て、思わす声をかけてしまうくらいには。彼らの過去に何があったのか分からない。自分たちが想像もできないような事情があるのかもしれない。
それでも列車は彼らを受け入れた。何があっても彼らを見守り支えようと決めていた。
姫子はじっと丹恒の眼を見て、言葉に耳を澄ます。
彼らの変化をひとつも取りこぼさないように。
***
カップがソーサーに置かれるのを見届けて、丹恒は重い口を開いた。
「俺が幼い時からケモノはほとんどずっと側にいた。だがそれ以前のことは……俺にもわからない」
言葉にしてみて一層痛感する。
文章にして数行で終わってしまう程度の情報量しかない自分たちの関係。
どうして自分を慕うのか。どうして自分を守ろうとするのか。ケモノは一体何者なのか。
――「何故、あのようなものを側に置く」
もうあれからずいぶん日が経っているのに、彼岸の先を求める瞳と心臓を貫く生々しい感触は手の中に残っている。
切り裂かれたケモノを抱え、恐怖から逃げたあの日。
翌朝、目を覚ました同行者の身体を撫でた安堵と疑念。
その日のうちに歩けるようになったケモノを見ても、丹恒は同行者に追求することが出来なかった。
出来るはずが、なかった。
「ビーコンを使うことで彼女と意思疎通を図れるなら、使う価値はあると思う。だが、ケモノがそれを望まないなら無理に押し付けることはしたくない」
唇から欺瞞が零れる。ケモノを想うつもりでその実全く違うことを考えていた。
壊れたビーコンを発見した時、ホッとした自分に戸惑った。
本当に望んでないのは、ケモノではないのだ。
丹恒自身、前世龍尊の罪業を詳細に聞かされているわけじゃない。
ただ彼の悪行と功績だけを滾々と龍師たちに説かれただけにすぎない。
自身に悪意のあるものたちから与えられた情報を、どこまで信じられる?
賢い子だ。恐らくケモノは何故丹恒が幽囚獄に繋がれていたか知っている。
それなりに長い間共にいたのだから、大体の事情を周囲から聞きかじっていると考えられる。恨まれるならそれでもよかった。そちらの方がよほど対処できる。だから分からない。何故、ケモノは丹恒のそばにいるのだ?
知ったうえで側にいるから安心できる?いいや。むしろ安心などできない。
罪人の過去を知り、それでも罪人の傍にいようとする者など限られている。
それこそ羅浮将軍が自分を牢から出した理由と同じものだとしたら、はたして自分は平常でいられるだろうか。そればかりか、自分のことを棚に上げて彼女を非難したりしないだろうか。彼女まで“丹恒”ではなく“丹楓”を通して自分を見ていたら。ケモノの口から直接言われでもしたら――考えただけで胸が押しつぶされそうになる。
選択は無数に枝分かれしていても、丹恒が手折る枝は囚われていた時となにひとつ変わっていない。
「……だから、これ以上は」
「ね、丹恒」
「……」
目の前の女性がことさら優しく、しかし力強い瞳で呼びかける。
これ以上煩わせたくなかったのに視線が言わせてくれない。
どうやら自分はこの類の視線に弱いらしいと、遅まきながら思う。
「丹恒。乗車した日に私がいったこと、覚えてる?」
「……乗車した、日」
「言ったはずよ、列車に乗ったらみんな家族だって」
「……」
「あんたたちが何かしらの事情を抱えていても私たちは構わないわ。そんなの問題じゃないもの。それよりももっと重要なことがあるの。それは家族が悩んでいて、私たちはそれに対してどんな助けが出来るのか、っていうそれだけのことよ」
持明族に家族の概念はない。慣例的に、生まれてすぐに世話係が与えられるが丹恒にはそれもない。遺伝子的に、家族愛というものを知らない一族だ。けど今は、そういう話をしている訳じゃない。
頭では彼らが言わんとしていることはわかる。彼らは純粋な善意で自分の手助けをしたいといっている。悪意も打算もなく、丹恒の影をみているわけでもなくて、ただただ丹恒というひとりの人間を認め尊重し優先してくれる。だけど丹恒には彼らから与えられるものの受け取り方がわからない。
あの視線で見られると、じりじり肌を焼かれていくようで苦しい。
――だけど。
「丹恒、伝えたいことは言葉にしなければ伝わらないのよ」
「……」
だけど。
あの日、自分が生まれた時に見た瞳と同じくらい、強い力で見てくれるこの人たちのことを失望させたくないと望んでいる。それは本当のことだった。
顔をあげ、正面から姫子を見つめる。心配ばかりかけて申し訳なく思う気持ちと、ほんの少し心地よく感じている自分がいることを、もう隠せない。
もう、隠したくない。
眼をつぶり深呼吸を2往復。
「丹恒?」
訝し気に呼ぶ声を合図に、カッと目を見開きコーヒーカップを掴む。
「丹恒⁉」
何かを予感した姫子が手を伸ばし制止もするも間に合わず、丹恒は初めて飲んだ時のように一息で器を空にした。舌の上がいろんな情報で大渋滞する最悪の後味を噛み締め、余韻が治まるのをしばし待つ。やがて潮が引いて凪の状態になる。歯列を舌でなぞりながら文字通りの苦汁を味わい尽くすと、丹恒は背筋を伸ばし前を見据えた。眠たいことばかり考える頭を覚ますには、やはりコーヒーが利く。
「姫子さん」
「え、あ、な、なにかしら?」
新入りの奇行を、固唾を飲んで見守っていた姫子が珍しく声を上擦らせる。
本当なら謝罪を入れたいところだが、あいにく今の丹恒にはそんな余裕はない。
「少しだけ考える時間が欲しい。まだ、色々と整理出来ていないんだ」
「……ええ、それはもちろんいいわよ」
不要な情報を捨て、端的に、率直に、自分の“希望”を述べることができた。
姫子はうろたえながらもしっかりと丹恒に答えてくれた。それだけでとても満たされた気分になる。
行く宛てのなかった自分たちを列車に引き入れてくれた人がこの人で、本当に良かったと心の底から感謝した。だがあまり甘えてばかりでは護衛の名折れだ。まだまだ鍛錬が足りない。
「それから」
「うん?」
「コーヒーの……おかわりをくれないだろうか」
その言葉こそ予想外だった姫子はぽかんと口を開けて数秒沈黙したのち、まるで少女のように思いっきり破顔した。
「アンタたちがよければ、次の目的地をステーションにするつもりよ」
コーヒーブレイクを終え席を立つ丹恒の背に姫子のセリフが投げかけられる。
それに対し、会釈だけして丹恒はまっすぐ自身の仮部屋……いや、自分たちの部屋へ道を急いだ。
非常にホワイトな業務体制を敷く車掌なら、そろそろ助手に休憩を充てるだろう。
彼女は暇さえあればアーカイブの資料を読み込んでいたから、今日もいるはずだ。
爪を立てないよう器用に肉球を使ってデバイスを操作する姿が目に浮かび、つい口元が緩む。
だが笑ってはいられない。
言いたいことを言わなければ伝わらないように、聞きたいことを聞いておかなければなにも進まない。
今日のこれは、はじめのひとつだ。
生まれた時。それは持明族にとって新たな次の人生を指す。脱鱗した後の人生は別の人間としての生となり、前世の宿業因縁功績地位は無いものとなる……形式上では。長い長い夢のような記憶から解放され、まだ名も与えられていない龍は、鱗淵境にて卵から孵る。――いや、還るというべきか。
その時すでに傍らにケモノがいた。ずっと。ずっとずっと。
ケモノは己の近くにいた。丹恒が生まれるのを待っていた。煌々と輝く並んだ瞳孔を、丹恒は最初、月がふたつあるのかと見間違えた。その青白磁の楕円の、強く放つ彩に目が離せなかった。卵の中で巡る記録のどれよりも己を惹きつけた。ケモノは獣らしく、丹恒を視界にとらえると瞳孔をキュッと狭める。
美しい。とても。
生まれて間もない龍の胸に湧き上がる純粋な賞賛。その瞳に乗る色が愛憎を湛えていたとしても、きっと同じことを思った。それが彼が今世で捉えた、最初の“美しきもの”であった。なにがあってもこの月に向かって進んでいこう、この月を裏切ることのない生を生きよう。
丹恒はそう固く己に誓ったのだ。
――もう決して、見誤るな。と誰かが云った気がした。恐らくそれは遠い過去の漣が連れてきた、長い長い付け文なのだろう。
※※※
………………
…………
……
忌み物を抱え去っていく足音を聞き届けたあと、男は何度目になるか分からない死を迎えた。
「何故だ……何故……」
仲間の迎えが来るまで、男は問い続けた。
過去が漣のように望郷を連れてくる。
きっと、あの忌み者の毛並みが郷愁を思わせたのだと己に言い聞かせて。
例えあの男が過去から解放されようと、己だけは決して忘れまい。
忘れるものか。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
忘れられるものか。
英雄となった彼女のことも。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
――あの災厄の日のことも。
忘れられない。忘れられるものか。忘れたのなら。
――その身を捧げた義侠のことも。
お前だけが忘れるなど赦されない。
「聞いて。刃ちゃん、迎えに来たわ」
「聞いて」
「ハァ……駄目ね、魔陰の身に戻りかけてる。一旦大人しくさせないと。サム、また手伝ってちょうだい」
不思議な感覚が次々と襲い来る。
四肢が切り刻まれ肉と骨が灰になろうとも、再生した瑞々しい組織が寄り集まって筋繊維と骨細胞を新たに構築していく。
雨のような弾丸が臓腑に埋まる。それでも祝福された肉体から異物は取り除かれ傷口は跡形もなく回復していく。
すべて、彼岸を招くほどの致命傷には至らない。
炎を纏った鋼鉄の拳が心臓を貫き、ようやくひと時の安寧を得た。
知っているような女の声にまどろみながら、男は眠りに落ちた。
でもそれは仮初の眠りに過ぎない。
彼の者の終わりはずっと前から眠りからほど遠い場所にいる。
どれだけ願っても、沈黙の時間は彼に与えられることはない。
金の継ぎ目がほどこされた、赤黒い剣先が喉元に添えられる。
自身の獲物は先ほど弾き飛ばされ手元に無い。
指先が、せめてもの抵抗として槍の柄を掴むように空を掻く。
「何故、あのようなものを側に置く」
名も知らぬ黒髪の男が、射殺しそうな赤い目で再度問う。
一口に赤といっても、ひとつの惑星が終わりを迎える瞬間の明滅の色だ。
混乱し散らばる思考を抑え、青年は冷静になろうと男を睨み返す。
何も話さない青年に痺れを切らした男が、再三口を開こうとしたその時。
二人は命が吹き返す幽かな音を捉えた。
声のする場所へ横目に見やれば、生き物の部位が点々と転がっている。
それは、男が、先ほど切り捨てたものの残骸だ。
肉と血の、道しるべを辿るとソレは身を起こし立ち上がろうとしていた。
泣き別れになったはずの下半身は再生し、傷口から未熟な脚のような肉塊が盛りあがりかけていた。
力の入らない脚を何度も踏み外し、それでも立ち上がろうとする姿がいじらしくも痛ましい。
半分ほどしか再生しきっていないのにも関わらずケモノが跳躍した。
ケモノの咆哮により止まっていた時が廻りだし、誰もが行動を起こした。
「邪魔だ」
ざらついた苛立った声色。
ケモノの牙が届く寸前で、男の刀身が頭部を撥ねる。
視界の端で捉えた光景に、もうこの一刻で何度もみたのに、青年は吐いた息が凍るような心地がした。
指先はすでになじみのある、固い感触を掴んでいた。
放物線を描いた球体は思いのほか軽い音をさせ、数度地を転がっていく。
頭部のない骸が男に爪を突き立て、おびただしい血飛沫をあげさせた。
男はかまわず骸を蹴り飛ばし、食い込んだ鉤爪を無理くり引き剝がす。
肩の肉が丸ごとえぐり取られ、白いものが見えても平然とする男に怖気立つ。
ケモノは地に伏せたまま今度こそ動かなくなったが、それでも息はあるようだった。
男は相貌を歪めた。
憎悪と拒絶、それから少しの憐憫を混ぜて。
「――ハ」
男は嗤う。口唇から緋い雫を滴らせて嘲笑う。
「何故、あのような忌み者を連れている」
背後から槍に貫かれてもなお、男は問う。
答えを持ち合わせない青年は、一息に槍を引き抜いた。
※※※
話があると姫子に呼ばれ、ラウンジにやってきた丹恒は独特な香しい匂いを嗅ぎ、心の帯を引き締めた。
丁度新しいコーヒーを淹れたところだった姫子は、にこやかに青年を手招きする。
定位置の椅子に腰掛け、自ら焙煎したコーヒーを堪能しながら今日の出来に満足そうに頷いた。
恐る恐る目の前に出されたコーヒーカップを覗き込む。黒々と波打つ液体を見て『今日は固形じゃないな』と丹恒はわずかばかりの安心を得た。
以前丹恒は、うっかり姫子のコーヒーを薦められるがまま飲んでしまった。姫子は他人に振る舞うのも好きなタイプのコーヒー党だった。当然、新入りにも振る舞う。純然たる好意ならば、それを拒む理由を青年は持ち合わせていない。しかしながら差し出されたものを前にして、彼女は泥水と間違えたのではないのかと目を疑った。そもそもこれは本当に飲み物なのか?
香ばしいを通り越して焦げ臭い匂いを放ち、灰色の湯気が立つ黒々しい水面を見つめながら彼は考え込んだ。抗議の気持ちを込めて姫子を見れば、彼女は洗練された所作でカップを傾け美味そうに飲んでいた。ひょっとして美味いのだろうか?丹恒は自分の目が可笑しくなったのかと勘繰りそうになったが、カップが傾いた拍子に中身の液体がほとんど波打っていなかったので即座に改めた。
「どうかした?」
「いや……」
姫子はいつまでも手を付けない青年を不思議に思い声をかける。しかし何故か言葉を濁したままコーヒーを見つめ続ける彼。普段明哲である彼女だが、今回ばかりはこの世にコーヒーを知らない人間がいることに思い至らず、最終的に斜め上の回答へ行きついた。
「あら、私ったら気が利かなかったわね」
姫子は突然立ち上がり、何かを手にして丹恒のもとへ近づいてきた。
「丹恒、お砂糖はいくつにする?」
シュガーポットの蓋をずらし敷き詰められたものをみせる。キューブ型に整えられたそれはコーヒーの黒と対象に白く輝いていた。彼女はシュガートングをソーサーの上に添える。
どうやら姫子は、丹恒のことを甘くしないと飲めないタイプの人間だと勘違いしたようだった。見当違いの気遣いであるが、この提案に丹恒は光明をみた。
トングでまず一粒摘まむ。虚無の星神に堕ちた自滅者のように角砂糖は黒海へと形を崩していく。姫子の表情は変わらない。丹恒は続けてもう1つ放す。コールタールに沈殿していく姿に、これが世の無常かと悟りを開く。姫子の表情は変わらない。三粒目を落とす。姫子の柳眉がわずかに動いた。丹恒は素早くトングをスプーンに持ち替え中身を掻き回し――……一息に煽った。
それ以来丹恒は、姫子が手ずから入れた黒い液体のことを飲み物のカテゴライズから外した。
分類先は『鍛錬――“精神”』の項目だ。
あれは実に最適な材料だと、丹恒は新たな境地に至った。
このエピソードを後から聞いたパムとヴェルトは大いに泣いて喜び彼の武勇を称えた。その日から彼の朝食のベーコンが一枚多くなり小鉢が一品添えられるようになった理由を姫子だけが知らない。
***
姫子の話を聞きながら丹恒は顔色ひとつ変えずカップの中身を啜った。舌にドロリと残る粘着気味な苦みに耐える。ちなみに次から砂糖を断ったため砂糖は付いていない。これだけ独特な味わいであればどれだけ砂糖をいれてもキリがなく、無駄な食材の浪費になるからだ。
姫子の話は続いていく。
「この間、取り寄せた共感覚ビーコンをあの子に使おうとしたけど、その、上手くいかなかったじゃない?それでヘルタに相談したら、いいものがあるって返信が来たのよ」
含みを持たせた言い方をした後、姫子はメッセージのやり取りを見えるようにかざした。
内容は本人が言った通りで、『詳しくはアスターに聞いて』という文で締めくくられていた。
事の始まりは、丹恒らが星間跳躍に慣れだした頃のことだった。
姫子はケモノに興味を持った。ケモノは頭がいい。こちらの言葉を分かっているようで、鳴きはしないがはっきりと意思表示をする。手先も器用で端末の操作なんてお手のもの。識字も認識しているらしく、丹恒と同じようにアーカイブの資料に興味を持っていた。だがどちらかといえば機関室に強い興味を抱いたようで、エンジンの音に身体を震わせ興奮した素振りをみせた。ただ、姫子とパムからお許しを貰えずふさふさの尻尾をしおれさせたことは記憶に新しい。
ここまでくればこの動物が普通の狼では無いとに察しがつく。姫子はそこで「もしかしたら、会話もできるんじゃないか」と提案したのだ。確かに。識字が分かるなら言語能力を獲得出来る可能性がある。発話に必要な筋力が無いだけでその壁を乗り越えれば、あるいは。
幸いなことに偉大なスターピースカンパニーには共感覚ビーコンという代物を販売している。
早速取り寄せて届いた品物をケモノに打ち込もうとした……の、だが。
「まさかアイツがあそこまで注射嫌いだったとは……」
あの時のことを思い出し、丹恒は頭が痛くなった。
***
まず、丹恒の手にするものを見て、今から自分が何をされるか分かったケモノは一目散に逃げだした。
ただここで問題なのは逃げ出したことではなく、ケモノの逃走手段だ。
突然眩しく光ったかと思えば、ケモノの姿が消えたのだ。自分の目の前から唐突にいなくなったことに動揺したのもつかの間、ラウンジの端っこからうなり声がして振り返る。そこには総毛立たせて牙をむき出しに警戒態勢を取っていたケモノがいた。のちに乗客になったゴミ箱漁りが趣味の少年が見たら『やんのかステップ・ケモノ版』とコメントされるだろう光景だ。一緒にいた皆も当然ながら、長年付き添ってきた丹恒ですら把握していない能力に驚きを隠せない。
「大丈夫、怖くない怖くない……」
「うぅるるるるる‼」
「ま、待ってくれ!」
いち早く立ち直ったヴェルトが落ち着かせようと近づいたが、途端ケモノは薄く発光し、光が強まったと思えば反対の隅に移動していた。本当に一瞬のことだった。ヴェルトと丹恒はケモノが目にも止まらぬ速さで駆け抜けたのかと考えたが姫子だけは違った。ケモノが姿を消す一瞬の光が、彼女が一番間近で見てきた“ソレ”にとてもよく似ていたのだ。
「この独特な波長反応……まさか小規模跳躍しているの?」
「な、なんじゃとぉ⁉」
姫子のセリフにパムが真っ先に反応する。
宇宙を旅するうえで欠かせない量子学技術。いかに銀河の技術が発展しようとも、銀河同士は隣接する虚数の壁を超越することは容易ではない。虚数エネルギーの研究はまだまだ未解明な部分が数多くあるのだ。それでも星々が現在のように発展できたのは、開拓の星神アキヴィリ率いるかつての星穹列車が未知の星域を切り開いた恩恵あってのもの。逆に言えば、星神の権能なくば生命体は未だ到達できない領域ということだ。
似たようなシステムや能力は数多ある。例えば構造物を量子単位まで分解し特定の場所へ収納するというようなシステムは博識学会がすでに確立し、世間一般に利用されている。武器や鞄の収納の主だった利用法は大抵これである。
だがこれらはあくまで無機物などの非生物に限られている。有機生命体の量子分解/再構築に成功した事例はまだ保障されていない。もちろんそれを可能にしている稀有なケースもある。丹恒もごく最近馴染み深くなった界域アンカーが代表的だろう。しかしあれもアキヴィリの被造物で、開拓の加護の力が働いている。
ただのいち生物が、道具を用いずに単体で行使できるのは異空間に住むモンスターか、星神かその使令か――それに限りなく近い存在だけだ。
「ケモノにそんな力があったとは……」
「ふふふ、俄然あの子に興味湧いてきたわね」
「ほどほどにしてくれよ……」
「お前たち、話してる余裕があるなら早く後輩を捕まえんか!このままではケガをするし、なにより俺の列車が滅茶苦茶になってしまうぞ‼」
ケモノがどちらに属するのか判断できないが、まずは落ち着かせなくては始まらない。断続的に瞬間跳躍を繰り返すケモノはいつもの冷静さを失っていた。幸いなことに今は大した被害はないが、このまま悪戯に追いかけても、そう広くない列車の中を滅茶苦茶に搔きまわすだけだ。
パムの悲痛な叫びを皮切りに、それぞれ等間隔に距離を置いて位置についた。ケモノを傷つけるわけにもいかないので、手近にあったクッションやブランケットを手に持ち、身を守りつつ様子を伺う。突っ込んできたところを捕縛する単純な方法だが、跳躍を使わずともケモノの脚力は並みの異界生物より速い。速度110の丹恒が辛うじてついていけるくらいだ。半狂乱になってる状態でさえ軽く30㎞は出ているかもしれない。自動車の衝突くらいなら開拓の加護のおかげで耐えられるが、そんなもの何度も受けていられない。
丹恒が追い込み姫子とヴェルトが待ち構える挟み撃ち作戦を何度か繰り返し、なんとか成功したころには列車内は見るも無残な惨状になっていた。
正気に戻ったケモノは耳をぺしゃんこにしてパムにしこたま怒られた。
それからみんなで車内を清掃し、疲れ果ててその日は解散になったのだった。
***
「ビーコンも壊れたうえに、手間ばかり取らせてすまない」
「いいのよ、誰だって苦手なことくらいあるわ。あの子だって反省してるし」
「いや、これは俺が把握していれば済んでいた事態だった」
そこまで言って重苦しくため息を吐いた丹恒に、姫子は彼が何を思い浮かべたのかすぐに分かった。
実はケモノに威嚇されたのは初めてのことだったらしく、あの日から数日間ほど気落ちしていたのだ。触るのも話しかけるのも怖々といった調子だ。ケモノもケモノで、自分がしでかしたことを引きずってみんなに遠慮しているものだから、懐っこい性格はなりを潜め、いつものように強く出られないでいる様子。微妙な距離感のふたりを、姫子も含め周囲は気を揉んで見守るしかない状況が続いていた。
そんな時、ヘルタからのメッセージを受け取った姫子はこれ幸いとばかりに一人一人呼び出して作戦会議を開くに至る。ブリーフィングで全員に伝えないのは、ケモノの脱走を防ぐためだ。
「そんなに気を落とさないで。あんたたちの付き合いは、こんなことで終わったりしないでしょう?」
自分と丹恒のカップにコーヒーを注ぎ顔をあげた姫子はハッとした。空っぽの陶磁器のなかに注がれていく様子を、丹恒は虚ろな目で見ていたのだ。
彼が仲間になってからたびたび見かける固い表情。姫子にはそれは途方に暮れた迷子の子供の顔に見えて仕方がなかった。指摘してしまうときっとこの青年はさらに気持ちを隠してしまうだろうと思い、姫子は気づかないフリしてカップに口付ける。
「……彼女とは故郷で出会った」
おもむろに丹恒が口を開き、姫子はコーヒーを飲む手を止めた。
無意識なのだろう。
『彼女』が誰を指してるのかは明白だが、彼はいつも同行者のことを名前以外で呼ぶことはほとんどない。たまにアイツとかコイツとかいうけれど、誰かに説明するなどの義務的な場合に限った。
だから、初めて丹恒の口から『彼女』と近しく呼ぶことに驚いた。まるで親のこと思う子のような、もしくは逆か、それ以上のような感情が含まれている気がしてならなかった。“ケモノ”などという余所余所しい名前を付けて距離を置く癖に、それでもまだいじらしく気持ちの置き所を探しているのだ。
気にならないといえば嘘になる。宇宙巨獣を倒した彼らの虚ろな表情を見て、思わす声をかけてしまうくらいには。彼らの過去に何があったのか分からない。自分たちが想像もできないような事情があるのかもしれない。
それでも列車は彼らを受け入れた。何があっても彼らを見守り支えようと決めていた。
姫子はじっと丹恒の眼を見て、言葉に耳を澄ます。
彼らの変化をひとつも取りこぼさないように。
***
カップがソーサーに置かれるのを見届けて、丹恒は重い口を開いた。
「俺が幼い時からケモノはほとんどずっと側にいた。だがそれ以前のことは……俺にもわからない」
言葉にしてみて一層痛感する。
文章にして数行で終わってしまう程度の情報量しかない自分たちの関係。
どうして自分を慕うのか。どうして自分を守ろうとするのか。ケモノは一体何者なのか。
――「何故、あのようなものを側に置く」
もうあれからずいぶん日が経っているのに、彼岸の先を求める瞳と心臓を貫く生々しい感触は手の中に残っている。
切り裂かれたケモノを抱え、恐怖から逃げたあの日。
翌朝、目を覚ました同行者の身体を撫でた安堵と疑念。
その日のうちに歩けるようになったケモノを見ても、丹恒は同行者に追求することが出来なかった。
出来るはずが、なかった。
「ビーコンを使うことで彼女と意思疎通を図れるなら、使う価値はあると思う。だが、ケモノがそれを望まないなら無理に押し付けることはしたくない」
唇から欺瞞が零れる。ケモノを想うつもりでその実全く違うことを考えていた。
壊れたビーコンを発見した時、ホッとした自分に戸惑った。
本当に望んでないのは、ケモノではないのだ。
丹恒自身、前世龍尊の罪業を詳細に聞かされているわけじゃない。
ただ彼の悪行と功績だけを滾々と龍師たちに説かれただけにすぎない。
自身に悪意のあるものたちから与えられた情報を、どこまで信じられる?
賢い子だ。恐らくケモノは何故丹恒が幽囚獄に繋がれていたか知っている。
それなりに長い間共にいたのだから、大体の事情を周囲から聞きかじっていると考えられる。恨まれるならそれでもよかった。そちらの方がよほど対処できる。だから分からない。何故、ケモノは丹恒のそばにいるのだ?
知ったうえで側にいるから安心できる?いいや。むしろ安心などできない。
罪人の過去を知り、それでも罪人の傍にいようとする者など限られている。
それこそ羅浮将軍が自分を牢から出した理由と同じものだとしたら、はたして自分は平常でいられるだろうか。そればかりか、自分のことを棚に上げて彼女を非難したりしないだろうか。彼女まで“丹恒”ではなく“丹楓”を通して自分を見ていたら。ケモノの口から直接言われでもしたら――考えただけで胸が押しつぶされそうになる。
選択は無数に枝分かれしていても、丹恒が手折る枝は囚われていた時となにひとつ変わっていない。
「……だから、これ以上は」
「ね、丹恒」
「……」
目の前の女性がことさら優しく、しかし力強い瞳で呼びかける。
これ以上煩わせたくなかったのに視線が言わせてくれない。
どうやら自分はこの類の視線に弱いらしいと、遅まきながら思う。
「丹恒。乗車した日に私がいったこと、覚えてる?」
「……乗車した、日」
「言ったはずよ、列車に乗ったらみんな家族だって」
「……」
「あんたたちが何かしらの事情を抱えていても私たちは構わないわ。そんなの問題じゃないもの。それよりももっと重要なことがあるの。それは家族が悩んでいて、私たちはそれに対してどんな助けが出来るのか、っていうそれだけのことよ」
持明族に家族の概念はない。慣例的に、生まれてすぐに世話係が与えられるが丹恒にはそれもない。遺伝子的に、家族愛というものを知らない一族だ。けど今は、そういう話をしている訳じゃない。
頭では彼らが言わんとしていることはわかる。彼らは純粋な善意で自分の手助けをしたいといっている。悪意も打算もなく、丹恒の影をみているわけでもなくて、ただただ丹恒というひとりの人間を認め尊重し優先してくれる。だけど丹恒には彼らから与えられるものの受け取り方がわからない。
あの視線で見られると、じりじり肌を焼かれていくようで苦しい。
――だけど。
「丹恒、伝えたいことは言葉にしなければ伝わらないのよ」
「……」
だけど。
あの日、自分が生まれた時に見た瞳と同じくらい、強い力で見てくれるこの人たちのことを失望させたくないと望んでいる。それは本当のことだった。
顔をあげ、正面から姫子を見つめる。心配ばかりかけて申し訳なく思う気持ちと、ほんの少し心地よく感じている自分がいることを、もう隠せない。
もう、隠したくない。
眼をつぶり深呼吸を2往復。
「丹恒?」
訝し気に呼ぶ声を合図に、カッと目を見開きコーヒーカップを掴む。
「丹恒⁉」
何かを予感した姫子が手を伸ばし制止もするも間に合わず、丹恒は初めて飲んだ時のように一息で器を空にした。舌の上がいろんな情報で大渋滞する最悪の後味を噛み締め、余韻が治まるのをしばし待つ。やがて潮が引いて凪の状態になる。歯列を舌でなぞりながら文字通りの苦汁を味わい尽くすと、丹恒は背筋を伸ばし前を見据えた。眠たいことばかり考える頭を覚ますには、やはりコーヒーが利く。
「姫子さん」
「え、あ、な、なにかしら?」
新入りの奇行を、固唾を飲んで見守っていた姫子が珍しく声を上擦らせる。
本当なら謝罪を入れたいところだが、あいにく今の丹恒にはそんな余裕はない。
「少しだけ考える時間が欲しい。まだ、色々と整理出来ていないんだ」
「……ええ、それはもちろんいいわよ」
不要な情報を捨て、端的に、率直に、自分の“希望”を述べることができた。
姫子はうろたえながらもしっかりと丹恒に答えてくれた。それだけでとても満たされた気分になる。
行く宛てのなかった自分たちを列車に引き入れてくれた人がこの人で、本当に良かったと心の底から感謝した。だがあまり甘えてばかりでは護衛の名折れだ。まだまだ鍛錬が足りない。
「それから」
「うん?」
「コーヒーの……おかわりをくれないだろうか」
その言葉こそ予想外だった姫子はぽかんと口を開けて数秒沈黙したのち、まるで少女のように思いっきり破顔した。
「アンタたちがよければ、次の目的地をステーションにするつもりよ」
コーヒーブレイクを終え席を立つ丹恒の背に姫子のセリフが投げかけられる。
それに対し、会釈だけして丹恒はまっすぐ自身の仮部屋……いや、自分たちの部屋へ道を急いだ。
非常にホワイトな業務体制を敷く車掌なら、そろそろ助手に休憩を充てるだろう。
彼女は暇さえあればアーカイブの資料を読み込んでいたから、今日もいるはずだ。
爪を立てないよう器用に肉球を使ってデバイスを操作する姿が目に浮かび、つい口元が緩む。
だが笑ってはいられない。
言いたいことを言わなければ伝わらないように、聞きたいことを聞いておかなければなにも進まない。
今日のこれは、はじめのひとつだ。
生まれた時。それは持明族にとって新たな次の人生を指す。脱鱗した後の人生は別の人間としての生となり、前世の宿業因縁功績地位は無いものとなる……形式上では。長い長い夢のような記憶から解放され、まだ名も与えられていない龍は、鱗淵境にて卵から孵る。――いや、還るというべきか。
その時すでに傍らにケモノがいた。ずっと。ずっとずっと。
ケモノは己の近くにいた。丹恒が生まれるのを待っていた。煌々と輝く並んだ瞳孔を、丹恒は最初、月がふたつあるのかと見間違えた。その青白磁の楕円の、強く放つ彩に目が離せなかった。卵の中で巡る記録のどれよりも己を惹きつけた。ケモノは獣らしく、丹恒を視界にとらえると瞳孔をキュッと狭める。
美しい。とても。
生まれて間もない龍の胸に湧き上がる純粋な賞賛。その瞳に乗る色が愛憎を湛えていたとしても、きっと同じことを思った。それが彼が今世で捉えた、最初の“美しきもの”であった。なにがあってもこの月に向かって進んでいこう、この月を裏切ることのない生を生きよう。
丹恒はそう固く己に誓ったのだ。
――もう決して、見誤るな。と誰かが云った気がした。恐らくそれは遠い過去の漣が連れてきた、長い長い付け文なのだろう。
※※※
………………
…………
……
忌み物を抱え去っていく足音を聞き届けたあと、男は何度目になるか分からない死を迎えた。
「何故だ……何故……」
仲間の迎えが来るまで、男は問い続けた。
過去が漣のように望郷を連れてくる。
きっと、あの忌み者の毛並みが郷愁を思わせたのだと己に言い聞かせて。
例えあの男が過去から解放されようと、己だけは決して忘れまい。
忘れるものか。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
忘れられるものか。
英雄となった彼女のことも。
忘れるものか。忘れるものか。忘れるものか。
――あの災厄の日のことも。
忘れられない。忘れられるものか。忘れたのなら。
――その身を捧げた義侠のことも。
お前だけが忘れるなど赦されない。
「聞いて。刃ちゃん、迎えに来たわ」
「聞いて」
「ハァ……駄目ね、魔陰の身に戻りかけてる。一旦大人しくさせないと。サム、また手伝ってちょうだい」
不思議な感覚が次々と襲い来る。
四肢が切り刻まれ肉と骨が灰になろうとも、再生した瑞々しい組織が寄り集まって筋繊維と骨細胞を新たに構築していく。
雨のような弾丸が臓腑に埋まる。それでも祝福された肉体から異物は取り除かれ傷口は跡形もなく回復していく。
すべて、彼岸を招くほどの致命傷には至らない。
炎を纏った鋼鉄の拳が心臓を貫き、ようやくひと時の安寧を得た。
知っているような女の声にまどろみながら、男は眠りに落ちた。
でもそれは仮初の眠りに過ぎない。
彼の者の終わりはずっと前から眠りからほど遠い場所にいる。
どれだけ願っても、沈黙の時間は彼に与えられることはない。
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