丹恒のケモノ
沈黙を保っていた牢獄に、けだものの号哭が貫いた。
丹恒に害をなそうと、幽囚獄に忍び込んできた賊がいた。鎖で縛られ無抵抗の丹恒を傷つけるより速く、物陰からけだものが躍り出る。賊が怯んだ隙にケモノは男の肩口に噛みつき、もうひとりの賊を丸太ほどの太さがあるであろう前腕で叩き潰した。致命傷を受けた賊どもは持明族だったらしく薄く発光したのちひと抱えほどの卵へ変化した。
シン、と再び静寂を取り戻した四畳半のなか、丹恒は呆然とケモノを見上げる。ケモノは天井を突くほどの巨躯になっていたからだ。おどろおどろしく波打つ体毛が、月の光のわずかなきらめきで淡く燃えていた。ケモノが、ゆっくりと振り返る。美しい毛並みを鮮血で汚していても、水面に映る月の揺らめきを見逃さなかった。考える前に指先はそちらへ向いていた。鎖を引きずり限界まで側に行くと、ケモノは逃げるように後退りしたがすでに逃げ場などなく。初めて触れるケモノの身体は想像よりずっと温かった。噎せ返る血の匂いに眩みそうになりながら、青年は慎重にケモノの首に腕を回し顔をうずめる。ケモノは沈黙でもってそれを受け入れた。思いの外、獣臭くない。甘酸っぱい匂いのほかに懐かしい潮の匂いと湿った花の香りがした。数度その毛並みを撫でつけた後、丹恒はケモノから離れソレと視線を合わせる。ケモノはすでにいつもの大きさに戻っていた。ケモノの顔を正面から見たのはこれで二度目だが、これが最後になるはずだ。
「ケモノよ、ここを出ろ」
この者が時々姿を消し、看守の目を逃れていたことを青年は知っていた。抜け道やあるいは特殊な力があるのか定かではないが、こいつは自分自身で助かる術を持っている。ケモノは丹恒の思惑を察し激しく首を横に振った。まるで駄々をこねる子供のように青年の腹にドスドス頭突きする。うっ、と短くうめくと、ケモノの泣き出しそうな目と合う。今までなんの音沙汰もなかったクセにこんな時に人間味のある仕草をしないでほしい。
――仕方無し。
嘆息し、空中で軽く手を捻る。
「居候なら言うことを聞け」
できるなら使いたくなかった力を使役すれば、どこからともなく寄り集まった滴が流水となりケモノの身体を包み込む。ケモノは身を捻りもがくも、ただ無意味に体力を減らすだけだ。慌ただしい足音を丹恒の耳が拾う。時期に騒ぎを聞きつけた十王司がやってくるだろう。丹恒はそっと押すように流水を暗がりに導く。
「行け、ここには二度と来るな」
ごぽりと、一際大きい泡が立ってからそれは動かなくなった。慣れ親しんだ息遣いがぷつりと途絶える。目を凝らすと獣が消えた部屋の片隅には、水滴が付着した若芽が顔を覗かせていた。こんなところにも種は迷い込む。獣が迷い込んでも不思議ではない。
真の意味で静まり返った部屋がやけに広く感じる。いるのかいないのかわからないような同居人がいないだけで、こんなにも違うものなのか。感慨に耽るより前に、軍靴の足音が牢屋の前で止まる。
「これは一体、どういうことかな」
やがて重い牢獄の扉が開き、陣刀を携えた白髪の男が踏み入った。前髪の隙間から片目だけ覗いた金の瞳で見渡し、最後に罪人へと止まる。問いかけられた青年は顔を背け、じゃらりと鎖を鳴らしながら定位置に戻り胡坐をかいた。
「見ての通りだ」
「見ての通り。見ての通り、ね」
将軍は鷹揚に青年の言葉を鸚鵡返しした。トントンと指先でこめかみを叩きながら言葉を選び取る。
「私の見たところ、賊が忍び込み罪人の部屋に押しかけ、それを君が撃退した。……少々乱暴な方法で。そう、受けとることになるが――罪人・飲月よ、相違ないか」
「――ひとつ、訂正する」
「俺は飲月でもなければ丹楓でもない」
「俺の名は、丹恒だ」
※※※
久方ぶりの穏やかな目覚め。
見慣れなぬ天井に違和感を覚えながら、丹恒はゆっくりと身体を起こした。パムから押し付けられた布団を剥ぎ、周囲を見渡す。アーカイブ化されずに積み重なった資料の山が複数、床に置かれたままになっている。放置されてうっすら埃を被ったそれらは、昨夜丹恒が処理したので一角だけ空間が出来上がっていた。そこには大判のバスタオルを敷いてケモノの休憩スペースにしていたのだが、抜け殻だけがあって当人は見当たらない。おそらくパムの手伝いをしに行ったのだろう。
星穹列車の乗客になってからの役割は、丹恒はアーカイブ室の記録係、ケモノは車掌の補佐をすることとなった。ケモノもまた、列車の乗客となったのだ。正直、ペットとして扱われるものと思っていたので、一乗客員として数えられたことに丹恒は密かに安堵した。同時に疑問にも思った。ケモノの頭を撫でていた姫子に尋ねれば、笑みを深くして応えてくれた。
「この子はアンタの連れなんでしょう?列車に乗った乗客は皆んな家族みたいなものだもの。アンタもこの子も、私たち家族の一員よ」
持明に家族の概念はない。反射的に言いかけた言葉をつぐみ、丹恒が選んだ次の行動は沈黙だ。まだ知り合ったばかりであり、もとより口数が少ない男だったために違和感を持たれることはついぞなかった。黙り込んだ丹恒を、ケモノがあの眸で見上げる。ピンと立った大きな耳がぴるるっと2回揺れ動く。それは丹恒が知る数少ないケモノの特徴で、機嫌がいい時の仕草だった。
人心地ついて今朝見た夢が、脳裏にぼんやり浮かび上がる。思い返せばあのような別れ方をすれば普通はもう会うことはない。にもかかわらずケモノは性懲りもなく丹恒の前に姿を現した。
謂れなき罪を肩代わりし将軍の睡眠時間を削らせたあと、概ね変わりなく過ごしていた。同族からの報復が増えた程度、丹恒にとって日常と大差ない。黙って受け入れ日が登るのを待つ。繰り返される日々に、ある日終止符が打たれた。折檻を受けた後の丹恒の前に、再度幽囚獄の門戸が開く。将軍は先日の同族殺しを理由に永久追放を言い渡した。けっしてそれだけが理由とは思えず、ましてや同族を殺された龍師たちが許すとも思えない。それなのに将軍は、はっきりと丹恒に「二度と羅浮に踏み入ることを禁ずる」と告げた。丹恒の押送は兵士一人だけを付け、密やかに行われた。
昨日はと違う一日が始まった。宇宙船へ乗り込み、後ろ髪一本分惹かれる気持ちで故郷を発つ朝。シャッターが閉じる間際のことだ。
埠頭で積み荷を運び終えた港の人間たちがにわかに騒めきだした。振り返る気はなかったが畏怖を含んだ悲鳴を耳にして何事かと目を向けた。目を瞑ればいまでも鮮明に思い出せる。
ケモノだ。あのケモノだ。
大地を蹴り風を切ってまっすぐ埠頭にやってくる薄葵の毛並みを間違うはずがない。陽の光を浴びて白銀にもみえるその姿は伝説上の巨狼が如く弾丸となって迫り来る。ただの一兵卒がケダモノを止めることなどできない。
シャッターが完全に閉まる前に滑り込んだケモノは丹恒を見つけると、得意げな様子で青年の足元をぐるぐる回る。三週ほどしたあたりで『滑り込み乗車は大変危険です。また、他のお客様にご迷惑がかかる行為もお控えください』と船員に注意されようやく止まった。窓の外では少しずつ景色が遠ざかり、やがて巨大な舟の全貌を捉えた。丹恒は驚けばいいのか呆れればいいのかわからない、何とも言えない複雑な表情で元同居人を見下ろした。
「確かに、今ここは、あの場所でもないしお前は居候でもなくなったがな……」
屈みこみ、ケモノの顔に手を添える。別れた日と同じ温かみ。当然ながら血のりは無くなっていた。
「――なおさら俺の許になどいる必要はないだろうに」
「くあむ!」
「いっ」
撫でていた手の甲を噛まれた。手甲がなければ貫通していたかもしてないほど強く、えげつない歯形がくっきりと残った。眉をしかめてケモノを見やれば、すまし顔でそっぽを向く。狐のような三角錐の耳がぴるると2回振る。知らず知らずのうちに丹恒の頬が綻んでいく。青年は「すまん」と頭を下げ、再び噛まれた手を差し出した。
「お前が望むのなら好きにするといい。よろしく頼む、同行者殿」
青年にしては珍しいおどけた言い方に、ケモノは目を見開いた。それからおずおずと噛んでしまった手の甲を赤い舌で舐めたのだった。
※※※
身支度を整えたころには眠気が覚めてきた。
毎朝のルーチンワークである、撃雲の手入れをしながら思考に耽る。
羅浮より追放されてからこれまで、自分たちには安息の地というものがなかった。常になにかしらに追い立てられて、駆り立てられながら次の目的地に辿り着く。丹恒に固執する男のこともあって、ケモノが何者であるかなど改めて考える余裕はなかった。自分に付き従う気配は、自分の一部のように思えるほど馴染み過ぎていて。だからあえて自分たちの関係を明確な言葉にすることを避けていたようにも思う。あの者をケモノと称するのがなによりの証拠だ。
少しずつあの同行者のことを知っていきたいと思い始める自分と、踏み出せず尻込みする自分の不甲斐なさに辟易する。自分のこともままならないのに、いかんせん。
――どうしたものか。
朝が来るたびに同じ結論に辿り着く。今日も変わらず、結論が出る前に撃雲の磨き上げが完了した。牢から出された時、こっそりと渡された荷の中に長槍は納められていた。記憶にないのに手にピッタリと馴染む心地は、不思議と嫌いではない。
道具を仕舞っていると扉の前に見知った気配を感じた。すぐにクォンと鳴くケモノの声。朝食が出来たようだ。
「ああ、いま行く」
資料室の自動ドアをくぐり、待ち人ともに食堂車へ急ぐ。ここの車掌は食事にうるさいのだ。1分でも遅れると体調が悪いのかなどと要らぬ心労をかけてしまう。丹恒は気付かれないように視線をケモノへ向ける。同じ歩幅、同じ目的、同じ運命。それらはいつまで“同じ”であるかわからないけれど。
丹恒とケモノの、新しい一日は今日も今日とて同じく明けた。
※※※
おまけ
「おはよう丹恒、珈琲淹れたんだけどあなたも飲む?」
「(初めて飲む飲み物だ)……いただこう」
丹恒に害をなそうと、幽囚獄に忍び込んできた賊がいた。鎖で縛られ無抵抗の丹恒を傷つけるより速く、物陰からけだものが躍り出る。賊が怯んだ隙にケモノは男の肩口に噛みつき、もうひとりの賊を丸太ほどの太さがあるであろう前腕で叩き潰した。致命傷を受けた賊どもは持明族だったらしく薄く発光したのちひと抱えほどの卵へ変化した。
シン、と再び静寂を取り戻した四畳半のなか、丹恒は呆然とケモノを見上げる。ケモノは天井を突くほどの巨躯になっていたからだ。おどろおどろしく波打つ体毛が、月の光のわずかなきらめきで淡く燃えていた。ケモノが、ゆっくりと振り返る。美しい毛並みを鮮血で汚していても、水面に映る月の揺らめきを見逃さなかった。考える前に指先はそちらへ向いていた。鎖を引きずり限界まで側に行くと、ケモノは逃げるように後退りしたがすでに逃げ場などなく。初めて触れるケモノの身体は想像よりずっと温かった。噎せ返る血の匂いに眩みそうになりながら、青年は慎重にケモノの首に腕を回し顔をうずめる。ケモノは沈黙でもってそれを受け入れた。思いの外、獣臭くない。甘酸っぱい匂いのほかに懐かしい潮の匂いと湿った花の香りがした。数度その毛並みを撫でつけた後、丹恒はケモノから離れソレと視線を合わせる。ケモノはすでにいつもの大きさに戻っていた。ケモノの顔を正面から見たのはこれで二度目だが、これが最後になるはずだ。
「ケモノよ、ここを出ろ」
この者が時々姿を消し、看守の目を逃れていたことを青年は知っていた。抜け道やあるいは特殊な力があるのか定かではないが、こいつは自分自身で助かる術を持っている。ケモノは丹恒の思惑を察し激しく首を横に振った。まるで駄々をこねる子供のように青年の腹にドスドス頭突きする。うっ、と短くうめくと、ケモノの泣き出しそうな目と合う。今までなんの音沙汰もなかったクセにこんな時に人間味のある仕草をしないでほしい。
――仕方無し。
嘆息し、空中で軽く手を捻る。
「居候なら言うことを聞け」
できるなら使いたくなかった力を使役すれば、どこからともなく寄り集まった滴が流水となりケモノの身体を包み込む。ケモノは身を捻りもがくも、ただ無意味に体力を減らすだけだ。慌ただしい足音を丹恒の耳が拾う。時期に騒ぎを聞きつけた十王司がやってくるだろう。丹恒はそっと押すように流水を暗がりに導く。
「行け、ここには二度と来るな」
ごぽりと、一際大きい泡が立ってからそれは動かなくなった。慣れ親しんだ息遣いがぷつりと途絶える。目を凝らすと獣が消えた部屋の片隅には、水滴が付着した若芽が顔を覗かせていた。こんなところにも種は迷い込む。獣が迷い込んでも不思議ではない。
真の意味で静まり返った部屋がやけに広く感じる。いるのかいないのかわからないような同居人がいないだけで、こんなにも違うものなのか。感慨に耽るより前に、軍靴の足音が牢屋の前で止まる。
「これは一体、どういうことかな」
やがて重い牢獄の扉が開き、陣刀を携えた白髪の男が踏み入った。前髪の隙間から片目だけ覗いた金の瞳で見渡し、最後に罪人へと止まる。問いかけられた青年は顔を背け、じゃらりと鎖を鳴らしながら定位置に戻り胡坐をかいた。
「見ての通りだ」
「見ての通り。見ての通り、ね」
将軍は鷹揚に青年の言葉を鸚鵡返しした。トントンと指先でこめかみを叩きながら言葉を選び取る。
「私の見たところ、賊が忍び込み罪人の部屋に押しかけ、それを君が撃退した。……少々乱暴な方法で。そう、受けとることになるが――罪人・飲月よ、相違ないか」
「――ひとつ、訂正する」
「俺は飲月でもなければ丹楓でもない」
「俺の名は、丹恒だ」
※※※
久方ぶりの穏やかな目覚め。
見慣れなぬ天井に違和感を覚えながら、丹恒はゆっくりと身体を起こした。パムから押し付けられた布団を剥ぎ、周囲を見渡す。アーカイブ化されずに積み重なった資料の山が複数、床に置かれたままになっている。放置されてうっすら埃を被ったそれらは、昨夜丹恒が処理したので一角だけ空間が出来上がっていた。そこには大判のバスタオルを敷いてケモノの休憩スペースにしていたのだが、抜け殻だけがあって当人は見当たらない。おそらくパムの手伝いをしに行ったのだろう。
星穹列車の乗客になってからの役割は、丹恒はアーカイブ室の記録係、ケモノは車掌の補佐をすることとなった。ケモノもまた、列車の乗客となったのだ。正直、ペットとして扱われるものと思っていたので、一乗客員として数えられたことに丹恒は密かに安堵した。同時に疑問にも思った。ケモノの頭を撫でていた姫子に尋ねれば、笑みを深くして応えてくれた。
「この子はアンタの連れなんでしょう?列車に乗った乗客は皆んな家族みたいなものだもの。アンタもこの子も、私たち家族の一員よ」
持明に家族の概念はない。反射的に言いかけた言葉をつぐみ、丹恒が選んだ次の行動は沈黙だ。まだ知り合ったばかりであり、もとより口数が少ない男だったために違和感を持たれることはついぞなかった。黙り込んだ丹恒を、ケモノがあの眸で見上げる。ピンと立った大きな耳がぴるるっと2回揺れ動く。それは丹恒が知る数少ないケモノの特徴で、機嫌がいい時の仕草だった。
人心地ついて今朝見た夢が、脳裏にぼんやり浮かび上がる。思い返せばあのような別れ方をすれば普通はもう会うことはない。にもかかわらずケモノは性懲りもなく丹恒の前に姿を現した。
謂れなき罪を肩代わりし将軍の睡眠時間を削らせたあと、概ね変わりなく過ごしていた。同族からの報復が増えた程度、丹恒にとって日常と大差ない。黙って受け入れ日が登るのを待つ。繰り返される日々に、ある日終止符が打たれた。折檻を受けた後の丹恒の前に、再度幽囚獄の門戸が開く。将軍は先日の同族殺しを理由に永久追放を言い渡した。けっしてそれだけが理由とは思えず、ましてや同族を殺された龍師たちが許すとも思えない。それなのに将軍は、はっきりと丹恒に「二度と羅浮に踏み入ることを禁ずる」と告げた。丹恒の押送は兵士一人だけを付け、密やかに行われた。
昨日はと違う一日が始まった。宇宙船へ乗り込み、後ろ髪一本分惹かれる気持ちで故郷を発つ朝。シャッターが閉じる間際のことだ。
埠頭で積み荷を運び終えた港の人間たちがにわかに騒めきだした。振り返る気はなかったが畏怖を含んだ悲鳴を耳にして何事かと目を向けた。目を瞑ればいまでも鮮明に思い出せる。
ケモノだ。あのケモノだ。
大地を蹴り風を切ってまっすぐ埠頭にやってくる薄葵の毛並みを間違うはずがない。陽の光を浴びて白銀にもみえるその姿は伝説上の巨狼が如く弾丸となって迫り来る。ただの一兵卒がケダモノを止めることなどできない。
シャッターが完全に閉まる前に滑り込んだケモノは丹恒を見つけると、得意げな様子で青年の足元をぐるぐる回る。三週ほどしたあたりで『滑り込み乗車は大変危険です。また、他のお客様にご迷惑がかかる行為もお控えください』と船員に注意されようやく止まった。窓の外では少しずつ景色が遠ざかり、やがて巨大な舟の全貌を捉えた。丹恒は驚けばいいのか呆れればいいのかわからない、何とも言えない複雑な表情で元同居人を見下ろした。
「確かに、今ここは、あの場所でもないしお前は居候でもなくなったがな……」
屈みこみ、ケモノの顔に手を添える。別れた日と同じ温かみ。当然ながら血のりは無くなっていた。
「――なおさら俺の許になどいる必要はないだろうに」
「くあむ!」
「いっ」
撫でていた手の甲を噛まれた。手甲がなければ貫通していたかもしてないほど強く、えげつない歯形がくっきりと残った。眉をしかめてケモノを見やれば、すまし顔でそっぽを向く。狐のような三角錐の耳がぴるると2回振る。知らず知らずのうちに丹恒の頬が綻んでいく。青年は「すまん」と頭を下げ、再び噛まれた手を差し出した。
「お前が望むのなら好きにするといい。よろしく頼む、同行者殿」
青年にしては珍しいおどけた言い方に、ケモノは目を見開いた。それからおずおずと噛んでしまった手の甲を赤い舌で舐めたのだった。
※※※
身支度を整えたころには眠気が覚めてきた。
毎朝のルーチンワークである、撃雲の手入れをしながら思考に耽る。
羅浮より追放されてからこれまで、自分たちには安息の地というものがなかった。常になにかしらに追い立てられて、駆り立てられながら次の目的地に辿り着く。丹恒に固執する男のこともあって、ケモノが何者であるかなど改めて考える余裕はなかった。自分に付き従う気配は、自分の一部のように思えるほど馴染み過ぎていて。だからあえて自分たちの関係を明確な言葉にすることを避けていたようにも思う。あの者をケモノと称するのがなによりの証拠だ。
少しずつあの同行者のことを知っていきたいと思い始める自分と、踏み出せず尻込みする自分の不甲斐なさに辟易する。自分のこともままならないのに、いかんせん。
――どうしたものか。
朝が来るたびに同じ結論に辿り着く。今日も変わらず、結論が出る前に撃雲の磨き上げが完了した。牢から出された時、こっそりと渡された荷の中に長槍は納められていた。記憶にないのに手にピッタリと馴染む心地は、不思議と嫌いではない。
道具を仕舞っていると扉の前に見知った気配を感じた。すぐにクォンと鳴くケモノの声。朝食が出来たようだ。
「ああ、いま行く」
資料室の自動ドアをくぐり、待ち人ともに食堂車へ急ぐ。ここの車掌は食事にうるさいのだ。1分でも遅れると体調が悪いのかなどと要らぬ心労をかけてしまう。丹恒は気付かれないように視線をケモノへ向ける。同じ歩幅、同じ目的、同じ運命。それらはいつまで“同じ”であるかわからないけれど。
丹恒とケモノの、新しい一日は今日も今日とて同じく明けた。
※※※
おまけ
「おはよう丹恒、珈琲淹れたんだけどあなたも飲む?」
「(初めて飲む飲み物だ)……いただこう」