丹恒のケモノ

 物心ついた時から丹恒の側には獣がいた。煌々と輝く瞳孔を、丹恒は最初、月がふたつあるのかと見間違えた。そのまろい青白磁の三白眼の、強く放つ彩に目が離せなかった。
 それが、彼が今世で捉えた最初の“美しきもの”であった。


 冷たい石畳み、小さな照明器具がひとつ。己を縛り留める冷たく重い鎖。ボロの敷物。積み重なった書物。時折り、囚われ人の咆哮が暗澹たる静寂を掻き消すがこの場所では常にあること。気に留めるほどではない。ただ一つ、丹恒が煩わしいと感じるのは、思い出すかのように龍師たちが妙法を聞き出すために尋ねにくることだ。檻の向こうから前世の記憶はどうとか功罪がどうとか、己の使命を果たせだとか。謂れのない弾劾を浴びせ、終いには意味不明な恨み言を喚き散らし去っていく。時には手荒な手段もとる。それらをのぞけば、普段の幽囚獄は静かなものだ。

 いつからか分からないがそれは存在した。部屋の片隅の暗闇から、己を睥睨するふたつの青い眼がゆっくりと瞬いた。
 獣。やはり獣だと、丹恒は思った。
 ピンと立った大きな耳と長く太い優美な尾は狐に似ていなくも無いが、それにしては大きすぎる。狼にしては顎の形が先細りだし、耳の形状がやや外側に開きすぎている。三白眼の瞳だけは獰猛な獣のそれだった。そもそも薄葵色の体毛を持つ狼などどこにも書かれていない。

 丹恒は前世より罪人であったが、大人しくしていれば十王司はある程度の融通を利かせてくれた。書物もそのひとつだ。もちろん、十分に検閲されたもののみに限る。最近届いたカンパニー発行の仙舟植生物図鑑にも、この獣の特徴と一致する生き物は載っていなかった。看守に聞こうにも、彼ら彼女らは罪人と口を聞かない。だから丹恒はこの隣人のことを身も蓋もなくただケモノ、と呼んだ。そう呼ぶのが一番しっくりくるので。四畳半の共同生活を、丹恒はそれなりに気にっていた。

 とは言っても、丹恒もケモノも無駄口を叩く質では無い。積極的にケモノのことを呼ぶようになったのは、将軍から永久追放を言い渡され仙舟を出てからだ。いつのまにかケモノは自分が乗船したカンパニーの船に乗っていて、当然のように自分の放浪の旅に着いてきた。









 それが明るみになったのは、彼が星々を繋ぐ列車に乗ってすぐのことだ。星穹列車の案内をかってくれた姫子が問うた。
「ところで丹恒、この子の名前は?」
「ケモノ」
「え?」
「こいつの名前はケモノだ」
「はっはっは。丹恒くんはなかなかユニークだね」
「? 悪いがなにか問題があるなら言ってほしい。善処する」
 あまりにも澄んだ眼差しと平坦な声。すぐにそれは無口な少年が気を利かせた小粋なジョークなどではないと分かり空気がピリつく。大人たちは瞬時に目配せをし迅速に行動へ移した。
 
「あー私、なんだか猛烈にティータイムをしたい気分になったわ。せっかくだし丹恒も付き合ってくれないかしら」
「いや、俺は……」
 姫子は丹恒の両肩を押しソファへ座るようすすめた。それは丹恒の力であれば簡単に引き剥がせるほどの力加減であったが、姫子の有無を言わせない圧力に押し負けてしまう。  
「紅茶でいいかい?俺が淹れてこよう。ついでに仕事に戻ったパムも呼んでくる」
「ええ、よろしく頼むわヴェルト。私は濃いめのを頂戴」
「……?」
 ただひとり何もわかってない丹恒はされるがままソファに座らせられてしまった。すぐに立ちあがろうとしたが、手をついた接着面から今まで味わったことのない電撃が脳へ駆け巡った。極上の肌触りと程よい低反発のクッションに沈み込み身動きが出来ない。丹恒は宇宙を背負った。
 弁明をすると別にカンパニーの船のクッションが固かったわけではない。あの資本主義はそんな手抜きをしない。むしろ上等といえよう。真相は丹恒自身が落ち着かないからという理由で座らなかっただけだ。その上、道中丹恒は気を張り詰めさせ続けていて、いつでも動けるように壁に寄りかかったり、賃金を安くすませようと倉庫の固い床に直に寝転んだりしていた。そもそも休むという発想がなかった。全て長い獄中生活が悪い作用を引き起こした。
 知識や記憶で知っていたことと、実際に体験した体感のギャップに丹恒は軽い混乱状態になっていた。フワフワしすぎて落ち着かないのにどうしてか腰が持ち上がらない。これは不味いと本能が警鐘を鳴らすが時すでに遅し。
 
 パムを連れたヴェルトが彼の前に紅茶を置き、戸惑いつつも促されるままそれを口に含む。先に宣言すれば今の丹恒は禁錮状態で靱性ゼロ手前であり、つまりブレイク前だといえばわかりやすいだろう。後は畳み掛けるだけ。
 はじめに芳しい香りが鼻を抜ける。火傷する一歩手前の熱さと、微かな渋みが舌に広がり不思議な清涼感が喉元を過ぎる。正直味についてはよくわからない。この味について説明するにはあまりにも経験が不足していたし、自分には繊細すぎる代物だと直感でわかったからだ。それでも「美味い」と望洋とした感想が溢れるほどにはヴェルトの淹れてくれた紅茶は素晴らしかった。この日、丹恒は生まれて初めて美味を知った。戦闘終了。無意識に二口目を口にする丹恒を見て紅茶を淹れた本人は安堵し、世話焼きのナビゲーターは青年の警戒度を下げられたことに喜ばしく思った。車掌は久しぶりの新入りの歓迎会だと張り切り、とっときの茶菓子を引っ張り出してきた。その茶菓子の甘さに丹恒がまたまた驚愕する。
 その様子を、丹恒の足元に行儀よく座るケモノは呆れたような困ったような、それで楽しげな雰囲気で見守っていた。耳を垂らし珍しくクンと小さく鳴いたが、談笑する彼らが気づくことはなかった。

 のちにこのお茶会は第1回列車内家族会議と呼ばれ、メンバーが増えるごとに定期的に開催されていくことになるが、また別の話である。
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