ハンター試験編
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※※※
ハンター協会審査委員会、最高責任者ネテロ会長の取り直しによって、再試験が行われた。
課題のクモワシの卵を紐なしバンジーで取りに行けと言われた時は肝が冷えたが、こっそり念を使ってホバリングしつつ無事ゲット。ゆで卵はメンチにぶっ飛ばされたあの受験生にあげれば、男はその美味しさに改心して来年リトライすると宣言した。素直さは美徳かな。
合格した42名の受験生は次の会場へ移るために飛行船に乗り込んだ。
集められた広間の中央に今まで担当した試験官とネテロたちが立っていた。
「本来ならば最終試験で登場する予定であったが、一旦こうして現場にきてみると⋯⋯なんともいえぬ緊張感が伝わってきて、いいもんじゃ。せっかくだからこのまま同行させて貰うとする」
ほっほっほと真意の読めない顔でネテロはひょうきんに笑う。
2年前の裁判の際、ハンター協会の弁護人を雇った折に縁が出来て以来会うのは久しぶりだが、このおじいちゃんは相変わらずのようだ。
この人も只者ではないのだけど不思議と身体が強張ったりしない。ヒソカが毒蛇とか鮫とか一目で分かる害獣の類なら、ネテロは海とか山とか、もっとスケールが広い“強さ”に当てはまる。もちろんこれは私の所感でしかないし、本気のネテロと相対したことがないことや、協定を結んでる手前おおっぴらに敵意を出さないことも要員かも知らないが⋯⋯。
でももしネテロが直接私を殺すことに本気を出さざる終えなくなった場合は、一切の手心なく慈悲深く殺してくれるだろう。
ヒソカとネテロの違いはそこだろう。あのピエロは己の欲望を満たすためなら努力を惜しまない。
そういうことだから、私はこの好好爺のことが割とキライじゃない。あっちはどう思ってるか知らないけど。
「次の目的地へは明日の朝8時到着予定です。こちらから連絡するまで各自、自由にお時間をお使い下さい」
ネテロのマネージャーがつぶらすぎるマメ顔で案内を終えると、張り詰めていた空気が緩みむ。受験生が各々動き出した。
やっと安心して休めるとのだ思うと、ドッと疲れが押し寄せてきた。そんな私たちの横をタタッとかけていく影が一つ、二つ。
「ゴン!!飛行船の中探検しようぜ」
「うん!!」
「元気な奴ら⋯⋯」
レオリオが呆れて呟くも少年たちはどこ吹く風で駆け出していく。
疲れをものともしないその背を苦笑して見送るのだった。
ふと、飛行船の窓から見下ろすと、外はもうすぐ夕暮れになっていて地上の家々を照らし出していた。
太陽より高い位置で見る光景はなかなか物珍しく、雲がすぐそばで燃えているようだった。
数秒目に止まり眺めていたが、すぐに飽きてレオリオたちの後を追うように広間を出た。
広間の出入り口でクラピカが待っていた。
「何をみていたんだ?」
「何故?」
「いや、何か気にかかることでもあったのかと」
「特には。ただ夕陽が⋯⋯」
「夕陽?⋯⋯嗚呼、本当だ。綺麗だな」
そこで初めて外の景色に目が向いたクラピカは、猫目を細くさせて感嘆の声を漏らした。
「⋯⋯そうね」
私はそう囁き返すのがやっとだった。
綺麗。
そうか、こういうのは綺麗というのか。
さっきまで夕陽に対してなんとも思わなかったのに。
ただ届く光の波長が変わったくらいで、美しいというのか。
理解は難しいけど、でもきっと、これが普通なのだろう。
あなたがそういうのなら、きっとそうなんだろう。
いつか本当に美しいと思えるようになるまで、その気持ちを借り受けることを許してほしいと、そっと心の中で謝罪した。
いつのまにか先を行っていたレオリオが戻って来て、同じように夕焼けを見ながら憮然とした顔でそばに立っていた。
「なーに黄昏てんだよ。そんなことよりオレはとにかくぐっすり寝てーぜ」
「ふふ、それは同感」
「私もだ。おそろしく長い一日だった⋯⋯しかし1つ気になるのだが⋯⋯」
「ん?」
「試験は一体、あといくつあるんだろう」
「あ、そういや聞かされてねーな」
「その年によって違うよ」
クラピカの疑問に、どこから聞きつけてきたのか一次でお世話になったトンパが近寄ってきて聞いてもいないのに喋り出す。
というか卵採れたのね、この人。落第常連は伊達じゃないようだ。
「試験の数は審査委員会がその年の試験官と試験内容を考慮して加減する。だが、大体平均して試験は5つか6つくらいだ」
「あと3つか4つくらいってわけだ」
「なおのとこ今は休んでおいた方がいいな」
「試験の内容もどんどん難しくなっていくでしょうしね」
受験生のレベルもそれだけ洗練されていくだろう。十分警戒しておいた方がいい。
──情報源(ソース)が多少引っ掛かるが。
「だが気をつけた方がいい」
「そら来た」
「ん?なにか言ったかい」
「イイエ、ナンニモ?」
「そ、そうか⋯⋯。コホン、さっき進行係は『次の目的地』と言っただけだから、もしかしたら飛行機(ここ)が第三次試験会場かもしれないし、連絡があるのも『朝8時』とは限らないわけだ。寝てる間に試験が終わっちまってた、なんてことにもなりかねない」
「!」
「次の試験、受かりたけりゃここでも気を抜かないほうがいいってことだ」
トンパはしたり顔で冗長すぎる解説を言い終えると去っていった。
その背が遠くなるのを見届けてから、私は彼らに向き直り、問いかける。
「あえて聞くけど、二人はこの後どうする?」
「⋯⋯」
二人は顔を一度見合わせ、同時に口を開いた。
「「寝る」」
⋯⋯だよねー。
***
大部屋で休む二人と別れて、私はシャワー室を探しに行く。
窓ガラスに映る自分が目に止まり、思わず立ち止まる。本当にひどい姿だ。泥と血といつ着いたのかよく分からない動植物らしきシミの跡。これだけボロボロにしたのでは張り切って仕立てたルゥインの怒髪天を突くのは必至だろう。
まあ、汚れてしまったのは仕方ない。お叱りは帰ってからしっかり受ければいい。経験則的に2〜3日は玩具にされることだろうが甘んじて受け入れるとも。兎にも角にも、今ははやく熱いシャワーを浴びて着替えて休みたい。
適当に人気のない場所を探し、誰も来ないことを確認し、目についた近くの扉の前に立つ。そして鞄から一本の鍵を取り出した。
何処にでもありそうなシンプルな銀色のウォード錠に見間違えそうだが、よくよく目を凝らすと鍵山部分が0〜9までの細かい数字が振られたダイヤル式になっていることが分かる。
私はこの時間帯のみんなのスケジュールを思い出し少し考えてからダイヤルを合わせた。
この時間帯ならそろそろ彼女は休憩中のはずだ。
私は最新の注意を払ってダイヤルを回した。
正しい鍵山にしないとこの鍵は鍵穴に入らないどころか、失敗すれば鍵は消滅するという危険がつきまとう。
貴重な空間移動系の能力は有り難く慎重なのは良いことだが、いかんせんスペアキーは一本のしか複製出来ない上に失敗した扉は二度とポートポイントとして使えなくなるという、利便性が低く防犯意識が裏目に出ることも多い。
まあスペアは何度失敗しても作り直せるし、どの扉でも鍵はさせるのでリカバリー出来るのが幸いだけど⋯⋯こういうところが能力者の性格が出るんだよなぁとカチカチ鍵山を作りながらぐちる。
この鍵を使うのは外に出るようになってから利用するようになった。初めのうちはメモを見ながら一つ一つ数を確かめていたが、今じゃそらで10桁の数字の羅列を鍵山に合わせることが出来るようになっていた。それくらい多用しているともいえる。
カチリ。
最後の桁の鍵山がハマる音を立てたので、それを鍵穴に挿す。
見た目には扉に変化が起きた様子はない。
私はコンと初めに一回だけノックをする。
一呼吸置いて今度は3回扉を叩く。
すると、向こう側から少々忙しないノックが3回返ってくる。
この叩き方は間違いなく喋り方に反してせっかちなあの子のものだ。
向こう側に人がいることを確認し、私は声をかける。
「私よ、開けて」
すぐに向こう側のノブが回る音がし、こちら側のノブも鍵がついたまま反時計回りに動く。
そう、鍵はあくまで点(ポート)を繋ぐためのものであって、点と点が結びつきなおかつ支点であるあちら側から開けてもらわなければいけない。本当に回りくどい。
扉の向こうに立っていたのは改造ナース服に身を包んだ20代半ばの女性。
「✖︎はろはろ〜〜。待ってたンだかンね〜〜。っかぁ、ちょゥどろんこぢゃんウケんね✖︎」
ピンクと水色のグラデーションヘアーを丁寧に巻き二つに分け、トレードマークのバッテン型の髪留めで飾られている。
改造ナース服にはこれまたトレードマークのバッテンのほか、ピンク色のウサギやユニコーン、注射器やカプセルのアップリケなどがふんだんにあしらわれ、極め付けは背中とナースシューズにあしらわれたふわふわの天使の付け羽。やはり色合いもパステルカラーで統一したガチガチの懲りようである。
だいぶファンシーな着こなしをするこの女性、れっきとした私の信徒だ。
「もう夜よ、アデーレ。また研究に没頭してたんでしょ」
「✖︎うにうに(´ω`)✖︎」
「可愛いくいっても誤魔化されないんだからね」
彼女の名はアデーレ=アガペスタ。マルガーのいとこで、書類上は私の親戚筋にあたる。ルゥイン以外のもう一人の侍女で、格好から分かる通り(──分かるか?)主治医の一面も持つ。
彼女に促され部屋の中に入る────前に、忘れずに鍵を回収しておき内側のノブに“keep”の掛け札を下げておく。こうすると元来た扉から帰ることができるのだそうだ。
室内に入るとふわりと温かい空気がベールを揺らした。
ここは、本来なら試験会場から飛行船を乗り継ぎしなければいけない場所だ。オチマ連邦の所属国、アイナモラという小さな国にあるメメシス教教会本拠地、その敷地内にある救護室もといアデーレの仕事部屋兼自室だ。
鍵の支点(キーポートポイント)は、全てマスターキーで設定した本拠地の幹部12人の部屋とそれぞれ繋がっている。幹部12人の部屋にはそれぞれ0〜9までのランダムな数字が割り振られ、決められた数字とダイヤルを合わせることで行き来できる。
しかし先にも言ったように合わせた鍵の向こうに人がいないと開けてもらえないので、一人分だけ覚えればいいとはいかず、常に部屋に在中している人物の数字を覚える必要があった。これは作った能力者の慢心で、他人が使用することを想定していなかったらしい。
やはり休憩していたのかマグカップの珈琲は湯気が立っていて、近くを通ると何かの薬と消毒液のつんとした匂いとが混ざって具合が悪くなりそうだった。
「アデーレ、薬の調合中は換気しろっていったわよね?」
「✖︎うなはははははは✖︎」
「もう」
どうせ寒いから窓開けるのめんどくさかったとか、そんな感じだろう。腕のいい医者のくせにこういう時は適当なのだから。
乱雑に散らばった資料や薬品を適当にテーブルの端に追いやるアデーレを横目に窓に手をかける。
一月のひんやりとした風が吹き込む。
窓の外は夕陽はとっくに沈み星灯りが出始めていた。
「✖︎みさぴ〜〜珈琲飲ゥ?インスタントだけど✖︎」
「遠慮しとく。明日も早いし」
「✖︎何時起き?✖︎」
「んー、早めに戻りたいから6時かなぁ」
「✖︎薬湯ならあンよ✖︎」
アデーレの言う薬湯はハーブティーのことだ。
彼女自らブランディングした代物は効き目がいいのに、頑なに不味そうな言い方をする。成分の問題?
「じゃあそれで」
「✖︎おkマル〜。あ、手洗いうがい忘れちゃ✖︎(メ)だよ?✖︎」
「はぁーい」と生返事をしながら、アデーレがお茶を入れてくれる間に洗面所で手洗いうがいをしに行く。
ついでに汚れた服も適当にその辺に脱ぎ捨てておき、キャミソールとドロワーズだけになった。
先に川で洗っていたのでだいぶ取れていたが、まだ爪の間に血が染み付いている。これはお湯で落とさないと無理そうだなとため息を吐く。
言いつけ通り手洗いの歌を口遊みながら隅々までウォッシュウォッシュ。⋯⋯歌ってるところを聞かせないと手洗い警察が覗きにくるのでね。
全て済ませ部屋に戻ると充分換気された室内に、ふんわりとした花の香りがティーカップから漂っていた。
薄い青色のガラス製の、ちょっとアンティークぽいカップの中にほんのり緑かかった液体。香りを良くするために入れられた花びらが数枚散っている。
ここでアデーレのハーブティーを飲むのは私だけなので、わざわざ彼女の趣味に合わないものをが見繕ってくれたのだ。
「✖︎あーしが言うのもなんだけどー、よくそんなもン飲めンね✖︎」
「ほんとによく言うわね。私は好きよ、この香り」
「✖︎気に入ってンの香りだけぢゃん。それ飲めンのみさぴだけだぉ?✖︎」
「あら、私に合わせて調合されたのかと」
「✖︎にぃ✖︎」
彼女の話し方は少々独特で、最初の頃よりは慣れたと思っていたが、今の返し方(鳴き方?)はちょっとよく分からない。
香りと効能だけはピカイチな、渋くて苦くて変に甘味のあるお茶を飲むことで誤魔化した。まあたしかに私以外が飲んでるところなんてほとんど見たことない。
随分前にバーソロミューが好奇心で一口飲んだが、整った鼻筋に皺を寄せて笑顔でフェードアウトして以降、誰も手をつけることは無かったっけ。
そんなにキツいのかしら?
ちょっと刺激の強いペパーミントティーくらいだと思うけど。
「✖︎うーん、ちょーと悪化してるかも〜。バッテンちゃん取り替えとくね✖︎」
「そうして。次もいつ戻って来れるか分からないから」
「✖︎りょりょ〜。っか、ウチとジャックんとこばっか来ないでぇ、たまにはルゥちゃんとこ行ってあげたらぁ〜?かあいそっショ?✖︎」
「えー、前借り貰ってるからなぁ」
「✖︎まぁたそんなこと言ってぇ〜、ルゥちゃん泣いてたよ〜✖︎」
「嘘だぁ〜〜」
お茶を飲み終わるまで、状況報告と診察も兼ねて私たちはたわいもない話をした。
飲み終わる頃にはアデーレの口調につられてか気が緩んだのかあくびが出た。瞼が重い。
「✖︎ナニナニィ〜おつかれ?✖︎」
「そうみたい。今日はゆっくり湯船に浸かりたいわ。手伝って」
「✖︎りょっかぁ〜。ルゥちゃんには黙っといてあげんネ✖︎」
「ありがとー」
間延びしたテンポの口調とは違い、手捌きはキビキビしたもので備え付けのバスルームに運び込まれると髪も爪も足もピカピカに磨き上げられた。私はなすがままだ。
ホテルやミゼラのお家に泊まった時は教会に戻らず自分でやったけどさぁ。
この温室育ちをどうにかしなければと思うものの4歳からの習慣が抜けない。
「✖︎っーか、マジ試験終わる前にルゥちゃんンとこ顔出しなよ〜。ちょゥ心配してたンよ?昨日なんて誰ンとこにも来なかったから全員の部屋巡回して押しかけてきたしぃ?✖︎」
「え、まさか⋯⋯?」
「✖︎今は“トーマ”とお仕事中だから大丈夫だと思うけど〜✖︎」
「そう、ならよかった。今回は流石に汚しすぎちゃったからなんて言われるか⋯⋯」
「✖︎そういうことじゃないと思うんだけどぉ〜〜まあいっかぁ、あでちゃんしーらっねと!てかてかぁ、さっきっからちょゥちょゥ気になってたンだけど〜✖︎」
「このスーツなに?」
油断した。
あ、と思った時にはもう遅い。
ソープで身体を洗い流し爪の間まで丁寧に汚れを取り湯船に浸かって完全にリラックスモードだった。ほかほか極楽湯が一気に流氷海域に変わった。
恐る恐る見上げると鏡に映るハイライトオフの目と会う。口調も素に戻ってるし✖︎も消えてる。ガチギレじゃん。
アデーレの左手は私の左肩に添えるようにして逃げ場を無くす。よく見ると指先だけが湯に浸かっていた。
そして右手には脱ぎ捨てた泥だらけのレオリオのジャケット。
うん、忘れてた。完全に忘れてた。
「⋯⋯あーあーそれね、うん。あっちでよくしてくれた人がくれたの。新しいもの贈って返そうと思ってるからサイズ確認していつものお店で手配して。値段はコレくらいの。色はソレの似たようなのでいいわ。ただし上下セットね。背が高い人だったから裾直しが必要になるかも、お店の人に伝えておいて。送り先は次に戻ってきたときまでに聞いておくわ。あと終わったらそのスーツは捨てていいわよ。よろしくね」
何か言われる前に一息に全部言い切る。
出来るだけ感情を込めず淡々と事務的に。
下手に嘘や言いわけを重ねると逆鱗に触れかねないのでね。これ、経験談。
そうでなければ今浸かっているお湯に何が起こるか分からないからだ。劇薬の入浴剤だけは勘弁して。
「あっちって、受験生ってコト?念のねの字も知らないカスでしょ?じゃあ落ちる(しぬ)じゃん?贈る意味ある?」
「いやまだそうとは決まってないからね?まあ、その、落ちたら残念賞ってことで⋯⋯」
「ふーん」
まだ不満気な様子のアデーレだったが、手元にある見ず知らずの人間のスーツをいち早く視界から排除したかったのか、乱暴な手つきでゴミ箱にボッシュートした。
なんか、ほんとごめんね、レオリオ。
ひとまずあなたの尊厳と健康的な生活のために、私が試験に合格するまで勝手に個人情報を調べないよう言い付けておくから。
心の中で合掌する。
次からは人からもらったものとか持ち込まず証拠隠滅させてから戻ろう、────などというと浮気がバレないよう細工している間男みたいになるから辞めよう。
これはみんなの精神安定のために必要なこと。
そういうことにしよう。
嵐は過ぎ去った⋯⋯⋯⋯かに見えた。
しかし戻ってきたアデーレは、湯船から上がろうとしていた私の両肩をデコ盛りネイルで押し沈める。
回避失敗。
いや、そもそも靴を脱がされた私はまな板の上の鯉ならぬバスタブの中の猫!逃げられるはずもなく!
「じゃ、次はどうしてそんな経緯になったのかじっくり聞かせてくんろ❤️」
⋯⋯ヤンデレこあいぉ。
※※※
本日は晴天なり。雲ひとつなし。
うむ、絶好の試験日和である。
昨日はベッドでしっかり休み、十分な睡眠を取れたことで気分爽快。
次の試験も頑張るぞ!
ん?おや、なにか分節的な時間が飛んでいるような?
いえ、きっと気の所為ね、気の所為。
私の精神衛生上のために、気の所為だということにしよう。
そういうことにしよう。
閑話休題(このはなしはもうよそう)。
今は朝の7時半。
移動中の飛行船の中へ戻っている。
到着時間は8時と言われていたが、船内放送によると予定より遅れているらしい。
思わぬ暇が出来てしまった。
どうしようかな?
私もゴンとキルアみたいに船内を散歩しようかしら。
うーん、でも歩き回るのもそれはそれで疲れるしなぁ。
遊覧用のベンチに座りボーッと景色を眺めながら時間を持て余していた。
「こんなところにおったのか」
「気配を消して背後に立たないでくださいませんか?今ちょっとトラウマになってるので」
「ほっほっほっ、それはすまんことした。しかし移動中も試験ということを忘れてはいかんのう」
「⋯⋯最高責任者にそう言われたら返す言葉もありませんね」
ネテロの手厳しい台詞に肩をすくめる。
先にも言ったが私はネテロ会長のことがキライではない。
「何か御用で?協会(あなたがた)と交わした取り決め通りに申し込みも事前に通告し、了承されたでしょう?てっきり試験が終わるまでノータッチかと思ってましたが」
「うむ、もとはそのつもりじゃった」
「では何故?お互い不可侵であることを条件に我々は協会(あなたがた)の監視を甘んじて受けているのに、最高責任者の貴方自らが個人的に私(メサイア)と接触したのでは貴方と貴方の周囲の沽券に関わるのでは?」
たとえ私とネテロが個人的にお互いを好意的に思っていても、立場上そうはいかないのが上に立つ者の辛いところだ。
2年前の事件で、私たちの罪は世間に暴かれた。いつかこうなることは予想していたが、想定外の被害も出してしまった。そのことだけは、今でも悔やんでいる。
事件を重く見た警察側の魔の手が伸びる前に、プロハンターの弁護士と契約できたのは運と引き受けてくれた弁護士の人柄故だった。彼は司法取引ともいう交換条件で、我々の活動の制限と監視のみにとどめてくれた。
悪魔と取引したと思っている彼には申し訳ないけど、本当によくやってくれた。
監視はハンター協会自ら責任を持ってする事、もし規約に反する行為が認められたら私が全ての責任を負う事になり、事実上メメシス教は解散。ハンター協会がメメシス教を庇い立てすれば彼らの信用はガタ落ち。
協会 も教会 もその条件を飲んだ。
それ以来、メメシス教会とハンター協会はお互いの尻尾を噛み合う蛇のように剣呑ながら安穏とした日々を送ってきた。
私は義父マルガーたちが犯した重責も、私自身が犯した重責も償うと決めた。
その覚悟を、ネテロ会長は知ってるはずなのに⋯⋯⋯⋯。
「ふぅーむ。少しは柔らかくなったかと思っとったが、おぬしは相変わらずの理屈屋じゃのう」
「べつに理屈とかじゃなくて、常識的に指摘してるだけです」
「ふぉっほっほっ!おぬしに常識を説かれるとはのう。わしも歳をとったわい」
このたぬきじじい⋯⋯。
そりゃ貴方の10分の1も生きてないような小娘に言われたくはないでしょうけど、このおじちゃんはいちいち煙に巻いたような話し方しか出来ないのか?
「それで?本当に御用件は無いんですか?」
話が逸れてきたのでイライラしながら強引に
引き戻した。
協会側が用意した飛行船といえど、どこに密告者がいないとも限らないのだ。こんなところを見られたらどんな難癖をつけられるか分かったもんじゃ無い。
「用事はある」
あるんかい。
ちょっとずっこけそうになったじゃないか。
いい加減に小娘で遊ぶなと言いかけた言葉は、ネテロの短い問いかけに頭の中が真っ白になって掻き消された。
「楽しんどるか?」
「ま、その答えはまた今度聞こう」
────迎えがきたようじゃからな。
なんのことか分からず振り返ると、廊下の先から金髪の青年が歩いてくるのが見えた。
クラピカは、こちらに気づくと駆け足気味に近寄ってきた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
ほんの少し呆れたようにクラピカは笑った。
当たり前のように出る台詞に、私は困惑した。
どうしてこの人は、性懲りも無く私を探すんだろう。
どうしてこの人は、あれだけのことをして嫌いになってくれないんだろう。
真っ白になった頭の中を、疑問が埋め尽くしていく。
「共同部屋には来なかったようだか、昨夜はどこにいたんだ?」
私、結構イヤな態度とか距離感取ってると思うんだけど。
なんでまだ私に構うんだろう?
なんでまだ私に笑いかけてくれるんだろう?
私はまだ、貴方になにもしてあげてないのに。
「ゴンたちも見当たらなかったんだが、見かけてないか?」
素顔だって素性だって、本当のこと何も言ってない。
なのに。
「ミサ?」
本当に、
それが、
分からなくて。
「⋯⋯⋯⋯ないで」
「え?」
「もう、私に構わないで」
まあるい猫目が見開く様に、汚くて浅ましくて悪い部分の私が嘲笑う。
それはルゥインの顔になったりアデーレの顔になったりマルガーやシスターや師匠や過去に私がねじ曲げてしまった人間たちの顔へと移り変わり口々に囁く。
嗚ー呼。やっぱりこうなった、って。
そうだね、うんそうだね。
私はなんにもかわっちゃいない。
未熟で愚かで身勝手な子供のまま。
羊水の中でぬくぬく育つ胎児と一緒。
優しさに漬け込んで甘えて、機嫌ひとつで守ってくれるものを蹴り飛ばす。
自分で決めたことの癖に被害者面して貴方を責めてしまう。
それがわかっていて、みんなは辞めろと言ったの。
まだ早すぎるって。
まだ全然、貴方と対等なんかじゃないから。
人間らしく振る舞えないから。
でも馬鹿で思い上がった私は、それでも来てしまったんだ。ここまで来てしまった。
馬鹿よね。
────楽しんどるか?
ネテロの言葉が木霊する。
楽しい?
ねえ、楽しい?
楽しい?
ねえ、私。楽しい?
クラピカの、貴方の顔は今、ちっとも楽しそうな顔じゃなくなったよ。
じゃあきっと、今は“楽しい”じゃあないね。
こういう顔には、もっとふさわしい言葉があるのに、全然出てこない。
なんていうの?
こいうときは、ねえ。
ねえ、マザー。なんていうの?
教えてよマザー。
楽しくないの適切な感情はなに?
苦しくないの適切な言葉はなに?
怒られたくないの適切な態度はなに?
泣きたくなる、この想いはなに?
貴方はどうですか。
貴方は今、なにを感じていますか?
どうか、どうか、怒らずに教えてください。
いいえ、やっぱりいらない。
必要ないね、私が今捨てたモノなんだから。
私は鏡だから。
空っぽの化け物だから。
だからこれは、そういうことなんだ。
※※※
────そうね。
ご存知の通り私は教祖よ。もとい教主。意味はどっちも同じだから区別はないわ。ただ覆面美少女教祖って謳い文句の方が話題性あるからっていうのと────なんで覆面なのに美少女って分かるのかは聞かない約束よ────前任者が殉職した際抜根的に組織改革をしたせいで元の教義と根本的に変わってしまって実質クーデターのような結果になっちゃって。
それで次の教祖どうする?え、我々みんな貴女のままのつもりでしたけど?ってなったのよねえ。
私の予定では組織改革した後は後任の司祭長であるペドロにぶん投げ⋯⋯コホン、引き継ぎいでつつましく隠居しようと思ってたの。
そんなこと言っていいのかって?ヘーキヘーキ。特に隠してないし、電脳ページにも載ってるし、後うちのHPにも概要欄に簡単に説明してる。その口であなたも知ったのでしょう?
でね。まあまあリーダーの素質があった私は、人の上に立つことが増えると相談事をされることが多くって。そ、あなたにしてるようなお悩み相談がわんさか。そういうのを受けてるとね、何故か事あるごとに「死にたい」と嘆く人の多いのよ。
昔のような勧誘方法をとっていないのに減ることはなく、そういう悩み事が増える一方でどうしたものかと悩んだわ。中でも、○か×かでしか考えられなくなった人間の末路はとても空虚よ。
懺悔室で吐露される苦悩はさまざまだけど、終局的に彼らが熱望する「死」というのは大抵の場合「楽したい」と同意義だった。
面倒なんだって。いろんなことが。
疲れたんだって。考えることが。
何にも縛られず、何にも侵されたくない。安息を欲する。楽しいことだけしていたい。こんなに頑張ってるのに報われない。なんでどうしてオカシイ。
こんな世の中はオカシイ。キライ。ワルイ。絶望的だ。
辛い現実から逃れたくて目を背けるために、休んだっていい名分が欲しくなる。楽をしたくなる。ズルくなる。
そういう人たちを見てるとね、この人たちは選ぶことに疲れたんじゃなくて走ることに疲れたんだろうなって、そう思うの。
ずっと全力で走り続けていたんじゃないかって、そう思うの。
彼らはきっと、走り疲れて、次の別れた先の扉にすら辿り着つけずにうずくまって立ち止まってしまったのだわ。
途中で歩いたって道は変わらないのに、ずっと走り続けて、何かに追い立てられるようにしてがむしゃらに走り続けて、次の扉に向かう気力がなくなっちゃったのよ。
そんな風に想像する。
わたしも、かつてはそうだったから、ちょっとだけ分かる。
少し、昔話をしましょうか。
大丈夫よ。
そんなに長い話じゃないわ。
私はね。
昔、それはそれは人でなしだったの。
誰も手が付けられないとっても悪い子供で、悪い事を悪いとと自覚していないような酷い子供だったの────。
ハンター協会審査委員会、最高責任者ネテロ会長の取り直しによって、再試験が行われた。
課題のクモワシの卵を紐なしバンジーで取りに行けと言われた時は肝が冷えたが、こっそり念を使ってホバリングしつつ無事ゲット。ゆで卵はメンチにぶっ飛ばされたあの受験生にあげれば、男はその美味しさに改心して来年リトライすると宣言した。素直さは美徳かな。
合格した42名の受験生は次の会場へ移るために飛行船に乗り込んだ。
集められた広間の中央に今まで担当した試験官とネテロたちが立っていた。
「本来ならば最終試験で登場する予定であったが、一旦こうして現場にきてみると⋯⋯なんともいえぬ緊張感が伝わってきて、いいもんじゃ。せっかくだからこのまま同行させて貰うとする」
ほっほっほと真意の読めない顔でネテロはひょうきんに笑う。
2年前の裁判の際、ハンター協会の弁護人を雇った折に縁が出来て以来会うのは久しぶりだが、このおじいちゃんは相変わらずのようだ。
この人も只者ではないのだけど不思議と身体が強張ったりしない。ヒソカが毒蛇とか鮫とか一目で分かる害獣の類なら、ネテロは海とか山とか、もっとスケールが広い“強さ”に当てはまる。もちろんこれは私の所感でしかないし、本気のネテロと相対したことがないことや、協定を結んでる手前おおっぴらに敵意を出さないことも要員かも知らないが⋯⋯。
でももしネテロが直接私を殺すことに本気を出さざる終えなくなった場合は、一切の手心なく慈悲深く殺してくれるだろう。
ヒソカとネテロの違いはそこだろう。あのピエロは己の欲望を満たすためなら努力を惜しまない。
そういうことだから、私はこの好好爺のことが割とキライじゃない。あっちはどう思ってるか知らないけど。
「次の目的地へは明日の朝8時到着予定です。こちらから連絡するまで各自、自由にお時間をお使い下さい」
ネテロのマネージャーがつぶらすぎるマメ顔で案内を終えると、張り詰めていた空気が緩みむ。受験生が各々動き出した。
やっと安心して休めるとのだ思うと、ドッと疲れが押し寄せてきた。そんな私たちの横をタタッとかけていく影が一つ、二つ。
「ゴン!!飛行船の中探検しようぜ」
「うん!!」
「元気な奴ら⋯⋯」
レオリオが呆れて呟くも少年たちはどこ吹く風で駆け出していく。
疲れをものともしないその背を苦笑して見送るのだった。
ふと、飛行船の窓から見下ろすと、外はもうすぐ夕暮れになっていて地上の家々を照らし出していた。
太陽より高い位置で見る光景はなかなか物珍しく、雲がすぐそばで燃えているようだった。
数秒目に止まり眺めていたが、すぐに飽きてレオリオたちの後を追うように広間を出た。
広間の出入り口でクラピカが待っていた。
「何をみていたんだ?」
「何故?」
「いや、何か気にかかることでもあったのかと」
「特には。ただ夕陽が⋯⋯」
「夕陽?⋯⋯嗚呼、本当だ。綺麗だな」
そこで初めて外の景色に目が向いたクラピカは、猫目を細くさせて感嘆の声を漏らした。
「⋯⋯そうね」
私はそう囁き返すのがやっとだった。
綺麗。
そうか、こういうのは綺麗というのか。
さっきまで夕陽に対してなんとも思わなかったのに。
ただ届く光の波長が変わったくらいで、美しいというのか。
理解は難しいけど、でもきっと、これが普通なのだろう。
あなたがそういうのなら、きっとそうなんだろう。
いつか本当に美しいと思えるようになるまで、その気持ちを借り受けることを許してほしいと、そっと心の中で謝罪した。
いつのまにか先を行っていたレオリオが戻って来て、同じように夕焼けを見ながら憮然とした顔でそばに立っていた。
「なーに黄昏てんだよ。そんなことよりオレはとにかくぐっすり寝てーぜ」
「ふふ、それは同感」
「私もだ。おそろしく長い一日だった⋯⋯しかし1つ気になるのだが⋯⋯」
「ん?」
「試験は一体、あといくつあるんだろう」
「あ、そういや聞かされてねーな」
「その年によって違うよ」
クラピカの疑問に、どこから聞きつけてきたのか一次でお世話になったトンパが近寄ってきて聞いてもいないのに喋り出す。
というか卵採れたのね、この人。落第常連は伊達じゃないようだ。
「試験の数は審査委員会がその年の試験官と試験内容を考慮して加減する。だが、大体平均して試験は5つか6つくらいだ」
「あと3つか4つくらいってわけだ」
「なおのとこ今は休んでおいた方がいいな」
「試験の内容もどんどん難しくなっていくでしょうしね」
受験生のレベルもそれだけ洗練されていくだろう。十分警戒しておいた方がいい。
──情報源(ソース)が多少引っ掛かるが。
「だが気をつけた方がいい」
「そら来た」
「ん?なにか言ったかい」
「イイエ、ナンニモ?」
「そ、そうか⋯⋯。コホン、さっき進行係は『次の目的地』と言っただけだから、もしかしたら飛行機(ここ)が第三次試験会場かもしれないし、連絡があるのも『朝8時』とは限らないわけだ。寝てる間に試験が終わっちまってた、なんてことにもなりかねない」
「!」
「次の試験、受かりたけりゃここでも気を抜かないほうがいいってことだ」
トンパはしたり顔で冗長すぎる解説を言い終えると去っていった。
その背が遠くなるのを見届けてから、私は彼らに向き直り、問いかける。
「あえて聞くけど、二人はこの後どうする?」
「⋯⋯」
二人は顔を一度見合わせ、同時に口を開いた。
「「寝る」」
⋯⋯だよねー。
***
大部屋で休む二人と別れて、私はシャワー室を探しに行く。
窓ガラスに映る自分が目に止まり、思わず立ち止まる。本当にひどい姿だ。泥と血といつ着いたのかよく分からない動植物らしきシミの跡。これだけボロボロにしたのでは張り切って仕立てたルゥインの怒髪天を突くのは必至だろう。
まあ、汚れてしまったのは仕方ない。お叱りは帰ってからしっかり受ければいい。経験則的に2〜3日は玩具にされることだろうが甘んじて受け入れるとも。兎にも角にも、今ははやく熱いシャワーを浴びて着替えて休みたい。
適当に人気のない場所を探し、誰も来ないことを確認し、目についた近くの扉の前に立つ。そして鞄から一本の鍵を取り出した。
何処にでもありそうなシンプルな銀色のウォード錠に見間違えそうだが、よくよく目を凝らすと鍵山部分が0〜9までの細かい数字が振られたダイヤル式になっていることが分かる。
私はこの時間帯のみんなのスケジュールを思い出し少し考えてからダイヤルを合わせた。
この時間帯ならそろそろ彼女は休憩中のはずだ。
私は最新の注意を払ってダイヤルを回した。
正しい鍵山にしないとこの鍵は鍵穴に入らないどころか、失敗すれば鍵は消滅するという危険がつきまとう。
貴重な空間移動系の能力は有り難く慎重なのは良いことだが、いかんせんスペアキーは一本のしか複製出来ない上に失敗した扉は二度とポートポイントとして使えなくなるという、利便性が低く防犯意識が裏目に出ることも多い。
まあスペアは何度失敗しても作り直せるし、どの扉でも鍵はさせるのでリカバリー出来るのが幸いだけど⋯⋯こういうところが能力者の性格が出るんだよなぁとカチカチ鍵山を作りながらぐちる。
この鍵を使うのは外に出るようになってから利用するようになった。初めのうちはメモを見ながら一つ一つ数を確かめていたが、今じゃそらで10桁の数字の羅列を鍵山に合わせることが出来るようになっていた。それくらい多用しているともいえる。
カチリ。
最後の桁の鍵山がハマる音を立てたので、それを鍵穴に挿す。
見た目には扉に変化が起きた様子はない。
私はコンと初めに一回だけノックをする。
一呼吸置いて今度は3回扉を叩く。
すると、向こう側から少々忙しないノックが3回返ってくる。
この叩き方は間違いなく喋り方に反してせっかちなあの子のものだ。
向こう側に人がいることを確認し、私は声をかける。
「私よ、開けて」
すぐに向こう側のノブが回る音がし、こちら側のノブも鍵がついたまま反時計回りに動く。
そう、鍵はあくまで点(ポート)を繋ぐためのものであって、点と点が結びつきなおかつ支点であるあちら側から開けてもらわなければいけない。本当に回りくどい。
扉の向こうに立っていたのは改造ナース服に身を包んだ20代半ばの女性。
「✖︎はろはろ〜〜。待ってたンだかンね〜〜。っかぁ、ちょゥどろんこぢゃんウケんね✖︎」
ピンクと水色のグラデーションヘアーを丁寧に巻き二つに分け、トレードマークのバッテン型の髪留めで飾られている。
改造ナース服にはこれまたトレードマークのバッテンのほか、ピンク色のウサギやユニコーン、注射器やカプセルのアップリケなどがふんだんにあしらわれ、極め付けは背中とナースシューズにあしらわれたふわふわの天使の付け羽。やはり色合いもパステルカラーで統一したガチガチの懲りようである。
だいぶファンシーな着こなしをするこの女性、れっきとした私の信徒だ。
「もう夜よ、アデーレ。また研究に没頭してたんでしょ」
「✖︎うにうに(´ω`)✖︎」
「可愛いくいっても誤魔化されないんだからね」
彼女の名はアデーレ=アガペスタ。マルガーのいとこで、書類上は私の親戚筋にあたる。ルゥイン以外のもう一人の侍女で、格好から分かる通り(──分かるか?)主治医の一面も持つ。
彼女に促され部屋の中に入る────前に、忘れずに鍵を回収しておき内側のノブに“keep”の掛け札を下げておく。こうすると元来た扉から帰ることができるのだそうだ。
室内に入るとふわりと温かい空気がベールを揺らした。
ここは、本来なら試験会場から飛行船を乗り継ぎしなければいけない場所だ。オチマ連邦の所属国、アイナモラという小さな国にあるメメシス教教会本拠地、その敷地内にある救護室もといアデーレの仕事部屋兼自室だ。
鍵の支点(キーポートポイント)は、全てマスターキーで設定した本拠地の幹部12人の部屋とそれぞれ繋がっている。幹部12人の部屋にはそれぞれ0〜9までのランダムな数字が割り振られ、決められた数字とダイヤルを合わせることで行き来できる。
しかし先にも言ったように合わせた鍵の向こうに人がいないと開けてもらえないので、一人分だけ覚えればいいとはいかず、常に部屋に在中している人物の数字を覚える必要があった。これは作った能力者の慢心で、他人が使用することを想定していなかったらしい。
やはり休憩していたのかマグカップの珈琲は湯気が立っていて、近くを通ると何かの薬と消毒液のつんとした匂いとが混ざって具合が悪くなりそうだった。
「アデーレ、薬の調合中は換気しろっていったわよね?」
「✖︎うなはははははは✖︎」
「もう」
どうせ寒いから窓開けるのめんどくさかったとか、そんな感じだろう。腕のいい医者のくせにこういう時は適当なのだから。
乱雑に散らばった資料や薬品を適当にテーブルの端に追いやるアデーレを横目に窓に手をかける。
一月のひんやりとした風が吹き込む。
窓の外は夕陽はとっくに沈み星灯りが出始めていた。
「✖︎みさぴ〜〜珈琲飲ゥ?インスタントだけど✖︎」
「遠慮しとく。明日も早いし」
「✖︎何時起き?✖︎」
「んー、早めに戻りたいから6時かなぁ」
「✖︎薬湯ならあンよ✖︎」
アデーレの言う薬湯はハーブティーのことだ。
彼女自らブランディングした代物は効き目がいいのに、頑なに不味そうな言い方をする。成分の問題?
「じゃあそれで」
「✖︎おkマル〜。あ、手洗いうがい忘れちゃ✖︎(メ)だよ?✖︎」
「はぁーい」と生返事をしながら、アデーレがお茶を入れてくれる間に洗面所で手洗いうがいをしに行く。
ついでに汚れた服も適当にその辺に脱ぎ捨てておき、キャミソールとドロワーズだけになった。
先に川で洗っていたのでだいぶ取れていたが、まだ爪の間に血が染み付いている。これはお湯で落とさないと無理そうだなとため息を吐く。
言いつけ通り手洗いの歌を口遊みながら隅々までウォッシュウォッシュ。⋯⋯歌ってるところを聞かせないと手洗い警察が覗きにくるのでね。
全て済ませ部屋に戻ると充分換気された室内に、ふんわりとした花の香りがティーカップから漂っていた。
薄い青色のガラス製の、ちょっとアンティークぽいカップの中にほんのり緑かかった液体。香りを良くするために入れられた花びらが数枚散っている。
ここでアデーレのハーブティーを飲むのは私だけなので、わざわざ彼女の趣味に合わないものをが見繕ってくれたのだ。
「✖︎あーしが言うのもなんだけどー、よくそんなもン飲めンね✖︎」
「ほんとによく言うわね。私は好きよ、この香り」
「✖︎気に入ってンの香りだけぢゃん。それ飲めンのみさぴだけだぉ?✖︎」
「あら、私に合わせて調合されたのかと」
「✖︎にぃ✖︎」
彼女の話し方は少々独特で、最初の頃よりは慣れたと思っていたが、今の返し方(鳴き方?)はちょっとよく分からない。
香りと効能だけはピカイチな、渋くて苦くて変に甘味のあるお茶を飲むことで誤魔化した。まあたしかに私以外が飲んでるところなんてほとんど見たことない。
随分前にバーソロミューが好奇心で一口飲んだが、整った鼻筋に皺を寄せて笑顔でフェードアウトして以降、誰も手をつけることは無かったっけ。
そんなにキツいのかしら?
ちょっと刺激の強いペパーミントティーくらいだと思うけど。
「✖︎うーん、ちょーと悪化してるかも〜。バッテンちゃん取り替えとくね✖︎」
「そうして。次もいつ戻って来れるか分からないから」
「✖︎りょりょ〜。っか、ウチとジャックんとこばっか来ないでぇ、たまにはルゥちゃんとこ行ってあげたらぁ〜?かあいそっショ?✖︎」
「えー、前借り貰ってるからなぁ」
「✖︎まぁたそんなこと言ってぇ〜、ルゥちゃん泣いてたよ〜✖︎」
「嘘だぁ〜〜」
お茶を飲み終わるまで、状況報告と診察も兼ねて私たちはたわいもない話をした。
飲み終わる頃にはアデーレの口調につられてか気が緩んだのかあくびが出た。瞼が重い。
「✖︎ナニナニィ〜おつかれ?✖︎」
「そうみたい。今日はゆっくり湯船に浸かりたいわ。手伝って」
「✖︎りょっかぁ〜。ルゥちゃんには黙っといてあげんネ✖︎」
「ありがとー」
間延びしたテンポの口調とは違い、手捌きはキビキビしたもので備え付けのバスルームに運び込まれると髪も爪も足もピカピカに磨き上げられた。私はなすがままだ。
ホテルやミゼラのお家に泊まった時は教会に戻らず自分でやったけどさぁ。
この温室育ちをどうにかしなければと思うものの4歳からの習慣が抜けない。
「✖︎っーか、マジ試験終わる前にルゥちゃんンとこ顔出しなよ〜。ちょゥ心配してたンよ?昨日なんて誰ンとこにも来なかったから全員の部屋巡回して押しかけてきたしぃ?✖︎」
「え、まさか⋯⋯?」
「✖︎今は“トーマ”とお仕事中だから大丈夫だと思うけど〜✖︎」
「そう、ならよかった。今回は流石に汚しすぎちゃったからなんて言われるか⋯⋯」
「✖︎そういうことじゃないと思うんだけどぉ〜〜まあいっかぁ、あでちゃんしーらっねと!てかてかぁ、さっきっからちょゥちょゥ気になってたンだけど〜✖︎」
「このスーツなに?」
油断した。
あ、と思った時にはもう遅い。
ソープで身体を洗い流し爪の間まで丁寧に汚れを取り湯船に浸かって完全にリラックスモードだった。ほかほか極楽湯が一気に流氷海域に変わった。
恐る恐る見上げると鏡に映るハイライトオフの目と会う。口調も素に戻ってるし✖︎も消えてる。ガチギレじゃん。
アデーレの左手は私の左肩に添えるようにして逃げ場を無くす。よく見ると指先だけが湯に浸かっていた。
そして右手には脱ぎ捨てた泥だらけのレオリオのジャケット。
うん、忘れてた。完全に忘れてた。
「⋯⋯あーあーそれね、うん。あっちでよくしてくれた人がくれたの。新しいもの贈って返そうと思ってるからサイズ確認していつものお店で手配して。値段はコレくらいの。色はソレの似たようなのでいいわ。ただし上下セットね。背が高い人だったから裾直しが必要になるかも、お店の人に伝えておいて。送り先は次に戻ってきたときまでに聞いておくわ。あと終わったらそのスーツは捨てていいわよ。よろしくね」
何か言われる前に一息に全部言い切る。
出来るだけ感情を込めず淡々と事務的に。
下手に嘘や言いわけを重ねると逆鱗に触れかねないのでね。これ、経験談。
そうでなければ今浸かっているお湯に何が起こるか分からないからだ。劇薬の入浴剤だけは勘弁して。
「あっちって、受験生ってコト?念のねの字も知らないカスでしょ?じゃあ落ちる(しぬ)じゃん?贈る意味ある?」
「いやまだそうとは決まってないからね?まあ、その、落ちたら残念賞ってことで⋯⋯」
「ふーん」
まだ不満気な様子のアデーレだったが、手元にある見ず知らずの人間のスーツをいち早く視界から排除したかったのか、乱暴な手つきでゴミ箱にボッシュートした。
なんか、ほんとごめんね、レオリオ。
ひとまずあなたの尊厳と健康的な生活のために、私が試験に合格するまで勝手に個人情報を調べないよう言い付けておくから。
心の中で合掌する。
次からは人からもらったものとか持ち込まず証拠隠滅させてから戻ろう、────などというと浮気がバレないよう細工している間男みたいになるから辞めよう。
これはみんなの精神安定のために必要なこと。
そういうことにしよう。
嵐は過ぎ去った⋯⋯⋯⋯かに見えた。
しかし戻ってきたアデーレは、湯船から上がろうとしていた私の両肩をデコ盛りネイルで押し沈める。
回避失敗。
いや、そもそも靴を脱がされた私はまな板の上の鯉ならぬバスタブの中の猫!逃げられるはずもなく!
「じゃ、次はどうしてそんな経緯になったのかじっくり聞かせてくんろ❤️」
⋯⋯ヤンデレこあいぉ。
※※※
本日は晴天なり。雲ひとつなし。
うむ、絶好の試験日和である。
昨日はベッドでしっかり休み、十分な睡眠を取れたことで気分爽快。
次の試験も頑張るぞ!
ん?おや、なにか分節的な時間が飛んでいるような?
いえ、きっと気の所為ね、気の所為。
私の精神衛生上のために、気の所為だということにしよう。
そういうことにしよう。
閑話休題(このはなしはもうよそう)。
今は朝の7時半。
移動中の飛行船の中へ戻っている。
到着時間は8時と言われていたが、船内放送によると予定より遅れているらしい。
思わぬ暇が出来てしまった。
どうしようかな?
私もゴンとキルアみたいに船内を散歩しようかしら。
うーん、でも歩き回るのもそれはそれで疲れるしなぁ。
遊覧用のベンチに座りボーッと景色を眺めながら時間を持て余していた。
「こんなところにおったのか」
「気配を消して背後に立たないでくださいませんか?今ちょっとトラウマになってるので」
「ほっほっほっ、それはすまんことした。しかし移動中も試験ということを忘れてはいかんのう」
「⋯⋯最高責任者にそう言われたら返す言葉もありませんね」
ネテロの手厳しい台詞に肩をすくめる。
先にも言ったが私はネテロ会長のことがキライではない。
「何か御用で?協会(あなたがた)と交わした取り決め通りに申し込みも事前に通告し、了承されたでしょう?てっきり試験が終わるまでノータッチかと思ってましたが」
「うむ、もとはそのつもりじゃった」
「では何故?お互い不可侵であることを条件に我々は協会(あなたがた)の監視を甘んじて受けているのに、最高責任者の貴方自らが個人的に私(メサイア)と接触したのでは貴方と貴方の周囲の沽券に関わるのでは?」
たとえ私とネテロが個人的にお互いを好意的に思っていても、立場上そうはいかないのが上に立つ者の辛いところだ。
2年前の事件で、私たちの罪は世間に暴かれた。いつかこうなることは予想していたが、想定外の被害も出してしまった。そのことだけは、今でも悔やんでいる。
事件を重く見た警察側の魔の手が伸びる前に、プロハンターの弁護士と契約できたのは運と引き受けてくれた弁護士の人柄故だった。彼は司法取引ともいう交換条件で、我々の活動の制限と監視のみにとどめてくれた。
悪魔と取引したと思っている彼には申し訳ないけど、本当によくやってくれた。
監視はハンター協会自ら責任を持ってする事、もし規約に反する行為が認められたら私が全ての責任を負う事になり、事実上メメシス教は解散。ハンター協会がメメシス教を庇い立てすれば彼らの信用はガタ落ち。
それ以来、メメシス教会とハンター協会はお互いの尻尾を噛み合う蛇のように剣呑ながら安穏とした日々を送ってきた。
私は義父マルガーたちが犯した重責も、私自身が犯した重責も償うと決めた。
その覚悟を、ネテロ会長は知ってるはずなのに⋯⋯⋯⋯。
「ふぅーむ。少しは柔らかくなったかと思っとったが、おぬしは相変わらずの理屈屋じゃのう」
「べつに理屈とかじゃなくて、常識的に指摘してるだけです」
「ふぉっほっほっ!おぬしに常識を説かれるとはのう。わしも歳をとったわい」
このたぬきじじい⋯⋯。
そりゃ貴方の10分の1も生きてないような小娘に言われたくはないでしょうけど、このおじちゃんはいちいち煙に巻いたような話し方しか出来ないのか?
「それで?本当に御用件は無いんですか?」
話が逸れてきたのでイライラしながら強引に
引き戻した。
協会側が用意した飛行船といえど、どこに密告者がいないとも限らないのだ。こんなところを見られたらどんな難癖をつけられるか分かったもんじゃ無い。
「用事はある」
あるんかい。
ちょっとずっこけそうになったじゃないか。
いい加減に小娘で遊ぶなと言いかけた言葉は、ネテロの短い問いかけに頭の中が真っ白になって掻き消された。
「楽しんどるか?」
「ま、その答えはまた今度聞こう」
────迎えがきたようじゃからな。
なんのことか分からず振り返ると、廊下の先から金髪の青年が歩いてくるのが見えた。
クラピカは、こちらに気づくと駆け足気味に近寄ってきた。
「こんなところにいたのか。探したぞ」
ほんの少し呆れたようにクラピカは笑った。
当たり前のように出る台詞に、私は困惑した。
どうしてこの人は、性懲りも無く私を探すんだろう。
どうしてこの人は、あれだけのことをして嫌いになってくれないんだろう。
真っ白になった頭の中を、疑問が埋め尽くしていく。
「共同部屋には来なかったようだか、昨夜はどこにいたんだ?」
私、結構イヤな態度とか距離感取ってると思うんだけど。
なんでまだ私に構うんだろう?
なんでまだ私に笑いかけてくれるんだろう?
私はまだ、貴方になにもしてあげてないのに。
「ゴンたちも見当たらなかったんだが、見かけてないか?」
素顔だって素性だって、本当のこと何も言ってない。
なのに。
「ミサ?」
本当に、
それが、
分からなくて。
「⋯⋯⋯⋯ないで」
「え?」
「もう、私に構わないで」
まあるい猫目が見開く様に、汚くて浅ましくて悪い部分の私が嘲笑う。
それはルゥインの顔になったりアデーレの顔になったりマルガーやシスターや師匠や過去に私がねじ曲げてしまった人間たちの顔へと移り変わり口々に囁く。
嗚ー呼。やっぱりこうなった、って。
そうだね、うんそうだね。
私はなんにもかわっちゃいない。
未熟で愚かで身勝手な子供のまま。
羊水の中でぬくぬく育つ胎児と一緒。
優しさに漬け込んで甘えて、機嫌ひとつで守ってくれるものを蹴り飛ばす。
自分で決めたことの癖に被害者面して貴方を責めてしまう。
それがわかっていて、みんなは辞めろと言ったの。
まだ早すぎるって。
まだ全然、貴方と対等なんかじゃないから。
人間らしく振る舞えないから。
でも馬鹿で思い上がった私は、それでも来てしまったんだ。ここまで来てしまった。
馬鹿よね。
────楽しんどるか?
ネテロの言葉が木霊する。
楽しい?
ねえ、楽しい?
楽しい?
ねえ、私。楽しい?
クラピカの、貴方の顔は今、ちっとも楽しそうな顔じゃなくなったよ。
じゃあきっと、今は“楽しい”じゃあないね。
こういう顔には、もっとふさわしい言葉があるのに、全然出てこない。
なんていうの?
こいうときは、ねえ。
ねえ、マザー。なんていうの?
教えてよマザー。
楽しくないの適切な感情はなに?
苦しくないの適切な言葉はなに?
怒られたくないの適切な態度はなに?
泣きたくなる、この想いはなに?
貴方はどうですか。
貴方は今、なにを感じていますか?
どうか、どうか、怒らずに教えてください。
いいえ、やっぱりいらない。
必要ないね、私が今捨てたモノなんだから。
私は鏡だから。
空っぽの化け物だから。
だからこれは、そういうことなんだ。
※※※
────そうね。
ご存知の通り私は教祖よ。もとい教主。意味はどっちも同じだから区別はないわ。ただ覆面美少女教祖って謳い文句の方が話題性あるからっていうのと────なんで覆面なのに美少女って分かるのかは聞かない約束よ────前任者が殉職した際抜根的に組織改革をしたせいで元の教義と根本的に変わってしまって実質クーデターのような結果になっちゃって。
それで次の教祖どうする?え、我々みんな貴女のままのつもりでしたけど?ってなったのよねえ。
私の予定では組織改革した後は後任の司祭長であるペドロにぶん投げ⋯⋯コホン、引き継ぎいでつつましく隠居しようと思ってたの。
そんなこと言っていいのかって?ヘーキヘーキ。特に隠してないし、電脳ページにも載ってるし、後うちのHPにも概要欄に簡単に説明してる。その口であなたも知ったのでしょう?
でね。まあまあリーダーの素質があった私は、人の上に立つことが増えると相談事をされることが多くって。そ、あなたにしてるようなお悩み相談がわんさか。そういうのを受けてるとね、何故か事あるごとに「死にたい」と嘆く人の多いのよ。
昔のような勧誘方法をとっていないのに減ることはなく、そういう悩み事が増える一方でどうしたものかと悩んだわ。中でも、○か×かでしか考えられなくなった人間の末路はとても空虚よ。
懺悔室で吐露される苦悩はさまざまだけど、終局的に彼らが熱望する「死」というのは大抵の場合「楽したい」と同意義だった。
面倒なんだって。いろんなことが。
疲れたんだって。考えることが。
何にも縛られず、何にも侵されたくない。安息を欲する。楽しいことだけしていたい。こんなに頑張ってるのに報われない。なんでどうしてオカシイ。
こんな世の中はオカシイ。キライ。ワルイ。絶望的だ。
辛い現実から逃れたくて目を背けるために、休んだっていい名分が欲しくなる。楽をしたくなる。ズルくなる。
そういう人たちを見てるとね、この人たちは選ぶことに疲れたんじゃなくて走ることに疲れたんだろうなって、そう思うの。
ずっと全力で走り続けていたんじゃないかって、そう思うの。
彼らはきっと、走り疲れて、次の別れた先の扉にすら辿り着つけずにうずくまって立ち止まってしまったのだわ。
途中で歩いたって道は変わらないのに、ずっと走り続けて、何かに追い立てられるようにしてがむしゃらに走り続けて、次の扉に向かう気力がなくなっちゃったのよ。
そんな風に想像する。
わたしも、かつてはそうだったから、ちょっとだけ分かる。
少し、昔話をしましょうか。
大丈夫よ。
そんなに長い話じゃないわ。
私はね。
昔、それはそれは人でなしだったの。
誰も手が付けられないとっても悪い子供で、悪い事を悪いとと自覚していないような酷い子供だったの────。
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