ハンター試験編
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※※※
「霧か」
人面猿の洗礼とヒソカの危険度を改めて実感した後、マラソンは再開された。
「レオリオー‼︎クラピカー‼︎キルアが前に来た方がいいってさーー‼︎」
「どアホーー‼︎いけるならとっくにいっとるわい‼︎」
ずいぶん前を走るゴンが大声で叫び、レオリオはその3倍大きな声で叫び返した。
ゴンに悪気はないのだろうが悪目立ちしないか冷や冷やする。
「ミサは前に行ったみたいだな」
「そのようだな」
男が零した呟きに短く答える。
あのあと階段を駆け上がっていく小さな背中を見送ることしか、私には出来なかった。
人間は主観でしか物事を判断出来ないと聞く。
自分が見たものと当事者との間には齟齬があり、被害者だと決め付けていた少女は自らの意思で教団に所属している。
それはいい。それは分かった。私の知見に偏りがあったことは認めよう。
しかし、一番聞きたかった回答を聞きそびれてしまった。
ミサは否定しなかった。
お前も教祖メサイアに命を委ねることを良しとしているのか、それに少女は答えなかった。
馬鹿な話だと、そう言う言葉尻に嘲りが混っていて、少なくとも改革前の教団をよく思っていないことは分かった。
自分自身、数年前に見聞きした程度の知識で知った気になり教団の状況から目を背けていた。
いや、少し違う。
諸事情あって意図的に避けてきたという方が正しい。いつからかは分からない。
教団は変わったという噂は知っていたのに、それを認めたくなく意固地になっていたはずだ。
だがあるとき新聞の見出しにその文言が入っていて、なんとなしに気になって読もうとした。
読み進めるうちに記事の内容に苛立ちが生まれ、焦燥し、気が昂って疲弊しを繰り返し、いつしか頭痛に悩まされるようになった。
何度かリトライしたことがあるものの、新聞記事の小さなコラムすら最後まで満足に読むこともできず、最終的に苛立ちで興奮し緋の眼になってしまった日を堺に止めた。
緋の眼になるほど自分が正常では無いと客観的に理解し、一度本気で病院にかかることも考えたが眼のことを知られたくなく、またそんな金もなかったので一日寝た後、物理的に距離を置くことに決めた。
日雇いのバイトを始めた頃だったのでシフトを増やし、夜も内職や深夜でも営業している飲食店の皿洗いなどを詰め込み、明け方に眠り、3時間も寝たあと昼の日雇いの仕事に戻り夜には皿洗いをし、帰ったら内職に勤しむ。
終われば倒れ込むように眠る、そんな日々を繰り返し、教団について考える隙間を埋めた。
衣食住に余裕が出始めた頃、たまの休日は緋の眼狩りについて調べ始めたことで忙しくなり、次第に原因不明の頭痛はおさまっていった。
考えないようにしてもどうしても目に入ってしまうこともあった。
ニュースにラジオ、書籍、ゴシップに事欠かない組織だ。
しかし、その頃には好奇心よりも先に抵抗感が出てきて、頭痛の再発と緋の眼を晒す危険性もあり結局見ぬふりをして過ごすようになった。
メメシス教を、避けるようになっていたのだ。
知りたいはずなのに識りたくない。謎の頭痛も解明されない。
そういうジレンマを抱えてからは、次第にメメシス教関連のことになるとつい過敏になり感情的な態度をとってしまうようになっていた。これは避ける状況の助長にも繋がる。
ミサの話を聞いて、嫌悪感はあるものの頭痛はまだなく緋の眼になるほど興奮する様子もない。今は、まだ。
以前は何度か資料を読み進めるうちに感情に引きづられ頭痛が起きていた。
もっと深く知ろうとすれば再発する可能性が高い。状況から「見る」より「聞く」方が症状の進行がゆっくりになる。視覚から情報を集めなければ試験中は乗り切れる。
ことの始まりである親子との会話。
自分では気付かないだけであの神父たちのことがそれ程ショックだったのだろうか。
だが、その後にあった惨劇の方がよほど⋯⋯。
***
急にズキンと太い釘を打たれたような痛みが側頭部に来る。
久しく忘れていた、覚えのある鈍痛だ。
何故、いま?
疑問が浮かぶが分からない。
直前の状況にトリガーとなりそうなものはなかったのに。これでは説明がつかない。
この頭痛とメメシス教は関係ないのか、痛みを誤魔化すように考え続ける。
だが、これ以上のことを考えようとするとさらに悪化した。
視界がぐらぐら揺れて足元がおぼつかない。糞。分からない。知りたい。こんなのは嫌だ。痛い痛い頭が痛い。このままじゃ嫌だ。いつもそうだった。オレは知りたいのに、何故邪魔をするんだ。邪魔だ!
────邪魔?
ジンジンと眼の奥が熱を帯びてくる。霧が外側から薄紅色に染まっていく。何か今、分かりかけた気がするのに脳みそが上手く働いてくれない。何か重要なことを見落としている気がする。
「⋯⋯っ!」
突如石か何か硬いものに蹴躓いた。
もう片方の足で踏ん張ることは出来たが、今度はその足が泥濘みに嵌りそうになった。
「おいっ大丈夫か?」
「あ、ああ⋯⋯」
レオリオが腕を掴んだお陰で泥濘みで転倒せずに済む。
今の拍子で冷静になれたのか少しずつ視界の赤みが引いていく。
頭痛も、気にするほどのものでもなくなっていく。
「本当に大丈夫か?顔色悪ぃぞ」
眼は見られていないが顔色は隠せなかったようだ。
普段は憎まれ口を叩く癖に、こんな時ばかり気遣わしげに視線を送る男を鬱陶しく思ってしまう。
二の腕を掴む手を雑に振り払うと「クソガキ」と悪態が聞こえたが無視した。
いつの間にか前髪に幾つもの水滴が付着し、雫が降り始めていた。
自分の服を見下ろすと同じように細かな水滴が付着し、じっとりと重たく感じられる。
「一段と霧が濃くなってきたな」
湿度の高かった平原はさらに湿り気を増し、すぐ側のレオリオの影すら見失いそうになる。
どうでもいいが、この濃霧でサングラスは見えにくくないのだろうかと疑問が浮かんだが、本当にどうでも良かったのですぐに忘れた。
「前方の影を見失うな」
「あれだけが頼りだからな」
少し前を走る受験生が警告すると別の受験生が同意した。
不意に奥の受験生の人影が揺らぐ。
首がポロりと落ちた。
騒然となったのも束の間。
「え、イチゴ!?」足元から人間の頭部ほどもある、果実に似た何かがにょっきり顔をだしたではないか。
「全員下がれっ!!」
すぐさま、側のレオリオの腕を引き飛び退いたが、忠告は悲鳴に呑まれた。
いつの間にか地面は泥濘みではなく固い感触の何かに変わっていた。
ハッとする。先程自分が躓いたのは石ではなくこの巨大な亀のような生物の甲羅だったのではないか?
頭痛さえなければもっと早くに罠だと気づけたかも知れないのに!
後悔してももう遅く、転がり落ちるように巨大亀の背中から遁走した。
何人か逃げ切れず、この湿原の詐欺師たちの犠牲になってしまった。
レオリオの野太い悲鳴さえ気にしてられない。
詐欺師たちの猛攻はまだまた続き、まるで地雷原の只中を躱していく。
そこらじゅうで響く受験生の阿鼻叫喚がその被害を物語っていた。
***
「どうやら後方集団がまるごと引き離されてしまったらしいな」
「冷静に分析してる場合じゃねーぞ!こんな霧の中どうやって戻るんだ!」
「わかってる。まずは自分たちの位置とはぐれた前方集団を特定せねば⋯⋯」
言い切る前に身体が動いていた。
殺気を敏感に感じ取った指先は、片方は鞄をレオリオに投げつけ、もう片方は腰の木刀を掴み、投擲して来たものを弾き飛ばす。
「って――――――――っ!!!」
鞄によって軌道から外れたものの、躱しきれず剥き出しの左腕にソレは突き刺さった。
だがそれは、本来ならばもっと人体の中心に突き刺さり致命傷となっていたかもしれないほど、投擲されたトランプの切れ味は鋭く、明確な殺意によって投げつけられたものだ。
居場所の特定どころでは無くなってしまった。
事態が最悪の方向へ進んでいく感覚に慄然とする。
肌が泡立つほどの殺気が少しずつ近づいて行き、全身から冷や汗が噴き出す。
比例して負傷していく受験生の悲鳴も差し迫ってくる。
殺気を放つ人物は――ヒソカは、湿原に入った時と同じような不敵な笑みを浮かべていた。
その顔は愉悦に歪んでいるが、まだ何か企んでいるようにも見える。
偽の試験官を殺した時も、今この時も、いや会場に辿り着いたばかりのあの時も、ヒソカは人を殺すことに躊躇いはなくむしろ殺すことで周囲の人間の反応を楽しんでいるように見受けられた。
酷く不快な気持ちにさせられる。
自殺志願者も殺人鬼も、全く理解できない。
「てめェ!!何をしやがる!!」
丸腰の癖に吠えるレオリオの前に立ち、二振りの木刀を握り直し、構える。
手慣れた手つきでトランプを切りながら近づいてきたヒソカは、悪戯がバレた子供のような口調で「試験官ごっこ♡」と薄く笑った。
「二次試験くらいまでは大人しくしてようかとも思ったけど、一次試験があまりにタルいんでさ。選考作業を手伝ってやろうと思ってね」
シャーっと切っていたカードの中から一枚だけ取り出し、こちら側に絵柄を見せる。引き当てたジョーカーとヒソカの言葉に、本人にとってこれは単なる暇つぶしに過ぎないことにゾッとする。
道化は、酷薄とした笑みで、まだ動ける受験生たちを挑発する。
「僕が君達を判定してやるよ」
※※※
「アンタも行くわけ?」
面白くなさそうな平坦な声。スケートボードを小脇に抱え、両手をポケットに突っ込んだままキルアが見る。
私は一拍ニ拍と、キルアの薄いが深みのある青い瞳を見つめ、三拍目でゴンが去って行った方向を見やった。
他の受験生が邪魔くさそうに避けて、通り去っていく。霧はより濃さを増しゴンの後ろ姿をあっという間に隠してしまう。
私には分からなかったが耳がいいらしいゴンは何かを聞き取ったようで、突然進行方向と逆走してしまった。咄嗟に円を拡げて把握する。
はぐれてまばらになった後方集団の中に覚えのある嫌な気配を見つけた。恐らく、はぐれ集団の中にレオリオやクラピカがいるから、ゴンは動いたのだ。
早鐘を打つ胸元に手を添える。
進むべきか、引き返すべきか。
答えなんて出てるのに。
それでも占いの内容が頭の中をぐるぐる巡る。
行っては行けない。それは、分かってる。
私は占いで先のことを少し知っている。だから大丈夫だと分かってる。
彼はきっと大丈夫。彼だけは。
私が最後の試験まで残ってることは占いに書いてあるから、少なくともクラピカが死ぬような事はない。
けれど、それは。
ゴンもレオリオも、キルアや他の受験生たちも、占いにはない。
それは、私を人生を構成する者たちや生死に関わる対象に含まれないことを指している。
彼らは私の生死に関わらないし、私も彼らの生死に干渉しない。
私が救うのは、情を割くのは、教会の人たちだけ。
メメシス教の信徒だけ。与えられたら与え返す。私を支持する者のみ救ける。
それが絶対のルールだ。
だからヒソカに殺されかけたあの男を助けたのだし、他の受験生に無闇に手を差し伸べたりしない。例外は、1人だけ。
それ以外は救わないし救えないし救う必要もない。
そういう決まりだ。
そういう縛りを課している。
だから一時の情に流されて誓約に抵触するような行為はしてはいけないし、むしろこのままいたずらに時間が過ぎれば私の方こそ危ない──進むべきだ。
来た道に向いていたつま先をキルアのいる方向に直す。
意外なことにキルアは私が決断するまで黙って待っていてくれた。
いこっか。そう言うとキルアは「ふーん」と気の無い返事をするだけで深く踏み込んでくる事なく、今度は私の隣に並んで走り出した。やっぱり、意外だなと思った。
無言で私たちは再び霧の中を突き進んだ。
走りながら考える。
ゴンは、試験開始前に私の元へ行けなかった事を後ろめたく思い謝罪したけれど、戻ってきたゴンに私は果たして同じように謝まることが出来るだろうか。そもそもゴンは戻ってこれるのだろうか。
同じような気持ちで、ごめんなさいと言えるのだろうか。
怪我はないかと、戻ってきた彼の前で言えるのだろうか。
────言えるか、私だし。
今はまだ、占いに書かれてない、さして重要なことではないからと切り捨てるられる。
口先だけで生きてきたような私だから、求められれば幾らでも、言える。
でも同時に、私の事だから、よく分かる。
何かに迷った時、揺れ動いた時に選んだ選択はいつだって後になってから間違えたことに気付く。
多分、今ももう間違えてる。と、思う。
占いでは、引き返しても良いことはない、とあった。
引き返しても、いい事はない。
いい事は、ない。
では逆に、私にとって「悪い事」とは何か。
それは勿論、私が、死ぬ事だ。
私はまだ死ねない。まだやらなければいけない事が沢山残っている。
しかし、私の中の最悪のパターンは占いによって証明されている。
少なくとも、試験中は、私は死なない。
次に私が想定する「最悪」は彼が死ぬことだが、これもまた私が生きてることで達成されない。
それ以外だとほぼ団子状態だ。
教団に連れ戻されるとか正体がバレるとかはそんなに切迫するほどのことじゃ無い。
では、私が懸念する「悪い事」が証明されているこの状況で、起こり得る「いい事」とは、何か。
私にとって嬉しい誤算で、このまま進めば手に入りそうな物。
または、引き返せば手に入らない物。────それは。
「嗚呼、そっか。そういうことか」
丁度水溜りを踏んだようで、靴に泥水が跳ねる。
忌まわしい重たくて痛くて窮屈な赤い靴に。
少しいい気味だとすら思った。
「おい、何して⋯⋯」
キルアは急に立ち止まった私に焦ったような声で呼びんだが、途中で溶け消える。
恐らく続くはずだった口の形は徐々に「へ」の字に曲がっていく。
そういう顔、もっとすれば良いのになと思う。
思ってしまってから、あーあ全然だめだなって呆れた。
どうしてこんなに流されやすくて染まりやすいんだろう。
どうして、必要以上のものを欲しがってしまうんだろう。
でも、でも。だからこそここで捨てるべきなんだろうね?
「キルア」
思ったより穏やかな響きになる。いけない。
キルアを見てると仕事モードが出てしまいそうになる。
少年と同じような目をしたも者を沢山見てきたからだろうか。
すぅ、と息を吸い、もう一度名前を呼ぶ。
「キルア、私」
だが開いた口は「私」の後からどうしても続かない。
こういう時、なんと声をかけたらいいんだろう。自分のことだと、てんで勝手が分からない。
これが他人から聞いたお悩み相談なら、想像力を働かせてもう少し気の利いたことを言えるだろうに。
「えーっと、」浮かんでくる台詞たちは、どれもなんだか不釣り合いな気がして言いよどんでしまう。
「勝手にしろよ。別に、オレたちトモダチじゃないし」
まごついている間に、先に言われてしまった。
突き放す言い方は、誰への当て付けなのか。
トモダチ、じゃない。
「⋯⋯うん、そうだね」
キルアの口から出た言葉が、すとんと胸に落ちていく感覚に驚いた。
意外だったのもあるし、申し訳なさも、多分ある。
なによりも思いの外、自分がガッカリしていることに。
⋯⋯キルアは、トモダチが欲しかったのだろうか。
それなら、それならば。
なおさら、このまま先へは進めないや、と思った。
「ごめんね、キルア」
いつもの癖で余計な世話を言ってしまう前に、有り得たかもしれない小さな隣人に背を向ける。
私はカウンセラーだとか愛人だとか、傍にいて話を聞くだけでいい者になら向いてるけど、隣人は、あくまで隣人なのだ。
友人には向かない。
私にトモダチは要らない。
いい事なんて起こらなくていい。
幸福も安寧も、もう望まない。
あの日、見つけた幸福が、私の全てを救ってくれたから。
それさえあれば、ちょっとだけ前に進めるから。
だからきっと、聞こえない。
「友達なら許可なんて⋯⋯」という小さな声は。
私は、聞こえない。
***
走りながら、円を限界半径10mまで延ばし気配を探るのは、想像以上に体力と気力を消耗させた。
みんなの気配は小さくて、大雑把な方向しか把握できず、距離や誰かまでは分からない。
言葉通り五里霧中のまま彷徨っている。
道中も絶えず動物達はお構いなしに襲ってくるし、ゴンの姿すら見かけない。
たとえすぐに追いかけいても、私の脚ではゴンに追いつけなかっただろうけど。
「っ!」
円に、大きな気配が接触した。
無遠慮に絡みつくような嫌な感じは、1人しか思い当たらない。
さらによく凝らして感じ取っても、ヒソカ以外の強いオーラはやはり分からない。
ゴンたちも近くにはいないようだ。
逃げる?無理だ。円に接触してるならヒソカにも私の居場所が知られてる。
私の間合いではもう、遅い。
「嗚呼、やっぱりキミだったんだね」
霧の中から現れた道化は、鼻につく口調で私に言う。
何か肩に担いでいて、腕から血が流した人間の男で、それがレオリオだったことに動揺してしまった。
「彼が心配かい?」
私の動揺をすぐさま察したヒソカは、逆さまの三日月のような目を細めて問いかける。
そうすると、ますます映画のピエロに似てくる。肌が総毛立つ。
「貴方に関係ないでしょ」
ヒソカの質問に答えず、できる限り気丈に振る舞う。
見栄しか脳がないのだ、しゃんとしなさいミサ、と自分を鼓舞する。
そうでもしないと膝が笑いそうになるのだ。
「つれないなぁ♤」
一歩一歩、距離を縮めようとする男に躊躇ぐ。
男自身の白い衣服には汚れなど付いていないのに、それでも尚この距離でも届く濃密な血の匂いのアンバランスさと、その気味悪さに圧倒される。
男の来た道に点々と落ちる動物たちの死骸がより一層際立たせた。
やっぱり分からない。
憎い訳でも、愛してる訳でも、頼まれた訳でも、仕事である訳でも、思想がある訳でもなく。
ましてや、身を守る為でも食べる為でもなく。
殺したいから殺す、その感覚が、私には分からない。
「大丈夫。少し強く殴ったけど気を失ってるだけさ。すぐ目を覚ますよ♡」
「⋯⋯他の受験生たちは?」
「うーん、答えてあげけも良いけど、僕は君ともう少しお話ししたいな♧」
──君のこと、気になってたんだよね。
酷薄とした笑みで近寄られるたびに、ジリジリと脚が勝手に後退してしまう。
男の青白い顔が、あの映画のピエロと重なって頭がくらくらする。
薄々そうかなぁと予感してたけど、画面越しだから耐えられてただけで、私って実はかなり重症なんじゃ⋯⋯?
こういうのピエロ恐怖症っていうんだっけ⋯⋯?
「そう?貴方のお眼鏡にかなうとは思わないけど」
遠くなりかけた思考を繋ぎ止めるためだけに、必死に紡ぐ。
ヒソカはぐっと笑みを深めたかと思えば、次の瞬間には目の前にいた。
全く、反応できなかった。
「そうだねえ。実力だけなら、君は成長しきる前に腐り切っちゃってて、美味しくなさそうだ♤」
「⋯⋯へぇ」
カラカラに渇いた喉で、なんとか相槌を返す。
──全く、戦闘というただ一点のみであるなら、その賛美眼を褒めそやしたいくらいだ。
「いつもならどうでも良くってほっとくんだけどさ。なんだか、それだけじゃない気がしてね」
君、なんなんだい?
ヒソカの雰囲気が変わる。
今まで垂れ流していたオーラとは比ぶべくもない、純粋な殺意。
息さえままならない、全身に負荷がかかったような重圧。
殺気というものは、こうも質量さえ感じ取れるものなのか。
実力差をはっきり分からされる。到底、かないそうもない。
けれど、膝をつくわけにはいかない。
屈したら最後、この男の興味の対象ですら無くなり、この辺で転がってる肉塊と同じになる。
──それは、私の死へと繋がり、私の死はクラピカの死へと繋がる。
それだけは、避けなくてはいけない。
占いを変えてまで来たのだ。今や私の一挙一動がどんな未来に繋がるか全くの未知数。
それを、利用するしかない。
渇いた唇をひとなめし。
ベール越しにふたつの三日月と臨む。
あくまでも、嫋やかに、それでいて艶やかに。
言葉ひとつ、仕草ひとつに神経を注ぐ。
「なぁに、哲学かしら?」
ひとつ、確実に助かる道がある。
トンネルで新人潰しトリオにしてみせたように、ヒソカにも顔を見せる──魅せる事だ。
だがそれは、気が進まない事態を招くので、最後の手段とさせていただく。
だってヒソカが私に執着し出したら命が幾つあっても足りないもん。
私の精神衛生的にもそんな事態は回避したい。
よって武力も機動力も劣る私ができる手札は、唯一、対話しか残されていない。
幸か不幸か、それはヒソカも望んでいる。
大丈夫。見栄っ張りなのは私の専売特許だ。
鏡だけに。
それに、女の子はみんな女優なのだと、第二の師匠が言っていた。
世間の女の子の憧れ、今をときめく大スターの言葉を信じてみる。
お望み通り、[[rb:お喋り > アドリブ]]を聴かせてやろう。
演じ切ってやろう。
なあに、いつもと変わらない。相手が違うだけ。
お話ししましょう。
生きる為に。
※※※
失踪する前夜、青年に一緒に来ないかと誘われたが断った。
私は、モノに興味が薄い。
私に捧げられる供物もお布施も豪華な装飾品や調度品も、全て教会のものになる。他人のものなら尚更。
お金を持たない私は、買う楽しみすら知らない。人のモノを欲しがるほどに欲しいモノが無い。
──嗚呼、違う。それは違う。私は今、嘘を吐いた。
本当は、わかっていたのだ。
私が本当に欲しいものは、王子様などではないことを。
私が本当に欲しいものは、お金じゃ手に入らないことを。
手に入らなくなってから「それ」が欲しかったのだと気付いた。埋まらない穴を埋めようともがいた。それでも深まる溝にとっくに辟易していた。ここにいても、手に入らないものだということも。とうの昔にわかっていた。
思えば。
私はとっくに可笑しくなっていたのだ。
マザーが死んだ時から。
ずっとずっとエラーが起きていた。
生きる理由も、存在も、大義も、元から空っぽだった。受け売りで偽物で仮初でハリボテで。
空っぽの中身を一生懸命埋めてくれた人はもう居ないから、だから私は空虚なまま。
化けの皮が剥がれたんだ。
化け物の皮が。
取り繕う術もない私にとって、世の中の全てが、私自身含めてどうでもよかった。どうなったってよかったけれど、ひとつだけ気にかかることがあった。
待っていてくれと言われた。必ず迎えに来るからと。
この辺りでは見かけない美しい銀の髪に、雪焼けした褐色の肌を涙で濡らしたその女は私を殺しに来た刺客だった。
待つのは慣れているけれど、迎えるのは得意だけれど、迎えに行くと言われたのは初めてだった。
だから賭けてみたくなった。
自分を暗殺しに来たどこの誰とも知らない人間を、私の信者でもない愛するに値しないただの人間を。
信じてみることにした。
青年の提案が大変魅力的な誘惑で、一筋の光で編まれた蜘蛛の糸だとしても、私は私を殺しに来た暗殺者の言葉をとった。
私はここで、あの人を待っている。
何故あの人が私を殺しに来たのかも、何故泣いているのかも、何故そんなことを言ってくれたのかも、何もわからない。
それでもいいと思った。
王子様が迎えに来るようなロマンティックな真相なんかじゃなくても。
この人は、きっと私が本当に欲しかったものを持っているようなそんな気がしたから。
だからそれでよかった。
青年は、予想していたのだろう。私の返答にあっさりと「そうか」と肩をすくめるのみで立ち去った。
後から思うに、私のことを誘ったのはほんの意趣返しで事のついでの義理立てで、本来の目的であるマルガーの念能力を首尾良く盗めたからに他ならなかったのだ。そいうとこあるもんこいつ。
この時の判断が幸か不幸か、先になっても今となっても分からない。
私はいつだって、なんにも解らない。
嗚呼。
心って、煩わしい。
「霧か」
人面猿の洗礼とヒソカの危険度を改めて実感した後、マラソンは再開された。
「レオリオー‼︎クラピカー‼︎キルアが前に来た方がいいってさーー‼︎」
「どアホーー‼︎いけるならとっくにいっとるわい‼︎」
ずいぶん前を走るゴンが大声で叫び、レオリオはその3倍大きな声で叫び返した。
ゴンに悪気はないのだろうが悪目立ちしないか冷や冷やする。
「ミサは前に行ったみたいだな」
「そのようだな」
男が零した呟きに短く答える。
あのあと階段を駆け上がっていく小さな背中を見送ることしか、私には出来なかった。
人間は主観でしか物事を判断出来ないと聞く。
自分が見たものと当事者との間には齟齬があり、被害者だと決め付けていた少女は自らの意思で教団に所属している。
それはいい。それは分かった。私の知見に偏りがあったことは認めよう。
しかし、一番聞きたかった回答を聞きそびれてしまった。
ミサは否定しなかった。
お前も教祖メサイアに命を委ねることを良しとしているのか、それに少女は答えなかった。
馬鹿な話だと、そう言う言葉尻に嘲りが混っていて、少なくとも改革前の教団をよく思っていないことは分かった。
自分自身、数年前に見聞きした程度の知識で知った気になり教団の状況から目を背けていた。
いや、少し違う。
諸事情あって意図的に避けてきたという方が正しい。いつからかは分からない。
教団は変わったという噂は知っていたのに、それを認めたくなく意固地になっていたはずだ。
だがあるとき新聞の見出しにその文言が入っていて、なんとなしに気になって読もうとした。
読み進めるうちに記事の内容に苛立ちが生まれ、焦燥し、気が昂って疲弊しを繰り返し、いつしか頭痛に悩まされるようになった。
何度かリトライしたことがあるものの、新聞記事の小さなコラムすら最後まで満足に読むこともできず、最終的に苛立ちで興奮し緋の眼になってしまった日を堺に止めた。
緋の眼になるほど自分が正常では無いと客観的に理解し、一度本気で病院にかかることも考えたが眼のことを知られたくなく、またそんな金もなかったので一日寝た後、物理的に距離を置くことに決めた。
日雇いのバイトを始めた頃だったのでシフトを増やし、夜も内職や深夜でも営業している飲食店の皿洗いなどを詰め込み、明け方に眠り、3時間も寝たあと昼の日雇いの仕事に戻り夜には皿洗いをし、帰ったら内職に勤しむ。
終われば倒れ込むように眠る、そんな日々を繰り返し、教団について考える隙間を埋めた。
衣食住に余裕が出始めた頃、たまの休日は緋の眼狩りについて調べ始めたことで忙しくなり、次第に原因不明の頭痛はおさまっていった。
考えないようにしてもどうしても目に入ってしまうこともあった。
ニュースにラジオ、書籍、ゴシップに事欠かない組織だ。
しかし、その頃には好奇心よりも先に抵抗感が出てきて、頭痛の再発と緋の眼を晒す危険性もあり結局見ぬふりをして過ごすようになった。
メメシス教を、避けるようになっていたのだ。
知りたいはずなのに識りたくない。謎の頭痛も解明されない。
そういうジレンマを抱えてからは、次第にメメシス教関連のことになるとつい過敏になり感情的な態度をとってしまうようになっていた。これは避ける状況の助長にも繋がる。
ミサの話を聞いて、嫌悪感はあるものの頭痛はまだなく緋の眼になるほど興奮する様子もない。今は、まだ。
以前は何度か資料を読み進めるうちに感情に引きづられ頭痛が起きていた。
もっと深く知ろうとすれば再発する可能性が高い。状況から「見る」より「聞く」方が症状の進行がゆっくりになる。視覚から情報を集めなければ試験中は乗り切れる。
ことの始まりである親子との会話。
自分では気付かないだけであの神父たちのことがそれ程ショックだったのだろうか。
だが、その後にあった惨劇の方がよほど⋯⋯。
***
急にズキンと太い釘を打たれたような痛みが側頭部に来る。
久しく忘れていた、覚えのある鈍痛だ。
何故、いま?
疑問が浮かぶが分からない。
直前の状況にトリガーとなりそうなものはなかったのに。これでは説明がつかない。
この頭痛とメメシス教は関係ないのか、痛みを誤魔化すように考え続ける。
だが、これ以上のことを考えようとするとさらに悪化した。
視界がぐらぐら揺れて足元がおぼつかない。糞。分からない。知りたい。こんなのは嫌だ。痛い痛い頭が痛い。このままじゃ嫌だ。いつもそうだった。オレは知りたいのに、何故邪魔をするんだ。邪魔だ!
────邪魔?
ジンジンと眼の奥が熱を帯びてくる。霧が外側から薄紅色に染まっていく。何か今、分かりかけた気がするのに脳みそが上手く働いてくれない。何か重要なことを見落としている気がする。
「⋯⋯っ!」
突如石か何か硬いものに蹴躓いた。
もう片方の足で踏ん張ることは出来たが、今度はその足が泥濘みに嵌りそうになった。
「おいっ大丈夫か?」
「あ、ああ⋯⋯」
レオリオが腕を掴んだお陰で泥濘みで転倒せずに済む。
今の拍子で冷静になれたのか少しずつ視界の赤みが引いていく。
頭痛も、気にするほどのものでもなくなっていく。
「本当に大丈夫か?顔色悪ぃぞ」
眼は見られていないが顔色は隠せなかったようだ。
普段は憎まれ口を叩く癖に、こんな時ばかり気遣わしげに視線を送る男を鬱陶しく思ってしまう。
二の腕を掴む手を雑に振り払うと「クソガキ」と悪態が聞こえたが無視した。
いつの間にか前髪に幾つもの水滴が付着し、雫が降り始めていた。
自分の服を見下ろすと同じように細かな水滴が付着し、じっとりと重たく感じられる。
「一段と霧が濃くなってきたな」
湿度の高かった平原はさらに湿り気を増し、すぐ側のレオリオの影すら見失いそうになる。
どうでもいいが、この濃霧でサングラスは見えにくくないのだろうかと疑問が浮かんだが、本当にどうでも良かったのですぐに忘れた。
「前方の影を見失うな」
「あれだけが頼りだからな」
少し前を走る受験生が警告すると別の受験生が同意した。
不意に奥の受験生の人影が揺らぐ。
首がポロりと落ちた。
騒然となったのも束の間。
「え、イチゴ!?」足元から人間の頭部ほどもある、果実に似た何かがにょっきり顔をだしたではないか。
「全員下がれっ!!」
すぐさま、側のレオリオの腕を引き飛び退いたが、忠告は悲鳴に呑まれた。
いつの間にか地面は泥濘みではなく固い感触の何かに変わっていた。
ハッとする。先程自分が躓いたのは石ではなくこの巨大な亀のような生物の甲羅だったのではないか?
頭痛さえなければもっと早くに罠だと気づけたかも知れないのに!
後悔してももう遅く、転がり落ちるように巨大亀の背中から遁走した。
何人か逃げ切れず、この湿原の詐欺師たちの犠牲になってしまった。
レオリオの野太い悲鳴さえ気にしてられない。
詐欺師たちの猛攻はまだまた続き、まるで地雷原の只中を躱していく。
そこらじゅうで響く受験生の阿鼻叫喚がその被害を物語っていた。
***
「どうやら後方集団がまるごと引き離されてしまったらしいな」
「冷静に分析してる場合じゃねーぞ!こんな霧の中どうやって戻るんだ!」
「わかってる。まずは自分たちの位置とはぐれた前方集団を特定せねば⋯⋯」
言い切る前に身体が動いていた。
殺気を敏感に感じ取った指先は、片方は鞄をレオリオに投げつけ、もう片方は腰の木刀を掴み、投擲して来たものを弾き飛ばす。
「って――――――――っ!!!」
鞄によって軌道から外れたものの、躱しきれず剥き出しの左腕にソレは突き刺さった。
だがそれは、本来ならばもっと人体の中心に突き刺さり致命傷となっていたかもしれないほど、投擲されたトランプの切れ味は鋭く、明確な殺意によって投げつけられたものだ。
居場所の特定どころでは無くなってしまった。
事態が最悪の方向へ進んでいく感覚に慄然とする。
肌が泡立つほどの殺気が少しずつ近づいて行き、全身から冷や汗が噴き出す。
比例して負傷していく受験生の悲鳴も差し迫ってくる。
殺気を放つ人物は――ヒソカは、湿原に入った時と同じような不敵な笑みを浮かべていた。
その顔は愉悦に歪んでいるが、まだ何か企んでいるようにも見える。
偽の試験官を殺した時も、今この時も、いや会場に辿り着いたばかりのあの時も、ヒソカは人を殺すことに躊躇いはなくむしろ殺すことで周囲の人間の反応を楽しんでいるように見受けられた。
酷く不快な気持ちにさせられる。
自殺志願者も殺人鬼も、全く理解できない。
「てめェ!!何をしやがる!!」
丸腰の癖に吠えるレオリオの前に立ち、二振りの木刀を握り直し、構える。
手慣れた手つきでトランプを切りながら近づいてきたヒソカは、悪戯がバレた子供のような口調で「試験官ごっこ♡」と薄く笑った。
「二次試験くらいまでは大人しくしてようかとも思ったけど、一次試験があまりにタルいんでさ。選考作業を手伝ってやろうと思ってね」
シャーっと切っていたカードの中から一枚だけ取り出し、こちら側に絵柄を見せる。引き当てたジョーカーとヒソカの言葉に、本人にとってこれは単なる暇つぶしに過ぎないことにゾッとする。
道化は、酷薄とした笑みで、まだ動ける受験生たちを挑発する。
「僕が君達を判定してやるよ」
※※※
「アンタも行くわけ?」
面白くなさそうな平坦な声。スケートボードを小脇に抱え、両手をポケットに突っ込んだままキルアが見る。
私は一拍ニ拍と、キルアの薄いが深みのある青い瞳を見つめ、三拍目でゴンが去って行った方向を見やった。
他の受験生が邪魔くさそうに避けて、通り去っていく。霧はより濃さを増しゴンの後ろ姿をあっという間に隠してしまう。
私には分からなかったが耳がいいらしいゴンは何かを聞き取ったようで、突然進行方向と逆走してしまった。咄嗟に円を拡げて把握する。
はぐれてまばらになった後方集団の中に覚えのある嫌な気配を見つけた。恐らく、はぐれ集団の中にレオリオやクラピカがいるから、ゴンは動いたのだ。
早鐘を打つ胸元に手を添える。
進むべきか、引き返すべきか。
答えなんて出てるのに。
それでも占いの内容が頭の中をぐるぐる巡る。
行っては行けない。それは、分かってる。
私は占いで先のことを少し知っている。だから大丈夫だと分かってる。
彼はきっと大丈夫。彼だけは。
私が最後の試験まで残ってることは占いに書いてあるから、少なくともクラピカが死ぬような事はない。
けれど、それは。
ゴンもレオリオも、キルアや他の受験生たちも、占いにはない。
それは、私を人生を構成する者たちや生死に関わる対象に含まれないことを指している。
彼らは私の生死に関わらないし、私も彼らの生死に干渉しない。
私が救うのは、情を割くのは、教会の人たちだけ。
メメシス教の信徒だけ。与えられたら与え返す。私を支持する者のみ救ける。
それが絶対のルールだ。
だからヒソカに殺されかけたあの男を助けたのだし、他の受験生に無闇に手を差し伸べたりしない。例外は、1人だけ。
それ以外は救わないし救えないし救う必要もない。
そういう決まりだ。
そういう縛りを課している。
だから一時の情に流されて誓約に抵触するような行為はしてはいけないし、むしろこのままいたずらに時間が過ぎれば私の方こそ危ない──進むべきだ。
来た道に向いていたつま先をキルアのいる方向に直す。
意外なことにキルアは私が決断するまで黙って待っていてくれた。
いこっか。そう言うとキルアは「ふーん」と気の無い返事をするだけで深く踏み込んでくる事なく、今度は私の隣に並んで走り出した。やっぱり、意外だなと思った。
無言で私たちは再び霧の中を突き進んだ。
走りながら考える。
ゴンは、試験開始前に私の元へ行けなかった事を後ろめたく思い謝罪したけれど、戻ってきたゴンに私は果たして同じように謝まることが出来るだろうか。そもそもゴンは戻ってこれるのだろうか。
同じような気持ちで、ごめんなさいと言えるのだろうか。
怪我はないかと、戻ってきた彼の前で言えるのだろうか。
────言えるか、私だし。
今はまだ、占いに書かれてない、さして重要なことではないからと切り捨てるられる。
口先だけで生きてきたような私だから、求められれば幾らでも、言える。
でも同時に、私の事だから、よく分かる。
何かに迷った時、揺れ動いた時に選んだ選択はいつだって後になってから間違えたことに気付く。
多分、今ももう間違えてる。と、思う。
占いでは、引き返しても良いことはない、とあった。
引き返しても、いい事はない。
いい事は、ない。
では逆に、私にとって「悪い事」とは何か。
それは勿論、私が、死ぬ事だ。
私はまだ死ねない。まだやらなければいけない事が沢山残っている。
しかし、私の中の最悪のパターンは占いによって証明されている。
少なくとも、試験中は、私は死なない。
次に私が想定する「最悪」は彼が死ぬことだが、これもまた私が生きてることで達成されない。
それ以外だとほぼ団子状態だ。
教団に連れ戻されるとか正体がバレるとかはそんなに切迫するほどのことじゃ無い。
では、私が懸念する「悪い事」が証明されているこの状況で、起こり得る「いい事」とは、何か。
私にとって嬉しい誤算で、このまま進めば手に入りそうな物。
または、引き返せば手に入らない物。────それは。
「嗚呼、そっか。そういうことか」
丁度水溜りを踏んだようで、靴に泥水が跳ねる。
忌まわしい重たくて痛くて窮屈な赤い靴に。
少しいい気味だとすら思った。
「おい、何して⋯⋯」
キルアは急に立ち止まった私に焦ったような声で呼びんだが、途中で溶け消える。
恐らく続くはずだった口の形は徐々に「へ」の字に曲がっていく。
そういう顔、もっとすれば良いのになと思う。
思ってしまってから、あーあ全然だめだなって呆れた。
どうしてこんなに流されやすくて染まりやすいんだろう。
どうして、必要以上のものを欲しがってしまうんだろう。
でも、でも。だからこそここで捨てるべきなんだろうね?
「キルア」
思ったより穏やかな響きになる。いけない。
キルアを見てると仕事モードが出てしまいそうになる。
少年と同じような目をしたも者を沢山見てきたからだろうか。
すぅ、と息を吸い、もう一度名前を呼ぶ。
「キルア、私」
だが開いた口は「私」の後からどうしても続かない。
こういう時、なんと声をかけたらいいんだろう。自分のことだと、てんで勝手が分からない。
これが他人から聞いたお悩み相談なら、想像力を働かせてもう少し気の利いたことを言えるだろうに。
「えーっと、」浮かんでくる台詞たちは、どれもなんだか不釣り合いな気がして言いよどんでしまう。
「勝手にしろよ。別に、オレたちトモダチじゃないし」
まごついている間に、先に言われてしまった。
突き放す言い方は、誰への当て付けなのか。
トモダチ、じゃない。
「⋯⋯うん、そうだね」
キルアの口から出た言葉が、すとんと胸に落ちていく感覚に驚いた。
意外だったのもあるし、申し訳なさも、多分ある。
なによりも思いの外、自分がガッカリしていることに。
⋯⋯キルアは、トモダチが欲しかったのだろうか。
それなら、それならば。
なおさら、このまま先へは進めないや、と思った。
「ごめんね、キルア」
いつもの癖で余計な世話を言ってしまう前に、有り得たかもしれない小さな隣人に背を向ける。
私はカウンセラーだとか愛人だとか、傍にいて話を聞くだけでいい者になら向いてるけど、隣人は、あくまで隣人なのだ。
友人には向かない。
私にトモダチは要らない。
いい事なんて起こらなくていい。
幸福も安寧も、もう望まない。
あの日、見つけた幸福が、私の全てを救ってくれたから。
それさえあれば、ちょっとだけ前に進めるから。
だからきっと、聞こえない。
「友達なら許可なんて⋯⋯」という小さな声は。
私は、聞こえない。
***
走りながら、円を限界半径10mまで延ばし気配を探るのは、想像以上に体力と気力を消耗させた。
みんなの気配は小さくて、大雑把な方向しか把握できず、距離や誰かまでは分からない。
言葉通り五里霧中のまま彷徨っている。
道中も絶えず動物達はお構いなしに襲ってくるし、ゴンの姿すら見かけない。
たとえすぐに追いかけいても、私の脚ではゴンに追いつけなかっただろうけど。
「っ!」
円に、大きな気配が接触した。
無遠慮に絡みつくような嫌な感じは、1人しか思い当たらない。
さらによく凝らして感じ取っても、ヒソカ以外の強いオーラはやはり分からない。
ゴンたちも近くにはいないようだ。
逃げる?無理だ。円に接触してるならヒソカにも私の居場所が知られてる。
私の間合いではもう、遅い。
「嗚呼、やっぱりキミだったんだね」
霧の中から現れた道化は、鼻につく口調で私に言う。
何か肩に担いでいて、腕から血が流した人間の男で、それがレオリオだったことに動揺してしまった。
「彼が心配かい?」
私の動揺をすぐさま察したヒソカは、逆さまの三日月のような目を細めて問いかける。
そうすると、ますます映画のピエロに似てくる。肌が総毛立つ。
「貴方に関係ないでしょ」
ヒソカの質問に答えず、できる限り気丈に振る舞う。
見栄しか脳がないのだ、しゃんとしなさいミサ、と自分を鼓舞する。
そうでもしないと膝が笑いそうになるのだ。
「つれないなぁ♤」
一歩一歩、距離を縮めようとする男に躊躇ぐ。
男自身の白い衣服には汚れなど付いていないのに、それでも尚この距離でも届く濃密な血の匂いのアンバランスさと、その気味悪さに圧倒される。
男の来た道に点々と落ちる動物たちの死骸がより一層際立たせた。
やっぱり分からない。
憎い訳でも、愛してる訳でも、頼まれた訳でも、仕事である訳でも、思想がある訳でもなく。
ましてや、身を守る為でも食べる為でもなく。
殺したいから殺す、その感覚が、私には分からない。
「大丈夫。少し強く殴ったけど気を失ってるだけさ。すぐ目を覚ますよ♡」
「⋯⋯他の受験生たちは?」
「うーん、答えてあげけも良いけど、僕は君ともう少しお話ししたいな♧」
──君のこと、気になってたんだよね。
酷薄とした笑みで近寄られるたびに、ジリジリと脚が勝手に後退してしまう。
男の青白い顔が、あの映画のピエロと重なって頭がくらくらする。
薄々そうかなぁと予感してたけど、画面越しだから耐えられてただけで、私って実はかなり重症なんじゃ⋯⋯?
こういうのピエロ恐怖症っていうんだっけ⋯⋯?
「そう?貴方のお眼鏡にかなうとは思わないけど」
遠くなりかけた思考を繋ぎ止めるためだけに、必死に紡ぐ。
ヒソカはぐっと笑みを深めたかと思えば、次の瞬間には目の前にいた。
全く、反応できなかった。
「そうだねえ。実力だけなら、君は成長しきる前に腐り切っちゃってて、美味しくなさそうだ♤」
「⋯⋯へぇ」
カラカラに渇いた喉で、なんとか相槌を返す。
──全く、戦闘というただ一点のみであるなら、その賛美眼を褒めそやしたいくらいだ。
「いつもならどうでも良くってほっとくんだけどさ。なんだか、それだけじゃない気がしてね」
君、なんなんだい?
ヒソカの雰囲気が変わる。
今まで垂れ流していたオーラとは比ぶべくもない、純粋な殺意。
息さえままならない、全身に負荷がかかったような重圧。
殺気というものは、こうも質量さえ感じ取れるものなのか。
実力差をはっきり分からされる。到底、かないそうもない。
けれど、膝をつくわけにはいかない。
屈したら最後、この男の興味の対象ですら無くなり、この辺で転がってる肉塊と同じになる。
──それは、私の死へと繋がり、私の死はクラピカの死へと繋がる。
それだけは、避けなくてはいけない。
占いを変えてまで来たのだ。今や私の一挙一動がどんな未来に繋がるか全くの未知数。
それを、利用するしかない。
渇いた唇をひとなめし。
ベール越しにふたつの三日月と臨む。
あくまでも、嫋やかに、それでいて艶やかに。
言葉ひとつ、仕草ひとつに神経を注ぐ。
「なぁに、哲学かしら?」
ひとつ、確実に助かる道がある。
トンネルで新人潰しトリオにしてみせたように、ヒソカにも顔を見せる──魅せる事だ。
だがそれは、気が進まない事態を招くので、最後の手段とさせていただく。
だってヒソカが私に執着し出したら命が幾つあっても足りないもん。
私の精神衛生的にもそんな事態は回避したい。
よって武力も機動力も劣る私ができる手札は、唯一、対話しか残されていない。
幸か不幸か、それはヒソカも望んでいる。
大丈夫。見栄っ張りなのは私の専売特許だ。
鏡だけに。
それに、女の子はみんな女優なのだと、第二の師匠が言っていた。
世間の女の子の憧れ、今をときめく大スターの言葉を信じてみる。
お望み通り、[[rb:お喋り > アドリブ]]を聴かせてやろう。
演じ切ってやろう。
なあに、いつもと変わらない。相手が違うだけ。
お話ししましょう。
生きる為に。
※※※
失踪する前夜、青年に一緒に来ないかと誘われたが断った。
私は、モノに興味が薄い。
私に捧げられる供物もお布施も豪華な装飾品や調度品も、全て教会のものになる。他人のものなら尚更。
お金を持たない私は、買う楽しみすら知らない。人のモノを欲しがるほどに欲しいモノが無い。
──嗚呼、違う。それは違う。私は今、嘘を吐いた。
本当は、わかっていたのだ。
私が本当に欲しいものは、王子様などではないことを。
私が本当に欲しいものは、お金じゃ手に入らないことを。
手に入らなくなってから「それ」が欲しかったのだと気付いた。埋まらない穴を埋めようともがいた。それでも深まる溝にとっくに辟易していた。ここにいても、手に入らないものだということも。とうの昔にわかっていた。
思えば。
私はとっくに可笑しくなっていたのだ。
マザーが死んだ時から。
ずっとずっとエラーが起きていた。
生きる理由も、存在も、大義も、元から空っぽだった。受け売りで偽物で仮初でハリボテで。
空っぽの中身を一生懸命埋めてくれた人はもう居ないから、だから私は空虚なまま。
化けの皮が剥がれたんだ。
化け物の皮が。
取り繕う術もない私にとって、世の中の全てが、私自身含めてどうでもよかった。どうなったってよかったけれど、ひとつだけ気にかかることがあった。
待っていてくれと言われた。必ず迎えに来るからと。
この辺りでは見かけない美しい銀の髪に、雪焼けした褐色の肌を涙で濡らしたその女は私を殺しに来た刺客だった。
待つのは慣れているけれど、迎えるのは得意だけれど、迎えに行くと言われたのは初めてだった。
だから賭けてみたくなった。
自分を暗殺しに来たどこの誰とも知らない人間を、私の信者でもない愛するに値しないただの人間を。
信じてみることにした。
青年の提案が大変魅力的な誘惑で、一筋の光で編まれた蜘蛛の糸だとしても、私は私を殺しに来た暗殺者の言葉をとった。
私はここで、あの人を待っている。
何故あの人が私を殺しに来たのかも、何故泣いているのかも、何故そんなことを言ってくれたのかも、何もわからない。
それでもいいと思った。
王子様が迎えに来るようなロマンティックな真相なんかじゃなくても。
この人は、きっと私が本当に欲しかったものを持っているようなそんな気がしたから。
だからそれでよかった。
青年は、予想していたのだろう。私の返答にあっさりと「そうか」と肩をすくめるのみで立ち去った。
後から思うに、私のことを誘ったのはほんの意趣返しで事のついでの義理立てで、本来の目的であるマルガーの念能力を首尾良く盗めたからに他ならなかったのだ。そいうとこあるもんこいつ。
この時の判断が幸か不幸か、先になっても今となっても分からない。
私はいつだって、なんにも解らない。
嗚呼。
心って、煩わしい。