ハンター試験編
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遠くなっていく送迎車を見送って、改めて手渡されたメモと定食屋に視線を向ける。
正直こういったところに立ち入ったことがないので勝手が分からない。
そこではたりと思考が途切れる。
「そもそも私、ひとりでご飯屋さん入ったことないや⋯⋯」
思わぬ事実に愕然とした。握りしめたメモがくしゃりとよれる。
ど、どうしよう。こんなところでこんなくだらないことにつまづくなんて。こう言う時どうすればいいの?助けてルゥイン!!
つい心の中で修道長に呼びかけてしまうくらいには頭の中はパニックになっていた。
運転手のミゼラが帰ってくれて本当に助かったと思うと同時に、でもどうせならお店の中まで案内してほしかったと後悔する。
うんうん唸っても、自分ひとりでお店に入って合言葉を言うために注文をしなければいけない事実は変わらないわけで。背中に嫌な汗が流れる。
大丈夫、落ち着くのよミサ。まずはメモの内容を暗記してシュミレーションをするのと、勢い込んだその時。
「ねぇ君、どうしたの?中、入らないの?」
「わぁ!」
「ばっかゴン!関わるんじゃねぇ!!」
驚いて振り返ると黒髪をツンツン逆立てた男の子と、それを制止するサングラスをかけた男性が立っていた。
サングラスの男性は背がとても高く、近くまで来ると私の背丈じゃほとんど真上を見上げないと顔が見えないほど高い。ずいぶん歳が離れている取り合わせの2人組だ。
周囲の人間たちも物珍しそうにこちらを見ている。
「ごめんなさい、すぐに──」
「やかましいぞレオリオ。営業妨害だ」
しかし、声変わり前のアルトが私の言葉を遮った。
レオリオと呼ばれるサングラス男の背後から、さらに2人の人間が近づいて来た。ひとりは金髪の同じ歳くらいの少年。
一目で彼だと気付いた。
だけど、彼はこちらを見ない。
青年の後ろからニット帽子を被った狐顔の男が来た。男はどこか気配が掴みづらかった。人ではないものか、混ざり物なのかまでは分からない。だけど嫌な気配ではないのでひとまず気にしなくてもいいだろう。
「んだとぉ?俺は大事な試験前に、面倒事は嫌だから言ってんだよ。コテコテのゴスロリ着た、いかにも怪しい女と関わるのは特にな」
「前半の心情は察するが自分の声のデカさを自覚しろ。後半に至っては提起するのも馬鹿馬鹿しい。彼女が、いや彼女でなくとも」
金髪の少年は、そこで区切って此方を見た。彼の透き通るようなヘーゼルに射抜かれる。何処までも人間の本質を見透そうとする慧眼が、あの頃と全く同じで思わず息を止めて見返す。
眼球が熱を孕んでチクチク痛む。気の所為だ。目にゴミが入っただけ。
永遠のように思えたが、刹那の内に途切れる。
私の視界を覆うベールは外側から見るとほとんど表情が見えないので、実際は視線なんて絡んでなかったのかもしれない。
すぐにレオリオに向き直り、言った。なんでこんな当たり前のことをわざわざ言わなきゃいけないのだと、生意気そうな口調で心底くだらなそうに。
「TPOが守られているのなら誰がどのような衣服を着ようとそれこそ貴様に関係ない。その偏見は改めるべきなのだよ」
「またこまっしゃくれたことを」
「そもそもここで立ち往生している時点で我々も同罪だ」
「だあっ!うるせぇうるせぇ────!!」
「声がデカいといっているだろう!」
「また始まったよ、あいつらも飽きないねぇ」
「あはは⋯⋯。レオリオたちらしいけどね」
ニット帽の男とゴンと呼ばれた少年が呑気に笑い合うのをみて彼等のやりとりは日常茶飯事らしい。
痛みの引いた視界でぼぅと、二人の憎まれ口の応酬を見る。
そうか、そんなふうに口喧嘩できる相手がいたのか。
あんなことがあったから、薄暗く湿っぽい性格になってしまっているんじゃないかと心配していたけれど、そうか。
杞憂、だったのかしら。
何故か胸のあたりがざわざわして、でもどう形容していいのかわからなくて、私はひたすら二人の喧嘩から目が離せなかった。
ふと、「君これ落としたよ」と袖を引かれ中断する。
どうやら知らぬ間にメモを落としていたらしく、とんがり頭の少年が邪気のない笑顔で手渡してくれた。
「拾ってくれてありがとう、ボク」
「どういたしまして!──ボク?もしかしてオレより年上だった?」
「まぁ、ね。こう見えても16歳」
「え、ごめん!てっきり同じ年くらいだと思ってた!」
「いいのよ。よく言われるの」
「ねぇ、お姉さん、もしかして──」
「だいたいなお前な、なんで俺だけに説教すんだよクラピカ!!」
大声にびくりと反応してしまう。
クラピカ。
やはり金髪の彼はあのクラピカなんだろう。私は13の頃で成長が止まってしまったが彼はずいぶん背が伸びて私の身長を越していた。あの頃は私の方が大きかったのに。
当たり前か。あれから4、5年経っているのだから。いや彼からすればまだ、なのかも知れない。
「お姉さん、大丈夫?」
気遣わしげな声が耳を打つ。黒黒とした混じり気のない目。忖度も区別もしない、真っ直ぐな視線はきっと気性もその通りなのだろう。
「⋯⋯なんでもないわ、大丈夫」
ゴンはなおも心配そうに見上げるが気づかないふりをした。占いでは分からなかった想定外の事態が次々続いて忘れそうだったが、予定通りひとまずここを去るのが先決だ。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした。私はもう行きます。ご機嫌よう」
「あ、待ってよお姉さん!」
まだ喧嘩ている二人には悪いがゴンと狐目の男に頭を下げて立ち去る。彼に会いたかったけれど、仲良くなりたいわけではない。ゴンの制止を振り切り背を向け歩き出す。
試験ならば敵同士となるためそうそう話す機会もないと思っていた。
鉢合わせしたくなかったから早めに来たはずなのに、上手くいかないなあ。
「ちょっと待ってってば!お姉さんもハンター試験受けるんじゃないの?」
なんて、上の空になっていた私の目の前に回り込んできた少年は大通りに響く声で叫んだ。
※※※
「はぁ〜?会場も合言葉も分かってるのにひとりで飯屋に入ったことがなくて怖気付いてただぁ〜??」
「わっはっは、とんだ箱入り嬢ちゃんだな」
我々は一旦邪魔にならないよう路地裏へ行き、改めて店先で立ち止まっていた不審な少女の状況を聞いた。
ゴン曰く、落としたメモに会場の住所が書いてあったので彼女も受験者なのではないかと。
黒い帽子。首元まで隠れる黒いベール。黒のケープに総レースとフリルが複雑にあしらわれた黒のロングワンピース。手袋も黒。鞄も黒。黒、黒、黒。
背丈はゴンと変わらないくらいだが、いわゆるゴシックロリータをまとう少女は、ゴンの調子に押され渋々ながら話しはじめた。その落ち着いた口調からおそらく歳はゴンより自分の方が近いのではないかと推測する。
初めは警戒していたレオリオも話を聞くにつれ警戒が解け(呆れたともいう)、案内人キリコと共にばっさりと言い捨てられた少女は肩を落とした。心なしかフリルとレースで膨らんだ衣装が萎んで見える。
たかだか飯屋ひとつ入るのに難儀していたとは。これまでの道中、どうやっていたのか疑問だ。
先刻自分で言った言葉を撤回する訳ではないが、およそ運動向きではない服装でハンター試験に挑むつもりだったのかとその点についても驚かされる。まぁスーツも運動に適しているとは言い難いのだが。
そう言えば遠い昔、クルタ族の集落に迷い込んだ女性ハンターも服装に強い拘りを持っていた。ハンターを志す者がそうなのか、はたまたそういう拘りを持つ者がハンターを志望することが多いのか、悪魔の証明に近い。
「ゴンの頼みなら聞いてやりたいがなぁ。念のため確認だ。これまでの経路とその都度のテストの内容とあんたがとった行動。最後に案内人の名前を教えてくれて」
「⋯⋯分かりました。そういうことであれば」
キリコが少女に問う。ゴンが見たメモの内容と彼女の話が本当であれば彼女もまた私たちと同志ということになる。ゴンはついでに彼女も一緒にと頼むが、案内人としてそうやすやすと会場に連れて行くことは出来ない気持ちも理解できる。
キリコの問いに少女はしばし迷いを見せたが、すぐに雰囲気が張り詰めたものへと変わる。店に入れず狼狽していた姿とは打って変わって凛とした声だった。
「⋯⋯という経路を辿り、案内人のミゼラさんにこの場所と合言葉を教えていただきました」
「空路で来たのかい。ずいぶん回り道したねぇ。大変だったろう?」
淀みなく、自分たちとは違うルートで会場までの道筋を簡潔に述べた少女にキリコが感心した声を出した。
確かに自分たち同様一筋縄ではいかなそうな箇所が何度もあった。その話が本当なら実力は確かということになる。
キリコの何気ない問いに少女はそこで少し間を開けてから先をつぐむ。
かすかに笑ったような気配がした。
黒い帽子から降りる幾重のベールに阻まれその表情までは汲み取れない。
「⋯⋯そう、ですね。遠回りで時間がかかる経路でしたが、どれもこれもはじめての体験ばかりで楽しい旅でした。それに空路は1番安全に辿り着く経路だと聞き及びましたので気力を保てたのも大きかったです」
「そこまでの情報通でありながら、最後の爪が甘かったなお嬢さん」
「う、その話はもう忘れてください。あとお嬢さんと呼ぶのもやめてください」
プイッと顔を逸らし拗ねたような言い草が、かえってそれらしさを出していることに果たして気づいているのだろうか。
「へぇー!俺たちドーレ港から来たけどそれ以外にも会場に行く道があったんだね」
「毎年何万人の受験者が押し寄せる試験だからねぇ。試験までのルートも多数用意していなければ案内人が俺たちだけじゃパンクしちまうだろう?」
「たしかに。キリコたちだけじゃ大変だもんね」
「⋯⋯悪いが思い出話はまた後でにしてくれ。私たちは先を急がなくてはならない。キリコ、彼女の評価はどうなのだ?」
少女の話をもっと聞きたそうにしているゴンには申し訳ないが、このあたりで切り上げなければいつまでも会場へ入れないだろう。
私の問いかけに少女はキリコを見やる。無意識にか、お腹の前で両手を組んで祈るようなポーズを取る。黒い手袋の上から着けられたブレスレットの飾りが揺れ、コインの絵がこちらを向く。なんとなしに彫られた絵に目を凝らした。
コインには、花嫁が付けるようなロングベールを纏った死神が、人間たちに口付けする様子が彫られていた。
ある予測が立ち、知らず知らず眉間に皺が寄る。
「そうだったな、矛盾点も無く経路も審査も問題ナシ。ミゼラは俺の知ってる奴だ」
「それでは⋯⋯」
「合格だ。新人にしちゃやるねお嬢さん」
「やったー!良かったねお姉さん!」
「⋯⋯えぇ、貴方も口添えしてくれてありがとう」
ゴンの素直な称賛に少女も謝礼で返す。
彼女がどのような人間であれ用心するに越したことはない。明確な敵意は無くともどこか含みのある言動や視線を感じる。とは言え隠し事は誰しもあることで、自分があれこれ考えたところで栓のないことだった。
「あ、そうだ。まだお姉さんの名前聞いてなかったね!オレ、ゴンって言うんだ!」
「改めてオレはレオリオだ。さっきはヘンなんて言って悪かったな」
「⋯⋯」
「あー、こっちのだんまりがクラピカだ。ちょっと気難しい奴だが気にすんな」
「勝手なことを抜かすな」
「じゃあ自分で言え」
「⋯⋯」
「結局だんまりじゃねぇかよ」
「まぁまぁその辺で。そんでオレは案内人のキリコだ、よろしくな」
時間も惜しいので早速定食屋へ少女も伴って移動する最中、自己紹介大会が始まった。少女はひとりひとりの顔と名前を一致させながら頷いていく。表情が読めない代わりに身振りが分かりやすく助かる。いや、分かりやすく振る舞っているが正しいか。
「私はミサと言います。道中よろしくお願いします。それから私の至らなさが原因でもあるので気に病まないで下さい、レオリオさん」
「レオリオでいいって。敬語もナシで。アンタはどっかの誰かと違って礼儀を知ってるからな」
「⋯⋯初対面で因縁つけてくる相手に礼儀など必要ない」
「ほら見ろ。これだからよぉ、テメェもミサちゃんを見習ってもうちょい殊勝な態度になれっての」
「尚更貴様には必要ないな」
「どういう意味だコラ、つか貴様って言うんじゃねぇ!喧嘩売ってんのか」
「わざわざ説明せねば分からないか?」
「こんにゃろう⋯⋯」
二の句を告げずにいるレオリオを鼻で笑う。いつもの売り言葉と買い言葉に区切りがつくと、くすくすと小さな笑い声が耳をくすぐる。声の主は自分が注目されている事に気付くと笑うのを止めたが、声色はまだ楽しげに弾んでいた。
「ごめんなさい。つい可笑しくて。一応敵同士のはずでしょう?なのに、皆さん、本当に仲がいいんだなって。悪い意味じゃないんです」
――ただ、素敵だなぁって思って。
そうミサがあまりにも眩しそうに溢す。
冗談じゃない。示し合わせたわけでもないのに同時に顔を背ける。そんなところも勘に触った。
逸らした視線の先は、前を歩くゴンたちと話している彼女の横顔だった。ベール越しに、なだらかな顎のラインが陽射しを受け透けて見える。
一陣の風が吹き、下の段のベールが揺らぐ。
シミひとつない生白い首筋に薄い頬。薄い布地が大きく揺めき、ほんの少し奥の口元まで捲れ上がる。
鮮烈な紅いルージュは緩く弧を描いていた。 そんな風に笑うのだなとぼんやり思っていると、捲れ上がったベールを直す手で隠されてしまった。
なんとなしに目を逸らす。ちりちりと脳裏に呼び起こされる光景を押し留め平静を装った。
しかし、こういったことにめざとく嗅ぎつける人間が近くに1人いるのだった。
「お前今見惚れてただろ」
「知らん」
「いーや見惚れてたね。がっつり見てた」
「それはお前だろう」
「そりゃ男なら"おっ"ってなるだろ」
「⋯⋯聞くに耐えんな」
「口元だけでアレだぞ?ぜひ素顔を拝みたいねぇ。出来ればふたりっきりのときに」
オレの初恋の子に似てたぜ。
ぐふふと濫りがわしく口の端を歪ませるレオリオ。やはりこんな下劣で品性のカケラもない人間と友誼的に見られるのは遺憾である。下種め。
「下種め」
思わず心の内から漏れた。
「ハン、堅物のクラピカくんにはちょーっと早かったですかぁ?」
「貴様と一緒にするな。それに彼女は決して我々に素顔を晒すことはないだろう」
「あ?なんでだよ。お前やゴンはともかくオレさまの色気なら掌でコロコロ〜っとな⋯⋯」
「お前の色香に釣られるのは蝿かダニくらいだ。例え万が一、いや億が一、何かの間違いがあったとしてもお前は触れることすら出来ない」
「てんめぇ⋯⋯色々と気になるが嫌に断定的じゃねぇか」
「彼女の左手首を見て見ろ」
横目で促すとレオリオの視線はミサの左手首に巻かれたブレスレットに注がれた。否、あれは、ロザリオだ。
「あのコインの絵、ありゃ確か⋯⋯」
「察しの通りメメシス教のメダイだ」
「メメシス教ってここ何年か信者が増えてるって話のヤベェ教団だろ」
正確には4年前、とある事件から飛躍的に増加した。元々は小国に居を構えた団体が、信者が増えるにつれ本拠地に集まり住み着きだした。今では小国の人民のほとんどがメメシス教を支持し、国の代表的な宗教となっている。
また件の教団は国境や人種を越えて注目され、表には出さないが貴族、王族、芸能人なのどの各所要人、果てはプロアマ問わずハンターの中にもメサイアを深く信奉する者もいるという。
「ミサがメメシス教の信者なのはわかったけどよ、なんでオレがあの子に触れないってわかんだよ」
「メメシス教は入団すると信者にいくつかルールを課す。守るルールがより難しく多ければ多いほど信仰心が深いことを意味し、教団内で強い発言力を持つようになるのだよ」
例えば教団のシンボルを目につくところに身に付けることだったり、女性なら家族以外に肌を晒しても触れさせてもはならないとか。中には食べるものや身につけるものすら決まっているとの噂だ。彼女もなにかしらの規則に縛られていることだろう。
「随分肩っ苦しい教団だぜ。そんなの守ってなんになるんだ?」
「より多くのルールを遂行すれば教祖メサイアに直接謁見し教えを乞えたり、"願い"を聞き届けて貰えるらしい」
「願い⋯⋯?」
「メサイアは"奇跡"を起こせるのだよ」
奇跡を受けたものは、この世のあらゆる苦悩、苦痛、罪悪、煩悩から解放され穏やかに眠りにつく。
「そして、永遠に目覚めない」
「おいおい、それってつまり死ぬってことだろ⁉︎」
「あくまで噂だ。メサイアは自殺志願者を集め、合同自殺を企む犯罪者ではないかと一時期捜査の手が入った。プロのクライムハンターの手も借りたというが、信者を殺した証拠も動機も見つからなかったそうだ。むしろ死にたがっていた人間や入団前は素行が悪かった人間が、入団後から人が変わったように品性方向で明るく前向きになり、社会復帰までした事例が何件も見つかった。その親族たちがメメシス教を擁護したことで捜査は打ち切られたそうだ」
だが依然として、奇跡の噂は消えず事件をきっかけにメメシス教が世間的に認知され信者が爆発的に増加したともされた。世間ではこれをサイバーズギルド事件と呼びニュースにも大きく取り上げられ一世を風靡した。
「下手につつけば出るのは蛇、ということだ」
「⋯⋯つまり、メメシス教に入ったやつはルールに縛り付けられてでも死にたい、死にたがりってことか?⋯⋯あんな抜けてるけどいい子そうなお嬢さんも?まさか⋯⋯」
――まだオレらとそう年が変わらないってのに、なんで。
レオリオは先刻の自分と同じように眉を顰め、苦いものを食べたように口の端を歪めた。
かねてからのこの男に対する疑問が湧き上がる。世の中は全て金と豪語していた男が、カルト宗教に入信している少女に対してこうも同情的になるだろうか。どうにも腑に落ちなく言及するべきか順々したが、結局、別の機会をみて追及する事にした。
会場入口と思しき定食屋はあいも変わらず盛況だった。キリコに「あえてそうしてる」と説明されてもやはり全員半信半疑といったところだ。
中へ入ると厨房に料理人の店主と配膳に若い女性がひとり、大衆向けの雑然とした内装で客の入りも八割ほど。外観に違わない普通の大衆食堂だ。
キリコの後をゴン、レオリオ、私、ミサの順でぞろぞろと入店する。多人数での来店のため視線が集まるがすぐに興味を無くしそれぞれの食事へ戻っていく。
彼女はそわそわしながら興味深そうに眺める。本当に入ったことがないのだなと思われる様子に、キリコやレオリオが彼女をお嬢さんと呼びたくなる気持ちが分かる気がした。
ふと、故郷から出てすぐの頃の自分もいわゆる"おのぼりさん"だったため、確かこんな感じに目につくもの全てに驚きっぱなしだった。あの頃の自分も周囲からこのような目で見られていたのだろうか。妙な親近感が生まれた。
「いらっしぇ〜い!御注文はー?」
「ステーキ定食」
「⋯⋯焼き方は?」
「弱火でじっくり」
「あいよー」
厨房で鍋を振るう店主が気怠そうに注文を聞いてくる。「ステーキ定食」に反応した店主の空気が変わり、一連の流れが合言葉だったのだろうと見当がついた。その証拠に背後で真剣な声で「なるほど、そうやって言えば良いのね」という呟きを拾い背中がむず痒くなった。
店の奥の個室へ案内されるとすでに人数分の料理が用意され、肉の焼ける香ばしい匂いが充満していた。
「それじゃ頑張りなルーキーさん達。お前らなら来年も案内してやるぜ」
キリコが扉を閉じると同時にカチリと物音がし個室全体がモーター音に包まれる。重力が緩やかに身体に負荷をかけ、降下していくことがわかった。この部屋全体が会場へ運ぶ入り口ということか。
「地下までだいぶかかるな」
「だね。着くまで食べちゃおうよ。オレお腹すいちゃった」
「だな、腹が減ってはイカダは出来ぬってな」
「⋯⋯戦だよ、レオリオ」
鉄板に乗る肉にフォークを突き刺しナイフを差し入れる。程よくレアに焼かれたステーキは上手く肉汁が内側にとどまり、持ち上げるとポタリ滴る汁が食欲を掻き立てた。
「いただきまーす!」
「うめぇなこれ」
「うむ。口の中で溶けてしまうようだ」
「まあ、ほんとう」
我々はしばし提供された食事を楽しんだ。ゴンたちと行動を共にするようになってからこのような安穏とした時間が増えた気がする。
その事実を素直に喜ぶことが出来ない自分がいて、心の片隅に暗い影を落とした。
「あれ?ミサもう食べないの?」
「ああ、うん。実は来る前に少し食べてきたの。良かったら残りはゴンにあげるわ」
「いいの?やったー!!」
見ると彼女の肉は2切れほどしか減っていなく、ゴンに聞かれるまで野菜を突いていた。残りをもらったゴンは食べたりなかったのか、あっという間に平らげてしまった。食べ盛りとは恐ろしい。
ゴンの満足そうな顔をひとしきり眺めた後、ミサはおもむろにカバンから小さなケースを取り出して、錠剤を一粒口は放り込んだ。ベールは中央のから切れ目があるようで、そこから食べたり飲んだりするようだ。水を飲む時、店に入る前に見た赤色がうかがえて意図せず心臓が跳ねる。
「どこか悪いのか」
誤魔化すように問うと、ミサはびっくりしたのかコップの水がちゃぷりと大きく揺らいだ。そんなに驚くことだろうかと不思議に思ったが、よくよく考えれば挨拶もまともにしていない男にいきなり声を掛けられれば驚きもするか。少し、申し訳ないことをした。
「あ、いえ。これはただのサプリメントです」
「⋯⋯差し出がましいかも知れないが、あまりそう言ったものに頼りすぎるのは健康を損なうぞ」
「ふふ、確かにそうですね。サプリだけで食事を済ませたり過剰に摂取したりするのは危険です。でも、用量を守れば問題ありません。むしろ食事だけでは不足しがちな栄養素を補う面で推奨されてますよ」
少女は外見から想像つきにくい冷静な態度で返した。「受け売りですけど」と謙遜した。
「ふむ。確かにそれは一理ある」
「おめーら、初会話がそれでいいのかよ⋯⋯」
レオリオが盛大にため息を吐き、大きく切り取った肉を口一杯に詰め込んだ。そのままクチャクチャ食べながら今しがた降りてきた地上を見上げる。
「しかし失礼な奴だぜ。まるでオレたちが今年は受からねーみたいじゃねーか」
失礼な奴、とは我々を案内してくれたキリコのことだろう。レオリオの疑問に心当たりがあった。
「3年に1人」
「ん?」
「初受験者が合格する確率、だそうだ」
過酷なテストは途中で精神をやられてしまう奴や、ベテラン受験者からの妨害で二度とテストを受けられない体になるなどざらだという。新人などかっこうの餌だ。私自身、受験するにあたってできる限りの情報を集めた際知った噂程度の話だったが、案内人にあのようなことを言われると信憑性が増すというものだ。
「でもさ、なんでみんなそんな大変な目にあってまでしてハンターになりたいのかなぁ」
ゴンのなんとも思ってなさそうな問いに室内が静まり返る。一拍置いたのち、レオリオが猛然と食ってかかった。
「おまえ、本当に何も知らねーでテスト受けに来たのか!?」
「う⋯⋯」
ゴンがレオリオの剣幕に言い淀む。
ハンターを志す者がハンターが何かを知らずに受験しようなどこれ以上可笑しな話はないだろう。船で乗り合わせた時からヘンな子供だと思っていたがこればかりはゴンを庇いきれない。
「「いいか」」
「「ハンターはこの世で最も」」
「儲かる仕事なんだぜ!!」「気高い仕事なのだよ!!」
隣で聞き捨てならない言葉が発せられ顔を向ける。予想した通り金の亡者が苦々しい表情で同じくこちらを見ていた。
ゴンがこんな奴を手本にしてしまってはたまらない。私はハンターがどれだけ崇高な仕事であるかを話し、奴はどれだけ金儲けに繋がるか話したが、ゴンは煮え切らない態度で肉を頬張るだけだった。
「そうだ、ミサ!!お前はどうなんだ。どっちのハンターになるんだ!?」
「え、私?」
「あ、それオレも気になる!」
ゴンでは埒があかないと思ったのか、レオリオはひとりちびちび水を飲んでいたミサに話の矛先を向ける。
ゴンだけでなく、私もメメシス教の信者らしきこの少女のハンターを目指す目標が気になっていた。
素直に言うとも思えないが、もしこの少女が自殺志願者で、毎年死者のでるハンター試験に死ぬために来たのであれば今後の付き合い方を考え直す必要がある。
「私はどちらでもない、かな」
首を傾げつつ、頭の中でひとつひとつ組み立てながら話すようにミサは言う。
「どっちでもないってどういうことだよ」
「他に目的があるのか」
私が問うと、ミサはベールの奥からじっとこちらを見る。視線は合わないが気配で笑っているように感じ取れた。
「私は、やらなくちゃいけないことが、沢山あるんです」
ゆったりと、眠りに落ちるように黒服の少女は語る。あるいは、謎かけのように。
「失せものと借り物が1つずつ。色んな所に散らばってて所在が分からないものが10個くらいかな?この探し物がなかなか進まなくて、どうしようかって煮詰まってた時に思い出したの。ハンター資格は色々な権限があって便利だって、昔、試験を受けたいと言っていた人が話していたのを。調べたら、それがあれば手が届きそうなものが何件かあったわ」
順序立てて話すのが苦手なのか。過去を振り返りながら話しているからか、どうにも脈絡がない。
「2人には悪いけど、褒められた目的で受験しに来た訳ではないの。今は目の前のことに集中したいから、2人のようなハンターに対するはっきりとしたビジョンも無いし」
――ごめんね。
彼女は気恥ずかしそうにコップのフチについた口紅を拭いながら最後にそう付け加えた。
「ううん話してくれてありがとう!」
ゴンが無垢な顔で言う。
ミサの言わんとすることはなんとなく掴める。緋の眼と蜘蛛の情報を欲する自身もまた、ハンターを情報収集源の1つと捉えているから。
「じゃあオレと一緒だね。オレ、親父が魅せられた仕事がどんなのか知りたいんだ」
「お父様もハンターなの?」
「うん。オレにとってここがスタートラインなんだ。ハンターになって親父を探すってだけで来たから、何になりたいかとかまだ思いつかないや」
「ゴン⋯⋯」
首裏をかくゴンの言葉尻は少し下がっていた。船での面接で、ゴンがハンターを目指す理由は聞いていた。父親に会いたい一心で飛び出してきた少年には、確固たるハンター像なぞまだ早かったのかもしれない。
「それでいいと思うわ。何かを成すことだけが大事じゃないもの」
「そっかな」
「そうよ。焦らなくてもお父様を探していくうちにきっと見つけられるわ。そのためにも、今は目の前の試験に合格しましょう?」
「⋯⋯うん、そうだよね。ありがとうミサ!なんかちょっと気が楽になったよ」
「ふふ、私は何も。でもお役に立てたなら良かったわ」
気落ちしたかに見えたゴンだったが持ち前のポジティブさとミサの励ましにより立ち直ったようだ。結局メメシス教について話すつもりはないらしい。もしくは志望理由とは全く無関係だから話さなかったかもしれないが。
「⋯⋯と、いう事で2対1対1でゴンと私の勝ちね」
レオリオに続いてこちらも折見て問い正すべきかもしれない。などと考えていたらミサが茶目っ気たっぷりに突然そんなことを言い出した。
「は!?いつの間に勝負になってんだよ!!」
「あらあら、どっち?って聞いたらそれは勝負の始まりよ?先にジャッジを委ねたのはそっちだし?ゴン、そうよね〜?」
「ねー!」
揶揄うように楽しそうにゴンと顔を見合わせると、ゴンも彼女の遊びに乗って笑い返す始末だ。
「どんな理屈だ!」
「全く⋯⋯」
こちらの心配をよそにすっかり彼女と仲良くなっている様子にレオリオと2人で脱力する。
そうこうしているうちに最下層に来たらしい。チンとベルの音が響いた。扉に点滅したランプとともに「B100」と表示されている。
「着いたらしいな⋯⋯」
「おっし、話の続きは後だ!」
「あ、レオリオ逃げた!」
「逃げたわね」
「うるせぇ!置いてくぞ!!」
しめたとばかりに椅子から立ち上がったレオリオに、ゴンたちから非難轟々だ。
これから試験だと言うのに緊張感が全くない。呆れつつ私たちも席を立つ。その際隣に座っていたミサの足元が気になった。
「どうされました?」
視界に入っていた靴は少女が立ち上がったため、黒い布地に覆われ見えなくなる。
一瞬だけ見えた彼女の履き物は、やはり黒い色の靴だったが身長を加味してもあまりにもサイズが小さすぎる。バレエダンサーが履くトゥシューズのような形だ。それにしては靴底が厚い。
「⋯⋯いや、なんでもない」
ミサは不思議そうに首を傾げるが、深く追及することなく扉へ向かう。歩幅は小さいが歩く姿に違和感はない。
気の所為であればいいと願う。だが、それでも。自分の予想が当たっていた場合、メメシス教は悪しき集団であり、彼女は被害者となる。もう少し様子を見よう。
「――ミサ」
遠くなる小さな背中に呼びかける。妙に口馴染みのいい名前だった。歩幅が狭いのでさほど離れていない距離で彼女は振り返った。黒いベールがふわりと舞う。
「はい。どうされましたか?」
ゆったりと、穏やかに聞き返す声は笑っている。ベールの奥でも、きっと。
呼びかけてから気づいた。引き留めた理由が自分でも分からないことに。
「いや⋯⋯」
言葉が見つからず口籠る。彼女は今度はすぐに立ち去らずじっと待っていた。ゴンの時もそうだが、彼女は人の機微に聡い。こちらが言って欲しいことを察するのが上手い。私が何か言いたそうなのを察して、言葉を発するのを待っていてくれる。
細い手首に引っ掛かるメダイが揺れるたびにチカチカと煌めく。
嗚呼、あの神父も同じものを持っていた。
私は、無為に死にたいなどとのたまう輩が嫌いだ。以前旅の途中で世話になった教会がメメシス教の支援を受けている施設で、信者と話す機会があったが受け入れ難い話ばかりされた。
メサイア様といれば救われる、この世に未練などないと──⋯⋯。
当時、まだ齢11歳の少女へ陶酔する神父の姿に怒りを覚えた。男には同じ年頃の娘がいて、年が明けたら奉公に出すのだと嬉しそうに語っていた。娘もまた、同じ貌をしていた。
聞いていられなくなって、その日のうちに街から離れた。救い?未練?神に祈っても変わることなどないのに、ただの人間の子供に何ができると言うのか。あんなものは詐欺に決まっている。
私は、私の魂は、このまま死んでも救われはしない。
この命は、すべて蜘蛛への復讐に使う。
それが果たされなければ死ぬに死ねない。
── つまり、メメシス教に入ったやつはルールに縛り付けられてでも死にたい、死にたがりってことか?あんな抜けてるけどいい子そうなお嬢さんも?まさか⋯⋯
店の前で教団のことを話した際、レオリオが言った言葉がよぎる。そうだ。メメシス教は嫌いだが、少なくともミサは。
「クラピカさん?大丈夫ですか?もう2人とも言っちゃいましたよ」
立ち止まった私を心配してわざわざ戻ってきたこの少女は、ただの被害者だ。悪どい商売をする大人に騙されているのだ。
「私のことはクラピカでいい」
顔を上げ、しっかりとベールの奥のミサの眼を見る。
「え?」
「きちんと挨拶もせず、すまなかった」
「え、あの」
いきなり頭を下げられミサは困惑していたが、勝手ながら私は心のつっかえがとれた心持ちだった。
「よろしく頼む」
「⋯⋯っはい。よろしくクラピカ」
かすかに震える声で返された自身の名前に満足する。さん付けは正直くすぐったかったのだ。
レオリオたちの急かす声に「いこうか」というと、ミサがこくんと頷くのを確認して、私は背を向けた。
もし、この時。
もう少しだけ背を向けるのが遅かったら、ミサが泣きそうになるのを堪えていたことに気付けていたかもしれない。
そんなシーンがこれから先沢山あったことを、そのほとんどを巧妙に隠されていたことを後になって知って後悔することを。
そういう取り留めのないことを、随分、後になってから考えるようになる。
だが今は、まだ、全て知らない話だ。
これから始まる話だ。
※※※
エレベーターを降りると視線が一斉に私たち4人に突き刺さる。じっとりとこちらを観察する嫌な目つきだ。だけどそれはすぐに四散し各々試験開始まで好きなように待機するようになる。
武器の手入れをするもの、眠っているもの、食事をするもの、隣り合った人間と話をするもの、新人に先輩風を吹かせるもの、それを聞くもの、ぶつかった相手に因縁をつけるもの⋯⋯。
周囲の人間やトンパが怯えながら忠告した件の奇術師ヒソカは、斬り伏せた相手に苦言したのち一瞥すらせずその場を立ち去った。
その場に取り残され、両の腕を切り落とされた男の喘ぐ声が木霊する。奇術師を忌避する囁きがするだけで誰も寄り付こうとしない。
406番の番号札を貰った後も、トンパから飲み物を受け取る時も私はそぞろになっていた。
まだダメだ。まだ行ってはいけない。
今行ったら奴の警戒域に引っかかる。
もう少し。あとちょっと。そう、あと3歩過ぎたら⋯⋯。
「お互いの検討を祈ってカンパ────」
「ごめんなさい私ちょっと行ってくる!」
「あ、おいミサ!?」
トンパの言葉を遮って、レオリオに缶ジュースを預け人混みの中へ飛び込む。急がないと、両腕なんて、あっという間に多量出血で死んでしまう。
「ちょっと通して!!」
ヒソカの注意がもう此方にないので思い切り声を張り上げる。突然小娘が突進してきたので男たちは驚いたり顰めっ面をしたり怒鳴ったりと五月蝿かったが、ちょっぴり「お願い」したりして目的地まで直進していく。
全く隠そうともしない粘ついた嫌な気配はトンパに言われるまでもなく地下に着く前から感づいていた。あからさまに誘っていたのだろうあれは。
私は絶が使えないからあちらも私のことに気づいている。が、私が絶望的に弱くヒソカが圧倒的に強いから見逃してもらえただけだ。あの手のタイプは自分と同等かそれに通ずる何かがないかぎり食指は動かない。それでも目の前にちょっと大きめの虫が飛んできた時は、その限りではない。
対抗策が無くはないが、ヒソカほどの手合いになればちょちょっとベールを捲って⋯⋯で済むはずも無い。確実にガチ戦闘になってしまう。
やっと人垣を抜けると不運な男は血溜まりの中で倒れ込んでいた。甘酸っぱいような濃厚な血の匂い。死の匂い。
目を背けたくなる光景だが気力を振り絞り凝で素早く見渡す。ない、ない、ない。一体どこに消えたの?
物を別の場所へ移動させたり異空間に収納する系の能力なら、痕跡が残る可能性が低くお手上げだった。しかし、血痕が離れた場所に落ちていているのが目に止まりまさかと天井(地下なのに天井とは可笑しいけれど)に視線を向ける。──あった。
ポタポタ雫を落とす2本の腕が天井に張り付いていた。物を固定する念かあるいはくっつける性質のある念か。腕は落ちて来ず血が滴っているのを見るに後者の可能性が高い。放出系か変化系のどちらかだと思うが、どちらにせよあんな高いところにあっては取り戻すのは私には無理だ。今は少しでも時間が惜しい。腕は諦めてもらおう。
もはや血の池となっている男の側に行くと微かだがまだ息をしていた。ただ、私が呼びかけても濁った目で見つめるだけで反応が鈍い。血の気の失せた男の耳裏には5枚の花弁のような特徴的な痣があった。やっぱりこの人が、と得心する。確認することはもう出来ないが、天井に磔にされたどちらかの腕の指に、信者の証である指輪が嵌められていることだろう。
「しっかりして、死んじゃダメよ」
──私と約束したでしょう?
聞こえるか分からないが耳元で囁く。
ぐるりと男の白目が回り、灰色の眼と合致する。驚愕に見開かれ、紫色になった唇から言葉を紡ごうとするも音にならずわなわなと震えるのみだった。苦痛からか歓喜からか、男の瞼に薄く膜が張っていく
男は両方とも肘から下を切り落とされていた。呼びかけながらバックから数本のかんざしと包帯を取り出し二の腕にそれらを巻いて縛り止血していく。やけに髪留めが多いと思ったらルゥインはこれを想定していたらしい。
彼女は最後まで反対していたくせに、一通りの応急手当てに必要なものは揃えてくれていた。詩の内容だけじゃどんな状態でいるかおおよそでしか分からなくて不安だったが、手持ちのものでなんとかなりそうだ。
まぁルゥインのことだから自分が巻き込んだ手前、死なれたら寝覚めが悪いと思ったからかもしれない。変なところで優しいから。
両腕の止血が完了し詰めていた息を吐く。だがまだ安心できない。えっと、止血が終わったら次は回復体位にするんだっけ?横向きにするだったかな。
本で読んだだけで実践は初めてだから本当に正しく出来ているのか不安になってくるし何より時間が経つにつれ焦る。
うつ伏せになって倒れ込んでいる男は止血している間に完全に意識を手放してしまったようだ。私の正体がバレない点については僥倖、なのだが⋯⋯。
「ふんぬぅ⋯⋯んむーっ!」
おっっもい!!
意識のない人間というものは物凄く重い。こんなに重いとは思わず、仰向けにするのに苦戦する。
1センチもまともに持ち上がらないってどういうこと?血で滑るし最悪。やんなっちゃう!どーせ元が貧弱よ、オーラで覆ってなかったら脱臼、下手すれば骨折するくらいの惰弱さよ。筋力も膂力も生まれつき皆無なのよしょうがないでしょー!
内心大荒れでうんうん唸っていると、横から大きな手のひらが伸びてきて、私と同じように血だらけの肩を支えた。
「代われよ、オレがやる」
「レオリオ⋯⋯?」
来るとは思わなかった人物の申し出に本当に驚いた。エレベーターの中で散々お金にがめついことを主張していたのに。さらに驚くべきはその手際の良さだった。
私では押しても引いても動かなかった男を肩に担ぎ上げ血溜まりから離れた場所へ移し、その長い手脚を使ってみるみるうちに楽な姿勢へ整えていく。
しかも縛るのが甘かったらしい止血箇所を改めて縛り直したり、トランクケースから清潔なタオルを取り出し手早く患者の頭や腕の下に敷いていく。何度もやったことがあるかのような見惚れる動作だった。
これだけの手際の良さだと素人の私が迂闊に入っていっても邪魔になるだけだろう。そう判断しレオリオの背後から鮮やかな手捌き観察する方向へシフトした。一通りの応急処置を終えたらしく、大きな背がゆらりと立ち上がる。
レオリオは振り返りもせずお腹の底に何かを押し沈めた声で零した。なんで助けた、と。
「赤の他人を助けてお前に何の徳がある。ほっときゃいいだろ。どうせこいつは試験を受けられねぇ、リタイアだ」
何処かで聞いた事がある問いは、ベールの下で数度瞬きした後に思い出す。
――マザーはどうして優しいの?
昔、乳母にそう問うたことがある。
マザーは悲しそうな顔をして皺くちゃの両手で私の頬を挟み、ゆっくりと幼児に噛み砕きながらその嗄れた引っかかりのある声で私を悟すのだ。
「痛いとか辛いとか苦しいのは、私も見てて痛くて辛くて苦しいわ。死んじゃいそうになる。それが嫌なだけ。損か徳かの話なら、私は損をしたく無いからそうしただけよ」
人とはそう云うものだと教わった。
人とは、誰かが死んだら悲しくて涙を流すらしい。
誰かが傷つけられれば怒るし、独りぼっちでいることは苦しい。
逆に誰かが笑えば嬉しいらしく、面白いことがあれば楽しいという。
誰かと共有する時間は尊いもの。
身近な、大切な人であればあるほど、強く感じる。
人とはそう云う生き物だと教わったから、そうしてる。
それだけ。それだけしかない。
意味は無いけれど、嗚呼、それでも私は必死になぞる。
鏡のように、影のように。
あるいは、物語のように。
向けられる言葉とささやかな願望を汲み取り、繰り返し、呑み込み、真似をする。
いつか真実になれたならと祈りながら。
呼吸に嘘を混ぜ込む。
だから先程の行為も単なる打算とエゴでしか無い。私が私のためにしたことだ。
死の恐怖というものは、いっとう引力が強く引き摺り込まれやすい。
甘く魅惑的な誘いである。
もし男が失神などせず意識を保っていたら必ずこう言うだろう。
早く死なせてください、と。
そしてお願いをされた私はたまらず男を胸に抱きしめて頭を撫でてやりながらおやすみなさいと言い────殺すのだろう。
かつて、死にたいと云って教会にやってきた彼等と同様に。
人は幸福であるべきだと説かれて育ち、またそう導く者として育てられた私には。
痛くて辛くて苦しいのは、他者の感情でさえ私には耐えられず。
失意のままに死にゆく者たちの心に敏感で。
甘く甘く、死が私を唆す。
暗く暗く、享楽の影が覆う。
強く強く、私を責め立てる。
使命を果たせと云ってくる。
戻れるはずがないと云ってくる。
――それでも、私はもう⋯⋯、
「──そうかよ」
納得したのか分からない平坦な声色。
ともすれば小さな子供が拗ねた時のような決まり悪そうな、本当に言いたいことは別にあるんだと言いたげな、そんな風に聞こえた。
何か言い返した方がいいか迷ったがレオリオの言葉の色は呟きに近く、私の返答を待っている風ではなかった。
手持ち無沙汰に信者が送り込んだ刺客の寝顔へ視線を移すと、男の顔色は先程より幾分か良くなっていた。
突如視界が黒から白へと覆われる。
レオリオが振り向き様に新しいタオルを投げよこしたのだ。
「ぅぷ」
とっさに受け取れなくて無様に顔面でキャッチ。ベールの上にタオルが乗っかって重たい。これ以上被るものはいらないというのに。
まさかこの距離で受け取り損ねるとは思っていなかったらしいレオリオは、鈍臭さに磨きがかかっている私の醜態を謎の生き物でも見たような目をしていた。ルゥインが時々同じような目で見てくる。
「⋯⋯⋯⋯お前な、そんなんで試験受かる気あんのか?」
「あります。すっごいあります。むしろ受かる気しかないし?ぶっちぎってやるもん」
「もん、て。キャラ違くなってるぞ」
はあ、もういいからソレで血ぃ拭けよ。
何かを諦めたように肩をすくめ、レオリオは片手をひらひらさせる。自己紹介した時と比べるとえらく扱いが雑になっている。
釈然としないものがあるが男の気遣いはありがたく受け取っておく。いくら服が黒くて目立たないといっても大量の血の池に跪いて手当てしたのだから、至る所が血糊でべっとりしているのだ。
本来はここでお色直しでもしたいところだが、いつ試験がはじまってもおかしくない状況でお着替えは控えたい。決して、ひとりの着替えに手間取って時間がかかるから面倒臭いとかではなく。
腕やスカートに付着した血液を擦らずトントンとタオルに吸い取らせながら拭いていく。
とは言え。タオル一枚じゃ拭いきれないことは明明白白だ。真っ白だったタオルはあっという間に赤く染まり重たくなっいていく。
手袋は爪にまで血が侵食するほど染み込んで駄目になっていたが、幸い予備があるのでこれは取り替えれば済む。だが、気持ち悪さや衛生面に目を瞑り、その上でワンピースやタイツは我慢するとしても、やっぱり怪我人を動かそうとした時に一番血を吸ったケープはタオルで拭っても脱がなければならないほどのぐっしょり具合だった。雑巾みたいに絞れそう。これを着たまま何があるか分からない試験に臨むと思うとげんなりしてきた。
占いにはこんなこと書いてなかったから、これはこの先に影響する事は無いってことなんだろうか。
ルゥインには極力上着は脱がないように釘を刺されていたがこうなってはしょうがない。ため息を吐きながらケープのリボンを解いていく。
「あ。そういやミサ、お前異様に準備良かったのはなん─で───は?」
「どうしたの?」
「はあ――――――――⋯⋯⋯⋯マジか」
言葉にならない声でうめくレオリオ。
訳がわからず首を傾げる。
「本当になに?」
背を向ける形でいたので振り替えろうとすれば今度は動くな振り返るなと怒鳴られる。なんなんだ。
「いいから服を着ろ!!」
「着てるけど」
「う、わ、ぎ、を!!着ろ!!」
「血でドロドロだし⋯⋯」
「〜〜〜〜っっコレ着ろ!」
言うが早いかレオリオは着ていた背広を雑に羽織らせる。体格差で胸元がスースーするし袖は5回くらい捲らないと余るしで不服だったが、鬼気迫る顔で押し付けられたら断ることもできない。
大人しく着せられていると「まて⋯⋯?こっちのほうがヤバさ増してないか⋯⋯?」などとブツブツ言っている。
「普通そういう服の下ってシャツ着るもんだろなんで着てないんだしかもベアトップワンピって背中丸出しとかふざけてんのかベールの黒と肌のコントラストがやべぇだろおいここどこだか分かってんのかよ9.5割むさ苦しい男しかいねぇんだぞ死にたいのかなぁえ?」
「なんて?」
めっちゃ早口じゃん。
トンネル内にジリリリリリッと甲高いベルの音が響き渡る。
音の発信源を辿ればトンネル内に張り巡らされた、なんの目的であるのか分からない大小あるチューブの内、その一本に悠然と立つ男の手元から鳴っていた。
にゅんっと外向きにカールした髪型と髭が特徴的な男は恭しく一礼し、いったいどこで売ってるのか分からないような人の顔の形をしたベルをようやく切った。舌を出し小馬鹿にした顔は、額のボタンを押すとピタリと止まり、真顔になる。かなりシュールだ。
「ただ今をもって、受付時間を終了いたします」
静まり返る会場の視線を一身に受けたカイゼル髭の男は、意にも返さずスマートな声でさらに続けた。
「では、これよりハンター試験を開始しいたします」