短編
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美味しいものが食べたい。
――出来るだけ沢山。
美味しいものでお腹いっぱいになりたい。
――出来るなら毎日。
お腹いっぱい食べて、満腹になるまで食べて、お腹がきゅうきゅう痛くなるまで食べて。それで、それで柔らかい毛布に包まれて眠れたら最高なのに――なんて。
誰だって一度は願うこと。子供の頃からの私の夢。
小さい時に一度だけ大人に打ち明けたら、とても笑われた。あの時はなぜ笑われたのか分からなかったけれど、今は、ちょっと分かる。
一生に一度くらいなら出来るかもしれないけれど、毎日となるとこれがなかなか、実現が難しい。
けれどやっぱり美味しいものが食べたかった私は、諦めなかった。
※※※
「お待ちしてました。貴方がクラピカ様ですね?」
確認すると、青年は表情を変えず一度だけ頷いた。その返答に満足した私は「どうぞお掛けになってください」とソファに座るよう促す。
青年はやはり何も言わず、スーツがシワにならないように浅く腰掛けた。
私は愛用の名刺入れから一枚取り出し青年に見えるよう渡す。
「ご存知かとは思いますが、私は美食ハンターのバイトという者です。本日はよろしくお願いします」
名刺を受け取るなり、青年はじっと見つめ動かなくなった。
「どうされましか?あ、資格の確認であればお出しします」
「いや、結構だ」
胸ポケットからハンター資格カードを取り出そうとしたが、青年の第一声に止められてしまった。外見より声変わりしてないなとか、身元を確認したかったのではないのかとか、一瞬のうちに様々な思考が交錯する。
「ただ、聞いていた話と違うなと」
「話ですか。ちなみにどんな話を?」
「ジュエリーハンターだと聞いている」
「……もしや貴方に私の店を紹介したのは、ビスケット・クルーガーという方でしょうか?」
「そうだ」
合点がいった。あのロリババア、またか。私は美食ハンターだと何度言えばいいのか。頑なに認めない常連客に頭が痛くなる。
「混乱させてしまい申し訳ございませんでした。私の本業は美食ハンターで、宝石鑑定は兼業になります」
深々頭を下げる。青年はさほど重要視していないようで、名刺をテーブルの端に置き、軽く指を組んでこちらを見据えた。歳のわりに迫力がある。
「構わない。すまないがこちらは送り合う名刺もない。早速だが本題に入らせてもらおう」
淡々と、事実だけを述べる青年。私も異論などなく軽く首肯した。
青年は店に入ってきた時から携えていたジュラルミンケースをテーブルの中央に置く。
「これが依頼の品物ですね?」
「あぁ。これを本来の姿に戻して欲しい」
「拝見いたします」
作業用の布手袋を取り出し両手に嵌めた。ベタだが、映画俳優を真似して顔の横あたりできゅっと手袋を嵌め、気合を入れる。スポーツ選手が試合前にするルーティーンと同じだ。
ケースのクリップを丁寧に外す。さながら、お姫様のおみ足にガラスの靴を履かせる王子様の気分で。いよいよご対面だ。
品物はベルベット生地のクッションに寝かされていた。事前に光源を落とした室内の僅かな光に反射する、その煌めき。
嗚呼この瞬間がたまらなく、好き。
お客様の前ではしたないと思うのに、予想より大きな獲物の登場に垂涎が湧いてくる。
「これが『落陽の花嫁 バンシーナ王女の首飾り』ですね」
青年は沈黙で応えた。間をもたすために言葉にしただけなので、やはり構わず作業を進める。
「それでは、触れさせて頂きます」
「……いちいち断らなくていい」
「? ……嗚呼、失礼。お客様にお伺いを立てたのではございません」
「? どう言う意味だ」
青年は眉間に皺を寄せて、ようやくポーカーフェイスを崩した。そうすると年相応のあどけなさが出る。
「もちろん、彼女にです」
青年は、ますます分からないといった面持ちで口の端を歪めたので、笑い出しそうになるのを必死にこらえた。
存外、素直で可愛らしい人だ。今は仕事中と言うだけで、普段は、意外と感情豊かな人なのかもしれない。
止めていた作業を再開する。テーブルに幾つかの道具を並べ、首飾りを見分する。見れば視るほど私好みだ。
ビブタイプのネックレスはチェーンの途中からきめ細かいゴールドのタンブルに切り替わり、トップに大粒の希少ジェムストーンであるクンツァイトが座す。
その周りをピンクダイヤモンドとブラウンダイヤモンドが小花を模すように囲み、約80カラットクンツァイトをより引き立てる。
紫外線に弱いクンツァイトは、専用のライトで見ると不純物が全く無い見事なクラリティだ。角度を変えるごとにカラーが淡いライラックや濃いラベンダーになるのも、クンツァイトの特徴と一致している。
流石「夕べの宝石」と言われるだけあって、2色のダイヤモンドと合わせても、ちっとも見劣りせず優美に仕上げられている。
約300年前にとある王女の輿入れの際に作られた、悲劇の首飾り。凝で確認し、首飾りに取り巻く禍々しいオーラを視なければ一般人はただの美しい宝飾と思うことだろう。
検分を終え、青年に向き直る。
「拝見いたしました。確かに本物です。続いて依頼内容と報酬の確認ですが、依頼は除念。前払いで500万ジェニー。500万ジェニーは口座に振り込みを確認しています。成功報酬は800万ジェニーと宝飾の『怪奇の引き取り』でよろしいですね?」
「問題ない」
「かしこまりました。では始めます」
「……ここでか?」
「えぇ、信用問題としてご覧になる方も多いですし、特に見られて困るような能力ではないので。だだまぁ。場合によってはお時間を頂くこともあります。外で待っていただいてもよろしいですよ」
「そちらがいいのなら問題ない。こちらこそ気を遣わせた」
青年は首を横に振る。うなじに掛かる位に切り揃えられた髪が、サラサラと動作に合わせて頬に当たった。それをうざったそうに指で払う仕草が似合っていて、洗髪料のCMを思い出す。眼福、眼福。
「左様ですか。それなら遠慮なく」
心の中で合掌しつつ、私はオペ前の執刀医がするように、両手の指先を上にして、手の甲を青年に見せるように掲げる。だが私が振るうのはメスじゃない。
私は美食家だ。握るのはナイフとフォークに決まってる。
さぁ、|仕事《しょくじ》の時間だ。
まずは具現化したフォークでこの禍々しいオーラをパスタ麺のようにくるくる巻き取っていく。コツは細く長く丁寧に。いきなりがっつり取ってしまうと後々巻き取り辛くなって歪な形になり、舌触りが悪くなって味が落ちるのだ。また、フォークに巻き取ったことで半固形化したオーラを、時折りナイフで削ったり押し付けたりして成型し「彼女」の理想の姿に整える。この技術をどうしても習得したくてジャポンのとある郷土菓子職人に弟子入りし、親父さんにしごかれたのは今ではいい思い出だ。
「彼女」の夢。死後強まり、持ち主に災いを振りかけるほど、強く願った想い。
ただ幸せになりたかった。
温かな光の中で祝福されたかった。
民衆の……いいえ、大切な人たちだけで良かった。歓声などなくても喜びと幸福に満ちた声を聴いて送り出されたかった。
たった、それだけだったの。
捕虜として敵国に嫁いだ敗戦国の姫君の「彼女」。
不名誉な名前で嘲笑われ、結局最後は故国も親も尊厳も踏みにじられた貴女は憤り、憎悪し、唯一手放さなかった形見に呪いをかけた。その尊い命を全て使って。
美味しいものをお腹いっぱい食べたかっただけの「商品」だった私とは、立場も時代も違うけれど、私たちは同等に願い祈った。
ただ、幸せになりたいと。
――してあげる。絶対に。
本当に?
――本当。素敵な結婚式にしてあげる。
……ありがとう。
禍々しく荒んでいたオーラが、ゆっくりと鎮静し、春の野原のような姫君に相応しい優雅なオーラに変わる。
完成した彫刻を、黒曜石で作ったプレートの上にそっと乗せる。
うん、上手く出来た。
「……見事だな」
私の手腕をじっと見ていた青年は、思わずといった風に感嘆した。彼も凝で見ていたのだろう。
「ふふふ、今回は良い素材でしたのでつい力が入りました。力作です」
「これで除念完了か?」
「まさか!これからが本番です」
「何?」
「お忘れですか?私は美食ハンター。美食ハンターとは、常に美味なる食を求め追従する料理人であり、同時に己の食欲を満たすためなら毒すら食べる美食家です。そして、目の前に皿があるならば」
――完食してこそ、真の美食ハンターたりえるのですよ。
私は再びナイフとフォークを握りなおし、丹精込めて作った料理にぶすりと突き立てた。
成型した鉱石の彫刻。花舞い散る教会に佇む夜明け色の花嫁の、華奢な肩から足元へ、ナイフを一直線に刺し入れる。彫刻の素材は元の材料と同じクンツァイトで出来ている。だが私が具現化したナイフとフォークは、レアで焼いた特上フィレ肉を切るみたいに美しい断面を作る。じゅるり。
もう無理。我慢できない。
舌なめずりを、一度して。
「いっただきます!」
あーん、半分に切断された花嫁を人目も憚らずに大口を開けてぱくつく。ふぁあおいしぃ。やっぱり1番美味しいのは曰く付きだよぉ。300年もの間熟成された怨念は、こっくりとした濃厚さがありつつスパイスが刺激的でクセになる。あっという間に無くなっちゃった。さてもう一口。
ゴキン、ガキュ。コキュコキュ。
おおよそ食事をする際に出るはずのない、鉱石を噛み砕く音がしばし薄暗い部屋に響き渡る。カリカリ、ごっくん。
あーあ、食べ終わっちゃった。どうしてご飯って食べたら無くなってしまうのだろう?名残惜しく舌で歯列をなぞるも、口内にはカケラも残っていなかった。
「ごちそうさまでした」
すっかりきっかり、全て胃の中に納め、手を合わせる。これにて除念完了だ。あとはゆっくり消化されていくだけ。
ずっと黙って始終を見ていた青年が、食べ終わったタイミングを見計らい恐る恐る話しかける。
「……終わったのか」
「はい!とても美味しかったですっ!」
「味の感想は聞いてないのだが?」
久しぶりの『当たり』を引いたことでテンション上がって、そのまま元気いっぱいに返事をしたら青年に失笑されてしまった。ちょっと恥ずかしい。
「えとはい、これで除念完了です」と笑いながら誤魔化すも今更効果はなく。
青年は浅く息を吐いた後、やや躊躇いながらも問うた。
「貴女はオールイーターなのか?」
日常では容易に出ないその単語に、少し驚いた。
「おや、博識なのですね。よくご存知で。普通はpica (異食症)と混同されがちなのですが」
「昔、古い文献を読んだことがある。異食症患者の中でも、きちんと栄養となり消化・排泄が出来ること、尚且つ健康に問題がない者のことを、オールイーター(完食する者)と呼称すると」
「患者ですかぁ。まぁ好物の宝石ばっかり食べる私も大概偏食家ですし間違いではないですねぇ。みんなと同じ普通に食事を楽しんでるだけなんだけどなぁ。……難しいなぁ」
好物が鉱物、なんて駄洒落は流石に控えた。前に他のお客様に言ったら滅茶苦茶嫌そうな顔されちゃったから。お風呂のタイルにこびりついた水垢でも見るような目だった。美少女にそんな目で見られるのは、色眼鏡で見られるよりも耐えがたかった。
「 ……すまない。失言だった。貴方たちを差別するつもりはなかった」
おっと。こちらは逆にナイーブな美青年のようだ。そんなつもりで言ったのではないのはこちらの方なのに。
「いえいえ!picaとオールイーターの区別がついてるだけでも十分です。その文献もまだ偏見が強かった時代に書かれたものでしょう?あれです、お互い失言だったという事で水に流しましょう。あ、そうそう。2年前に知り合いのオールイーターが受けたドキュメンタリードラマが、来月再放送するのでご興味あればご覧下さい。少々オーバーに取り上げられちゃって本人は不服そうでしたが、番組としてはなかなか良い出来でしたよ」
頭を下げる青年に向けて、気持ち、声を高くして喋り倒す。こちらの真意を上手く汲み取ってくれたのか、困惑気味に揺れていた大きな猫目はドラマの話をした辺りで店に入ってきた時と同じ真面目くさった目つきになっていた。
「嗚呼、今度暇を作って観ることにする」
それは観ない人が言っちゃう定型文なんだけど、まぁいっか。彼ならちゃんと観てくれるんだろうな。逆に生真面目に観たことを感想付きで報告してきそうだな。偏見だけどそんな感じがする。
唐突に電子音が鳴り響く。青年の胸ポケットから等間隔で鳴るそれを取り出したのを見て、私は目配せで促した。
「どうした?……そうか、問題ないすぐ戻る。……悪いが急用ができた」
青年は電話を切ると、首飾りが仕舞われているのを確認してからジュラルミンケースを閉じ、立ち上がる。私も見送るために一緒に出口に向かう。
「残りの支払いについては後日送金する。慌ただしくなってすまない」
「とんでもございません。またの御入用お待ちしてます」
そのまま帰るのかと思ったがドアノブに手をかけたところで静止する。振り向きざまに赤い石の耳飾りが金髪から覗いた。美味しそうだが私の好みではなかった。
「……今更だが口止めはしなくていいのか」
「何がですか?」
「貴女の念能力と体質について」
「あははっ」
青年は――クラピカさんは笑う私をみて、本日何度目になるか分からない怪訝そうな顔をする。だけど、しょうがないじゃないか。可愛いって思っちゃったんだもの。黙ってれば良いのに可愛いなぁ。
能力についてはマ分かる。戦闘に直結するし私の念にも弱点やリスクはある。未だ私を諦めない奴らに、もしそこを突かれたらかなり痛い。主に胃袋が。
だけどさぁ。それって一体何の意味があるのだ?
美味しいものをより美味しく食べるためだけにある能力の弱点を突くより、基本戦闘に特化してない私を殺すつもりなら普通に肉体言語(ステゴロ)に持ち込まれた方が御し安いのだから。
体質についても、だ。好奇心なのか優しいんだか分からないがおかしなことを言うものだ。
散々、都度都度、何度も言っているけれどしょうがない。私の宣伝力が足りて無いだけかも知れないし。人が良くて可愛らしい客人に免じて何度でも言ってあげよう。
徐にナイフとフォークを取り出した私を見て、クラピカさんの表情が強張る。
戦闘にでもなると思ったのか?お客様にそんなことするわけないのに。
「私は美食ハンターですよ?」
――食を追求し食を楽しむ姿を、どうして隠す必要があるのでしょうか。
しゃきんと、景気付けにカトラリーを擦り合わせ私はそう微笑みながら言い放った。
***
ビスケから紹介されるにあたって、件の女に会う際に2つ忠告されたことがある。
「いいこと?絶対彼女の前で念能力は見せないこと。特にアンタの鎖はあの子の好みど真ん中だわさ。喰われたくなかったら除念が終わるまで具現化しないことよ」
私が油断するとでも?侮られたものだ。これでも幾つか修羅場を潜っている。大抵のことは対処できるつもりだ。なるたけ避けたいが、もし戦闘になるのなら私とてただでやられはしない。
「そうじゃないってんのよ。戦いになるだけならアタシもこんなに言わないわさ」
話が見えないな。その除念師は私の鎖を無力化する念能力者なのか、それとも私の力量をはるかに上回る強者なのか。はたまたそれ以外の懸念材料があるのか、要領を得ない。
「そこから既にズレてるんだけどね……ここで色々言っても仕方ないわさ。アンタみたいな奴は、事前に集められるだけ情報を集めても最終的には直に会って判断するタイプでしょう?」
……そうだとしても、やはり得心がいかない。その除念師の女は一体何者なのだ?
「大喰らいで宝石狂いの、ハンターよ」
ジュエリーを好むハンターか?貴女と同じストーンハンターと?大喰らいの意味は?
「言葉のまんまの意味だわさ。少なくともアンタが今まで対峙してきた連中とは毛色が違う女よ」
言うだけ言って去っていったビスケの言葉は一から十まで正しかった。
バイトと名乗った女は、オレが今まで相手してきた人種と文字通り毛色が違かった。
にこやかに出迎えた妙齢の女は、シャープなデザインのダブルスーツを着こなした都会的な顔立ちの女だった。耳の頂点辺りでカットされた髪型が活動的なパンツスタイルと相まって、都心の高層ビルで働くキャリアウーマンを彷彿させた。
この時点ではまだビスケの忠言は半信半疑だった。笑顔の下で繰り広げられる人の裏の顔なぞ見飽きている。この女もその類程度としか認識していなかった。
だが、除念を始めたあたりから少しずつそれが間違いであると気付かされていく。いや、間違いはまた語弊がある。
海の写真を見ていたはずがそれは水底から海面越しに撮った青空だと言われたような、根底からズレた考え違いをしていたのだ。
彼女が求めているのは宝石ではない。
食の好みとしては鉱石を主食としているのだろうが、自身で何度も進言している通り彼女は美食ハンターだ。
彼女を虜にしているのは念だ。食材として念を見ている。
思念を、感情を、好物の石に変えて名前の通り|齧り付く《バイト》する。
事務所を後にし、おもむろに鎖を具現化させていない右手を見る。
ビスケの言う通り、オレの鎖はあの女好みの復讐と義憤の味がすることだろう。ビスケの口ぶりから察するに、他人が具現化した鉄鋼物でもオールイーターの胃袋は受け付け、自らにかかった念も造作もなく平らげるのだろう。不用意に晒して気に入られでもしたら、食に貪欲なハンターから逃れるのは容易ではない。
職に就きながら、食に着く。
それを除念と称し、美食と誇る。
私欲であるがそこにプロ意識があるのが、1番厄介なところで、恐らくビスケもその点を危惧したのだろう。
善ではないが、悪でもない。
美徳ではないが、悪徳ともいえない。
下等ではないが、上等でもない。
そういった手合いとは相性が悪い。今ひとつ踏み切れない。ありふれているから。
握り拳を作りまた広げると、瞬きの間に指の付け根から手首に重さが乗る。クモへの復讐を形にした鎖状。彼女のカトラリーとオレの鎖に違いなどない。すべては私利だ。
いっそ、みだりに貪り喰らう極悪人であれば踏ん切りがつくのに――傾きかけた愚考を慌てて頭から振り払う。あまりにも浅ましい。人の悪性を望むなどあってはならないことだ。
もう一度拳を握り込む。貴金属の硬質さと冷たい感触ごと包むように。
外はもう日が沈み、夜の藍と夕日の紅の中間で紫の帷が生まれていた。そのあわいの中に金星だろうか。ひときわ明るいオレンジ色の星が瞬いている。ポツポツと家々の窓辺が灯り出し、ヒヤリとした風が頬を滑る。
タクシーを拾いたかったがこの辺りは元々車通りが少ないのかあまり見かけない。時間が惜しいが仕方がない。閑静な街並みを歩くのもたまにはいいだろう。歩きながらだと考えが良くまとまる。
彼女がどのような人間性であれ、除念師の腕前は確かなものだった。生半可な覚悟では身に付かない程の。なんにせよこのレベルの除念師とパイプを持って置くのは今後のことを考えても得策だ。
渡航のための準備で忙しい時に舞い込んだ、マフィア関係の厄介ごとが早く片付いたのは喜ばしい。後はリンセンに引継ぎを頼めば彼なら上手くやるだろう。一度事務所に寄って夜行便に乗れば、朝方にはミザイストムたちの待つハンター協会に到着するはずだ。それから、それから。
「しまったな。どこの番組かくらい聞いておけば良かった」
こういうのはレオリオよりバショウの方が得意だったか。ついでに録画の仕方も聞いておかねばならない。ドラマの感想を伝えるのは大分先になりそうだが。
――出来るだけ沢山。
美味しいものでお腹いっぱいになりたい。
――出来るなら毎日。
お腹いっぱい食べて、満腹になるまで食べて、お腹がきゅうきゅう痛くなるまで食べて。それで、それで柔らかい毛布に包まれて眠れたら最高なのに――なんて。
誰だって一度は願うこと。子供の頃からの私の夢。
小さい時に一度だけ大人に打ち明けたら、とても笑われた。あの時はなぜ笑われたのか分からなかったけれど、今は、ちょっと分かる。
一生に一度くらいなら出来るかもしれないけれど、毎日となるとこれがなかなか、実現が難しい。
けれどやっぱり美味しいものが食べたかった私は、諦めなかった。
※※※
「お待ちしてました。貴方がクラピカ様ですね?」
確認すると、青年は表情を変えず一度だけ頷いた。その返答に満足した私は「どうぞお掛けになってください」とソファに座るよう促す。
青年はやはり何も言わず、スーツがシワにならないように浅く腰掛けた。
私は愛用の名刺入れから一枚取り出し青年に見えるよう渡す。
「ご存知かとは思いますが、私は美食ハンターのバイトという者です。本日はよろしくお願いします」
名刺を受け取るなり、青年はじっと見つめ動かなくなった。
「どうされましか?あ、資格の確認であればお出しします」
「いや、結構だ」
胸ポケットからハンター資格カードを取り出そうとしたが、青年の第一声に止められてしまった。外見より声変わりしてないなとか、身元を確認したかったのではないのかとか、一瞬のうちに様々な思考が交錯する。
「ただ、聞いていた話と違うなと」
「話ですか。ちなみにどんな話を?」
「ジュエリーハンターだと聞いている」
「……もしや貴方に私の店を紹介したのは、ビスケット・クルーガーという方でしょうか?」
「そうだ」
合点がいった。あのロリババア、またか。私は美食ハンターだと何度言えばいいのか。頑なに認めない常連客に頭が痛くなる。
「混乱させてしまい申し訳ございませんでした。私の本業は美食ハンターで、宝石鑑定は兼業になります」
深々頭を下げる。青年はさほど重要視していないようで、名刺をテーブルの端に置き、軽く指を組んでこちらを見据えた。歳のわりに迫力がある。
「構わない。すまないがこちらは送り合う名刺もない。早速だが本題に入らせてもらおう」
淡々と、事実だけを述べる青年。私も異論などなく軽く首肯した。
青年は店に入ってきた時から携えていたジュラルミンケースをテーブルの中央に置く。
「これが依頼の品物ですね?」
「あぁ。これを本来の姿に戻して欲しい」
「拝見いたします」
作業用の布手袋を取り出し両手に嵌めた。ベタだが、映画俳優を真似して顔の横あたりできゅっと手袋を嵌め、気合を入れる。スポーツ選手が試合前にするルーティーンと同じだ。
ケースのクリップを丁寧に外す。さながら、お姫様のおみ足にガラスの靴を履かせる王子様の気分で。いよいよご対面だ。
品物はベルベット生地のクッションに寝かされていた。事前に光源を落とした室内の僅かな光に反射する、その煌めき。
嗚呼この瞬間がたまらなく、好き。
お客様の前ではしたないと思うのに、予想より大きな獲物の登場に垂涎が湧いてくる。
「これが『落陽の花嫁 バンシーナ王女の首飾り』ですね」
青年は沈黙で応えた。間をもたすために言葉にしただけなので、やはり構わず作業を進める。
「それでは、触れさせて頂きます」
「……いちいち断らなくていい」
「? ……嗚呼、失礼。お客様にお伺いを立てたのではございません」
「? どう言う意味だ」
青年は眉間に皺を寄せて、ようやくポーカーフェイスを崩した。そうすると年相応のあどけなさが出る。
「もちろん、彼女にです」
青年は、ますます分からないといった面持ちで口の端を歪めたので、笑い出しそうになるのを必死にこらえた。
存外、素直で可愛らしい人だ。今は仕事中と言うだけで、普段は、意外と感情豊かな人なのかもしれない。
止めていた作業を再開する。テーブルに幾つかの道具を並べ、首飾りを見分する。見れば視るほど私好みだ。
ビブタイプのネックレスはチェーンの途中からきめ細かいゴールドのタンブルに切り替わり、トップに大粒の希少ジェムストーンであるクンツァイトが座す。
その周りをピンクダイヤモンドとブラウンダイヤモンドが小花を模すように囲み、約80カラットクンツァイトをより引き立てる。
紫外線に弱いクンツァイトは、専用のライトで見ると不純物が全く無い見事なクラリティだ。角度を変えるごとにカラーが淡いライラックや濃いラベンダーになるのも、クンツァイトの特徴と一致している。
流石「夕べの宝石」と言われるだけあって、2色のダイヤモンドと合わせても、ちっとも見劣りせず優美に仕上げられている。
約300年前にとある王女の輿入れの際に作られた、悲劇の首飾り。凝で確認し、首飾りに取り巻く禍々しいオーラを視なければ一般人はただの美しい宝飾と思うことだろう。
検分を終え、青年に向き直る。
「拝見いたしました。確かに本物です。続いて依頼内容と報酬の確認ですが、依頼は除念。前払いで500万ジェニー。500万ジェニーは口座に振り込みを確認しています。成功報酬は800万ジェニーと宝飾の『怪奇の引き取り』でよろしいですね?」
「問題ない」
「かしこまりました。では始めます」
「……ここでか?」
「えぇ、信用問題としてご覧になる方も多いですし、特に見られて困るような能力ではないので。だだまぁ。場合によってはお時間を頂くこともあります。外で待っていただいてもよろしいですよ」
「そちらがいいのなら問題ない。こちらこそ気を遣わせた」
青年は首を横に振る。うなじに掛かる位に切り揃えられた髪が、サラサラと動作に合わせて頬に当たった。それをうざったそうに指で払う仕草が似合っていて、洗髪料のCMを思い出す。眼福、眼福。
「左様ですか。それなら遠慮なく」
心の中で合掌しつつ、私はオペ前の執刀医がするように、両手の指先を上にして、手の甲を青年に見せるように掲げる。だが私が振るうのはメスじゃない。
私は美食家だ。握るのはナイフとフォークに決まってる。
さぁ、|仕事《しょくじ》の時間だ。
まずは具現化したフォークでこの禍々しいオーラをパスタ麺のようにくるくる巻き取っていく。コツは細く長く丁寧に。いきなりがっつり取ってしまうと後々巻き取り辛くなって歪な形になり、舌触りが悪くなって味が落ちるのだ。また、フォークに巻き取ったことで半固形化したオーラを、時折りナイフで削ったり押し付けたりして成型し「彼女」の理想の姿に整える。この技術をどうしても習得したくてジャポンのとある郷土菓子職人に弟子入りし、親父さんにしごかれたのは今ではいい思い出だ。
「彼女」の夢。死後強まり、持ち主に災いを振りかけるほど、強く願った想い。
ただ幸せになりたかった。
温かな光の中で祝福されたかった。
民衆の……いいえ、大切な人たちだけで良かった。歓声などなくても喜びと幸福に満ちた声を聴いて送り出されたかった。
たった、それだけだったの。
捕虜として敵国に嫁いだ敗戦国の姫君の「彼女」。
不名誉な名前で嘲笑われ、結局最後は故国も親も尊厳も踏みにじられた貴女は憤り、憎悪し、唯一手放さなかった形見に呪いをかけた。その尊い命を全て使って。
美味しいものをお腹いっぱい食べたかっただけの「商品」だった私とは、立場も時代も違うけれど、私たちは同等に願い祈った。
ただ、幸せになりたいと。
――してあげる。絶対に。
本当に?
――本当。素敵な結婚式にしてあげる。
……ありがとう。
禍々しく荒んでいたオーラが、ゆっくりと鎮静し、春の野原のような姫君に相応しい優雅なオーラに変わる。
完成した彫刻を、黒曜石で作ったプレートの上にそっと乗せる。
うん、上手く出来た。
「……見事だな」
私の手腕をじっと見ていた青年は、思わずといった風に感嘆した。彼も凝で見ていたのだろう。
「ふふふ、今回は良い素材でしたのでつい力が入りました。力作です」
「これで除念完了か?」
「まさか!これからが本番です」
「何?」
「お忘れですか?私は美食ハンター。美食ハンターとは、常に美味なる食を求め追従する料理人であり、同時に己の食欲を満たすためなら毒すら食べる美食家です。そして、目の前に皿があるならば」
――完食してこそ、真の美食ハンターたりえるのですよ。
私は再びナイフとフォークを握りなおし、丹精込めて作った料理にぶすりと突き立てた。
成型した鉱石の彫刻。花舞い散る教会に佇む夜明け色の花嫁の、華奢な肩から足元へ、ナイフを一直線に刺し入れる。彫刻の素材は元の材料と同じクンツァイトで出来ている。だが私が具現化したナイフとフォークは、レアで焼いた特上フィレ肉を切るみたいに美しい断面を作る。じゅるり。
もう無理。我慢できない。
舌なめずりを、一度して。
「いっただきます!」
あーん、半分に切断された花嫁を人目も憚らずに大口を開けてぱくつく。ふぁあおいしぃ。やっぱり1番美味しいのは曰く付きだよぉ。300年もの間熟成された怨念は、こっくりとした濃厚さがありつつスパイスが刺激的でクセになる。あっという間に無くなっちゃった。さてもう一口。
ゴキン、ガキュ。コキュコキュ。
おおよそ食事をする際に出るはずのない、鉱石を噛み砕く音がしばし薄暗い部屋に響き渡る。カリカリ、ごっくん。
あーあ、食べ終わっちゃった。どうしてご飯って食べたら無くなってしまうのだろう?名残惜しく舌で歯列をなぞるも、口内にはカケラも残っていなかった。
「ごちそうさまでした」
すっかりきっかり、全て胃の中に納め、手を合わせる。これにて除念完了だ。あとはゆっくり消化されていくだけ。
ずっと黙って始終を見ていた青年が、食べ終わったタイミングを見計らい恐る恐る話しかける。
「……終わったのか」
「はい!とても美味しかったですっ!」
「味の感想は聞いてないのだが?」
久しぶりの『当たり』を引いたことでテンション上がって、そのまま元気いっぱいに返事をしたら青年に失笑されてしまった。ちょっと恥ずかしい。
「えとはい、これで除念完了です」と笑いながら誤魔化すも今更効果はなく。
青年は浅く息を吐いた後、やや躊躇いながらも問うた。
「貴女はオールイーターなのか?」
日常では容易に出ないその単語に、少し驚いた。
「おや、博識なのですね。よくご存知で。普通はpica (異食症)と混同されがちなのですが」
「昔、古い文献を読んだことがある。異食症患者の中でも、きちんと栄養となり消化・排泄が出来ること、尚且つ健康に問題がない者のことを、オールイーター(完食する者)と呼称すると」
「患者ですかぁ。まぁ好物の宝石ばっかり食べる私も大概偏食家ですし間違いではないですねぇ。みんなと同じ普通に食事を楽しんでるだけなんだけどなぁ。……難しいなぁ」
好物が鉱物、なんて駄洒落は流石に控えた。前に他のお客様に言ったら滅茶苦茶嫌そうな顔されちゃったから。お風呂のタイルにこびりついた水垢でも見るような目だった。美少女にそんな目で見られるのは、色眼鏡で見られるよりも耐えがたかった。
「 ……すまない。失言だった。貴方たちを差別するつもりはなかった」
おっと。こちらは逆にナイーブな美青年のようだ。そんなつもりで言ったのではないのはこちらの方なのに。
「いえいえ!picaとオールイーターの区別がついてるだけでも十分です。その文献もまだ偏見が強かった時代に書かれたものでしょう?あれです、お互い失言だったという事で水に流しましょう。あ、そうそう。2年前に知り合いのオールイーターが受けたドキュメンタリードラマが、来月再放送するのでご興味あればご覧下さい。少々オーバーに取り上げられちゃって本人は不服そうでしたが、番組としてはなかなか良い出来でしたよ」
頭を下げる青年に向けて、気持ち、声を高くして喋り倒す。こちらの真意を上手く汲み取ってくれたのか、困惑気味に揺れていた大きな猫目はドラマの話をした辺りで店に入ってきた時と同じ真面目くさった目つきになっていた。
「嗚呼、今度暇を作って観ることにする」
それは観ない人が言っちゃう定型文なんだけど、まぁいっか。彼ならちゃんと観てくれるんだろうな。逆に生真面目に観たことを感想付きで報告してきそうだな。偏見だけどそんな感じがする。
唐突に電子音が鳴り響く。青年の胸ポケットから等間隔で鳴るそれを取り出したのを見て、私は目配せで促した。
「どうした?……そうか、問題ないすぐ戻る。……悪いが急用ができた」
青年は電話を切ると、首飾りが仕舞われているのを確認してからジュラルミンケースを閉じ、立ち上がる。私も見送るために一緒に出口に向かう。
「残りの支払いについては後日送金する。慌ただしくなってすまない」
「とんでもございません。またの御入用お待ちしてます」
そのまま帰るのかと思ったがドアノブに手をかけたところで静止する。振り向きざまに赤い石の耳飾りが金髪から覗いた。美味しそうだが私の好みではなかった。
「……今更だが口止めはしなくていいのか」
「何がですか?」
「貴女の念能力と体質について」
「あははっ」
青年は――クラピカさんは笑う私をみて、本日何度目になるか分からない怪訝そうな顔をする。だけど、しょうがないじゃないか。可愛いって思っちゃったんだもの。黙ってれば良いのに可愛いなぁ。
能力についてはマ分かる。戦闘に直結するし私の念にも弱点やリスクはある。未だ私を諦めない奴らに、もしそこを突かれたらかなり痛い。主に胃袋が。
だけどさぁ。それって一体何の意味があるのだ?
美味しいものをより美味しく食べるためだけにある能力の弱点を突くより、基本戦闘に特化してない私を殺すつもりなら普通に肉体言語(ステゴロ)に持ち込まれた方が御し安いのだから。
体質についても、だ。好奇心なのか優しいんだか分からないがおかしなことを言うものだ。
散々、都度都度、何度も言っているけれどしょうがない。私の宣伝力が足りて無いだけかも知れないし。人が良くて可愛らしい客人に免じて何度でも言ってあげよう。
徐にナイフとフォークを取り出した私を見て、クラピカさんの表情が強張る。
戦闘にでもなると思ったのか?お客様にそんなことするわけないのに。
「私は美食ハンターですよ?」
――食を追求し食を楽しむ姿を、どうして隠す必要があるのでしょうか。
しゃきんと、景気付けにカトラリーを擦り合わせ私はそう微笑みながら言い放った。
***
ビスケから紹介されるにあたって、件の女に会う際に2つ忠告されたことがある。
「いいこと?絶対彼女の前で念能力は見せないこと。特にアンタの鎖はあの子の好みど真ん中だわさ。喰われたくなかったら除念が終わるまで具現化しないことよ」
私が油断するとでも?侮られたものだ。これでも幾つか修羅場を潜っている。大抵のことは対処できるつもりだ。なるたけ避けたいが、もし戦闘になるのなら私とてただでやられはしない。
「そうじゃないってんのよ。戦いになるだけならアタシもこんなに言わないわさ」
話が見えないな。その除念師は私の鎖を無力化する念能力者なのか、それとも私の力量をはるかに上回る強者なのか。はたまたそれ以外の懸念材料があるのか、要領を得ない。
「そこから既にズレてるんだけどね……ここで色々言っても仕方ないわさ。アンタみたいな奴は、事前に集められるだけ情報を集めても最終的には直に会って判断するタイプでしょう?」
……そうだとしても、やはり得心がいかない。その除念師の女は一体何者なのだ?
「大喰らいで宝石狂いの、ハンターよ」
ジュエリーを好むハンターか?貴女と同じストーンハンターと?大喰らいの意味は?
「言葉のまんまの意味だわさ。少なくともアンタが今まで対峙してきた連中とは毛色が違う女よ」
言うだけ言って去っていったビスケの言葉は一から十まで正しかった。
バイトと名乗った女は、オレが今まで相手してきた人種と文字通り毛色が違かった。
にこやかに出迎えた妙齢の女は、シャープなデザインのダブルスーツを着こなした都会的な顔立ちの女だった。耳の頂点辺りでカットされた髪型が活動的なパンツスタイルと相まって、都心の高層ビルで働くキャリアウーマンを彷彿させた。
この時点ではまだビスケの忠言は半信半疑だった。笑顔の下で繰り広げられる人の裏の顔なぞ見飽きている。この女もその類程度としか認識していなかった。
だが、除念を始めたあたりから少しずつそれが間違いであると気付かされていく。いや、間違いはまた語弊がある。
海の写真を見ていたはずがそれは水底から海面越しに撮った青空だと言われたような、根底からズレた考え違いをしていたのだ。
彼女が求めているのは宝石ではない。
食の好みとしては鉱石を主食としているのだろうが、自身で何度も進言している通り彼女は美食ハンターだ。
彼女を虜にしているのは念だ。食材として念を見ている。
思念を、感情を、好物の石に変えて名前の通り|齧り付く《バイト》する。
事務所を後にし、おもむろに鎖を具現化させていない右手を見る。
ビスケの言う通り、オレの鎖はあの女好みの復讐と義憤の味がすることだろう。ビスケの口ぶりから察するに、他人が具現化した鉄鋼物でもオールイーターの胃袋は受け付け、自らにかかった念も造作もなく平らげるのだろう。不用意に晒して気に入られでもしたら、食に貪欲なハンターから逃れるのは容易ではない。
職に就きながら、食に着く。
それを除念と称し、美食と誇る。
私欲であるがそこにプロ意識があるのが、1番厄介なところで、恐らくビスケもその点を危惧したのだろう。
善ではないが、悪でもない。
美徳ではないが、悪徳ともいえない。
下等ではないが、上等でもない。
そういった手合いとは相性が悪い。今ひとつ踏み切れない。ありふれているから。
握り拳を作りまた広げると、瞬きの間に指の付け根から手首に重さが乗る。クモへの復讐を形にした鎖状。彼女のカトラリーとオレの鎖に違いなどない。すべては私利だ。
いっそ、みだりに貪り喰らう極悪人であれば踏ん切りがつくのに――傾きかけた愚考を慌てて頭から振り払う。あまりにも浅ましい。人の悪性を望むなどあってはならないことだ。
もう一度拳を握り込む。貴金属の硬質さと冷たい感触ごと包むように。
外はもう日が沈み、夜の藍と夕日の紅の中間で紫の帷が生まれていた。そのあわいの中に金星だろうか。ひときわ明るいオレンジ色の星が瞬いている。ポツポツと家々の窓辺が灯り出し、ヒヤリとした風が頬を滑る。
タクシーを拾いたかったがこの辺りは元々車通りが少ないのかあまり見かけない。時間が惜しいが仕方がない。閑静な街並みを歩くのもたまにはいいだろう。歩きながらだと考えが良くまとまる。
彼女がどのような人間性であれ、除念師の腕前は確かなものだった。生半可な覚悟では身に付かない程の。なんにせよこのレベルの除念師とパイプを持って置くのは今後のことを考えても得策だ。
渡航のための準備で忙しい時に舞い込んだ、マフィア関係の厄介ごとが早く片付いたのは喜ばしい。後はリンセンに引継ぎを頼めば彼なら上手くやるだろう。一度事務所に寄って夜行便に乗れば、朝方にはミザイストムたちの待つハンター協会に到着するはずだ。それから、それから。
「しまったな。どこの番組かくらい聞いておけば良かった」
こういうのはレオリオよりバショウの方が得意だったか。ついでに録画の仕方も聞いておかねばならない。ドラマの感想を伝えるのは大分先になりそうだが。
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