青薔薇が枯れるその日まで

「おはようございます。賢者様」

魔法舎の階段を降り、食堂のドアをくぐったところで聞こえてきた声に、晶は顔を向けた。

「おはようございます、ローザさん。今日も早いですね」

ローザはふふと微笑むと、陶器のような真っ白な頬をほんのりと赤くして言った。
「どうかローザと呼んでください。私はもうあなたの魔法使いですから」

晶の手を取った彼女は食堂に並ぶ椅子の一つを魔法で動かす。真っ青なベルベット地の椅子は背もたれに美しい薔薇の意匠が施されている。

ローザが賢者の魔法使いに選ばれてから、魔法舎は随分と雰囲気が変わった。内装は青薔薇モチーフの調度品や装飾で統一されており、かつて訪れたあのサロンのようだった。
エスコートされるままに椅子へ座ると、青い猿の人形がローザの肩から降りてきた。人形の"ローザ"はとてとて歩き、晶の手にじゃれつくように擦り寄った。

ローザが呪文を唱える。たちまち机の上には美しい料理の数々が並んだ。飾り切り卵のサラダに、薔薇型のアップルパイ、ポタージュスープには生クリームで薔薇の模様が描かれている。

その光景を眺めながら、晶は違和感を抱いた。魔法使いが魔法で料理を作り出すことなど当たり前のはずなのに。

…いつからだろうか。
ローザ以外の魔法使いを、魔法舎で見なくなったのは。彼女が魔法舎に来たときはまだ他の魔法使いもいたはずだったが。

他の魔法使いって?

例えば □□…


「賢者様」

頭にかかった霞の先を探ろうとした晶はハッとした。

「賢者様、顔色があまり…。ご気分が優れないようでしたら、本日はお休みになられてはいかがでしょうか?」

ローザは心配そうな表情を浮かべながら紅茶のカップをサラダの横に置く。
モーニングにぴったりの茶葉を教えてくれたのは誰だっただろうか。頭の隅をかすめる疑問はモヤモヤとした霧に覆われたようにはっきりしない。

「そ…うですね…。…すみません、ローザ。せっかく用意してもらったのに。せめてお茶だけでもいただきますね」

晶の言葉にローザは柔らかな微笑みを返し、ソーサーの縁にシュガーを2つ置いてくれた。




食堂を後にした晶は、自室に戻るため階段に向かった。しかしホールを横切る途中で、玄関のドアに目が止まった。

魔法舎の外に出たのはいつが最後だった?

先ほどからちらつく不安が後押しするように、そろそろと晶の手がドアに伸びる。

___私が思い出せないナニカはとても大事なことで、果たさなければならない役目があって、それで…

いつの間にか晶の目には涙が溜まっていた。
晶はドアにすがりつくように膝をついたが、どうしてもドアノブを回すことはできなかった。
胸を詰まらせる想いが何なのか理解できない。
だがそのもどかしさよりも、それを思い出すことに対して強烈な恐怖が全身を覆うのだった。

カシャン…

足元からシンバルの音が聞こえた。
青い陶器のサル、"ローザ"が晶に寄り添うように座っている。

「晶様」

後ろから抱きすくめられ、晶を落ち着かせるようにローザはドアノブを握りしめる彼女の手を包んだ。

「晶様は私が閉じ込めてしまったのです。外に出られなくしたのはあなたの心ではなく、私の願いであり、魔法です。どうか、そうお思いになって。」

もう一度カシャンというシンバルの音が鳴り、花びらが舞い落ちる。薔薇の香りに包まれながら晶は意識を手放した。




ベッドに寝かせた晶の髪をやさしく撫でていたローザは、気配を感じたように窓を見やった。

ガラスの一部が曇り、指でなぞられたような文字がひとりでに浮かび上がる。

_____"収穫なし"


簡素な報告を一瞥したローザは表情一つ変えずにその文字を魔法で消した。落胆より、予想通りという言葉が頭に浮かぶ。

文字が写っていた窓ガラスの先、青薔薇の幻想で目隠しされた向こう側を見つめる。


世界が、崩壊し続けている。

大いなる厄災が訪れ、晶と賢者の魔法使いたちが大敗したあの日から。加速度的に。

あの日、半数以上の仲間を喪った彼らは決断した。
もはや大いなる厄災は押し返せない。だがせめて晶だけは元の世界へと帰すことをそう、残された時間はその術を探すことに費やすべきだと。

シャイロックの名で呼び出され、魔法舎を訪れたローザはそう聞かされた。そして頼まれたのだ。自分たちがその術を探し回る間、晶をこの魔法舎で守ってくれないか、と。

なにから?
世界に絶えず降り注ぐ厄災の混沌から。
晶の心を蝕む絶望から。

ベッドに寝かされた晶の目元は涙で腫れ上がりひどい隈があった。
横のスツールに座っていた紺の髪色の白衣の男は淡々とした口調で話を進めていく。以前サロンで会ったときの柔和さは削ぎ落とされ、まとう雰囲気は凍てつく湖畔の風を思わせた。
頼み事の体ではあったが、断る道など初めから存在しないだろうなとローザは感じていた。拒否すれば石にされるか、強制的な約束の下に束縛されるか、あるいはこれから晶に施すみたいに記憶を改竄されるか…。

だが、憔悴した晶を見た瞬間からローザの心は決まっていた。自分の意志で彼女はその役目を引き受けたのだった。


あれから幾夜も経ち、晶の顔から隈は消えたがその心は不安定なままだった。
下まぶたに残る涙の跡を親指で柔くなぞりながら、ローザはそれでも幸せを噛み締めていた。

「…皮肉ですね。初めてお会いしたときは、あなたを手元に繋ぎ止めたくて…でも叶わなかった。それが今はあなたを手放すために囲っているなんて。」

晶を元の世界に帰すのが先か、
こちらの世界の完全な崩壊が先か。
どちらが先でも、ローザは自身が満たされて終われるだろうと考えていた。
右手で肩にのせた人形を撫でながら、左手で眠る晶の手を取る。
青薔薇に囲まれた花園は世界の崩落などまるで無いかのように美しく咲き誇っていた。
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