桜花歳時記
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あづまはや
あづま、の語原は諸説ある。
神代、倭建命がこの土地を眺め妻を偲び「吾妻はや」と言ったのが「あづま」となったと書かれている。
その妻を偲んだ坂というのが、日本書紀によると碓井峠、古事記によれば足柄峠碓井坂らしい。
どちらか、というのははっきりしない。
ともかくも、板東の地から遠く南に派遣される、または都より落ちた者たちによって、この足柄峠では多くの歌が読まれてきた。
その足柄の地に、私はいた。
人を拒む山々が背後にそびえる。
峠道を行く前に、麓で腹ごしらえをしていたところだった。
「我が妻よ…ねー」
「他にも足柄越えをよんだ歌は多いんだよ」
「田舎にきちまったなー、あーせーがきれんなー、カミサン元気かなーってことだべ」
「いや、そういう情緒のないことを………そうかも」
「だべ」
強飯を頬張りながら、与四郎はうんうんと頷いた。
天と山並みは青い。
大きな杉の古木、せり出した梢が強い陰を作る。
「さて、そろそろいくべ。ちっと遅くなっちまった。みんな音沙汰ねーのにしびれきらしてる頃だ」
「ああ」
「行くか」
そういうと、与四郎は手を差し出してくる。
ありがたく、それにすがって私は立ち上がった。
私は裾を払うと、先を行く与四郎に続いた。足柄の山道はまだ長い。
古木を縫っていく山伏の背は、なぜか人の世のものではない気がした。
このまま、里には帰ってこないような。
「足柄の八重山越えていましなば…か…」
「ん?疲れてんのか?」
私が思わずつぶやいた声に与四郎は答える。
まさか聞こえるとは思わなかった。さすがに耳が良い。
「いや、歌だよ。足柄の八重山越えていましなば、誰をか君と見つつ偲ばん…って続くんだよ」
板東から遠い土地へと派遣された防人、その妻の歌。
足柄を越えてしまえば、想うだけでは届かない。彼の人の面影を誰に見ればいい、そういう歌だった。
「誰のこと考えてた?」
「誰の…というか…えっと…、学園のみんな元気かなって…」
「そっか。あっちのこと考えんなっても無理か」
あ、いま、少し拗ねた。
与四郎はそう言って、また先を急ぐ。
「与四郎だって、ずっと黙っていたじゃないか。なにを考えてたんだ?夕飯?」
「夕飯っておめー、…あーいや、まーいいや。いろいろな、いろいろ」
与四郎が歩き出したので、私もそれに続く。
しばらく与四郎は無言で歩いていたが、唐突にぴたりと足を止めた。
いぶかしむ私にかまわず、与四郎は笑った。
「知ってるか、ここは」
ここは、と与四郎は言う。
「好きな女のことを考える坂なんさ」
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