桜花歳時記
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「室の八島」
霧の立ちこめる葦の原に光がさした。
暁光である。
もえたつ空に、さあっと水鳥が飛び立つ。
水紅の羽が舞った。
霧は紫にも見えるし、金にも見える。湖面は青ににじんで、やがて桃色へと姿を変えた。
見渡す限り、一面に、夜と朝とが溶けて広がっている。
ところどころで茂った森が島のように浮かんだ。
魅入る私のすぐ傍らで、黄金に染まる灌木がそよいだ。
「これが、室の八島」
「さて、どうだか。ほんとはここじゃねーかもしんねーし、昔はもっと広かったのかもしんねーし」
室の八島は平安の昔から歌われた、板東屈指の景勝地だった。
さぞや大きな湿原だろうと、そう思う。
「すごい…、綺麗…」
「さむくねーか」
「吹っ飛んだよ」
「そっか」
すい、と水鳥がゆく。
それから、同じように刀を抜いた。朝日に光って、清廉な光を放つ。
「心を直くして用いる剣には、破邪顕正の光が沿うという」
方便だ。
もしくは、剣術者たちの妄言。
兵法にたける者の信念は、狂気に似ている。
そう樫の木にもたれた与四郎は思っただろうし、私もそう思う。
「破邪の剣ねー」
本当にそんなものがこの世にあるというのなら、戦場に刀は無用だ。
だが、一方で焦がれる。
「私の師はそう教えてくれた」
「おめーの、剣の先生か?」
「そう。私の技は、その先生に仕込んでいただいたものなんだ」
「へー…」
ちらり、と遥の横顔を与四郎は眺める。
「いー先生だな」
「そう、いい先生だよ」
やがて里のあちこちで火を焚く煙が立ち上り、目の前の水煙…霧の海は晴れる。
与四郎は、純粋に足柄の出身というわけではないらしい。
捨てられたのか、売られたのか、自ら飛び出してきたのか。貧しい寒村では珍しくない。
「ところで与四郎」
「ん?」
「与四郎は、どこの生まれなんだ?」
踏み込みすぎか。
そう思ったが、与四郎は気を悪くした様子もなく錫杖を北に向ける。
「んー、もーちっとさみートコだナ。ここよりもっと北、麻も米もろくに育たねー」
「寒いんだ」
「錫とか鉄とか銀とか掘ってヨ、みんなそんな仕事してんだ」
ふふっと、笑った。
「いつか、連れてってやんだーヨ」
いつか、と与四郎は笑った。
宵には散る命かもしれない。
忍びの口約束ほど頼りないものはない。
水煙が晴れていく。
人の世界が来た。
私は「機会があればな」とだけ言い、果てのない湖面をしばらく眺めていた。
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