山桜SS
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犬桜
「しづやしづ…しづのおだまきくり返し…」
「…?」
珍しく誰もいない図書室で突然につぶやいた彼女に、金吾は首をかしげる。
彼女の視線を追うと、『義経記』が目に入った。
「その歌、静御前の…」
「金吾には、なじみ深い?」
「まあ…」
皆本金吾は鎌倉出身だ。
義経の英雄譚、その恋人――妾である静御前との恋物語の一端だ。
「私、静御前は好きじゃなかった」
「へえ?」
静御前が好きじゃない、そういう人間がいるなどと思わなかった。それほどに、彼女は英雄譚の中で神聖視されている。
義経が京の山奥で逃がしたという、白拍子。
神の子と言われるほどの美しさと力を持ちながら、時代の波に翻弄された悲劇の娘。
「ついて行けばよかったのにと、そう思っていた」
「ん?」
「私なら」
初めて静御前の逸話を聞いた時、どうしても許し難いと思った。私ならば、と幼稚なことを考えた。
そう、本を手にする。
「死の淵の最期まで、夫と供にしたいと思った。所詮彼女は漂泊の白拍子なのだと、そう…」
「それは――」
金吾の表情がゆがむ。
何か言おうとして、それでも言葉にならない、そんな顔だ。
「それならば最期まで、しづやしづ、と、呼んでもらえるのに。未練がましい女だと、そう…」
「どうなるか分からない戦地に、女を連れては行けないだろう。まして――」
まして、と金吾は眉を寄せた。
彼女は、正妻と違って一門では無い。巻き込む必要は無い。
史実通りの美貌と才覚があれば、彼女は落ちのびてもやっていける。
「金吾の言いたいことはわかるよ、でもそれは男の感情だ。女としては、不忠な奴だとそう思ったということだよ」
「いや、だから…」
この頑固者に、一体なんと言えば良いだろう。
金吾は同時に考える。
自分が同じ立場に立たされた時、果たして金吾は目の前の少女を連れて逃げるだろうか。
それとも、落ちのびろと手放すだろうか。
そして、ふと疑問が頭をかすめる。
「…なあ」
「ん?」
「嫌いだった、とか、思った、とか…過去形だよな、今は…」
彼女は驚いたように目を見開き、それから金吾に向かって微笑んだ。
「静御前の腹の中には、義経の子供が宿っていた」
「………」
義経は気づかなかったかもしれない、そんな時期だ。
ただ、母だけが子供の存在を知っていた、そんな時期。
腹の中には、まだ世に知られていない命が宿っている。
ついて行きたい、死の傍らまで、しづやしづ、と呼ぶ声を聞きたい。それでも彼女は別れを選び都へと落ちようとした。
「彼女は源一族ではない。一人で生きる才覚も人脈もある。私だったら…」
いや、と彼女は笑う。
私でも、と言いなおした。
「落ちのびることを選ぶかもしれないと、そう思った」
「………」
「自らの望みや命に代えてもと…そう思うかもしれないって…」
「………」
「え、ちょっと金吾、なに目頭押さえて」
「いや、ちょっと……、そんなに真剣に私との事を考えてくれているとは…」
「え、いや、これは単なる昔話っていうか歴史解釈っていうか…一般的な見解として、別にっ」
「『私だったら』と言っておいてか」
「う」
そうっと、金吾は頬に手を伸ばす。
触れた所が熱い。
どちらの熱なのか、それは分からない。
「金吾は、金吾だったら、どうする…?」
「私、だったら…」
金吾がそう笑ったその時だった。
「げふっ!」
縄が金吾の首に食い込む。
ごきっと首が鳴った。
「図書室では私語厳禁…」
「うるせーと思ったら、お前らかよ」
「き、きり丸に、怪士丸…え、一体いつから…!」
「持ち出し禁止書庫の方にいて…」
そう言った怪士丸は目の前の少女に視線をやる。
神聖なる図書室での私語を見逃してしまうほどに、先ほどの会話は衝撃だった。
「これは」と思った。
これは、彼女に対して見解を改めなくてはならない。
きっと、恋人ができても自分たちの委員長は変わらないだろうと思っていたのに。
「寂しいものだな…」
「へ?」
怪士丸の言葉に、彼女は「?」を浮かべる。
「だいたいお前ら、そういう話は寝間でしろよな!図書室はデートスポットじゃねーんだぞ!」
「ね…っ、これはそんな話ではなくて!」
かあっと顔を赤くした金吾は、怪士丸に睨まれて青くなる。
目の前の壁には私語厳禁の張り紙。
「いにしえの、しづのおだまきくり返し、昔を今になすよしもがな…か…」
「ちょ、怪士丸!?」
そう、怪士丸はゆっくり縄を繰った。
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