【田仁志慧編】


木手永四郎の一日は、近くの浜でのジョギングから始まる。

海に入れる季節になれば、ひと泳ぎしてから部活の朝練に向うこともある。
この日も、ほどよい汗を掻き、家へ戻るところだった。
いつもと違ったのは、ジョギングコースの曲がり角、そこに居るはずもないヤギが居たことだ。

「……!」

咄嗟のことに対処が出来ず、木手は珍しくバランスを崩した。
ヤギの方も突然覆い被さってきた人間に驚き、暴れだした。

「…あ、」

ベキッ

バランスを崩した拍子に落とした眼鏡が、暴れたヤギによって踏みつけられてしまった。
ヤギの持ち主が現われた時には、フレームの曲がった眼鏡はヤギの涎だらけで目も当てられない惨状となっていた。

結局、代えの眼鏡をすぐに用意することも出来ず、裸眼のまま登校するはめになった。



「うきみそーちー、永四郎」
通学路の途中で、背後から声がかかる。

「おはようございます…田仁志くん…?」
声の主が幼馴染の田仁志慧のものだとわかった木手は、立ち止まって振り返った。
それでも、ぼやける視界に自ずと語尾が疑問系になった。
「…って、どうしたんだ?眼鏡」
振り返った木手の顔に、象徴とも言うべき眼鏡が無いことに気付いた田仁志は目を丸くして問う。
「今朝、ジョギング中に不注意で壊してしまいまして…」
「永四郎でもそんなことあるんだな…」

暫く並んで歩いていた二人だが、木手が進路から次第に逸れていくのに田仁志は気付いた。
「あ、永四郎、前!」
「え、…?」
田仁志の呼びかけが間に合わず、木手はゴチンと民家の石垣にぶつかった。
「す、すみません…」
「えーしろー…シーサーに謝ってるぞ」
「え、あ….」
今この場に平古場や甲斐がいなくて良かったと思うほど、自分でもありえない失態に木手は内心恥ずかしさを覚えた。

「……もしかして、あんまり見えてない?」
田仁志が木手の顔を覗きこむようにやんわりと声を掛ける。
「…輪郭はわかるんですが…どうも距離感が掴めなくて…」
「なら、俺が学校まで案内してやるさぁ」
探るように彷徨わせた木手の手を、田仁志が徐に握った。
「…!…田仁志君?!」
今はまだそんなに人通りもないが、中学生男子が手を繋いで歩くことはさすがに抵抗があった。
それでも、田仁志の気持ちを無碍にすることも出来ず、木手は黙ってついて行くしかなかった。

「へへっ…」
急に思い出し笑いをした田仁志に、木手が眉根を寄せた。
「何ですか?」
「小さい頃のこと思い出してさ」
「…小さい頃?」
「あの頃の永四郎って大人しかったから、俺がいつも手ェ繋いで引っ張ってたな、って」
「そうでしたか?」
「いつからか俺のこと頼らなくなったから、今、なんか凄ぇ嬉しくて」
日に焼けた肌とのコントラストで白さがより強調された歯を見せて笑う田仁志。

田仁志の笑顔を見ていたら、いっそこのまま手を繋いでいてもいいか、と気持ちが揺れてしまう木手であった。