眼鏡夫婦


『ど…、どうしよう…』

休み時間で喧騒としている教室内でひとり、手塚国光は机の上にひろげた教科書やらノートを見つめ、呆然としていた。

その理由は…


『理科の資料集を忘れてしまった…』

生徒会長や部長を務め、常に模範生でいなければならない手塚にとって、忘れ物はあってはいけない事だった。
そうして、真っ白になりそうな頭の中で考えたのは、休み時間の有るうちに誰かに借りに行く事だった。


一番近い隣りのクラスの大石とは時間割も被っている事が多い。
なので、次に近い河村のクラスを訪ねた。

「悪いな、手塚。今日、うち理科無いんだ…」
ラケットを持っている時からは想像もつかないぐらい恐縮された。
「や、いいんだ…」
手塚も済まなそうに教室を後にした。

そして手塚はその次の不二と菊丸の教室へ向かった。
「二人のどちらかに理科の資料集を借りたいんだが…」
昼食を取ったにも拘わらず菓子パンを食べている菊丸と、その向かいで何やら楽しそうに話す不二に、手塚は声をかけた。
「理科の資料集?あ…ブッフォ…」
修羅の如く殺気で、不二が菊丸の口に菓子パンを詰め込み言葉を封じる。
隣りで咽ている菊丸を余所に、不二は手塚にとびっきりの(一部の人には胡散臭いと思われる)笑顔で答える。
「ごめんね。僕も英二も今日は持ってないや」
「そ、そうか…」
笑顔に騙されつつ、手塚はどうしたものかと考えあぐねる。

「乾にでも借りてみたら?」

不二の一言で、手塚は渋々乾の教室に向かう事にした。


乾のクラスに向かう廊下を渡りながら、手塚は緊張していた。
自分のクラス1組と、乾のクラス11組はあまりにも離れ過ぎていて、滅多な事では訪れなかった。
何だか、別の場所のような気がして行きづらいと感じていた。

そんな事を思いつつ、教室の前まで来たものの、どう声を掛けたら良いかわからず、うろうろしていた。
すると中から人が出てきた。
そのクラスメイトは手塚に気づき、声を掛けてくれた。
「誰かに用事?」
「あ、…い、乾に…」
「おーい、乾ぃー客だぞー」
手塚は、クラスメイトが呼んでいる間に、乾にどう話そうかなどと頭の中で言葉を纏めていた。

教室内をちらりと覗くと、騒ぐ男子や大声で話す女子の中で独り、大学ノートを開き電卓片手に何やら書き物をしている乾を見つけた。
「おいっ、乾!!」
何度呼んでも乾は気づかない。
「…だめだ。なんか、あいつ別世界みたい…」
「あ、じゃぁ、いい…済まなかった…」
乾が計算に没頭している時に邪魔しては悪いと、手塚は自分のクラスに戻って行った。

その背中を見送りながら、クラスメイトはため息をつき、乾の机に向う。
「こら、乾」
乾の机をこつんと叩き、注意をひく。
「この計算終わるまでちょっと待って」
返事は返ってきたものの、顔は下を向いたままだ。
一向に話を聞く気配がないので、クラスメイトは無視して話し始める。
「1組の手塚がお前に用事あったみたいで来たんだぞ?」
「手塚……?」

暫しの沈黙……


「手塚ぁ!?」
スイッチが入ったおもちゃのように徐に立ち上がり、乾はクラスメイトに詰め寄る。
「何しに!?」
「し、知らねぇよ…」
今までの無関心ぶりが嘘のように乾は右往左往し始める。
「いくら呼んでも気付かねぇから、帰ってたぜ…っておい!」
仕舞いにはクラスメイトの言葉を最後まで聞かず、教室を飛び出して行った。

全速力で1組に向かいながら、乾は心の中で、手塚に気付かなかった事を詫びた。

「手塚ぁ!!」
ちょうど自分のクラスに入る寸前の手塚を捉え、乾は声を掛ける。
それに気づいた手塚は、眼を大きくして驚いた。

「い、乾…」
校内といえど、11組と1組には短距離競技並みの長さがある。それを全速力で来た乾は、軽い息切れをしつつ、手塚に先程のことを詫びた。
「何か…用あったんだって?さっき気付かなくてごめんね」
「…………」
ただ忘れ物を借りに来ただけなのに、わざわざ聞きに来てくれた事に手塚は照れくささを覚えた。
「大した事じゃないから良かったんだ。ただ…理科の資料集を借りようと思って…」
聞くやいなや乾は踵を返し、また走り出そうとしていた。
「理科?わかった。今持ってくるな」
「でもっ、休み時間終わるし構わん…」
ますます申し訳無くなった手塚は、もう資料集は諦めたと言うことを口にした。
「いいって。ちょっと待っててね」
そう言って乾はまた、長い廊下を走っていった。

乾は自分の教室に戻り、忙しなく机を漁って資料集を探す。
「乾ー、手塚何の用事だったの?」
先程のクラスメイトが聞いてくる。
探す手を休めず、乾は答える。
「んー?あぁ…理科の資料集貸して欲しかったんだって」
「そんだけ?!神妙な顔つきだったから、俺はてっきり重要な事なのかと…」
その言葉を聞いて、乾はくすっと笑う。
やっとお目当てのものを見つけ、また教室を急いで出て行こうとする。
振り向きざま、

「手塚って、可愛いよね」

と言い残し、クラスメイトを凍らせた。
おりしも、授業開始の鐘が校内に鳴り響いた。


一方、手塚は、乾がいつ来るのかとそわそわし、鐘が鳴ってしまったことで、教室内で律儀に待機せざるをえなかった。
先生が来ない間に断わってこようかと、扉付近で様子を伺っていると、先程以上に息を切らした乾がやって来た。

「手塚、お待たせ」

目の前に資料集を差し出され受け取ったものの、手塚はありがとう、と礼を言うのが精一杯だった。





放課後、手塚は資料集を返すべく、乾の教室近くの階段踊り場で乾が通りかかるのを待っていた。

暫くして、乾が友人等と談笑しながら来るのを見つけ、声を掛ける。
「乾」
乾はすぐに気付き、手塚の方へ寄って行く。
「手塚、ここで俺が通るの待ってたの?教室まで来てくれてもいいのに…」
資料集を受け取りながら苦笑する。
「そんなに11組って遠く感じる?」
「そ、んな事は無いが…しかし…やはりどこか、別の場所のような気がして…それで、遠慮してしまうのかも…」
目線を反らし恐縮して話す手塚に、乾はひとつの提案を出した。

「じゃあさ、俺も1組に遊びに行くからさ、手塚も偶には11組においでよ。手塚とはいっぱい話したいし…10組分の隔たりなんか小さく感じるぐらいにさ」

それを聞いて手塚は、今まで中々足を運べないでいた11組に、今度は遊びに行けるような気がしていた。
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