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短編

 先生のことが好きなんだと思う。数学の三平方の定理を教えてくれる先生を見ながら自分の胸がじわじわと暖かくなるのを感じた。
「いいか? 直角三角形を見つけたら斜辺とその他の辺を……」
 先生の言葉を聞きながら必死に図形と問題文を眺めているつもりでも、先生の指を追いかけている。「……おい、聞いてるのか」先生の言葉を聞いてハッとした表情になる。
「す、すみません。聞いてましたよ」
「謝るのか自分の言葉を主張するのかどっちかにしろ」
「聞いてました!」
「じゃあ解いてみろ」
 先生はそう言ってさっさともう1人教えてる方に行く。レイジくーーんと呼びかけられている向こうは俺よりも、多分頭がいい。先生のことを待って解いた問題をほらほら、と見せつけてくる。腹が立つので俺も早く終わらせて先生を自分の方に呼び寄せたい。すごいじゃん! と褒める言葉を聞きながら、俺だって、と思った。
 三平方の定理を使った空間図形はきれいに図形を書けないと難しい。フリーハンドでもきれいに線を引いておかないと先生に叱られる。
 はい! と挙手をしたら向こうはげっとしかめっ面をして先生は「早いな〜〜」と腰を上げてこっちに座った。赤ペンで丸がつけられていく。
 先生ってのは気楽な仕事だと思う。こっちが授業で解いてる間は丸つけしかしないじゃん。あとは暇そうにしてる。
 俺が前にそんなことを言ったら大声で笑われた。今は、その何もしてない時間を俺とあいつとで争うように奪い合っている。

 いつからだろう、成績が伸びなくなったのは。元々そこまで好きじゃなかった勉強が、とある教師のせいで学校に行くのすらも面倒になった。心配した母親がテストには行けるように塾に通えと言い出した。絶対嫌だ、と渋る俺を無理やり連れてきた塾は個人経営の場所で室長と先生がいた。最初はこんな古そうな場所、と思ったが体験授業と称して教えてもらった授業は面白かったし楽しかった。先生は授業の合間に色んなことを教えてくれた。大学に行きたいと思ったのは先生のおかげだった。
 先生に好きな人がいて告白するときには本当にショックだった。ようやく俺にも春が来たんだよ、とデリカシーのない言葉を言う先生に「ほんとに出来たら教えてね」と返すだけで精一杯だったのに。先生は容赦なく「ちゃんと祝えよお前ら〜〜」と頭を撫でてくる。好きな人の幸せを願うって前に解かされた小説分に書かれてたけど。あんなの絶対うそだ。好きな人には、自分の横で幸せになってほしいし俺のことを幸せにして欲しい。
「祝うよ、もちろん」
 返事はどうにも掠れた声になった。
 その日の帰り道、階段の踊り場のところにレイジがいた。苗字は忘れた。無視して帰ろうとしたのに、向こうは俺に話しかけてきた。
「タカハタ」
「……なに?」
「俺、間山礼司」
「知ってる」
 嘘をついた。なんで自己紹介なんてかったるいことをしなければいけないのか。塾の関係性なんてもっと薄っぺらいものだろう。同じ学校でもないのに。
「そっちは?」
「……高畑直哉」
「タカハタ。先生の恋人、見にいかないか?」
 うわ、と思った。そんなの最低だ、とも。先生の恋人候補について俺たちが知っていることは数少ないはずだ。なのに、それをマヤマは知っている。気持ち悪い、と罵ってやればよかったのに俺はなぜか「行ってどうすんの?」と聞いていた。
「別に。見に行くだけ」
「なんだよそれ」
「向こうがどんだけ先生を好きなのかも知らないけど、こっちだって長年片想いしてたんだから。会ってどんな人があの人の心を奪ったのか知りたいだけ」
 まるで小説みたいなように話す。俺は笑って返事をした。
 もし、映画や小説みたいに偶然にも恋に落ちるってことあるのかもしれない。人間はどんな相手に心を奪われるか分からないんだから。
 マヤマはにやりと笑った。最低だな、と。それはこっちのセリフだ。

 先生はその後恋人ができたという報告はしなかった。フラれちゃったんですね、と俺と間山とで慰めると「なんでバレてんだよくそぉ……」と情けない声を出す。
「好きな人ができたら足踏みしてないでさっさと攻めに行かないと」
「そうそう、俺たちみたいにね」
「……そういや、お前らには好きな人っていんの? あ、ああでも答えにくかったら」
「いる、いるよ」
「いますけど」
 間山と声が重なった。先生はにっこりと笑って「そうだよなあ、イケメンでも恋とかするよなあ」という。だからその相手はアンタですけどね!? 心の中で呟きながら先生をちょっと睨んだ。間山との協定のためあんまりガツガツと攻めたアプローチはできないことになっている。先生の好きな人という女性は呆気なく間山の方を見ていた。それが原因でフるなんてことはないだろうけど、まあ何かしらの遠因にはなっているかもしれない。先生は俺の春が遠のいた、と言っているがあなたの求めてる春は今ここにありますよ、と心の中で呟いた。
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