短編もの
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その人をはじめて見たのは、私がプロメポリスにきて最初の冬だった。帰宅すべく外へ出ればいつから降りだしたのか雪が道路をうっすら覆い隠すほど降っている。
故郷である日本よりも冷え込む冬の夜の冷たさに身を震わせ、足早に帰路を歩く。雪に加えてマフラーに顔の半分を埋めているせいで視界は不明瞭で、前髪をさらって額に吹き付ける風が痛いくらいだった。
痛いくらいの寒さに耐えながら、なんとか自宅の安アパートまで半分ほどのところまできた。相変わらず雪は降っているが風が少し落ち着きはじめていたころ、目印にしている赤い消火栓の前に誰かが立っている。
スポットライトのように電灯がその人を照らし、ゆっくり舞い落ちる雪の効果か、映画のワンシーンのようだった。腰ほどまである長い髪が弱い風になびいてさらりと揺れる。思わず見惚れそうになる光景だったが、私の目を引いたのはその格好だった。
その人の長い腕は寒空の下に惜しみなく曝されていたのだ。淡いピンクのタンクトップはよくよく見ても防寒性に優れているとは言い難く、マフラーやコート、手袋といった防寒具は身に付けていない。見ているだけで身震いしそうになる。
「あの、寒くないんですか?」
衝動的に立ちすくむその人に声をかけ、ぐるぐると巻かれているマフラーを外し近づく。せめてもの防寒に、あと半分の帰路だしマフラーくらいなら貸せると思ったからだ。私の声に顔をあげたその人は此方を睨み、馬鹿にするような挑発的な笑顔を浮かべて口を開く。
「アンタにはそうみえるのか?」
思っていたよりも低い声だった。髪の長さや視界の悪さのせいで勝手に女性だと思い込んでいたが、近づけば顔は私よりも遥か上にあり、曝されている長い腕も男性的なしなやかさを持っていた。左腕にはここではあまり見られない漢字で"風刃"とタトゥーが入っている。
けれど、私が驚いたのはそれだけではなかった。彼がそう言った瞬間、火のつく音がすぐ近くで聞こえ、チカチカと明るい火の光が目についた。燃えていたのは彼の骨ばった指だった。目を丸くして、少しだけ身を引くと彼が喉をならして笑う。バーニッシュだ。それは声に出ることなく、浅く呼吸する白い息が私の口から吐き出された。
「俺達は火だ。アンタは火が寒さを感じると思うのか?」
あえて子どもにでも問いかけるような物言いに、少しだけムッとする。挑発にのるかのように、彼の前に一歩進み出て、先程まで巻いていたマフラーを眼前に差し出す。そうはいっても、実際には身長差のせいで彼の胸元あたりだったので格好はつかなかった。
「でも、火だって寒くなるくらい冷えるかもしれないじゃないですか」
今度は私ではなく、その人が目を丸くする番だった。先程までの挑発的な笑顔はどこかへいったのか、不意を食らった顔をしている。
「それに、見てる私が寒いんです」
そうつけ足して、もう一度マフラーを彼に押し付けるようにすると反射的に受け取った。
受け取ったことに対するよく分からない達成感に笑顔を浮かぶ。目の前の彼が呆れたように白い息を吐いた。
「そのマフラー、貸します。いつでもいいですけどちゃんと返してくださいね。ここから真っ直ぐいった青い色のアパートが私の家なので」
そういって指で残り半分の帰路を指し示す。彼はまた、深くため息を吐き出した。吐き出した息は白く空気にとけこんでいく。
「アンタ、もう少し危機感っていうものを覚えた方がいいぜ」
落ち着いていたはずの風が突発的に強くなる。音を立てて吹く風が降る雪と積もっていた雪とを巻き上げて、視界を白くする。マフラーで押さえていた髪の毛は押さえていたものがなくなったお蔭で風の吹くまま無造作に広がった。
風の音に混じってバイクの音がうっすらと聞こえる。再び目を開けると彼の姿はなく、ずっと遠くに明るい火の光がぼんやりと見えた。
返してくださいね、といったもののなんとなくもう会えなさそうだな、とも思う。あのあとマフラーがなくなった私はブルブル震えながら自宅に帰った。洗面台の鏡に写っていた私の鼻や頬、耳までもが寒さで真っ赤になっていた。
それから日は経ち、プロメポリスに来て一度目の冬は終わってもマフラーはまだ戻ってきていない。彼が返しに来るかも、とほんの少しだけ期待して新しいマフラーを買うことはなかった。
ようやく彼の姿を見たのは、もう私がプロメポリスの暮らしに慣れたころだった。とはいっても実際に会ったわけではなく、テレビの画面越しである。
その日のニュースは一つの話題で持ちきりだった。あの"マッドバーニッシュ"の幹部とリーダーが全員捕まったらしい。私がそれを知ったのは電車の車内ニュースやすれ違う人たちの会話で、出勤してからもその話題は耳にタコができるくらい聞いた。意外と若い男だった、とか、捕まえたのはバーニングレスキューの消防士だ、とかなんとか。ようやくちゃんとそのニュースを見たのは休憩室のテレビだった。
職場の休憩室に備え付けられたテレビは連日マッドバーニッシュの犯罪報道もしくはプロメポリスの司政官であるクレイ・フォーサイトの偉業とフォーサイト財団が行う研究についてを垂れ流している。
一介の一般庶民にはその研究がすごいことなのかも分からず、ただぼんやり聞き流すだけだった。犯罪報道だって、自分の住む地域でなければいいとさえ思っている。
お昼ごはんのおにぎりのラップを剥がしながらニュースを見る。アナウンサーが淡々とマッドバーニッシュの幹部3人が逮捕されたことをつげていた。
数日前にマッドバーニッシュがフリーズフォースによって一斉に逮捕されたが、幹部3人は未だ逃走中だ、というニュースを聞いたばかりであった。
逮捕したのはバーニングレスキューのガロ・ティモスという若い隊員で、クレイ・フォーサイトから直々に勲章を授与されるらしい。テレビの中の青年はかなり特徴的な髪型をしていたが、希望溢れる若者の顔をしていた。
冷えたおにぎりを咀嚼しながらテレビを流し見る。
昨日行われた逮捕劇に続けて、マッドバーニッシュの幹部だ、というアナウンサーの声とともに映った1人の顔に、見覚えがあった。持っていたおにぎりを落としかけ、変なタイミングで息を飲んだせいで、おにぎりが気管に入りそうになり噎せる。
忘れるはずがない、冬の日にあったあの人だった。顔写真の下にテロップが入っており彼の名前が"メイス"だということが記されている。
スマホを起動させて、検索欄にマッドバーニッシュと入れる。溢れかえるネットニュースに一々目を通す。
下世話な記事やマッドバーニッシュを擁護する記事、その犯罪行為に対する言及……情報の多さに頭が痛くなる。それにも関わらず、休憩時間をほとんど使って得られた情報はマッドバーニッシュが放火を中心とする炎上テロリストで、バーニッシュ犯罪の大元だということだった。「そんな……」という私の小さい呟きが口からもれた。
その日の午後はいつの間にか終わっていた。気がつけば退勤時間で、さっさと職場をあとにする人達は「バーニッシュが捕まった今日は良い日だ、飲もう!」と飲み会の口実をつくり出ていく。
私の中にあるのは失望や落胆というよりもなぜ?という疑問が大きかった。たった一度きりしか会ったことのない人だ。彼のすべてを知っているわけではない。けれども、あのときに会った彼からはそんなことをするようには思えなかった。
何かそうしなければいけない理由があるんじゃないか。刺さって抜けなくなった棘のようにその出来事がずっと頭から離れず、胸が痛む。帰り道、通りがかったあの赤い消火栓の前には誰もいない。
それでも私の日常は続く。例えクレイ・フォーサイトによってプロメポリスが壊滅しかけても。今思い返しても、あんな怒涛の日はなかったんじゃなかろうか、と思える。
全市民の避難勧告、無数の場所で起こるバーニッシュ火災、燃える龍、などなど。思い返すだけで一日かかりそうだ。
そんなこんなで壊滅しかけたプロメポリスは徐々に復興の兆しを見せている。
私の自宅である青いアパートは燃えて、職場は運良く燃えなかった。少しだけがっかりしたのは私のなかだけの話だ。財布や大事なものは一式もっていたから金銭面の被害にはあわなかったものの、家具や服といった諸々の必需品は大抵燃えた。
全焼を免れたのはバーニングレスキューの迅速な消火活動によるものだろう。
混乱を極めるプロメポリスから日本に一時帰国することも叶わなかった私は、仮設住宅でしばらく暮らしていた。
交通機関が軒並みダウンしていたこと、治安状況の悪化による出国許可が降りなかったのが原因だ。そんな中でもフォーサイト財団、元バーニッシュ、プロメポリス市民の尽力で街は少しずつだけれど元通りになってきている。暴動は多々あったが、不思議と大きく広がることはなかった。
今日はようやくあのアパートに戻れる日だった。罹災した大家さん曰く、これを機に古くなってきたアパート自体建て直しするから、待ってくれるのであれば前と変わらない家賃で住んでいい、らしい。二つ返事で頷いた。新しい家に前と変わらない値段で住めるなんて。降って湧いた幸運だった。
大家さんからの連絡を仮設住宅で待ち続け、入居日の連絡がきたときは文字通り飛び上がって喜んだ。それもあって、ものを増やさないようにしたおかげか大きいキャリーケース一つと小さい段ボール箱一つ、大きめのリュックに収まる荷物で仮設住宅を出た。
冬も終わったプロメポリスには細やかながら春の兆しがみえた。もう幾年も帰っていない日本より四季は感じにくいし、桜は咲かないけれど積もっていた雪は融け、緩やかに気温は上がっている。路傍の花もちらちらと姿を見せはじめていた。
がらがらとキャリーケースとその上にのせた段ボール一つを引きずり、大きなリュックを背負って懐かしい家路を歩く。まだ少しがたつく道にキャリーケースを引っかけ転びそうになった。
しばらくぶりの風景に周りを見渡して、変わったところもあれば、変わらないところもあることに気づく。しばらく前まで焼けた家や瓦礫に囲まれていたとは思えないくらいだった。
赤い消火栓が見えればもう半分、とその消火栓へ目を向けると人がいた。腰まである青く長い髪に、見覚えのある淡いピンクのタンクトップから伸びる腕は組まれ、手に紙袋を持っている。
キャリーケースの音に反応したのか、此方を向いたその人と目が合う。間違いなく、あの日会った彼であり、テレビで見た"マッドバーニッシュ"の幹部の"メイス"だった。
私の姿を見つけた彼が、此方へ足を向ける。蛇ににらまれた蛙のように動くことができず、彼が来る数秒間、体感でいえば数時間、私は立ち尽くしていた。
目の前に立った彼はじろりと私を見下ろし、私に紙袋を差し出す。訳も分からず、彼と紙袋を交互に見て首を傾げれば、ぴたりと閉じられていた彼の口が開く。
「返しにこいといったのはアンタだろう」
「…あっマフラー!」
忘れていたわけではないけれど、すっかり頭からそのことが抜け落ちていた。受け取った紙袋の中を覗けばあの時渡したマフラーがちゃんと入っていた。
「あの、ありがとうございます」
「俺は借りてたモンを返しただけだ」
「いえ、その、いつから待ってたんですか」
そう聞くと彼はバツが悪そうに目をそらし黙り込んだ。私のアパートは燃えて、昨日まで正反対の位置にある仮設住宅に住んでいたからこの道を通るのは本当に久しぶりのことだった。
あの日私が指し示した青いアパートはもうないし、私は彼の名前を知っているけれど彼は私の名前も知らない。私と彼の接点はこの消火栓しかなかった。街が崩壊したのはずいぶん前だった。
じっと彼の片方しか見えない目をみつめる。明後日の方向に目をそらしたまま、「アンタには関係ないだろう…」とはぐらかした。その返答で充分だった。
一体何時から、私にマフラーを返すためだけにここで待ってくれていたのだろう。寒い冬の日も待ってくれていたのだろうか。
それを考えるだけでじわじわと胸が熱くなる。
「返しにきてくれてありがとうございます。その、良ければお名前聞いても良いですか?」
「……ニュースをみてないのか」
呆れたような表情だった。紙袋がなくなって空いた手はポケットに収まっている。ニュースを見ていなくても街に出ているだけで彼らの名前は嫌というほど聞いていた。
「でも、貴方から聞いてませんから」
「……メイスだ。アンタは?」
「名前です。メイスさん」
メイスさんは私の言い分に、とことん呆れているらしい。ため息混じりに言われた名前はやっぱりニュースで聞いたものと一緒だった。
「もう少し歩けば私のアパートなんです。今日引っ越しで……まだ何もないですけど、お茶くらいご馳走しますよ!」
「だから、アンタはもう少し危機感を……いやもういい」
自身の頭に手をおいたメイスさんはふ、と少しだけ苦笑して諦めてしまった。また指で指し示す私に、メイスさんはごく自然な流れで置いていた私のキャリーケースの持ち手をとって歩き出す。
「あ、いいですよ、重いですし」
「アンタ引っかけて転びそうだからな」
「えっ見てたんですか?」
「転んだのか?」
ここまでくる道中、転びかけたのを思い出してそう聞くと意地悪い笑みを浮かべたメイスさんが私を見ていた。
「まだ転んでないですよ」
「ならなおのことアンタには持たせられないな」
メイスさんは私よりも安定した足取りで段ボールが一箱のるキャリーケースを引いて歩く。春の暖かい風が通りすぎて、メイスさんの長い髪をさらっていった。
前と変わらない場所にある私のアパートは建て直しの際に色も変えたらしい。パステルグリーンに塗られたアパートの前に立つとメイスさんが目を開いてアパートを指差した。
「ここ、アンタの家か?」
「そうですよ」
なぜそんなに驚くのだろう。よく分からず頷けばメイスさんが小さな声で「俺の家もここだ」といった。驚きの声を上げれば、メイスさんは、自嘲気味に「俺達は元マッドバーニッシュだからな」と笑う。
元とはいえ、たとえそれがバーニッシュを守るためだとはいえ、そう簡単に人の目は変わっていないみたいだった。何度も断られようやく承諾してくれたのがここなのだという。
ここまでくると、と思い部屋番号を恐る恐る聞く。私の部屋は角部屋だから、隣は一部屋だけだ。察したメイスさんが告げた部屋番号は、私の隣の番号で思わず笑ってしまった。その様子をみたメイスさんが、もう見慣れてしまった呆れ混じりの笑顔を見せる。
「改めて、今日からよろしくお願いします。メイスさん」
「ああ、よろしく。名前」
春の陽気が、これからはじまる新しい道を穏やかに照らしていた。
故郷である日本よりも冷え込む冬の夜の冷たさに身を震わせ、足早に帰路を歩く。雪に加えてマフラーに顔の半分を埋めているせいで視界は不明瞭で、前髪をさらって額に吹き付ける風が痛いくらいだった。
痛いくらいの寒さに耐えながら、なんとか自宅の安アパートまで半分ほどのところまできた。相変わらず雪は降っているが風が少し落ち着きはじめていたころ、目印にしている赤い消火栓の前に誰かが立っている。
スポットライトのように電灯がその人を照らし、ゆっくり舞い落ちる雪の効果か、映画のワンシーンのようだった。腰ほどまである長い髪が弱い風になびいてさらりと揺れる。思わず見惚れそうになる光景だったが、私の目を引いたのはその格好だった。
その人の長い腕は寒空の下に惜しみなく曝されていたのだ。淡いピンクのタンクトップはよくよく見ても防寒性に優れているとは言い難く、マフラーやコート、手袋といった防寒具は身に付けていない。見ているだけで身震いしそうになる。
「あの、寒くないんですか?」
衝動的に立ちすくむその人に声をかけ、ぐるぐると巻かれているマフラーを外し近づく。せめてもの防寒に、あと半分の帰路だしマフラーくらいなら貸せると思ったからだ。私の声に顔をあげたその人は此方を睨み、馬鹿にするような挑発的な笑顔を浮かべて口を開く。
「アンタにはそうみえるのか?」
思っていたよりも低い声だった。髪の長さや視界の悪さのせいで勝手に女性だと思い込んでいたが、近づけば顔は私よりも遥か上にあり、曝されている長い腕も男性的なしなやかさを持っていた。左腕にはここではあまり見られない漢字で"風刃"とタトゥーが入っている。
けれど、私が驚いたのはそれだけではなかった。彼がそう言った瞬間、火のつく音がすぐ近くで聞こえ、チカチカと明るい火の光が目についた。燃えていたのは彼の骨ばった指だった。目を丸くして、少しだけ身を引くと彼が喉をならして笑う。バーニッシュだ。それは声に出ることなく、浅く呼吸する白い息が私の口から吐き出された。
「俺達は火だ。アンタは火が寒さを感じると思うのか?」
あえて子どもにでも問いかけるような物言いに、少しだけムッとする。挑発にのるかのように、彼の前に一歩進み出て、先程まで巻いていたマフラーを眼前に差し出す。そうはいっても、実際には身長差のせいで彼の胸元あたりだったので格好はつかなかった。
「でも、火だって寒くなるくらい冷えるかもしれないじゃないですか」
今度は私ではなく、その人が目を丸くする番だった。先程までの挑発的な笑顔はどこかへいったのか、不意を食らった顔をしている。
「それに、見てる私が寒いんです」
そうつけ足して、もう一度マフラーを彼に押し付けるようにすると反射的に受け取った。
受け取ったことに対するよく分からない達成感に笑顔を浮かぶ。目の前の彼が呆れたように白い息を吐いた。
「そのマフラー、貸します。いつでもいいですけどちゃんと返してくださいね。ここから真っ直ぐいった青い色のアパートが私の家なので」
そういって指で残り半分の帰路を指し示す。彼はまた、深くため息を吐き出した。吐き出した息は白く空気にとけこんでいく。
「アンタ、もう少し危機感っていうものを覚えた方がいいぜ」
落ち着いていたはずの風が突発的に強くなる。音を立てて吹く風が降る雪と積もっていた雪とを巻き上げて、視界を白くする。マフラーで押さえていた髪の毛は押さえていたものがなくなったお蔭で風の吹くまま無造作に広がった。
風の音に混じってバイクの音がうっすらと聞こえる。再び目を開けると彼の姿はなく、ずっと遠くに明るい火の光がぼんやりと見えた。
返してくださいね、といったもののなんとなくもう会えなさそうだな、とも思う。あのあとマフラーがなくなった私はブルブル震えながら自宅に帰った。洗面台の鏡に写っていた私の鼻や頬、耳までもが寒さで真っ赤になっていた。
それから日は経ち、プロメポリスに来て一度目の冬は終わってもマフラーはまだ戻ってきていない。彼が返しに来るかも、とほんの少しだけ期待して新しいマフラーを買うことはなかった。
ようやく彼の姿を見たのは、もう私がプロメポリスの暮らしに慣れたころだった。とはいっても実際に会ったわけではなく、テレビの画面越しである。
その日のニュースは一つの話題で持ちきりだった。あの"マッドバーニッシュ"の幹部とリーダーが全員捕まったらしい。私がそれを知ったのは電車の車内ニュースやすれ違う人たちの会話で、出勤してからもその話題は耳にタコができるくらい聞いた。意外と若い男だった、とか、捕まえたのはバーニングレスキューの消防士だ、とかなんとか。ようやくちゃんとそのニュースを見たのは休憩室のテレビだった。
職場の休憩室に備え付けられたテレビは連日マッドバーニッシュの犯罪報道もしくはプロメポリスの司政官であるクレイ・フォーサイトの偉業とフォーサイト財団が行う研究についてを垂れ流している。
一介の一般庶民にはその研究がすごいことなのかも分からず、ただぼんやり聞き流すだけだった。犯罪報道だって、自分の住む地域でなければいいとさえ思っている。
お昼ごはんのおにぎりのラップを剥がしながらニュースを見る。アナウンサーが淡々とマッドバーニッシュの幹部3人が逮捕されたことをつげていた。
数日前にマッドバーニッシュがフリーズフォースによって一斉に逮捕されたが、幹部3人は未だ逃走中だ、というニュースを聞いたばかりであった。
逮捕したのはバーニングレスキューのガロ・ティモスという若い隊員で、クレイ・フォーサイトから直々に勲章を授与されるらしい。テレビの中の青年はかなり特徴的な髪型をしていたが、希望溢れる若者の顔をしていた。
冷えたおにぎりを咀嚼しながらテレビを流し見る。
昨日行われた逮捕劇に続けて、マッドバーニッシュの幹部だ、というアナウンサーの声とともに映った1人の顔に、見覚えがあった。持っていたおにぎりを落としかけ、変なタイミングで息を飲んだせいで、おにぎりが気管に入りそうになり噎せる。
忘れるはずがない、冬の日にあったあの人だった。顔写真の下にテロップが入っており彼の名前が"メイス"だということが記されている。
スマホを起動させて、検索欄にマッドバーニッシュと入れる。溢れかえるネットニュースに一々目を通す。
下世話な記事やマッドバーニッシュを擁護する記事、その犯罪行為に対する言及……情報の多さに頭が痛くなる。それにも関わらず、休憩時間をほとんど使って得られた情報はマッドバーニッシュが放火を中心とする炎上テロリストで、バーニッシュ犯罪の大元だということだった。「そんな……」という私の小さい呟きが口からもれた。
その日の午後はいつの間にか終わっていた。気がつけば退勤時間で、さっさと職場をあとにする人達は「バーニッシュが捕まった今日は良い日だ、飲もう!」と飲み会の口実をつくり出ていく。
私の中にあるのは失望や落胆というよりもなぜ?という疑問が大きかった。たった一度きりしか会ったことのない人だ。彼のすべてを知っているわけではない。けれども、あのときに会った彼からはそんなことをするようには思えなかった。
何かそうしなければいけない理由があるんじゃないか。刺さって抜けなくなった棘のようにその出来事がずっと頭から離れず、胸が痛む。帰り道、通りがかったあの赤い消火栓の前には誰もいない。
それでも私の日常は続く。例えクレイ・フォーサイトによってプロメポリスが壊滅しかけても。今思い返しても、あんな怒涛の日はなかったんじゃなかろうか、と思える。
全市民の避難勧告、無数の場所で起こるバーニッシュ火災、燃える龍、などなど。思い返すだけで一日かかりそうだ。
そんなこんなで壊滅しかけたプロメポリスは徐々に復興の兆しを見せている。
私の自宅である青いアパートは燃えて、職場は運良く燃えなかった。少しだけがっかりしたのは私のなかだけの話だ。財布や大事なものは一式もっていたから金銭面の被害にはあわなかったものの、家具や服といった諸々の必需品は大抵燃えた。
全焼を免れたのはバーニングレスキューの迅速な消火活動によるものだろう。
混乱を極めるプロメポリスから日本に一時帰国することも叶わなかった私は、仮設住宅でしばらく暮らしていた。
交通機関が軒並みダウンしていたこと、治安状況の悪化による出国許可が降りなかったのが原因だ。そんな中でもフォーサイト財団、元バーニッシュ、プロメポリス市民の尽力で街は少しずつだけれど元通りになってきている。暴動は多々あったが、不思議と大きく広がることはなかった。
今日はようやくあのアパートに戻れる日だった。罹災した大家さん曰く、これを機に古くなってきたアパート自体建て直しするから、待ってくれるのであれば前と変わらない家賃で住んでいい、らしい。二つ返事で頷いた。新しい家に前と変わらない値段で住めるなんて。降って湧いた幸運だった。
大家さんからの連絡を仮設住宅で待ち続け、入居日の連絡がきたときは文字通り飛び上がって喜んだ。それもあって、ものを増やさないようにしたおかげか大きいキャリーケース一つと小さい段ボール箱一つ、大きめのリュックに収まる荷物で仮設住宅を出た。
冬も終わったプロメポリスには細やかながら春の兆しがみえた。もう幾年も帰っていない日本より四季は感じにくいし、桜は咲かないけれど積もっていた雪は融け、緩やかに気温は上がっている。路傍の花もちらちらと姿を見せはじめていた。
がらがらとキャリーケースとその上にのせた段ボール一つを引きずり、大きなリュックを背負って懐かしい家路を歩く。まだ少しがたつく道にキャリーケースを引っかけ転びそうになった。
しばらくぶりの風景に周りを見渡して、変わったところもあれば、変わらないところもあることに気づく。しばらく前まで焼けた家や瓦礫に囲まれていたとは思えないくらいだった。
赤い消火栓が見えればもう半分、とその消火栓へ目を向けると人がいた。腰まである青く長い髪に、見覚えのある淡いピンクのタンクトップから伸びる腕は組まれ、手に紙袋を持っている。
キャリーケースの音に反応したのか、此方を向いたその人と目が合う。間違いなく、あの日会った彼であり、テレビで見た"マッドバーニッシュ"の幹部の"メイス"だった。
私の姿を見つけた彼が、此方へ足を向ける。蛇ににらまれた蛙のように動くことができず、彼が来る数秒間、体感でいえば数時間、私は立ち尽くしていた。
目の前に立った彼はじろりと私を見下ろし、私に紙袋を差し出す。訳も分からず、彼と紙袋を交互に見て首を傾げれば、ぴたりと閉じられていた彼の口が開く。
「返しにこいといったのはアンタだろう」
「…あっマフラー!」
忘れていたわけではないけれど、すっかり頭からそのことが抜け落ちていた。受け取った紙袋の中を覗けばあの時渡したマフラーがちゃんと入っていた。
「あの、ありがとうございます」
「俺は借りてたモンを返しただけだ」
「いえ、その、いつから待ってたんですか」
そう聞くと彼はバツが悪そうに目をそらし黙り込んだ。私のアパートは燃えて、昨日まで正反対の位置にある仮設住宅に住んでいたからこの道を通るのは本当に久しぶりのことだった。
あの日私が指し示した青いアパートはもうないし、私は彼の名前を知っているけれど彼は私の名前も知らない。私と彼の接点はこの消火栓しかなかった。街が崩壊したのはずいぶん前だった。
じっと彼の片方しか見えない目をみつめる。明後日の方向に目をそらしたまま、「アンタには関係ないだろう…」とはぐらかした。その返答で充分だった。
一体何時から、私にマフラーを返すためだけにここで待ってくれていたのだろう。寒い冬の日も待ってくれていたのだろうか。
それを考えるだけでじわじわと胸が熱くなる。
「返しにきてくれてありがとうございます。その、良ければお名前聞いても良いですか?」
「……ニュースをみてないのか」
呆れたような表情だった。紙袋がなくなって空いた手はポケットに収まっている。ニュースを見ていなくても街に出ているだけで彼らの名前は嫌というほど聞いていた。
「でも、貴方から聞いてませんから」
「……メイスだ。アンタは?」
「名前です。メイスさん」
メイスさんは私の言い分に、とことん呆れているらしい。ため息混じりに言われた名前はやっぱりニュースで聞いたものと一緒だった。
「もう少し歩けば私のアパートなんです。今日引っ越しで……まだ何もないですけど、お茶くらいご馳走しますよ!」
「だから、アンタはもう少し危機感を……いやもういい」
自身の頭に手をおいたメイスさんはふ、と少しだけ苦笑して諦めてしまった。また指で指し示す私に、メイスさんはごく自然な流れで置いていた私のキャリーケースの持ち手をとって歩き出す。
「あ、いいですよ、重いですし」
「アンタ引っかけて転びそうだからな」
「えっ見てたんですか?」
「転んだのか?」
ここまでくる道中、転びかけたのを思い出してそう聞くと意地悪い笑みを浮かべたメイスさんが私を見ていた。
「まだ転んでないですよ」
「ならなおのことアンタには持たせられないな」
メイスさんは私よりも安定した足取りで段ボールが一箱のるキャリーケースを引いて歩く。春の暖かい風が通りすぎて、メイスさんの長い髪をさらっていった。
前と変わらない場所にある私のアパートは建て直しの際に色も変えたらしい。パステルグリーンに塗られたアパートの前に立つとメイスさんが目を開いてアパートを指差した。
「ここ、アンタの家か?」
「そうですよ」
なぜそんなに驚くのだろう。よく分からず頷けばメイスさんが小さな声で「俺の家もここだ」といった。驚きの声を上げれば、メイスさんは、自嘲気味に「俺達は元マッドバーニッシュだからな」と笑う。
元とはいえ、たとえそれがバーニッシュを守るためだとはいえ、そう簡単に人の目は変わっていないみたいだった。何度も断られようやく承諾してくれたのがここなのだという。
ここまでくると、と思い部屋番号を恐る恐る聞く。私の部屋は角部屋だから、隣は一部屋だけだ。察したメイスさんが告げた部屋番号は、私の隣の番号で思わず笑ってしまった。その様子をみたメイスさんが、もう見慣れてしまった呆れ混じりの笑顔を見せる。
「改めて、今日からよろしくお願いします。メイスさん」
「ああ、よろしく。名前」
春の陽気が、これからはじまる新しい道を穏やかに照らしていた。
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