この世界で迷子の僕を(全80話)


ジンに、私、いや、僕はバスルームに消えるジンの背中を見てから広い室内にあるソファに腰を下ろした。ジンの言葉と鏡に映る己は高校生程度に見えたが本当の己の年齢は10代とは程遠い。
膝を抱えるようにして座り直しそっと息を吐き出せばズンとした眠気に襲われ身体がガクンと揺れたがハッとし眠ってはダメだと思っていてもその凄まじい眠気に抗うことは、とうとう出来なかった。

シャワーを浴び終えたジンは荒々しく髪を拭きながら服をまといバスルームを後にする。そして室内に目を向けるとあの男がいない。思わず眉間にシワを寄せ刻み込んだがすぐソファで丸くなって眠っている名もない男に口端を吊り上げ笑い、静かに抱き上げるとベッドに横たえた。
しっとりとしたままの髪が柔らかく落ちジンを信頼しきった様子でいるのに笑ってしまうのは仕方がないだろう。それにしても、この男は路地裏から連れて行った時も思ったが軽すぎる。
別段小柄という訳でもないし、つい先程見たこの男の身体はそこらの女以上に白く美しい肌を持ち無駄な贅肉などは一切ない。俺はヘテロだと思っていたがその裸体を見た瞬間も、路地裏で拾ったあの時も独占欲のような支配欲にかられ欲情したのも確かだ。

ジンは男の髪に手をふれ撫でれば自然頬が緩んでしまい息を吐くように、ふっと笑ってしまった。
それにしてもこいつは何故ベッドではなくソファで寝ていたのだろうかと考えつつ数度、頬を撫でその寝顔を眺めるとベッドから離れ煙草を咥え火をつける。カーテンを開け放ち室内の電気を消しても真夜中だというのに外界は明るく輝き月光が注がれてくる。
そうして煙草を吸い終えると男の横に身体を倒し目を閉じた。名前を考えるべきだなと思いつつ、いつにもなく静かな眠気が身体に押し寄せそのまま眠りについてしまった。

互いに眠りについてしばらく、男の身動ぐ気配にジンは眠りから覚醒しゆっくりと身体を起こせば路地裏で拾ったその男は固く強く目を閉ざし眉間に深いシワを寄せている。一体何の夢を見ているのだろうか、そっと頬を撫で顔にかかっている髪を払えばその表情は柔らかになり、ジンは少し笑うとバスルームに向かった。

髪をまとめ上げシャワーを浴びていれば不意にドンという鈍い音がしジンは顔をドアに向けシャワーコルクを回すことなくバスルームから出て素早く室内へと足を動かした。勿論、愛用のベレッタを構えたままで。
そうしてベッドルームに目を向けた瞬間、目に入ったのは顔を真っ青にしベッド脇で蹲って口を押さえている男の姿。それは路地裏で目にしたそれと寸分違わぬものであり、「おい」と声をかければその男はボロボロと涙を流しながら吐き戻しておりジンはそっと背中に手を当てた。
あまりにも自然に動いてしまったが男はジンを見上げると嗚咽をもらしながら手を伸ばし

「…ごめ、ん、なさ…ぃ」

独りになって、驚いて、気持ち悪くなって、耐えられなくて、僕、いま、吐いて、ごめんなさいと。


「気にするな」


そうスルリと出た言葉に男は涙で濡れた表情のままジンを見上げもう一度ごめんなさいと俯いてしまった。

「来い」


そのジンの言葉に頷きながら立ち上がれば荒く息を吐きながらジンに従い洗面所で口をゆすぎ顔を洗う。ジンはその間に服をまといルームサービスで部屋の清掃を念入りにしておけと頼む。
そうした間に男が姿を見せジンを見ると駆け寄ってきて抱き付こうとしてきたがすぐ思いとどまり本の一瞬距離を置いて立ち止まる。涙は相も変わらず流れ続けジンは躊躇うことなく男の腕を引き寄せ抱き締めた。そんなジンの行動に驚いたように肩を跳ねさせた男だがそんなジンの行動に従い男はジンの背を抱くようにギュウと抱き付いてきた。

ジンとは頭一個分程違うその男だが、ただ黙ってジンはその背を撫でたった1日にも満たない間にこの男に心を奪われているその事実に笑ってしまった。

男を抱き上げソファに下ろすと、それでも男は何も言わずジンの肩に額を押し付け泣き続けていたがそれも数秒のこと。グスグスと鼻を啜りながら男は顔を上げジンを見上げ


「ぼく、あなたに、なにを、」

恐らく続く言葉は「迷惑をかけたことでどう返せばいいのだろうか」とかそういうことだろう。

「気にするな」

と呟き「お前、どこか悪いのか」そう問いかけたら返ってきたのはジンの心を揺るがすもの。

「1人だと思ったら、よく分からなくて、気持ち悪くなって、それで」


そこまで続いた言葉はドアベルが鳴らされたことにより途切れジンは眉間にシワを寄せながら立ち上がり男の手がジンのコートを掴む。


「いかないで……、」
「すぐだ」


男は再び泣きそうになるがそれでもグッと息をのみ小さく頷いた。
ガチャと鍵を開け扉を開ければそこにいたのはウォッカであり、もうそんな時間かとジンはウォッカを室内に入れる。ウォッカと男の目が合う。


「アニキ、こいつは?」
「拾ったから、俺に従ってもらうつもりだ」
「あ、の…お、おはよう…ございます…」


ウォッカとジンを見つめる金の瞳は朝の光りに輝いておりジンは「ラボに連れて行く」と口にする。

「え…?アニキ、それは…」
「調べさせる」


ウォッカはなるほどと思いつつチラリと男を見やり、ジンは帽子をかぶり、男はジンに従いジンの背中を追うように立ち上がった。ウォッカは疑問一杯に男を見下ろしたがジンによる「無駄な詮索はするな」という低い命令に頷き男はウォッカに「ごめんなさい」と呟いた。

アニキは何も聞くなと言ったしこの男はただ申し訳なさそうにしておりウォッカは意味が分からずグルグルと悩んでしまうがアニキのことだ、何か考えがあるのだろうと無理矢理納得し部屋を出る二人の背中を追いかけた。

ホテルを出るまで三人は無言のままでありウォッカは運転席へ、ジンは助手席に、男は困惑しつつもジンが視線で後部座席へ乗るようにと促せば、男は躊躇いながら乗り込んだ。
キーを回しアクセルを踏んだウォッカと煙草を咥えたジン、そして後部座席の男がそっと口を開いたのは

「あの、名前って……僕はどうしていれば……」


と。ジンは煙を吐き出しチラリとミラー越しに男を見つめるとただ一言

「ジンだ」

と名乗り、男は「ジン」と呟き返しジンはウォッカに視線を向け「ウォッカだ」と顎でしゃくりまた同じように「ウォッカ」と呟いてから


「ぼく、名前…分からなくて…」


小さく小さく口にして。


「キナ·リレ」
「え?」
「いや、リレだけでいいな」


煙草を一本吸い終えたジンはポツリと呟き男は不思議そうに首をかしげ「リレ」と。

キナ·リレ。それは今ではもう使われないカクテルの名前。名前の無いという男には調度いいのかもしれない。それを思ったのは「リレ」と名付けたジンの言葉を聞いたウォッカのみ。さすがアニキと思いつつリレを見れば、男、リレは花が綻ぶほどに鮮やかな笑顔で


「ジン、ウォッカ、ありがとう!」


そう声をかけられた。ウォッカは、アニキはこのリレをどうするのだろうかと考えながら恐らく何かに使うのだろうと思案し

「ラボではあいつを?」

と濁して問いかければ、しかしジンはリレに配慮などもせず「そのつもりだ」と答えてくれる。きっとすぐに始末するからだろうと邪推したウォッカは今度は濁しもせず話しかけていく。そんな二人の会話を聞いているのかいないのか分からぬ表情でリレは窓から外を眺めており


「リレ」
「はい」
「黙って言うことを聞くな」
「うん、聞く!」
「いい子だ」


ジンは口端を吊り上げ笑い煙を吐き出しておりウォッカは首をかしげるのみ。始末、さないんですかい?アニキ。








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